木曜日, 3月 29, 2007

作品案内

誰も知らない(2005年6月執筆)

日本人青年・長沼寛人は数奇な運命に翻弄されつつ、コロンビア人女性・オマイラと南米で生きていく決心をする。地球の裏側で繰り広げられる愛と復讐の壮絶なドラマ。

おれの復讐(2005年7月執筆)

過保護に育てられたマザコン男・辻裕二。すべてを失った時、辻は母親への復讐を開始する。だが、前代未聞の復讐劇は意外な結末を迎える。“復讐”をテーマにした現代小説。

彦左衛門の切腹(2005年12月執筆)

天保年間、彦根藩士・清水彦左衛門は江戸屋敷で平穏に暮らしていた。そんなある日、親友から届いた手紙が破滅を招く。実直な武士の悲劇を描いた時代小説。

ガブリエルの一生(2006年5月執筆)

田中ガブリエル和彦と田中家の数代にわたる悲劇。人間はなぜ苦しむのか?生きる意味とは何か?仏教の“因果応報”をモチーフに壮大なスケールで描かれる長編小説。(※18歳未満閲覧禁止)

土曜日, 2月 17, 2007

誰も知らない

誰も知らない
1999年の夏、長沼寛人と山田陽介の二人は、大学の夏休みを利用して、南米大陸をヒッチハイクで縦断するという冒険旅行に出かけた。ふたりとも、高校の同級生で、大学は別々だったが、山田の方は大学でスペイン語を勉強していて、長沼は将来ジャーナリストになりたいという夢に向かって勉強していた。そんなふたりが今回、無謀ともいえる旅に両親の反対を押し切ってまで出発した理由は、「20世紀最後の夏を有意義なものにしたい!」ということと、数年前、某テレビ番組で無名のお笑い芸人コンビが同じ企画をやっていたのを見て、「おれたちもやってみたい!」と思ったことだった。「どうせ大学を卒業して社会に出たら、こんなことも経験できないんだ。今のうちにいろんなことを体験して、人生の幅を広げておきたいんだよ」と長沼は旅行計画に大反対の両親を説き伏せ、「帰ってきたら、バイトでも何でもして必ず返すからさあ・・・」と粘って、OLとして働いている姉から旅行資金を借りた。
「ヤマさんとこはどうだった?」成田からアメリカへ向かう飛行機の中で、山田に聞いてみると、「うちはオヤジが単身赴任で滅多に家に帰ってこないしね。オヤジが知ったら猛反対するだろうけど、うちはオカンが理解あってね。おかげでバイクも乗れたし、何でも好きにさせてくれるよ」「いいなあ、ヤマさんとこは理解があって・・・」長沼はうらやましそうに言った。「うちのヨースケちゃんはね、親思いの優しい子でね、お勉強も出来るし、バイトも頑張るし、小さい頃から全然手がかからなくって、本当にいい子なんですよお・・・」高校の頃、山田の家に遊びに行ったとき、山田の母親が誇らしげに自慢するのを聞いたことがある。「かわいい子には旅をさせよって、ね。旅行資金も出してくれたよ」山田は天然パーマの頭をゴシゴシこすりながら言った。「いいなあ、いいなあ、おれもヤマさんとこに生まれたかったなあ・・・」つくづく長沼はそう思った。
長沼と山田は、アメリカ経由でまず、出発地となる南米最南端のチリへ向かった。首都サンティアゴからさらに南のプエルトモントという町へ向かい、ここからヒッチハイクで南米を縦断しようというのだ。「いよいよだね、ヤマさん」「いよいよだね、ナガヌマちゃん」ふたりは段ボールの板にマジックで行き先を記して、道路脇に立った。
旅は順調に始まった。トラックや自家用車に乗せてもらい、夜は出来るだけ安い宿に泊まりながら、ふたりはチリからボリビア、ペルー、エクアドルと国境を越えた。ボリビアではアンデスの高地で酸素欠乏に苦しみ、ペルーのリマでは警官に「偽札を持ってるな」と絡まれ、危うく金を取られそうになったり、エクアドルではヒッチハイクした車の運ちゃんがキチガイで、スピードを出しすぎ、山道でカーブを曲がりそこね、車ごと引っ繰り返ったりと、アクシデントの連続だったが、スペイン語が話せる山田のおかげで、何とか切り抜けることが出来た。「ヤマさんのおかげだよ。ここまで来れたのも」「なんの。おれだってナガヌマちゃんがいなかったら、張り合いがなかったろうよ」「次はコロンビアか・・・いよいよ旅も終盤に近付いたね」「そうだね。もう一息だ。がんばろう」エクアドルで事故ったとき、長沼はひじとひざを思いっきりぶつけ、山田は首を痛めたのかしきりに首をさすっていた。「ヤマさん大丈夫?」「なんの。これくらい、どうってことないさ」あちこちに擦り傷をこしらえ、持ってきたバンドエイドは使い果たしていたが、山田は強気に言った。「この傷は、おれたちの勲章だよ。痛みも、いい思い出になるさ・・・」
「うおーっ!コロンビアだーっ!」エクアドルとコロンビアの国境を、長沼は走って飛び越えた。「コロンビアやばそうだね」「なーに、日本が平和すぎるだけだよ」「それもそうだね」
国境を越えてから、ふたりは、ヒッチハイクを始めた。トラックが走ってきたので、ふたりは夢中で追いかけ、停めさせた。「ボゴタまで行けるかい?」「ボゴタには行かないよ。メデジンまでなら乗せてやってもいいよ」「オーケー!」ふたりは喜んで、乗せてもらった。
「お前たち、どこへ行くんだい?」トラックの運転手は気さくに話しかけてきた。名前は「チコ」というらしい。「おれたち、日本から来たんだ。南米を縦断するんだよ、ヒッチハイクで」「そりゃあ大変だなあ」チコは笑った。長沼は、運転席の日よけに挟まれたエロ本を見つけた。「うおおおっ!こりゃすげえや!」長沼は興奮して叫んだ。「ヤマさん、これ見てみろよ!」「おいおい、よせよ、そんなの」山田は苦笑した。長沼が言った。「おれ、ずーっと抜いてないんだ。今夜はこれで抜くぞ!」「そんなこと言っちゃっていいのかよ?」「日本語分かんないだろ」「ゲラゲラ笑ってるところを見ると、分かってると思うぞ?」「分かってくれるさ!そのくらい!」
トラックはアンデスの緑美しい山道を走っていく。と、急に停まった。「検問だ!」チコが叫んだ。前方に車列が並び、軍の車両が何台も停まって検問をしているのが見えた。「やべっ!これ隠さなきゃ!」長沼は慌ててエロ本を元に戻した。「なーに、平気さ。見つかっても」山田は冷静だった。軍服姿の兵士が近寄ってきて、運転席をのぞき込んだ。「お前たちは何者だ?どこから来た?」「おれたちは日本人だよ。ヒッチハイクで南米を縦断するんだ」と山田が説明した。「旅行に来たのか?危険だぞ。ゲリラが獲物を狙ってるからな」「ゲリラ?」「ああ、お前たちのような外国人はゲリラに狙われる。高く売れると思ってるからな」そう言われるとちょっと不安になったが、「なーに、うちは金なんかないから大丈夫だよ」と言って、長沼が笑った。その瞬間、ズドーンというものすごい爆発音が腹に響いた。「ゲリラだ!」左側の山の斜面から草むらに隠れていたゲリラ部隊が襲いかかってきた。映画でしか見たことのない銃撃戦が目の前で本当に始まり、トラックのフロントガラスに弾が当たってクモの巣状のヒビが走った。「ひいいぃっ・・・」恐怖とはこのことか、と長沼は思った。体がすくんで何もできない。耳を押さえてうずくまっていると、「逃げろ!早くしないと殺されるぞ!」
チコに押されて長沼と山田はトラックから飛び降りて荷台の陰に隠れた。「お前たちは日本人だ!奴らに捕まったら、生きて帰れないぞ!」とチコが叫ぶ。「な、なんだって?なんで帰れないんだ?」「おれは金を持ってない!捕まれば殺される!逃げるなら今のうちだぞ!」「あっ、チコ!どこ行くんだ?危ないぞ!戻れ!」長沼が呼び戻そうとしたが、チコは銃弾をかいくぐって逃げ出そうと走り出した。次の瞬間、ゲリラ兵が逃げるチコに銃弾を浴びせた。「チコ!・・・」血しぶきを上げて道路に倒れたチコはもう動かない。「そ、そんな・・・死んだ・・・」人が殺されるのを見たのは生まれて初めてだ。言葉を失って震えていると、「こっちに来い!こっちだ!逃げたら撃つぞ!早くしろ!」ゲリラたちに引き立てられて、長沼と山田は他の車やバスの乗客とともにゲリラのトラックに押し込まれた。「撤収するぞ!」ゲリラ兵が軍のジープやトラックに手榴弾を投げ込んで爆破する。ほとんどの兵士がゲリラの襲撃で殺されてしまったようだ。道路のあちこちに死体が転がり、流れ出た血が生々しい。トラックが走り出した。まだ信じられなかった。自分たちがゲリラの大量誘拐に巻き込まれてしまったことを。「ああ・・・これから、おれたちはどうなるんだろう?」頭の中は不安で一杯だった。トラックは激しく揺れながら山の奥へ奥へと進んでいく。
どのくらい走っただろうか。ようやく、ゲリラのキャンプらしいところにたどり着いたとき、ほとんど日が暮れていた。「こっちだ!こっちに来い!もたもたするな!」ゲリラに怒鳴りつけられ、長沼と山田は、他の人質たちとともにゲリラの司令官らしい男のいる小屋まで連れて行かれた。「お前たちは何人だ?」順番が来ると、国籍を訊かれた。日本人と答えるのは嫌だったが、黙ってパスポートを差し出した。「お前たちは日本人か?」鋭い目つきをした司令官に問われて、そうだと答えると、「お前たちには人質になってもらう」司令官の言葉を山田が日本語に訳して長沼に伝え、長沼の言葉を山田がスペイン語で伝える。「人質?冗談じゃない。何の目的だ?」「お前たち日本人は金持ちだ。お前たちを人質にすれば、高く売れるだろう」「身代金を取ろうって言うのか?うちはそんなに金なんか持ってないぞ」「お前たちの家族に払わせるんじゃない。お前たちの国の政府に払わせるのだ」「日本政府に身代金を要求するのか?おれたちのために、払うわけないじゃないか」「いや、払うさ。日本政府は身代金を払う」「どうして、そんなことが言えるんだ?」「日本はアメリカと違って、人は出せない。金は出せるが人は出せない。金を出すしかないんだ」その言葉に、長沼は怒りを感じながらも、認めざるを得ないと思った。これがアメリカ政府なら、テロリストと交渉せず、すぐにでも特殊部隊を送り込み、人質の救出作戦をするだろう。しかし、日本政府にはそれが出来ない。憲法で、海外への派兵を禁じているし、それ以前に、何でも金で解決してしまおうとするだろう。テロリストたちは、そのことを知っているのだ。アメリカ人よりも警戒心が薄く、しかも金持ちで、政府は弱腰なのだ。「で、一体、いくら要求するつもりなんだ?」山田が冷静に尋ねた。司令官は薄笑いを浮かべ、「2億ドルだ。お前たち、ふたり合わせて2億。ひとりにつき1億だ」「に、2億ドルだって?!」
あまりの高さに、思わず長沼が叫んだ。「そんな大金、おれたちのために、政府が払うわけないじゃないか!」「払わせるさ。払うまでは解放しない。それだけのことだ」「クソッ!」長沼は絶望感に打ちのめされた。こんなところに来たことを、今更ながら、後悔した。親の反対を押し切ってまで、こんなことをしに来たのかと思うと、悔しくて涙が出た。「さあ、こっちに来い!早くしろ!」ゲリラ兵に引きずり出された。
連れて行かれたのは、豚小屋のような粗末な小屋だった。山田とともに入れられると、外から鍵をかけられた。どうにか立つことは出来るものの、動き回れないような狭さだ。もちろん電気もなければ水道もない。「おい!開けろ!おれたちをここから出せ!」長沼は戸を叩いて叫んだ。「無駄だよ、ナガヌマちゃん。じっとしておいたほうがいい・・・」山田はいつでも冷静だった。「くそっ・・・おれたち、これから、どうなるんだろう?」「なるようにしかならないさ」「2億ドルなんて、ふざけてる!払えるわけないよ!」「まあ、奴らだって、本当にそれだけ取れるとは思ってないだろうね。これから交渉して、徐々に金額を引き下げていくはずだ。要求額の10分の1でも取れれば、満足するんじゃないかな?」「それでも2千万ドルだよ。おれたちのために、本当に政府が20億円も出すと思う?」「政府は事なかれ主義だからね。払う可能性はあるね」山田が冷静に分析した。「ゲリラの目的は金だ。金が目的なら、おれたちを簡単には殺さないだろう」「でも、もし政府が要求を拒否したら?」「その時は殺すかもしれない。でも、ふたりなら、見せしめにどっちかひとりを殺して、脅すだろう」その言葉に、長沼は戦慄した。「どっちかって・・・まさか、おれが先じゃないよね?」山田は笑った。「ハハハ・・・そんなこと心配したって始まらないさ。今は生きることを考えなくちゃ」長沼は、いつも冷静に事態を見極める山田に感心した。「そうだね。さすがはヤマさん。おれと考えることが違うね」「人間は、生まれてきた以上、いつかは死ぬ。だから、死ぬことは考えちゃダメなんだよ。そんなことは考えたってどうしようもない。まず、生きることを考えるんだ」「生きることか・・・よし、生きよう。生きて日本に帰るんだ・・・」長沼は自分に言い聞かせることにした。
夜が更けた。長沼と山田は、疲れきっていたので、眠ることにした。しかし、むき出しの地面に、ベッドもなければ、毛布一枚ない。それでも我慢して、横になったが、壁の板と板の隙間から、やぶ蚊が入り込んでくる。疲れた肉体から、容赦なく血を吸い取っていく。かゆみと音で、一睡もできない。虫よけは持っていたが、所持品はすべて奪われてしまっていた。そのうえ、猛烈な空腹が襲ってきた。拉致されてから、水一滴、与えられていないのだ。「ヤマさん、起きてる?」たまらずに、長沼が言った。「起きてるよ」「腹減ったね」思わず腹が鳴った。この空腹を、どうにかしなければいけないと思った。「何か食わしてくれるよう頼んでみようか?」「ここはホテルじゃないんだ。頼んでもいいけど、ルームサービスは期待できそうにないね」
山田のジョークに、長沼も笑った。「そうだね。ルームサービスの時間も終わっちゃったみたいだしね」「とにかく、朝まで待とう。奴らだって、殺す気がないなら、何とかしてくれるだろう・・・」「おやすみ、ヤマさん」「おやすみ」蚊や空腹と闘いながら、いつしか、長沼は睡魔にのみ込まれていった。
夜が明けた。「起きろ!これから出発だ!」ゲリラに叩き起こされた。「どこへ行くんだ?」ゲリラは答えない。「早くしろ!殺されたいのか?」「ちょ、ちょっと待ってくれ!おれたちは、昨日から何も食べてないんだ!」「それがどうした?」「何か食わせてくれ!腹が減って死にそうだ!」「死んだら、腹も減らないだろう?」ゲリラはニヤニヤ笑いながら、銃を向けてきた。「この野郎・・・」長沼は怒りを抑え、ふらふらと立ち上がった。
3日間の旅が始まった。長沼と山田は、ゲリラに履いていた靴まで奪われ、腕時計も外された。逃げられないよう、裸足にさせたのだろう。ゲリラに連れられて、ふたりは、山を下った。昼になった。空腹と疲労が重なり、限界だった。めまいがした。吐き気も込み上げた。ついに、長沼は動けなくなり、その場に倒れこんだ。「おい!起きろ!死にたいのか!」「もうダメだ・・・もう歩けない・・・」ゲリラが言った。「いいことを教えてやろう。この辺は毒グモや毒ヘビがウヨウヨしてるんだ。そんなところで寝ていると、噛み付かれてあの世へ行けるぞ。それがいいと言うなら、死ぬまでそこで寝ていろ」「毒グモ?毒ヘビ?」長沼は慌てて起き上がった。ゲリラがせせら笑った。「ハハハッ!冗談だよ」長沼は弱々しく歩き始めた。もう怒ったり考えたりする気力もなくなっていた。
どのくらい歩いただろうか。気がつくと、どこかの村にいた。ゲリラの支配下にあるのだろう。銃を持ったゲリラが入ってきても、村人は怖がる様子もない。ただ、見慣れない長沼と山田に、村人たちの視線が集まった。「ここだ!お前たちは今夜、ここで寝るのだ!」長沼と山田は、また家畜小屋のようなところに押し込まれた。そこで初めて、食事らしい食事が与えられた。アルミの皿に盛られたジャガイモのスープだった。ふたりとも、夢中になってかき込んだ。ダシも何もない薄い塩味のスープだったが、あっという間に平らげてしまった。これだけではとても、空腹は満たせなかった。「おかわりを要求しようか?」「いや、空腹時にあんまりたくさん食べると、体に良くないんだ。これで我慢しておこう」「そうだね。ヤマさんは偉いなあ。いつも理性が働いて。おれも見習わないとなあ」食事が済むと、睡魔が襲ってきた。他にやることもないので、ふたりとも眠った。
夜明けとともに、ゲリラに叩き起こされ、村を後にした。自分たちがどこにいるのか、どこへ連れて行かれようとしているのか、まったく知らないし、教えてくれるわけもなかった。ただ、山を下っていくにつれて、湿度と気温も上がり、じめじめと蒸し暑くなってきた。そこはもう、コロンビア政府の支配も及ばない、南部の広大なジャングル地帯だ。政府軍と何十年も戦争を続ける共産ゲリラ・コロンビア革命軍(FARC)の本拠地である。キャンプを転々とし、4日目に、ふたりは、FARCの基地にたどり着いた。
長い長い人質生活の始まりだった。長沼と山田は、同じ小屋に監禁された。ここも立って歩けないくらい狭くて、むき出しの地面にそのまま寝かされた。「ここはもう、人間の住める場所じゃないな・・・」と長沼は思った。まるで家畜のような扱いである。「奴ら、人質をモノとしか見てないんだろうね。いくらでも取り替えのきくモノでしかない」と山田。食事は与えられたが、来る日も来る日も薄いスープばかり。たまにパンと肉が与えられたが、どっちもかたくて、とても食えたものではなかった。
「あいつら、もう政府に要求はしたのかな?おれたちのこと、日本でニュースになってるかな?」「さあ、どうだろうね。テレビも新聞もラジオもないしなあ」「日本じゃ今ごろ、みんな心配してるだろうなあ・・・」長沼は、日本の家族のことを思い出して、泣きたくなってきた。日本にいれば、クーラーのきいた涼しい部屋で、よく冷えたビールを飲める。そうした平和な暮らしを捨てて、わざわざこんなところまで来たことに、一体何の価値があるのか?「ああ、おれはバカだった・・・父さん母さんを怒らせて、姉さんから金を借りてまで、こんなところに来るんじゃなかった・・・本当におれはバカだ。ヤマさんまで巻き込んで・・・」今回の旅行を計画したのは、長沼である。こうなったのは、すべて自分の責任だと思った。「ヤマさん、ホントにごめん。こんなことになったのも、おれの責任だよ」「いいって。気にするな。それよりも、何とかして、ここから帰ることを考えよう」「そうだね。ホント、ヤマさんはいい奴だよ。おれは幸せものだ・・・」長沼はあふれてくる涙を止めることができなかった。
1週間たった。「出ろ。こっちに来い」ふたりとも、連れ出された。連れていかれた小屋には、ビデオカメラが置かれていた。「そこで演技しろ。命乞いをするんだ」ひげを生やしたゲリラの司令官が命じた。「金を払わなければ殺されます、と言え」ふたりは、カメラの前で、同じことを言わされた。「小渕さん、彼らは身代金として、2億ドルを要求しています。払わなければ、僕たちを殺すと言っています。お願いです。僕たちを助けてください。お願いします・・・」「感情が足りん。もっと感情を込めて言え」「お願いです!小渕さん!僕たちを助けてください!お願いです!まだ死にたくありません!」「まあ、いいだろう・・・」テープは日本大使館に送りつけるらしい。果たして、日本政府は要求をのむだろうか?「難しいね。何といっても高すぎる」「これから値切り交渉が始まるわけか。どのくらいかかるんだろう?」「分からないけど、何年もかかるんじゃないかな?」「何年も?これから何年もこんなところに閉じ込められるのか?」ウソだろ、と長沼は思った。解放までに何年もかかると思うと、げんなりしてしまった。
拉致されてから、1ヵ月たった。政府との交渉は、どのくらい進んでいるのか。狭い小屋に監禁され、空腹を抱えながら、じっと解放を待つしかないのだ。「ああ、体がかゆいなあ・・・」もうずっと風呂に入っていない。髪もひげも伸び放題だ。「せめて、水浴びぐらいできないもんかなあ・・・」「交渉してみようか?」スペイン語の堪能な山田が、見張りのゲリラ兵と交渉してくれた。「おれに言ってもダメだ。司令官に言え」「司令官に取り次いでくれ」
数日後、ようやく、水浴びが許された。久しぶりに小屋から出されると、太陽がまぶしかった。近くを流れる小川まで連れて行かれた。「うほーっ!つめてえーっ!気持ちいいぞおーっ!」長沼は服のまま川に飛び込んだ。冷たい川の水が、心地よく肌にしみた。体を洗い、服も洗濯した。「ヤマさん、やせたね」「ナガヌマちゃんも。ろくなもの食ってないからなあ・・・」お互いに裸体を眺めながら、肉の落ちた腕をさすった。
「なあ、着替えは?」パンツ一枚になって、着ていたものを洗濯してから、長沼が言った。「着替え?そんなものない」とゲリラ兵。「やれやれ、着替えもないのかよ・・・」仕方なく、濡れたままの服を着る。「毎日、体を洗って、着替えもしてるおれたちって、ものすごくゼイタクなのかもな・・・」と思った。
その夜。「ねえ、あの女の子、かわいくない?」「誰?」「ほら、おれたちが水浴びしてるとき、見張りの中にいたじゃん。あの娘だよ」「ああ、あの娘ね」「おれ、思わずチンコが起っちまったよ!」長沼が興奮して言った。「何て言うんだろうね?あの娘は」「今度、名前聞いてみようか?ついでに電話番号も・・・」「おいおい、ここは日本じゃないんだぜ」「そうだったよな・・・ちくしょう、あんな娘と一発やりてーなー!」「世界3C美人国というのがあってね、コスタリカ、コロンビア、チリの頭を取って3C。この国は確かに美人が多いね」「おれ、ああいう娘と一発やれたら、ここで死んでもいいよ」「ジャーナリストの夢はどうするんだ?」「あきらめるよ」「あきらめが早いな」「ピチピチのコロンビア娘を連れて帰るよ」「言うことがオヤジっぽいな」「確かに・・・」「ま、口説いてみるのもいいね。オーケーなら、日本に連れて帰れるかもよ?」山田が慰めるように言った。
交渉は難航しているようだった。ゲリラから、手紙を書くために、ノートが与えられた。「日本の家族に書け。早く助けてくれと書くんだ」家族を揺さぶって、政府に圧力をかけるつもりらしい。長沼も山田も、夢中になって書いた。「お前たちが生きていることを証明するんだ」ふたりとも、新聞紙を持たされて、写真を撮られた。その日付を見れば、少なくともその日までは、生きていたということになる。手紙も送った。写真も送った。だが、いつまで待っても、返事は来なかった。
ふたりとも、正気を失うまいと、努力していた。毎日、死ぬほどヒマなのだ。とにかく何かをしていないと気が狂いそうだった。与えられた子ども用のノートに日記をつける。ふたりでしりとりをする。そうして時間をつぶしながら、ひたすら解放を待ち続けた。
「本当におれたちは、ここから生きて帰れるのだろうか・・・」なるべく考えたくないことだったが、考えずにはいられなかった。「日本政府は、おれたちを見殺しにしたんじゃないよね?」「それはないだろう。あらゆる手段を尽くしているはずだ」「交渉が失敗したら?救出に来てくれるかな?」「どうかな?自衛隊を送るのは無理だし、現地の政府に頼むといってもなあ・・・」中南米のような国で、軍や警察はまったくアテにならない。腐敗しきっているし、内部に協力者がいないとも限らないのだ。情報は筒抜けだろうし、救出部隊が来る前にバレて殺されてしまうだろう。「それに、こんなジャングルの中だ。おれたちが、どこにいるのかも分からないだろうよ・・・」逃げることも考えたが、たとえうまく逃げられたとしても、ここがどこなのか分からない。ジャングルの中に迷い込み、飢え死にするだけだろうと思った。
数ヵ月たった。この間、長沼と山田は、ジャングルの中の基地を何度か移動した。扱いは変わらず、粗末な食事と厳しい監視の中、ふたりは互いに支えあって生きていた。「日本は今ごろ、クリスマスだね。みんな平和に浮かれてるんだろうなあ」「去年の今ごろは、おれたちも、カラオケで飲んで歌って、酔っ払って、夜通しはしゃいでたね」「みんな、おれたちのこと心配してるだろうなあ」「ナガヌマちゃんは、日本に帰ったら、何をしたい?」「そうだね・・・温泉に行って、それから、冷たいビールを飲みたいね」「ハハハ、言えてるね」「ヤマさんは?」「おれは、まずラーメンを食べたいね。しょう油ラーメンを腹一杯食いたいな」「ああ、いいねえ・・・ラーメン食いたいなあ・・・」長い間、忘れていた日本の食べものが、脳裏に浮かんだ。ラーメン、カツ丼、カレーライス、オムライス、焼きそば、お好み焼き、すき焼き、天ぷら・・・。ここに来てからは、かたい肉とジャガイモとスープしか口にしていない。思わずよだれを垂らし、腹の虫が鳴った。
「日本政府は冷たいな。お前たちのために金を払う考えはないらしい」とゲリラの司令官。「そんな・・・」「50万ドルなら払えると言っている。つまり、ひとりにつき25万ドルだ」「たったの25万ドル?」それを知って、長沼は失望した。自分たちには、もっと価値があると思っていたからだ。
「ヤマさん、おれたちは本当に帰れるだろうか?」「ナガヌマちゃんらしくもないな。ここの娘を連れて帰るんじゃなかったのかい?」「だけど、交渉は難航してるみたいだし、救助隊も来そうにないし・・・」「だが、おれたちはこうして、生きている。違うかい?」「それは、そうだけど・・・」「生きたくても生きられない人間もいる。それに比べりゃ、おれたちはずっとマシだよ」「でも、ただ生きてるだけだ。いや、金のために、生かされてるだけだ。おれたちには自由がない」長沼は、こんな生活が、この先ずっと何年も続くぐらいなら、いっそのこと死んでしまおうか、と何度も考えた。しかし、自殺するにしても、ナイフやロープなど、そのための道具もないのだ。「ああ・・・おれには死ぬ自由すらないのか・・・」今日も日が暮れる。今日はダメだった。だが明日は?その繰り返しだった。
半年たった。待遇は悪くなるばかりだった。ジャングルの中の収容所みたいなところに移された。そこでは、たくさんの人質が監禁されていた。ゲリラとの戦闘で捕虜になった軍人や警官、身代金目的で誘拐された市民、外国人だった。日本人は長沼と山田の2人だけだった。ふたりは、それらの人質とともに、周りを柵で囲っただけの場所に押し込まれた。屋根もないから、陽にあぶられ、雨に打たれながら、生きていくしかないのだ。食事もひどかった。腐りかけた肉や野菜、カビだらけのパン。それでも食うしかなかった。病気にもならなかったのは、肉体が限界まで耐えて、もはやいかなる病原菌の繁殖も許さない免疫ができていたからかもしれない。ふたりは、耐えた。他の人質たちと話をすると、中には7年も監禁されているというツワモノもいた。「7年に比べたら、おれたちなんて、まだまだハナタレ小僧もいいとこだね・・・」
1年たった。長沼も山田も、見違えるような姿になっていた。長沼は色白で、女性的な顔立ちだったのだが、顔は日焼けし、頬骨が浮き出て、まるで博物館に展示されている原始人のようだ。山田も顔がひげに埋もれ、動物園のヒグマを見ているようだ。「もう1年か・・・早いもんだなあ。おれもひとつ、年をとったわけだ」「なんだかんだ言って、こんなところでも、1年も生きてきたんだ。案外、人間ってのはしぶといもんだねえ」「おれたち、あと何年、生きられるかなあ?」「だからさ、ナガヌマちゃん、言ったろ?人間、いつかは死ぬ。黙ってても死ぬんだ。だから、死ぬことなんか考えちゃダメなんだよ。無意味なんだよ。生きることだけ考えなきゃあ」長沼は、いつも山田の言葉に勇気付けられてきた。もしも山田がいなかったら、とっくに絶望して、発狂していたかもしれない。「そうだね。ヤマさんの言うとおりだよ。おれ、いい友だちをもってホント、良かったよ」「日本に帰ったら、ふたりで温泉に行って、冷たいビールを飲もう」「ラーメンも食おう。カツ丼も食おう。約束だよ」「ああ、約束だ」
1年半たった。この間、何人もの人質が解放されていった。「政府とゲリラの和平交渉が進んでいるらしい。うまくいけば、おれたちも解放されるかも・・・」と期待を寄せたが、長沼と山田は、経済大国・日本を代表する人質なのだ。あくまでも、巨額の身代金奪取を目的とするゲリラにとって、そう簡単に手放せるわけがなかった。
2年たった。テレビも新聞もラジオもないから、長沼も山田も、日本で、世界で、何が起きているのか、まったく知らずに過ごしてきた。「交渉はどのくらい進んでいるのだろう・・・」ゲリラに訊いても、答えてくれなかった。もっとも、上層部しか知らされていないのだろう。
ある日、ふたりは呼び出された。ビデオカメラの前で、また演技をしろ、というのだ。渡された原稿に目を通すと、「小泉さん、僕たちは2年も監禁されたままです。早く助けてください。お願いします・・・」とある。「小泉さん?小泉さんって誰?小渕さんは?辞めたの?」ふたりとも、小渕が死んで、森、そして小泉へと政権が変わったことなど、知らなかったのだ。
「そういや、もう2年も、テレビ見てないんだよなあ・・・」ある夜、長沼がポツリとつぶやいた。「2年も布団で寝てないし、音楽も聴いてないし、テレビゲームもしてないんだよなあ・・・」「カラオケも行ってないし、バイトもしてないし、合コンもしてないよなあ・・・」隣で、山田もつぶやくように言った。「おれたち、このまま日本に帰ったら、家族もビックリするだろうね」「ハハハ・・・別人だと思うだろうね」「家に帰る前に、髪を切って、ひげを剃ったほうがいいね」「行きつけの店でも、おれたちだとは気付かないだろうね」「マスコミが押し寄せるだろうね。ちゃんと、記者会見で何をしゃべるか決めておかないとなあ」「おれ、ここでの体験談を本に書いて売ろうと思うんだ」「いいねえ。ベストセラー間違いなしだよ」「ナガヌマちゃんが書いたら?」「どうして?」「ジャーナリスト志望だろ?」「そうだったね」「それに、印税が入ってきたら、お姉さんから借りた金も返せるだろ?」「なるほど、そっか。さすがはヤマさん、頭いい!」「テレビや新聞の取材が殺到するだろうから、マスコミ関係にコネもできるしさあ」「そこまで考えてたとは・・・やっぱ、ヤマさんはいい奴だ」まだ解放されると決まったわけでもないのに、ふたりで、解放後の話に夢中になった。
生きることに、これほど夢中になったこともなかった。毒虫や毒ヘビがウヨウヨしているジャングルでの生活だ。日本では見たこともない大きなアリに噛まれると死ぬほど痛いし腫れる。黒アリより、赤アリのほうがヤバイということも知った。耳の穴に入ってくるので、寝るときは指で耳に栓をした。タランチュラに刺された人質もいた。こいつにやられると、全身に毒が回り、何日も苦しみもがいて死ぬことになる。薬もないし、治療もできない。見かねたゲリラが、苦しまないよう銃で撃ち殺すのを見た。こんな環境に長くいると、もう人が死んでも、悲しいとか、怒りを感じることもなくなっていた。「これって、やっぱ異常なのかなあ?それとも、精神が鍛えられたってことになるのかなあ?」日本にいたときは、生きることについて、真剣に考えたこともなかった。ただなんとなく生きて、面白そうなことをやっていただけだ。日本が平和すぎるのかもしれない。「富めるものから取るのは当たり前だ」というゲリラの価値観も知った。明らかに善悪の判断基準の異なる世界が、厳然と存在する事実を突きつけられた気持ちだった。
2年半たった。政府とゲリラの和平交渉が決裂したらしい。政府軍の飛行機の爆音が響いてくる。コカイン畑に毒薬を散布しているのだ。政府の支配も及ばない農村では、貧しい農民が生きていくためにコカの木を育て、麻薬の原料となるコカインベースを作り、それを麻薬商人に売って、わずかな生活の糧を得ている。食っていくためには仕方のないことだ、とゲリラは言う。ゲリラは農民のコカ栽培を認め、それに課税することで、莫大な軍資金を得ている。コカインで打撃をこうむるのは海を渡ったアメリカだから、コロンビアの貧しい農民には貴重な収入源となるだけで、むしろコカインを欲しがるアメリカ人の側に問題があるのだが、「コカを根こそぎ枯らしてしまえ!」という短絡的な発想で、米軍に後押しされたコロンビア政府軍が、ベトナム戦争でも使われたような猛毒の枯葉剤を低空から撒き散らし、コカだけではなく、他の作物まで枯らしてしまう。そのことに、ゲリラたちは怒っていた。
「ゲリラたちにも、それなりに言い分があるんだな・・・」長沼は、自分たちを監禁し、ひどい扱いをしてきたゲリラにも、ほんの少しだけ、同情する気持ちになった。「ナガヌマちゃん、いけないよ。ストックホルム症候群ってやつだ」と山田が忠告する。「犯人側に感情移入するのは禁物だ。なんと言っても、奴らは犯罪者なんだからね。どういう事情があろうと、誘拐や麻薬や殺人が許されるわけないじゃないか」「それは、そうだけど・・・」「おれは、奴らと友だちになるつもりはないし、敵になるつもりもない。距離を置くことだね」山田の言うとおりだと思った。甘い考えは捨てなければいけないと思った。しかし、心のどこかで、敵にも愛されたいという気持ちがあったのは、否めなかった。
アメリカのコカ撲滅作戦に怒ったゲリラは、除草剤を散布していた飛行機を撃墜した。そして、乗っていたCIA(米中央情報局)のエージェントを人質にしたのである。
それから数週間後。長沼と山田は、ジャングルの人質収容所にいた。そこに米軍の特殊部隊がやってきたのである。突然、爆発音とともに煙が上がった。同時に激しい銃撃戦が始まった。「きっと、おれたちを助けに来てくれたんだ!」と思った。他の人質たちとともに事の成り行きを見守っていると、「我々はデルタ・フォースだ!諸君を救出に来た!」顔を迷彩色に塗った兵士がやってきて言った。「うおーっ!やっと国に帰れるぞおっ!」長沼たちは飛び上がって喜んだ。特殊部隊の隊員が慣れた手つきで、人質を囲む有刺鉄線をナイフで切り始めた。「ヤマさん、やったね!おれたち助かるよ!」「ああ、苦労したかいがあったよ」長沼も山田も、これで日本に帰れると思った。が、次の瞬間、隊員が撃たれ、頭から血しぶきを吹き上げた。「あああっ!」ゲリラ兵が人質めがけ機関銃を乱射し始めた。「うわあーっ!よせえーっ!やめろおーっ!」丸腰の人質たちに容赦なく銃弾が浴びせられる。人質たちが次々になぎ倒されていく。長沼と山田はとっさに伏せて、人質の死体の間に隠れた。
銃撃戦は続いていた。人質の奪還に失敗したと悟って、「撤収だ!撤収しろ!」特殊部隊はジャングルに引き揚げてしまった。戦闘が終わった。辺り一面、硝煙と濃い血の匂いが漂っている。銃声が止んだのち、長沼と山田は、恐る恐る死体の中から這い出した。「あれえ?特殊部隊はどこへ行っちゃったんだ?」「どうやら、作戦に失敗したらしいな」「冗談じゃねえよ!人質を置いて逃げちまったのか?」長沼は絶望のどん底に突き落とされた。米軍の目的は、一緒に監禁されていたCIAエージェントの奪還だったらしい。そのエージェントは撃たれて死んでいた。長沼を含む他の人質はどうでもよかったのだろう。「チクショー!おれたちを見殺しにしやがって!」結局、人質で生き残ったのは、長沼と山田だけだった。
「何をしてる!もたもたするな!さっさと働け!」ゲリラ兵は怒り狂っていた。人質だけでなく、大勢の仲間たちを殺されたのだ。かろうじて助かった長沼と山田にも、つらい仕事が待っていた。ゲリラ兵の命令で、死体の処理をやらされたのである。スコップを持ち、深い穴を掘り、死体を運んで埋める。「アメリカのブタ野郎!」ゲリラ兵は米兵の死体に唾を吐きかけ、機関銃でメッタ撃ちにしていた。自分たちは殺されなかっただけマシだが、アメリカの次に日本が憎まれるのは必至だ。「なんだっておれたちが、こんな目に遭わなきゃならないんだ?」山田と死体を運びながら、長沼がぼやいた。「さあね。これも運命なら、仕方ないさ。あきらめるしかない」山田は淡々と言った。「運命?運命って誰が決めるんだ?神か?」「たぶんね。生まれたときから決まってるんだろうよ」「神なんて糞喰らえだ!おれは神と運命を呪うぞ!」悔しくて涙が出た。血と汗と泥にまみれながら、ふたりは、黙々と死体を運び、穴に埋めた。
その後、長沼と山田は、別のキャンプへ移された。待遇はさらに悪くなった。手足を鎖でつながれ、鳥小屋のようなところに押し込まれた。食事も減らされ、やせ衰えた体はさらに痩せた。栄養失調なのだろう。肌はザラザラになり、白い粉のようなものが吹き出した。「こんなところで生かされるくらいなら、いっそのこと、一思いに殺されたほうがマシだ・・・」と思った。
数日後。ふたりは呼び出された。小屋の中にビデオカメラが置かれている。「また、おれたちに演技をさせようって言うのか?」長沼はバカバカしいと思った。「無駄だよ。政府はおれたちのために金なんて払う気はないんだ」自嘲的に長沼が言った。すると、ゲリラの司令官がピストルを抜いて、こう言い放った。「人質はひとりで十分だ。ふたりもいらん。どっちが先に死にたいか言え」
とうとう殺されるのだ。あれほど死にたいと思っていた長沼だが、殺されると知って、「う、ウソだろ!頼む!おれは死にたくない!助けてくれ!」自分でも情けないくらい、体が震えてきて、「頼む!なんでもするから、命だけは助けてくれえ!」その場で命乞いを始めた。人間、いざ死に直面すると、こうも生に執着するものなのか。生存本能がそうさせたのかもしれない。「お願いだ!殺さないでくれ!お願いだ!」長沼は拝むように言った。「無駄だよ、ナガヌマちゃん。どうせこいつら、おれたちを生かしておく気なんてないんだ」いつも冷静な山田。「金だけ取って、用がなくなったら、おれたちを殺すつもりだ」「そ、そんな!金を払えば解放するって言ってたじゃないか!」「おれたちを生きて帰せば、組織の内情とか、知られたくないことを知られてしまう」「それで殺すって言うのか?!」長沼は裏切られたような気持ちになった。「それじゃあ、ヤマさん、最初からそのことを知ってて、おれをだましていたのか?」「だますつもりはなかった。ただ、言えばナガヌマちゃんがビビると思って、黙ってただけだ」「ひ、ひどいよヤマさん!さんざん希望を持たせておいて、最後はこれかよ!」「おれだって、生きたいさ。生きて日本に帰りたいさ。だが、おれにどうしろって言うんだ?」「こんなことになると分かっていたら、ふたりで協力して、逃げることだって出来たじゃないか!」「逃げる?どこへ?地図も持ってないのにどこへ逃げる?何かいいプランでもあるのか?」冷たく突き放されるような言い方をされて、長沼はムラムラと怒りがこみ上げてきた。「最初からそのつもりだったんだな!卑怯だぞ!」「卑怯?おれは卑怯なマネをした覚えはないが?」「おれの気持ちをもてあそんでいたんだろう!」「そんなことをして、おれに一体何のメリットがある?」「チクショー!あんた鬼だ!見そこなったぜ!」長沼は悔しくて涙があふれた。「ヤマさん、ヤマさん」と慕っていた自分が悔しかった。苦楽を分かち合ったこの2年半は、一体なんだったのか。「よーし、分かった!ケンカはやめろ!そこまでだ!」さえぎるように司令官が言った。「ケンカの続きは、あの世でやってもらおう」ピストルを向けられた。「殺される!」長沼は思わず目を閉じた。銃声が轟いた。震え上がったが、どこも痛くない。恐る恐る目を開けると、「ああっ!ヤマさん!」長沼の目に飛び込んだのは、頭を撃ち抜かれて倒れた山田の姿だった。「ヤマさん!ヤマさん!死んじゃイヤだ!目を覚ましてくれよお!ヤマさあん!」長沼は泣きながら山田の死体を揺さぶった。「チクショー!ヤマさんが何したって言うんだあ!お前ら人間じゃねえよ!なんでヤマさんを・・・」長沼は山田の死体にすがりついて泣いた。司令官がピストルをしまいながら、冷淡に言った。「そいつはいつも冷静だった。何かをたくらんでいると思った。生かしておくのは危険だ」長沼は満面を涙で濡らしながら、「ヤマさあん!おれをひとりにしないでくれよお!一緒に帰ってラーメン食おうって約束したじゃんかよお!」と泣き叫び続けた。他の人質の死には、あまり心を動かされなかった長沼も、山田の死には慟哭した。
「友だちを葬ってやれ」スコップを渡され、長沼は山田を埋葬するための穴を掘った。山田の死体を横たえ、土をかぶせる。土を盛り上げておいて、そこに木で作った十字架を立てた。手を合わせて、長沼は山田の冥福を祈った。「ヤマさん、疑ったりしてごめんよ。おれが悪かった」長沼は土を握りしめた。「一緒に日本に帰って、温泉に入って、冷たいビール飲みたかったよ・・・」だが、これも山田が言うように、運命なのかもしれないと思った。「ヤマさん、一緒にいて楽しかったよ。ヤマさんのことは絶対に忘れないよ」長沼の脳裏に、山田の笑顔が浮かんだ。「ヤマさん、来世でまた会おう・・・」
山田が死んでから、長沼は決意を固めた。「おれは何としても生きて日本に帰るぞ!」どんな困難が待ち受けていようとも、山田の分まで生きて、日本に帰ろうと誓った。そして、出来ることならば、殺された山田の仇を討ってやろうと思った。「おれは死んでやらないぞ!日本に帰るまでは死んでやらないぞ!」長沼はひたすら耐えた。いつの日か自由の身になることを信じて、ひたすら待ち続けることにした。
3ヵ月たった。突然、長沼はゲリラ兵に連れられて、長い旅に出発した。深いジャングルを歩き続けた。大きな川をボートで渡った。「どこへ行くんだろう?」と思ったが、訊いても答えるわけがないので、黙っていた。ジャングルを出て、頂に雪をかぶったアンデスへ向かっていることが分かった。「暑いところから、今度は寒いところかよ・・・」長沼はげんなりしてしまった。
山に入ると、長沼は「バターラ」というラバに乗せられた。スペイン語で「戦闘」という意味だと知った。アンデス山脈北部の標高3千メートルのゲリラ・キャンプまで3日かかった。標高が高くなるにつれ、酸素も薄くなり、気温もぐんぐん下がった。震えていると、ゲリラに同行していたインディオの男が、ポンチョのような着物を与えてくれた。それに帽子をかぶると、地元のインディオと何ら変わらない姿かたちになった。ほとんど垂直に近いような急な山道である。地上がどんどん離れていくのを見ると、「これでまた、解放が一段と遠のいてしまうな・・・」と思い、心が重くなった。
だが、長沼は知らなかったが、この時、日本政府はひそかに身代金を払っていたのだ。山田が殺された映像を送りつけられ、動揺したらしい。ゲリラ側に支払われた身代金は100万ドル。しかし、長沼は解放されなかった。ゲリラ側はさらに、600万ドルを要求したからである。
待遇は相変わらずだった。5ヵ所のキャンプを転々と移動しながら、狭いテントに閉じ込められた。食事は粗末で、そのうえ寒さが加わった。与えられた汚い毛布にくるまって寝ていると、「これ、食べて・・・」ゲリラの少女兵が、そっと、食べものを持ってきてくれた。
少女が持ってきてくれたのは、パンにチーズとソーセージを挟んだものだ。「グラッシアス(ありがとう)」長沼は礼を言って、夢中して食べた。やわらかいパンだった。チーズも塩気がきいている。ソーセージの脂気も口の中でとろけた。こんなにうまいものを食べたのは何年ぶりだろうか。あっという間に食べ終えると、「ヤマさんにも食べさせてやりたかった・・・」と思い、涙があふれた。
「ありがとう。うまかったよ。君、名前は?」見たところ、少女はまだ14,5歳のようである。巻き毛を長く垂らし、大きく澄んだ瞳だ。「あたし、オマイラ」「オマイラか。いい名前だ」「あたし、もう行かなきゃ。また持ってきてあげる」「ありがとう・・・」オマイラという少女ゲリラは、小走りに去っていった。
「あの娘、かわいかったなあ・・・」どうやら恋をしてしまったらしい。相手は自分を拉致・監禁したゲリラなのだ。「感情移入は禁物だよ・・・」という山田の忠告を思い出す。「だが、彼女は違う。おれを助けてくれたんだ」オマイラのことが頭から離れなくなった。「彼女、おれに気があるんだよなあ・・・」そうでなければ、人目を忍んで、こっそりパンを持ってきてくれるわけがない。「かわいいな、あの娘・・・」出来ることならば、日本に連れて帰りたいと思った。
次の日も、オマイラはパンを持ってきてくれた。「ありがとう」長沼がパンを食べ終えるまで、オマイラはじっと長沼を見つめている。それに気付いて、「君はどうしてここにいるんだ?」と尋ねた。「あたし、売られたの・・・」オマイラがつぶやくように言った。彼女の話では、家庭が貧しく、親がオマイラをゲリラに売ったのだという。ゲリラは貧しい家庭から少年少女を買い取り、訓練して、兵力にしているのだ。「つまり、君が望んでゲリラになったわけじゃないんだね?」「あたし、お家に帰りたい。ママに会いたい・・・」オマイラはホームシックになっているのだろう。そのつぶらな瞳から涙があふれた。「しかし、家に帰っても、君は受け入れてもらえない・・・」哀れだ、と思った。なんとかしてやりたい、と思った。「オマイラ、君はぼくのことが好きか?」思い切ってきいてみた。「好きよ」その返事を長沼は本心と受け取った。「よし、オマイラ、ぼくと一緒に逃げよう。ここから逃げるんだ。自由になるんだよ」
「ダメよ、そんなこと・・・それに見つかったら、あたしたち、殺されてしまうわ」オマイラはあまり乗り気ではなかった。「頼む!君だけが頼りなんだ!君だって自由になりたいだろ?一緒に逃げよう!」「そんなこと言われても・・・」「約束する!ここから逃げられたら、君をお母さんのところへ帰してあげよう!」長沼は逃げたい一心で思わず口走った。「本当に?本当にママのところへ帰れるの?」「ああ、約束だ!ふたりで逃げて、日本大使館に保護を求めるんだ!そうすれば、政府だって見殺しにしやしないさ!ぼくは日本に帰れるし、君は家に帰れる」長沼は必死だった。なんとかオマイラを説き伏せて、ここから逃げるしかないと思った。もう拉致されてから3年になる。ここでチャンスを逃がせば、自分は一生、祖国の土を踏めないだろうと思った。「なあ、頼むよ!オマイラ!君はぼくが好きだろう?ぼくも君が好きだ!だから、こうして頼んでいるんだよ!お願いだ!ぼくをここから逃がしてくれ!」長沼はオマイラの小さな手を握りしめた。「分かった。もう少し待って。考えてみる・・・」オマイラは煮え切らない様子で去っていった。
次の日も、オマイラはパンを持ってやってきた。「オマイラ、ぼくの言ったことを考えてくれたかい?」長沼は待ちきれずに訊いた。「本当にママと会えるの?」「約束だ!帰してあげるよ!」「分かった。じゃあ今夜、ここから逃げましょう。それと、鎖を切る道具を持ってこなくちゃ」長沼はテントの支柱に鎖で足をつながれているのだ。「ありがとう、オマイラ!」「その代わり、命がけよ。あたしたち、見つかったら殺されるわ」「覚悟は出来ているさ!おれは、何としてもここから逃げるんだ!」もしも失敗して殺されたとしても、その時は運命だとあきらめればよい。ただ、何もせずに殺されるよりかは、よっぽどマシだと思った。「生きよう!生きてここから出るぞ!そして、ヤマさんの仇を討つんだ!」長沼は夜になるのを待った。少しでも体を休めておこうと思い、横になったが、とても眠れるものではなかった。
夜になった。オマイラがどこからかヤスリを持ってきて、長沼の足の鎖をゴシゴシ切り始めた。「うまく切れるといいんだけど・・・」頑丈な鎖はなかなか切れない。見かねた長沼が手を貸そうとしたとき、「お前たち、何している!」暗がりから大声がして、長沼はギクッとなった。たき火に照らし出されたのは、ゲリラの司令官だった。通称「カルロス」と呼ばれている男である。「やっぱり、お前たち出来ていたんだな!どうも怪しいと思って、泳がせておいたのだ!」万事休す、と思った。「オマイラ!貴様、逃げてどこへ行くつもりだ?お前の親はお前を売ったんだぞ?たとえ実家に戻っても、お前に居場所などない。育ててやった恩を仇で返すとは、ふてえアマだ!」「黙れ!オマイラはおれが連れて行く!お前の好きにはさせんぞ!」長沼が怒りを込めて叫んだ。「なに?この役立たずのろくでなしどもが!死ね!」カルロスがピストルを抜いた。「やめて!」次の瞬間、銃声が響いた。撃たれたのはカルロスだった。オマイラがカラシニコフで撃ったのだ。一刻の猶予もない。オマイラが銃で鎖を撃つと、うまい具合に断ち切れた。
長沼とオマイラは必死に逃げた。銃声を聞いて、ゲリラ兵が追ってきた。「逃がすなあ!追ええっ!」真っ暗な山道を転びそうになりながら下る。銃声がうなる。銃弾が飛ぶ。ふたりは死に物狂いで逃げた。
どのくらい逃げただろうか。次第に夜が明けてきた。青白い夜明けの中、ふたりは息を切らしながら、走っていた。「ここまで来れば、もう大丈夫よ」追っ手は来ない。ふたりは疲れきって、岩だらけの山腹に腰をおろした。長沼は解放感に浸っていた。酸素は薄いが、空気がうまかった。山の風が、心地よく肌をなぶる。「うまくいったなあ・・・やっと、自由の身になれたんだあ・・・」オマイラが心配そうに言った。「逃げられたけど、あたし、もう戻れない・・・」司令官を射殺してしまったのだ。ゲリラに捕まったら処刑されるだろう。「大丈夫だよ。君のことは大使館が保護してくれる。国が動けば、奴らも手出しできないさ」「あなたは、この国の本当の恐ろしさを知らないのよ・・・」たとえ家に戻れても、ゲリラがシカーリオ(殺し屋)を差し向けるだろう、と言った。「あたし、もう家にも戻れない・・・」オマイラがシクシク泣き出した。「泣くなって。君はぼくの命の恩人だ。どんなことがあっても、ぼくは君を守ってみせるさ」「本当?」「ああ、本当だ。この国がダメなら、君を日本に連れていってもいい」「でも、あたし、日本語できない・・・」「言葉なら、ぼくが教えるよ。日本はいいところだよ。平和で、豊かで、自由がある」「あたしを日本に連れていってくれるの?」「ああ、君が望むなら、一緒に日本に行こう」「うれしい・・・」オマイラが抱きついた。長沼も抱きしめてやった。
完全に夜が明けた。「もっと遠くへ逃げよう。グズグズしていると、ゲリラに見つかるかもしれない」ふたりは、さらに山を下った。突然、銃声が轟いた。銃弾が空気を切り裂いて飛んでくる。「危ない!伏せろ!」慌てて岩陰に身を隠した。銃弾が岩肌をえぐり、白煙を上げた。「ゲリラか?見つかったのか?」しかし、敵は下から撃ってくる。どうもゲリラではないらしい。「おい!あそこだ!あそこに隠れてるぞ!」さらに銃弾を浴びせられた。長沼は声を振り絞って叫んだ。「やめろおっ!おれたちはゲリラじゃなあい!逃げてきたんだあ!撃つのをやめろおっ!」兵士が銃を向けながら近付いてきた。軍服を着ているので、政府軍かと思ったが、「パラよ!あたしたち、パラに見つかったのよ!」とオマイラが言った。パラとはゲリラに対抗する右翼の自警団のことだ。数分後、ふたりはパラの捕虜となっていた。
「お前は中国人か?」パラの司令官が訊ねた。顔に大きな傷跡のある男だった。「いや、日本人だ」と長沼。きっと事情を説明すれば、助けてくれるだろうと思った。「お前たちはゲリラだな?」司令官は冷たい視線を向けた。「違う!おれはゲリラなんかじゃない!人質だ!逃げてきたんだ!」長沼は懸命に弁解した。もしもゲリラの仲間だと思われたら、パラに容赦なく殺されてしまうだろう。「ウソをつけ!じゃあ、この女はなんだ?ゲリラじゃないのか?」司令官がオマイラの軍服の襟首をつかんで引き寄せた。「よせ!彼女も一緒に逃げたんだ!今はもうゲリラなんかじゃない!」「ゲリラじゃない、だと?」「彼女はゲリラに売られただけだ!親元に帰りたいと言ってるんだ!」「ふん・・・」司令官はせせら笑った。「売られようが、逃げようが、ゲリラはゲリラだ。こいつは殺す」「やめろ!彼女には手を出すな!おれも彼女も被害者なんだ!」長沼は、山田とともに拉致されてから、山田が殺され、逃げるまでの出来事を、すべて話した。司令官は黙って聞いていたが、「では、お前は友だちの復讐のために逃げたと言うのか?」と逆に訊いてきた。長沼は一瞬、返事に困った。本当は、このまま日本に帰りたいのだが、そんなことを言えば、オマイラが殺されてしまうと思った。オマイラは自分の命の恩人なのだ。彼女がいなかったら、自分は逃げることも出来なかっただろう。オマイラを見捨てるわけにはいかなかった。それに、山田の復讐のため、と言えば、パラも同情してくれるだろうと思った。「ああ、そうだ!おれはゲリラが憎いんだ!あいつらに何としても復讐して、殺された友だちの恨みを晴らしたいんだよ!」長沼は涙ながらに訴えた。
長沼の訴えが功を奏したのか、ふたりとも殺されなかった。だが、そのままパラのアジトへ連行され、小屋に監禁された。「私たち、これからどうなるの?」オマイラが不安げに言う。「さあね。なるようにしかならないさ」山田の口癖が移ってしまった、と思い苦笑した。「あなた、殺された友だちの復讐をしたいって本当?」「ヤマさんはいい奴だった。何も悪くないのに殺されたんだ。黙っているわけにはいかないよ」長沼は語気を強めて言った。「ヒロト、気持ちは分かるけど、やめて。お願い。そんなことをすれば、あなたも殺されてしまうわ」「構わないさ。人間、いつかは必ず死ぬんだ。おれはヤマさんの仇を討つよ」山田を殺したゲリラの司令官が、法の裁きを受けるとは思えない。この国では、紙に書いた法律など何の役にも立たないということを知っていた。やられたらやり返す、それだけが唯一の掟なのだ。いつしか、望郷の念よりも、復讐心のほうが強くなっていることに、長沼は気付いていなかった。
翌日、ふたりは小屋から連れ出された。「いよいよ、殺されるのか?それとも・・・」不思議と死は怖くなかった。もう何があろうと、すべて運命として受け入れようと決めていた。パラの司令官のもとへ連れていかれた。そこで待っていた答えは意外なものだった。「いいか、お前たちを新兵として鍛えなおすことにした。嫌なら殺す。どうだ?」
パラの兵士になれ、というのだ。「お前はゲリラに友だちを殺されたんじゃないのか?ゲリラが憎いだろう?おれたちと一緒にゲリラと戦うんだ。ゲリラを殺せば、友だちの恨みも晴れるだろう。違うか?」さらに、オマイラにはこう言った。「お前は脱走兵だな?親に売られ、ゲリラにも戻れない根無し草だ。家に戻っても、またどこかへ売られるだけだ。ゲリラに戻れば殺される。どうだ、死にたいか?まだ死にたくないだろう?」司令官は言った。「お前たちを殺すなど、わけもないことだ。生きるか死ぬか、お前たちが決めろ」長沼は迷ったが、そうするしかないと思った。山田の恨みも晴らしたいし、このままオマイラと一緒にいたい。ふたつの願いをかなえるには、パラに入るのが一番なのだ。「分かった。おれを仲間に入れてくれ」
長沼とオマイラは、兵士の訓練センターへ送られた。山の中のキャンプで、厳しい訓練の日々が始まった。兵士の卵は、みな年端もいかぬ少年少女ばかりだ。「なんだか、学生時代の合宿みたいだなあ」と思ったが、訓練は生やさしいものではなかった。最初に習ったのが、7.62mmと5.56mの小銃の扱い方だった。長沼は以前、ハワイへ行ったとき、射撃場でピストルを撃ったことがある。しかし小銃は重く、分解して組み立てたり、すべてのことを自分でやらねばならない。訓練を施すのは元軍人たちで、いささかも容赦がなかった。テストに合格しないと殺されるのだ。毎日が命がけだった。鉄条網の下をかいくぐり、手榴弾を標的に投げ付け、小銃で的を撃ちぬく。音を立てずに敵に接近し、ナイフで殺す方法も学んだ。格闘技の訓練もあった。長沼は試練に耐えた。3年に及ぶ厳しい監禁生活は、彼の体力を少しも損ねてはいなかった。学生時代にサッカーで鍛えた肉体がものを言ったのであろうか。オマイラもよく耐えた。長沼はオマイラがテストに落ちて殺されやしないか、ハラハラしていたものだが、「オマイラも、なかなかやるなあ・・・」と思った。
3ヵ月に及んだ訓練が終わった。「ナガヌマ、よくやった。これで、お前も一人前の兵士だ」教官が、長沼の肩を叩き、褒めたたえた。「だが、まだやらなければならないことがある」「何ですか?」「こっちに来い・・・」言われてついていくと、ハッとなった。オマイラが木に縛りつけられ、さるぐつわを噛まされているのだ。「彼女に、何をするんですか?放してやってください!」長沼が抗議すると、教官がマシェーテという大きな蛮刀を引き抜き、「人を殺さなければ、一人前の兵士とは言えん。これで、あの女を切り刻むんだ」と命じた。長沼はうろたえた。「じょ、冗談じゃない!そんなこと、おれには出来ません!」「やれ!乳房をえぐり取るんだ!やらなきゃ、貴様を殺すぞ!」教官に押し付けられて、長沼は仕方なくマシェーテを握った。オマイラは身動きできず、もがきながら、長沼に目で訴えている。手が震えた。自分の命の恩人を殺すことなど、出来るわけがなかった。「無理だ!おれには無理です!」長沼は叫んで、マシェーテを地面に突き立てた。「もう、いいだろう。そのくらいにしておけ・・・」司令官が止めに入った。おかげで救われた。長沼は全身の力が抜けるのを感じた。
その夜。長沼がひとりで武器の手入れをしていると、「ヒロト、あたしを助けてくれてありがとう」オマイラがやってきて言った。「あたし、あなたが殺されるんじゃないかと思って、すごく怖かった・・・」オマイラは自分の命より、長沼の命を案じていた。「君はおれの命の恩人だ。おれが君を殺せるわけがないじゃないか」「分かってる。あなたはそんなことをする人じゃない」「おれは君を殺すくらいなら、殺されたほうがマシだよ」長沼は命令を拒否したとき、殺される覚悟だった。「おれはいつでも死ぬ覚悟は出来ている。君のためなら死んでもいい」「ダメよ。ヒロト、死んじゃダメ。お願い、生きて。あたしをひとりにしないで」オマイラが泣きそうになって、長沼に抱きついてきた。「誰が君をひとりにするものか。死ぬときは一緒だよ」「うれしい・・・」ふたりは初めて唇を重ねた。
その後、長沼はパラの戦闘員として、戦場に駆り出された。戦う相手は自分を拉致・監禁し、無二の友を惨殺した共産ゲリラだ。長沼は何としても、「ヤマさんを殺した奴を見つけ出して、この手で殺してやりたい」と思っていた。3ヵ月の厳しい訓練に耐え抜き、自信もあった。長沼とオマイラは「ロハス」という司令官の率いる部隊に加わった。最初の戦闘はアンデスの山岳地帯で行なわれた。仲間とともに、ゲリラのキャンプを攻撃したのだ。「撃てーっ!」合図とともに、一斉射撃が始まった。長沼は無我夢中でAK47小銃を撃ちまくった。「うおおおおっ!死ねええええっ!チクショー!」ゲリラは完全に不意を突かれた形となり、反撃する余裕もなく、次々に射殺されていった。長沼は逃げ惑うゲリラ兵にいささかも容赦なく銃弾を浴びせた。撃たれた仲間を助けようとして、腕をつかんで引きずり起こそうとする健気なゲリラ兵に対しても、「うりゃああーっ!死ねっ!死ねっ!死ねーっ!」狂ったように叫びながら、引き金を引き続けた。「やったぞ!2人倒した!」長沼は飛び上がって喜んだ。全身を突き抜ける快感に震え上がった。そして、銃を空に向けて連射しながら、「やったぞおーっ!ヤマさーん!仇を討ったぞおーっ!」と叫んだ。
この戦闘で16人のゲリラ兵が死んだ。死体の散らばるキャンプにはまだ息のある生存者もいたが、「ひとり残らず殺せ!」というのが命令である。パラ兵たちは、重傷のゲリラ兵を引きずってきて一ヵ所に集め、「うおおおおっ!」などと雄叫びを上げつつ、何百発もの銃弾を浴びせて士気を高めた。長沼も同じようにやった。人を殺すことへの抵抗感や罪悪感はなかった。あるのはただ、自分を監禁し、友を殺したゲリラへの怒りと憎しみだけであった。「ヤマさん、天国から応援してくれ!おれは必ず、ヤマさんの恨みを晴らしてみせるよ!」長沼は復讐のためなら、どこまでも心を鬼にしてやろうと思った。
長沼はパラに入って、いろいろなことを知った。ゲリラとパラの戦いは、もはや政治的な理由によるものではない、ということである。すべては「カネ」のためであり、カネはコカインから生み出される。ゲリラもパラもお互いに、より多くのコカ畑を手にしたほうが勝ちなのだ。この土地を巡って、血みどろの死闘が繰り広げられる。パラは政府軍にバックアップされ、現役の軍人や警官も加わっている。彼らは「ゲリラが憎い」とか「国を守るため」という大義名分を持っているわけではなく、「金が欲しくてやっているだけ」なのである。長沼のように純粋に、「ゲリラに殺された者の復讐をする」という動機で加わっている者はほとんどおらず、「すべてはカネのために行なわれる戦い、カネのために流される血なのだ」ということを思い知らされた。
また、政府の支配が及ばない地方では、「銃を持っている者が尊敬される」ということも知った。町の人々はパラ兵に好意的である。なぜなら、彼らが銃で武装しているからだ。銃を持っていない者は、誰からも尊敬などされないのである。「怒らせたら殺されてしまう」という恐怖感が、人々にそうさせているのだろう。それも人目につくように、銃は大きければ大きいほどよいのだ。長沼は山田と南米各地を旅行していたとき、「チーノ!」とよくバカにされたものだ。見るからにひ弱そうな日本人の旅行者と分かるから、罵声も浴びせられたし、タチの悪い奴に絡まれたり、ゲリラに身代金目的で拉致されたりした。それが今、ベレー帽をかぶり、戦闘服を着て、大型の機関銃を携え、悠然と歩く長沼に、「チーノ!」などという侮辱の言葉を投げかける者はひとりもいない。「悲しいけど、これが現実なんだな・・・」と思った。
パラの起源は1980年代前半にさかのぼる。父親をゲリラに殺されたフィデルとカルロスのカスターニョ兄弟が、「オヤジの仇を討つ!」と誓って、地元で結成した武装自警団が始まりとされる。その後、兄のフィデルはゲリラに殺されたのか、行方不明になったが、弟のカルロスが90年代後半にコロンビア全土のパラに結集を呼びかけ、コロンビア統一自衛軍(AUC)を名乗った。ゲリラのシンパとみなした民間人を無差別に殺すことで恐れられ、ゲリラよりも残酷といわれる。
これに、1964年から共産主義革命を掲げて、武装闘争を続けるコロンビア革命軍(FARC)と、政府軍が絡んできて、この国の内戦は当事者でさえ、「何がなんだかよく分からない状況」になってきているのである。
そうした中で、長沼の戦闘員としての日常が続いた。長沼がいたのは、ベネズエラとの国境に近い町で、コカインを巡るゲリラとの縄張り争いが激しい。パラはゲリラの支配下にある町や村を制圧しようと躍起になっていた。長沼も何度かゲリラ支配地の奪回作戦に投入された。映画のような市街戦が展開され、長沼は戦闘で何人もの敵のゲリラ兵を殺すのが楽しかった。戦場を支配する銃声や爆発音、敵の悲鳴・・・。これらのものが闘志を激しくかき立てるのである。
いつも先陣を切って突撃するのは長沼だった。どんなに激しい戦場でも怖くなかった。銃声を聞けば聞くほどエキサイトした。
ゲリラが支配するサンタフェという町を制圧したときのことだ。激しい銃撃戦が展開されていた。長沼の部隊は政府軍ヘリの援護を受けつつ町に突入した。ゲリラは建物に潜み、窓や物陰から撃ってくる。建物の壁は蜂の巣のように銃弾の穴だらけだ。長沼は窓越しに撃ってくるゲリラ兵に銃弾を浴びせた。そしてゲリラたちが立てこもっている建物に突入した。内部は薄暗く、長沼は慎重に歩を進めた。ドアを蹴飛ばし、部屋をひとつずつ捜索する。いつ、どこから撃ってくるか分からない。息詰まる緊張感が、五体にみなぎる闘志を制御していた。ある部屋の前に差し掛かったとき、「ズダダダダダダッ!・・・」いきなり室内から撃ってきた。銃弾で砕け散ったドアの破片が飛び散る。長沼はとっさに壁に身を寄せ、手榴弾のピンを抜いた。タイミングを図って室内に投げ込むと、すさまじい爆風が吹き抜けた。長沼はとどめに銃弾を浴びせ、室内のゲリラを全滅させた。別の部屋のドアを蹴破ると、「来るなあっ!近寄ると、こいつを殺すぞおっ!」追い詰められたゲリラ兵が、一緒に隠れていた住民を人質に取った。「みんな撃つなっ!おれに任せろ!」仲間を制しておいて、長沼はゲリラに銃口を向けた。ゲリラは小さな女の子を抱きかかえ、ピストルを突きつけている。女の子の母親らしい女が、泣きながら解放を訴える。「来るなっ!殺すぞっ!」と怒鳴り散らす。「落ち着け!銃を捨てろ!」「うるさい!黙れ!」長沼はゲリラに呼びかけつつ、タイミングを図っていた。ゲリラはすがりつく母親、人質の女の子、そして長沼と銃口の向きを変える。銃口が人質からそれた瞬間を長沼は見逃さなかった。「今だっ!」銃声が響き、ゲリラの頭から血煙が上がった。ピストルは暴発しなかった。返り血を浴びて泣きわめく女の子を抱きかかえ、「もう大丈夫だ。ほら、ママのところに帰りなさい・・・」長沼は母親の手に返してやった。「よかった・・・人質は助かった・・・」長沼は額の汗を手で拭い、ホッと一息ついた。
作戦は成功に終わった。長沼の仲間内での評判は嫌でも高まった。「ナガヌマ、お前はヒーローだ!」「日本のサムライだ!」「ナガヌマ、乾杯しよう!」仲間たちの長沼に寄せる信頼感は絶大なものとなった。「ナガヌマ、おれはいい部下を持ったようだな」司令官のロハスも長沼を大きく買ったようだ。「お前を副官にしたい。これからも大いに働いてくれ。期待しているぞ・・・」
ゲリラ制圧に奮闘する長沼だったが、無抵抗の人間を殺したことはない。自分はあくまでも、「殺されたヤマさんの仇を討つ!」ことを目的としていたのであり、無関係の市民を殺すことは望んでいなかった。
しかし、パラの暴力は目に余るものがあった。ラ・パルマという村を襲ったときのことだ。そこは何もない山間の寒村だったが、「村人がゲリラに協力している」という情報を受け、長沼たちの部隊が向かった。兵士たちは村に入るなり、家畜のブタを殺し、女たちを犯した。悲鳴と銃声が村の静けさを引き裂いた。逃げようとする者は情け容赦なく射殺された。瞬く間に血まみれの死体があちこちに転がった。長沼は兵士たちの残虐行為に顔をしかめ、「こんなことが許されるのですか?」とロハスに抗議した。「これは軍の命令だ」「命令?民間人を殺せというのですか?」目の前にいるのは、武器を持たない農民である。「なぜです?彼らはただの農民だ。なぜ殺す必要があるんです?」「お前は何も分かっちゃいない」ロハスは言った。「いいか、こいつらはゲリラの仲間だ。ゲリラをかくまい、食糧や情報を提供している。だから殺すのだ」「彼らがゲリラだという証拠はあるんですか?」「ゲリラと農民をどうやって見分ける?奴らはいつも軍服を着て、銃を持っているわけじゃない」「だから殺せと言うんですか?証拠もないのに、無実の農民を殺せと?」「どうせ奴らはまともな人間じゃない。貧乏人はどこへ行っても貧乏人だ。人として扱われることなどない」「なぜです?彼らも同じ人間じゃないですか。どこが違うと言うんです?」長沼が憤慨すると、ロハスは吐き捨てるように言った。「奴らは怠け者だ。情けをかけるに値しない怠け者なのだ。どこへ行こうが路上を不法占拠し、犯罪とエイズを蔓延させるだけだ。ゴミのような存在なのだ」「ゴミだって?」「そうだ。我々は祖国を愛している。社会を浄化したいと思っている。これはゴミ掃除なのだ」ロハスはこんなことも言った。「我々の行動は中産階級から支持されている。我々のおかげでゲリラの脅威は薄れ、ホームレスは減り、犯罪も少なくなった。すべては祖国のためだ」「国のために、弱い者を殺し、麻薬を売るんですか?狂ってる!」長沼は吐き気がこみ上げた。結局、ゲリラもパラも、一緒だと思った。国のため、人民のため、という“言い訳”で自分たちの犯罪行為を正当化しているに過ぎない。「おれは下ります!こんな悪事の片棒を担ぐなんてゴメンだ!」すると、待っていたようにロハスが言った。「お前、本気で言ってるのか?組織を脱退したら、お前は消される。我々の放った刺客にな」「・・・・・・」長沼は何も言えなかった。
ラ・パルマの虐殺は夕方まで続いた。この虐殺で24人の農民が殺され、かろうじて難を逃れた村人も、二度と戻ってくることはなかった。家屋には火が放たれ、村には煙と死臭が漂い、息が詰まりそうだった。これほどの虐殺があっても、コロンビアの田舎を襲った悲劇など、ニュースにもならないのである。長沼は死体が散乱する現場で、いつまでも呆然と立ちすくんでいた。
長沼は町の通りをぼんやりと眺めていた。子どもたちが楽しそうにボールを蹴って遊んでいる。無邪気な子どもたちの笑い声が聞こえた。「この子たちもいずれ、戦争に巻き込まれ、殺し、殺されるのだ」と思うと、やりきれなかった。彼らの頭の中は真っ白だ。染められれば何でもやる。余計な考えがないから、やるときは残酷で、しかも容赦がない。恐ろしいことだと思う。これは思想や宗教、民族の対立から生まれるものではないのだ。金持ちが貧乏人をけしかけ、貧乏人同士が憎み合い、殺し合っている。金持ちはますます肥え太り、貧乏人はますます飢えていく。この社会の仕組みを変えない限り、いつまでも犠牲は続くだろう。「ヒロト、何を考えているの?」オマイラがやってきてすがりついた。長沼は一点を凝視したまま、「オマイラ、この国を変えることは出来ると思う?」と訊いた。オマイラの答えはそっけなかった。「出来ないわ。それは無理よ」「どうして?」「どうしてって、あたしに聞かれても分からないわ・・・。ただ、あたしに言えることは、あたしたちには、どうすることも出来ないってこと」「誰がそう決めたんだ?」「分からない。生まれたときからそうなってるの」「この国は、ほんの一握りの金持ちや権力者に牛耳られている。そいつらは人を人とも思わず、自分たちの富や権力を守るために、人と人を争わせ、殺し合わせている・・・」長沼の言葉には、やり場のない怒りが満ちあふれていた。「こんなことが許されていいと思うのか?変えなければいけないとは思わないのか?」オマイラは目を伏せて言った。「無理よ。変えることなんて出来ないわ」「なぜだ?なぜあきらめてしまうんだ?」「あなたは平和で豊かな国に生まれた。だから、理解できないのも無理はないわ」「おれは何とかしたいと思っているさ。君は思わないのか?」「つらいかなんて聞かないで。ここはコロンビアなの。仕方のないことなの」オマイラはすべてを達観したように言った。生まれたときからそこにある現実は、つらい出来事も他人事のような感覚を植えつけてしまう。オマイラはたどたどしい口調で言った。「この国では戦うか、逃げるか、死ぬか・・・。それしかないのよ。貧乏人はどんなに頑張っても絶対にお金持ちにはなれないの。立派なお家に住んで、学校へ行かせてもらえて、きれいなお洋服を着て、おいしいものを食べて・・・。どんなに望んでも、それは夢だわ。生まれたときからそう決まってるの。あたしには、なぜ貧しいのか、殺しあうのか分からないし、分かってもどうにもならない・・・」長沼はあわれむように聞いていたが、「だが、誰かが何とかしなければいけない」「そう思うのは、あなたが外国人だからよ。毎日たくさん人が殺される。でもそれは生活の一部なの。あたしも友だちや知っている人が何人も殺されたわ。最初は悲しいと思った。けど、それが繰り返されると何も感じなくなるのよ。ああ、また誰か死んだんだって・・・」「それは、とても悲しいことだ。君は自分が不幸だとは思わないのか?」「あたしは、今はとても幸せよ。あなたと、こうして出会えた。あなたと生きているだけで幸せなの」屈託のない笑顔で言う。「この国では毎日、誰かが誘拐されたり、殺されたりしている。でも、あたしはあなたと生きている」「それが幸せなのか?」「うん・・・」なるほど、そう考えれば確かに自分たちは幸せなのかもしれない、と思った。
長沼は考えた。「ここでオマイラと幸せに暮らしていくことは出来ないものか・・・」パラから逃げ出せば、遅かれ早かれふたりとも殺されてしまう。ふたりとも殺されずに生きていくにはどうしたらよいのか。そのことを考え続けた長沼は、ある決心をした。長沼の出した結論とは、「シカーリオ(殺し屋)になること」であった。長沼たちがゲリラから奪回した町サンタフェは、長年、ゲリラの支配下にあった町だ。当然、住民の中にはゲリラに協力していた者が多い。パラの情報をゲリラに売って生活している者もいる。こうした密告者を「処刑」することがシカーリオの仕事である。
長沼はロハスのもとへ交渉に行った。「おれをシカーリオにさせてくれ」ロハスはウイスキーを飲んでいたが、「お前に無抵抗の人間を殺せるのか?」と訊いてきた。長沼は一瞬、返事に困ったが、「これも、オマイラを幸せにさせてやるためだ」と自分に言い聞かせた。「出来ます。相手は裏切り者だ」「何の恨みも無い相手でも平気か?」「もちろん。ゲリラは敵だし、奴らに協力する奴も敵です」「友だちの復讐のためか?」「それもあります。ただ・・・」「ただ、なんだ?」「愛する人を守るためでもあります」長沼はキッパリと言い切った。ロハスはしばらく、長沼を見つめていたが、「愛する人間のために、どんな相手でも殺せるわけか?」「殺せます」「子どもが生まれても続けられるか?」「続けます」「ふむ・・・」ロハスも長沼の決意の固さに気付いたらしい。「まあ、いいだろう。ただし、お前は一生、この町から出られんぞ」「覚悟は出来ています」「脱け出そうとすれば、お前も消される」「分かっています」「よし、それならさっそく、働いてもらおうじゃないか。その前に乾杯だ」ロハスはグラスにウイスキーを注いで渡した。長沼はグラスを受け取った。「乾杯!」グラスを合わせて、長沼は一息にウイスキーを飲み干した。喉がチリチリと焼けた。
その日から、長沼は殺し屋として生きていくことになった。軍服を脱ぎ、兵士から殺し屋に転身したのだ。オマイラとともに住むための部屋も借りた。「彼女だけは、絶対に不幸にさせたくない」と思っていた。オマイラも兵士を辞める条件として、長沼は殺し屋になることを選んだのだ。もし、長沼が仕事に失敗すれば、オマイラも消されてしまうことになる。
オマイラは長沼の身を案じていた。「あなた、私のためにシカーリオになったって本当?」「ああ、本当さ」「どうしてそんなことを」「君と幸せに暮らすには、これしかないからさ」「そのために人を殺すの?」「仕方ないさ。殺さなければ、こっちが殺されてしまう」「何の罪もない人でも殺すの?」「罪のある人間だから殺すのさ」「どういうこと?」「君も知っているように、おれは親友をゲリラに殺された」「ゲリラが憎いから殺すの?」「ゲリラも憎いが、ゲリラに協力している奴も憎い」「だから殺すの?」「罪のない人間を殺すんじゃない。敵だから殺すんだ」いつの間にか、長沼の中で、道徳観念が変化していた。その根底にあるものは、オマイラとの安住を願う気持ちである。安住を願う心には、卑屈な精神が宿る。自分の中で、無理やり、良心をねじ伏せ、納得してしまうしかないのだ。「お願いだから、人殺しなんてやめて。あなたに出来ることじゃない」「大丈夫。おれは君と一緒にいられれば、それで十分なんだよ」長沼はオマイラを抱き寄せて言った。「約束するよ。いつかは足を洗って、君を幸せにしてみせる・・・」
長沼の最初の仕事は「ホアン」という男の暗殺だった。パラが調べた情報をもとに、ホアンがゲリラの密告者であることが判明した。長沼が呼び出され、ホアン暗殺のためのアドバイスを受けた。交渉の結果、暗殺の報酬は300ドルと決まった。パラの兵士の平均月給が400ドルである。戦闘には行かず、大量虐殺もせず、1回の仕事でこれだけ稼げるのなら、「文句はない」と思った。
長沼はピストルをズボンにねじ込み、バイクにまたがった。地を蹴って、バイクを走らせた。町の通りに出る。さわやかな午後の昼下がりである。通りには露店が立ち並び、行き交う人々でにぎやかだった。パラの情報では、ホアンはいつもこの辺りをふらついているという。長沼はバイクをゆっくりと走らせつつ、周りに目を配った。「いた!あいつだ!」事前に写真で見た顔を脳裏に焼き付けておいた。ひょろりと顔の長い男である。「間違いない。やるぞ」呼吸を整え、長沼はバイクのハンドルを握りしめた。ホアンの背後に接近する。長沼はそっとズボンのピストルをつかんだ。駆け抜けざまに、ホアンの後頭部めがけ2発撃ち込んだ。パン、パンと乾いた銃声が響く。ホアンは何も言わずに倒れた。長沼はそのまま走り去った。成功である。「こんなにうまく行くとは・・・」長沼は仕事の成功を報告し、約束通り、報酬の300ドルを受け取った。
仕事を終えて帰宅すると、「オマイラ、帰ったよ」「どうだった?」「うまくいったよ」「そう・・・」オマイラの表情は沈んでいる。長沼は元気付けようとして言った。「即死だよ。苦しまずに死ねたんだ」それからポケットの300ドルを出して、「これが今日の稼ぎだ。何かうまいものでも食おう。君の好きなものを買っていいぞ」オマイラは紙幣を数えながら、「これは、教会に寄付しましょう」と言った。「何言ってるんだ?これは、おれたちの大事な財産だよ」「人を殺したお金で幸せにはなれないわ」「幸せにしてみせるさ」「あなたは変わってしまった。この国がそうさせてしまったのよ。あなたは日本に帰るべきだわ」「オマイラ、何を言ってるんだ?おれとの約束を忘れたのか?」「あなたが私のことを思ってくれるのはうれしい。でも、ここはあなたがいるべき場所ではないわ」「おれはここに残る。ここに残って、君と幸せな家庭を作りたいんだ」オマイラが何か言おうとするのをさえぎるように、長沼はオマイラを抱いてベッドに倒れ込んだ。「心配ない。何も心配することなんかない。おれが絶対に守ってみせる・・・」長沼はうわごとのようにつぶやきつつ、オマイラの肉体を愛撫した。
長沼の仕事は続いた。サンタフェでは1日に3,4人、多いときで5人から7人が殺される。殺し屋は長沼の他に何人もいて、仕事の依頼は後を絶たない。長沼はゲリラの密告者を何人も片付けた。良心の呵責は感じなくなっていたが、「11歳の少女を殺してほしい」と頼まれたときは、さすがにためらった。その少女は、パラの調べ上げた証拠から、ゲリラの密告者であることは疑いようのない事実だった。「しかし、11歳の少女がゲリラに密告するのか?」長沼は半信半疑だったが、「驚くことじゃない。この町では8歳の子どもまでゲリラの仲間だ」というロハス。「みんな生きるためさ。あのガキを見てみろ」ロハスは通りで物乞いをしている少年を指差した。「あのガキも大人の関心を引こうと必死だ。金になることなら、ゲリラにも情報を売るし、我々のスパイにもなる。毒にもクスリにもなるってやつだ」「あんな小さな子どもでも殺すのか?」「お前がやれなくても、やれる奴はいくらでもいる。誰も気にしない」「おれには無理だ。11歳の女の子を殺すことなどできない」「変に情けをかけるのはよせ。お前が殺さなかったところで、少女は確実に殺される運命だ」ロハスは長沼にウイスキーをすすめ、「なに、すぐに慣れるさ。あと2,3ヵ月もすれば、お前だって一人前のシカーリオだ・・・」と言った。
殺し屋のもとへ寄せられる注文も様々だ。夫の浮気に悩んでいる主婦から、「夫を殺してほしい」と頼まれることもあった。「浮気ぐらいで、自分の旦那を殺してくれなんてイカレてる・・・」と思ったが、長沼は引き受けることにした。
長沼は、こう考えることにした。「おれが殺すことで、依頼者は嫉妬の苦しみから解放されるんだ」そして、自分は報酬をもらえる。依頼者も救われるのだ。長沼は思った。「人間の世界は、善悪なんて単純に決められるものじゃない。平和な日本で、何の意味もなく人を殺せば、悪だ。しかし、コロンビアは違う。この国では、やるか、やられるかなんだ。おれは、やられるわけにはいかない。オマイラを守らなければならない。彼女は、この国で、唯一、おれを救ってくれた存在だ。おれは彼女のために戦わなければならない。彼女のためなら、おれは何人だって殺す」殺すときはピストルで十分だった。ナイフだと大変だし、誰かの助けを必要とするからだ。報酬も多いときで500ドル。長沼はせっせと稼ぎながら、「金が貯まったら、ここに店でも開いて、オマイラと幸せに暮らすんだ・・・」という夢を思い描いていた。
ある日のこと。長沼のもとに依頼が舞い込んだ。「今度はこの男を殺してほしい」と言われ、写真を渡されて、長沼はアッと息をのんだ。知っている男だったからである。男の名は「マルコ」という。バイクの修理をしている男だ。長沼も何度か会って親しくなっていた。気さくないい奴である。「この男、知ってるのか?」「マルコが何をしたんだ?」「ゲリラのために働いていたんだ」「本当か?」「ああ、奴はゲリラ支配地の通行許可証まで持ってる」「マルコは何をしていたんだ?」「ゲリラに頼まれて、発電機のメンテナンスをしているらしい」「メカに詳しいからな、マルコは」「やってくれるか?」長沼は返事に困った。それが本当だとしたら、マルコは許せない裏切り者である。絶対に生かしておくことは出来ない。生かしておけば、いずれ、自分のこともゲリラに密告するかもしれない。長沼は心を鬼にして決断した。「よし、分かった。おれにやらせてくれ・・・」
長沼はマルコのもとへ向かった。「やあ、マルコ」「やあ、ナガヌマ。バイクの調子はどうだい?」「ああ、ちょっと見てもらいたいんだ。いいかな?」「お安い御用だ。どれどれ・・・」長沼はバイクを押してきた。マルコが何の疑いもなくバイクの点検を始めると、「バーヤ・コン・ディオス(神のご加護のあらんことを)」と言って、長沼はピストルを抜き、マルコのこめかみに撃ち込んだ。血が奔り、マルコは横に倒れた。「あばよ」マルコが死んだことを確かめて、長沼はバイクで走り去った。裏切られた怒りも悲しみも何も感じなかった。
翌日。長沼はマルコの葬儀に出くわした。家族や親類とともにマルコの棺が運ばれていく。長沼は足を止めて見やった。マルコの幼い娘が泣きじゃくっている。彼女は何故、やさしかった父が目の前から消えてしまったのか、理解できないでいるだろう。長沼はいたたまれなくなった。泣いている娘を見て、抱きしめてやりたい衝動に駆られた。胸をえぐられるような思いだった。「おれが殺したんだ。おれが・・・」長沼は走り出した。人を殺した後、こんなに辛い気持ちになったのは初めてである。マルコはゲリラに協力していた。いつ何時、自分のことをゲリラに売ってもおかしくはない。長沼にとっては「敵」である。「敵」である以上、殺さなければならない。殺さなければ、自分が殺されてしまうのだ。だが、自分は何の罪もない家族から、ささやかな幸福をも奪い取ってしまった。仕方のないことだ、といくら自分に言い聞かせてみても、「納得できない」のである。
長沼は「トロンコ・モチェ(切り株)」という町の酒場に入った。アグアルディエンテというアルコールの強いサトウキビの焼酎をあおった。いくら飲んでも、胸の痛みは消えてくれない。父を失って悲嘆に暮れる娘の面影が脳裏から離れない。「ダメだ・・・おれは単なる人殺しだ・・・」自己嫌悪感にさいなまれつつ、長沼は酔いつぶれるまで飲んだ。
その夜。長沼はフラフラになって帰宅した。そのままベッドに倒れ込んだ。オマイラが心配そうにのぞき込む。「ヒロト、一体どうしたの?」「オマイラ、おれを殺してくれ」「え?」「おれは罪深い人間だ。殺されて当然だ」「何かあったのね」「君は心のきれいな人間だ。この荒みきった世の中にいても、おれとは違う。汚れに染まらないんだ。おれは汚れきってしまった。君の手でおれを殺してくれ・・・」長沼は泣きながら言った。「違うわ。あなたは心のやさしい人よ。あなたは私のために殺されることを覚悟した。心の貧しい人には出来ないことよ。あなたは人を殺した。でも、殺された人の痛みが分かる。あなたの心は汚れてはいないのよ・・・」オマイラは長沼の額をなでながら言った。「おれには生きる価値などない。死んで罪を償うべきだ。君が殺してくれ」「ヒロト、私には分かるの。体の汚れは洗えば落ちる。でも、心の汚れは洗っても落ちない。あなたの汚れは洗えば落ちる汚れよ」「分かった。洗わせてくれ」「私も洗うわ」ふたりは裸になって冷たいシャワーを浴びた。凍えるような冷たい水だった。ふたりは激しく求め合った。長沼は全身を突き刺すような水の中で、このまま殺されてもいい、と思っていた。
その頃。「ナガヌマが生きているのは確かなのか?」「ああ、間違いない。奴は生きている」「奴は女と一緒にいるそうだな?」「カルロスを殺した女だ。奴の逃亡を手助けした」「奴らは今、サンタフェにいるのだな?」「ああ、これがその証拠だ」男は数枚の写真を机の上に並べた。写真を受け取ったゲリラの司令官は、「ふむ・・・こいつに間違いない」うなずいて言った。この男、「ガルシア」という。長沼の親友・山田を射殺した男だ。あの後、長沼がオマイラとともに脱走したことも知っている。長沼が日本に帰った様子はない。しかも、「AUCに日本人兵士がいて、暴れまわっている」という噂を耳にしていた。「奴は、おれの命を狙っているに違いない・・・」あれから血眼になって長沼たちの行方を追っていたのである。「しかし、驚いたな。奴が殺し屋になっていたとは・・・」「奴はプロだ。射撃の腕は最高だ」と男が説明する。「奴は仲間内でティロ・フィーホと呼ばれている」狙撃の名手である長沼に付けられたあだ名だ。長沼はその名で呼ばれることを嫌っていた。「おれを殺すために腕を磨いていたのか」「心配ないさ。奴は町から出られない」「おれが友だちの敵であることも知らないわけか」「ああ」「だが、おれが敵だと知れば、必ず復讐に来るだろうな」「ハハハ・・・考えすぎだ。奴1人じゃ無理さ」男は笑った。ガルシアはニコリともせず、「今のうちに手を打っておいたほうがいい」と言った。「刺客を送り込んで、奴を消すか?」「いや・・・」ガルシアは少し考えた。「奴は殺さない。生かしたまま、ここに連れてくるんだ」「奴を誘拐するのか?」「そうだ。再び人質にして、身代金をふんだくる」「奴の女はどうする?」「女も一緒に連れてこい」「女も?」「あの女は裏切り者だ。許せない。処刑してやる」「難しいな」「金ならいくらでも出してやる。絶対に奴らを生きたまま捕まえてこい・・・」ガルシアは厳しい口調で命じた。彼にとって長沼は、「プライドを傷つけた許しがたい奴」であった。「何が何でも奴を捕らえて、金持ち日本人から大金をふんだくってやる・・・」そうしなければ、ゲリラの面子が立たないのである。「待ってろよ、ナガヌマ・・・会えるのを楽しみにしているぞ・・・」
それから数日後。サンタフェの町はにぎわっていた。毎年恒例の「聖母の被昇天(アスンシオン・デ・ラ・バージン)」の日である。娯楽の少ない農民たちは毎年この日が来るのを楽しみにしていた。長沼とオマイラも見に行った。これは、「聖母マリアが、その人生の終わりに、肉体と霊魂を伴って天国にあげられたという信仰、あるいは、その出来事を記念する祝い日のこと」とされている。通りは黒山の人だかりだった。やがて、白装束をまとった人々が、マリア像を乗せたみこしのようなものを担いでやってきた。「オマイラ、はぐれるなよ」長沼はオマイラの手を引いた。「この混雑では、誰に撃たれても分からないな・・・」と思った。「ゲリラは自分たちを生かしておくはずがない」と思っていた。もちろん、警戒は怠らなかった。自ら暗殺者の道を選んだのも、「ゲリラの魔の手から身を守るため」でもある。だが、こうしてオマイラと暮らしていると、「もしかしたら、ゲリラは自分たちのことを忘れているのではないか?」と思うこともあった。「おれもオマイラも死んだと思っているかもしれない・・・」という甘い期待もあった。「このまま、オマイラと暮らせたらいいな・・・」オマイラとの安住を願えば願うほど、「生への執着」も強くなってくる。「いかん!油断は出来ないぞ!」と自分に言い聞かせる長沼。「今も誰かに狙われているかもしれない・・・」そう思うと、お祭り騒ぎに浮かれている場合ではないと思った。「オマイラ、もう帰ろう」「え?」「危ないんだ」「なぜ?」「いいから帰ろう」長沼はオマイラの手を引っ張った。人ごみを抜け、裏通りに入った。「ここまで来れば安心だ・・・」と思った。その瞬間、後頭部に焼け付くような衝撃を覚えた。「あっ・・・」頭を殴りつけられたのだ。体を動かそうとしても力が入らない。目の前が真っ白になった。長沼は意識を失った。地面に倒れたところを抱えられた。オマイラも殴られ、数人の男たちに抱きかかえられた。男たちは手際よく、ふたりを人目につかない場所に運び込んだ。そこで、ふたりとも大きな袋に詰め込まれた。男たちはふたつの袋を抱え、川べりに停めてあるボートに積み込んだ。
長沼はボートの爆音で目が覚めた。「ここは?・・・」頭が響くように痛む。袋に入れられていることに気付くまで少し時間がかかった。「おれは拉致されたのか・・・」起き上がろうとしたが、近くに人の気配がするのでやめた。男たちが何かをしゃべっている。爆音にかき消されてよく聞こえない。これからどこかへ向かおうとしていることが分かった。「おれたちを殺すつもりか?・・・」オマイラはどうしたのだろう。何とかして、ここから逃げなければならないと思った。だが、うかつなことは出来ない。ここはしばらく、様子をうかがうことにした。
どのくらい経っただろうか。ボートがどこかに停まった。男たちが袋を開けた。「おい、起きろ!そこから出ろ!」長沼はのそのそと這い出した。オマイラも袋から引きずり出された。長沼はオマイラの無事を知って少しホッとした。「歩け!もたもたするな!」男に背中を押された。長沼は川岸に上がった。そこには軍服姿の武装したゲリラが何人もいた。「やはり、ゲリラか・・・」長沼は来るべきものが来たと思った。「おれたちを殺さず、わざわざ拉致してきて、どうするつもりだろう?・・・」どこかへ連れて行って殺すのだろうか。「こっちだ!こっちへ来い!」ゲリラに銃を向けられ、長沼は歩き出した。オマイラも後からついてきた。
長沼たちは歩き続けた。山の中へ向かっていることが分かった。長沼は逃げるチャンスをうかがっていたが、「なかなかスキを見せない・・・」のである。山田とともに拉致されたときのことを思い出した。あれからすでに4年の歳月が流れている。あの時は泣き言ばかり言っていた。不安にさいなまれ、うろたえるばかりだった。今の自分は冷静に状況を分析しようと努めている。「おれもさすがに成長したな・・・」と思った。続いて、死んだ山田の面影が浮かんだ。「ヤマさん、本当にごめんよ。ヤマさんと一緒に生きて帰りたかったよ・・・」山田のことを思うと、胸が張り裂けそうになる。「ヤマさん、おれもこれからそっちへ行くよ。ただ・・・」長沼は心の中で念じた。「ただ、オマイラだけは助けてやってくれ。お願いだ。彼女に罪はない。親に捨てられたかわいそうな娘なんだ。彼女だけは見逃してやってくれ・・・」自分は殺されても文句は言えない。だが、オマイラだけは助かってほしいと思っていた。
「ヤマさん、恨むならおれを恨んでくれ。オマイラは関係ないんだ・・・」あの世にいるであろう山田は何と思っているのだろうか。「おれはどうなってもいい。だが、これだけは聞いてくれ。オマイラは助けてほしい。彼女はおれの命の恩人なんだ。おれからの一生のお願いだよ。頼む・・・」長沼はそれだけを伝えておきたかった。果たして、あの世の山田はどう受け取ったのであろうか。
数時間後。長沼とオマイラはゲリラのキャンプにたどり着いた。ふたりを待っていたのはガルシアだった。長沼はガルシアの顔を見て、「こいつ、どこかで会ったような・・・」と思った。すると、ガルシアが言った。「久しぶりだな、ナガヌマ」「あっ、お前は!・・・」「覚えていたか?」ガルシアはニヤリと笑った。ヒゲを落としていたが、「忘れもしない、ヤマさんを殺した奴・・・」長沼はようやく思い出した。自分と山田に死を迫り、山田を殺したゲリラの司令官である。「この野郎!殺してやる!」長沼は復讐心に燃えた。飛びかかろうとすると、「うっ!・・・」ゲリラ兵に銃で腹を殴られた。「ヒロト!」オマイラが叫ぶ。倒れたところを引きずり起こされた。「この野郎!なぜヤマさんを殺した!なぜだ!貴様も死ね!殺してやる!」飛びかかっていこうとするが、ゲリラ兵に押さえつけられ、身動きできない。ガルシアが葉巻に火をつけた。ゆうゆうと煙を吐いてから、「お前は何も分かっていない」と言った。「この世は弱肉強食だ。喰うか喰われるかの世界だ。富めるものはますます富み、飢えるものはますます飢える。富めるものは貧しいものから富を奪う。だから、貧しいものは富めるものから富を奪う。当然の権利だ。我々は当然のことをやったまでだ」「当然?何の罪もない人間を殺すことが当然だと?」「お前たちの国は身代金を出し渋った。そればかりか、アメリカに協力し、コロンビアの貧しい農民をますます飢えさせている。殺されたのは当然の報いだ」「ふざけるな!ヤマさんが何をしたって言うんだ!お前たちはテロリストだ!単なる犯罪者だ!」「テロリスト?犯罪者?我々をそこまで追い込んだのは一体どこの誰だ?お前たちではないか!」激しい感情の応酬が続いた。「どのような理由であれ、テロリストはテロリストだ!悪い奴らだ!死んで当然の連中だ!」「お前はどうだ?パラどもと組んで罪のない人間を殺した!死んで当然の悪人だ!」「先に手を出したのはお前たちだ!ヤマさんは何の罪もない人間だった!それを殺した!」「ほう、正義のための復讐ってわけか?」「何とでもほざけ!おれは絶対に貴様を許さない!」長沼は燃えるような目でガルシアをにらみつけた。怒りと憎しみの炎が我が身を焼き滅ぼしてしまいそうだった。ガルシアがピストルを抜いた。長沼が言った。「おれを殺すのか?殺すがいい!おれはあの世から貴様を呪い殺してやる!」
ガルシアはピストルを向けていた。長沼は目を閉じた。死を覚悟した。「おれは死んでいい。だが、オマイラは見逃してやれ」と言った。「ヒロト!ダメよ!死んじゃダメ!あたしを殺して!」「オマイラ、君は生きろ!」「あなたには家庭がある!あなたの死を悲しむ家族がいるのよ!」その言葉が長沼の胸を貫いた。「オマイラ!君が死んで、おれが悲しまないとでも思うのか?」涙があふれた。「彼を殺すなら、あたしを殺して!」オマイラが言い張る。「彼を解放すると約束して!その代わり、あたしが死ぬから!」ガルシアがピストルを下げた。「こいつは殺さない。大事な人質だ。まだまだ金を取れる」「彼は解放して」「お前、そんなにこの男が好きなのか?」「好きよ」「この男の身代わりに死ねるのか?」「死ぬわ」「なぜだ?」「彼は私を殺す代わりに殺されようとした。だから、今度は私の番」オマイラは毅然と言い放った。ガルシアはしばらくオマイラを見つめていたが、「愛は銃より強し、か・・・」とつぶやいた。「よかろう。お前たちにチャンスを与えてやる」そう言って、長沼を捕らえている部下に命じた。「おい、そいつを放してやれ」長沼はオマイラと抱き合った。「オマイラ!愛してるよ!」「私もよ、ヒロト!あなたは生きて!」「君を残して、おれだけ日本に帰れるものか!死ぬときは一緒だ!」長沼はとっさに決意を固めた。自分はオマイラとともにここで死ぬ。そして、あの世から憎いガルシアを呪い殺してやるのだ。抱き合って泣いていると、「よーし、そこまでだ!」とガルシアが怒鳴った。「そいつらを引き離せ!」「何をするんだ!」ゲリラたちは長沼とオマイラを強引に引き離した。ガルシアが言った。「それだけ愛を確かめれば十分だろう」「おれたちを殺すのか?」「いや、お前は殺さない」「おれを殺せ!」「死よりも辛い現実を味わわせてやる」「なんだと?」「女を連れ出せ!処刑の準備だ!」「やめろ!オマイラに何をするんだ!」長沼はもがいたが、多勢に無勢、どうすることもできない。オマイラは広場に連れ出されていった。
処刑の準備が始まった。広場には木の杭が打ち立てられた。オマイラは杭に縄で厳重に縛り付けられた。これから銃殺刑が執行されるのだ。「やめろ!オマイラを殺すなら、おれを殺せ!このケダモノがあっ!」長沼は声を振り絞って叫んだ。ガルシアが冷淡に言った。「よく見ておけ。最愛の女の最期を」「やめろおっ!お前ら人間じゃねえよっ!」オマイラに目隠しがされた。3人の兵士が進み出る。「構えっ!」ガルシアの号令で3つの銃口が向けられた。「標的を狙えっ!」「やめろおっ!」その時、どこからともなくヘリコプターの爆音が聞こえてきた。長沼が見上げると、数機の武装ヘリが飛んでくるのが見えた。「政府軍だ!」ヘリの機銃が火を噴く。土煙が上がり、ゲリラ兵が次々に撃たれた。「うわあーっ!」「敵襲だぞ!応戦しろっ!」ガルシアが叫びつつ、ヘリめがけピストルを連射した。もちろん、そんなもので撃ち落とせるわけがない。「くそっ!」ガルシアはピストルを投げ捨てて走り出した。「ロケットだ!早くロケットを!」ガルシアは慌てて小さなテントに飛び込んだ。そこには細長い箱が積まれている。箱にかぶせてあったシートをはぎ取り、蓋を開ける。中にはロシア製のRPG-7対戦車ロケット砲が入っていた。ガルシアはRPG-7をつかんで飛び出した。ヘリが高度を下げて接近する。機銃が火を噴き、ガルシアが飛び出してきたテントが爆発した。轟音が響き、火花が飛び散る。テントの中の弾薬に引火したのだろう。爆風でガルシアは地面に叩きつけられた。「くそっ・・・」ゲリラ兵が何事かを叫びつつ走っていく。キャンプは言いようのない混乱に包まれていた。地面に伏せていた長沼が身を起こしたのはこの時である。長沼はゲリラ兵の死体に近寄った。その胸にくくりつけてあるナイフを引き抜き、杭に縛り付けられたままのオマイラに駆け寄った。「今、助けてやる!」手早く縄を断ち切り、オマイラを抱きしめた。「ヒロト!」「もう大丈夫だ!」長沼はオマイラの手を引っ張って走り出した。「こっちは危ない!山のほうへ逃げよう!」ふたりは山の斜面の茂みに逃げ込んだ。この時、ガルシアが逃げるふたりを見つけた。「逃がさんぞ!」ガルシアがRPG-7を向けた。発射音とともにロケット弾が白い尾を引いて、ふたりが逃げ込んだ茂みに向かって飛んでいった。
「危ない!」長沼はとっさにオマイラを突き飛ばし、自分も地面に転がった。ロケット弾が着弾し、すさまじい爆発音が響き渡った。長沼の体は空中に持ち上げられ、数メートルも吹き飛ばされた。斜面を転がり、茂みの中に落ち込んだ。「ああっ・・・くそっ・・・」全身を強く打ち、起き上がろうとした長沼は痛みに顔をしかめた。ガルシアはRPG-7を投げ捨てた。そして、死んだ部下のカラシニコフを拾い上げ、こちらに向かってきた。何が何でも長沼とオマイラを殺すつもりらしい。ガルシアが斜面を登ってくるのを見て、長沼は慌てて逃げ出した。ガルシアが発砲する。銃弾は長沼をかすめた。長沼は茂みの中を這うようにして逃げた。だが、吹っ飛ばされたときに右足を痛めたのか、動かすたびに痛みが走る。「くそっ!こんなところで死んでたまるか!・・・」一時は死を覚悟した長沼だが、今は生への欲望が噴出している。オマイラとともにここから逃げ、ふたりだけで静かに暮らしたかった。「生きて帰ると約束したんだ!ヤマさん!おれたちを助けてくれ!」勝手な願いだとは思ったが、長沼は声を振り絞って叫んだ。ガルシアの足音が迫ってくる。「あ・・・もうダメだ・・・」長沼はつまずいて倒れた。「もうダメだ・・・おれは殺される・・・」ガルシアは目の前に迫っている。長沼は丸腰だ。ガルシアに撃ち殺されるに決まっている。オマイラとともに逃げて助かる、という望みは、はかなくも散った、と思った。「見つけたぞ!」草をかき分け、ガルシアが現われた。「神に祈れよ」ガルシアがニヤリと笑い、長沼に銃口を向けた。その時である。突然、ガルシアの背後からオマイラが襲いかかった。オマイラは大きな石を持っていた。それでガルシアの後頭部を殴りつけたのである。「ズドッ!・・・」鋭い銃声が響き、弾は長沼をそれた。必死の一撃を受け、ガルシアは倒れた。長沼が飛びかかる。カラシニコフを奪い取ろうとして格闘が始まった。長沼とガルシアはもみ合いながら斜面を転がった。「うぬっ・・・くそっ!・・・」ガルシアの下になった長沼は、ガルシアの股間を思いきり蹴った。ガルシアの悲鳴が上がった。カラシニコフをもぎ取った長沼は、ガルシアめがけ連射した。ガルシアは血煙を噴き上げながら転がった。ついに山田の仇を討ったのだ。だが、復讐を成し遂げたよろこびも何もなかった。むしろ、張り詰めた緊張感から解き放たれて放心状態にあった、と言ってよい。戦闘はまだ続いていた。上空にはヘリが舞い、銃声が聞こえてくる。「逃げよう!」長沼はオマイラと手をつなぎ、這うようにして斜面を登っていった。
その後。長沼とオマイラは山の中を歩き続け、密林の中で休みながら、ベネズエラを目指した。ベネズエラへ逃げて、日本大使館に保護してもらうつもりだった。「オマイラ、おれたちはもう自由だ。どこへでも行けるんだよ」「あたしはあなたと一緒なら、どこへでも行く」「ふたりでベネズエラに行こう。そして、日本に帰るんだ」山道は険しかったが、今までのことを思えば、大したことではなかった。何よりも、好きなところへ行けるという自由がうれしかった。長沼は、オマイラと最初に逃げた、あの日のことを思い出していた。あの時も、これで自由になれると思った。だが、思いがけない運命に振り回されることになった。人生、一寸先は闇とはよく言ったものである。「オマイラ、君は本当にこれでよかったのかい?」「どうして?」「最初に逃げたとき、おれは君をお母さんのもとへ帰すと約束した。だが、約束を破ってしまった」「仕方ないわ。あなたのせいじゃないもの」「お母さんに会いたくないのかい?」「会いたい・・・でも・・・」オマイラは目に涙をためて言った。「でも、ママはきっと、殺されてしまった・・・」「・・・・・・」「ママもパパも、兄弟も・・・みんな、殺されてしまったはずよ・・・」オマイラは上官を殺して脱走したのだ。ゲリラがオマイラの家族に報復するのは目に見えている。殺し屋を差し向けて、ひとりずつ殺したか、あるいは、手っ取り早く家に爆弾を投げ込んで、皆殺しにしたかもしれない。いずれにせよ、オマイラの家族はもう生きてはいないだろう。長沼は胸をえぐられるような思いだった。「ああ・・・おれのせいで、ヤマさんだけでなく、オマイラまで不幸にさせてしまった・・・」この罪は一生、背負っていかなければならない。自由のよろこびに溺れこみそうになったけれども、自分のために犠牲になった数多くの人間のことを思えば、決してよろこんではいけないのだ、と思った。
ふたりは4日間、逃げ続けた。山の中で天然のユッカ(サトイモの一種)を見つけ、火を起こして焼いて食べた。空腹と疲労に耐えながら、夜は抱き合って寝た。「オマイラ、おれたちはもう自由なんだ・・・」長沼は飽きずに同じことを何度も言った。「約束する。もう二度と君を不幸にはさせない。約束するよ」「あたしはあなたと一緒にいられれば、それでいいのよ」「日本に帰ったら、ふたりで静かに暮らそう。誰にも知られずに、ふたりだけで・・・」「うれしい・・・」
5日目の朝。ふたりは山を下り、人里を目指して歩いた。ここはもうベネズエラである。だが、地図を持たないふたりは、ここがどこなのか分からない。「うかつに人にも聞けないな。おれたちはコロンビアで命を狙われている。うっかり軍隊に捕まったら、それこそ何をされるか分からないぞ・・・」思えば、自分たちが拉致された直後に、政府軍の襲撃があったのもおかしい。あまりにもタイミングが良すぎるのである。「軍は、おれたちを拉致してゲリラに引き渡し、ガルシアが出てくるのを狙っていたんじゃないか?」長沼の推測は、ほぼ当たっていたようだ。ふたりをガルシアに売り込んだスパイが、その後で、政府軍にも情報を売ったのである。
パラとつながっているコロンビア政府軍が、ふたりを生かしておくはずがなかった。見つかれば、ふたりとも口封じに抹殺されてしまう。長沼は空腹で目が回りそうだったが、痛む足を引きずりつつ、意を決して一軒の民家を訪ねた。「ブエノス・ディアス(おはよう)」引きつった笑みを浮かべ、長沼はブタにエサを与えていた農家の老人に場所を聞いた。「ここはどこかって?ベネズエラに決まってるじゃないか」老人は警戒の色を浮かべて言った。「ベネズエラ・・・よかった・・・」長沼はホッとため息をついた。「あんた、何者だ?どこから来た?」「助けてほしい。コロンビアから逃げてきたんだ。町へ行きたい。車を貸してくれ」
長沼とオマイラは、老人にトラックで送ってもらった。老人は「ホセ」という。途中、何度かベネズエラ軍の検問に出くわしたが、ホセの息子夫婦、ということで通してもらった。「あんたらを見ていると、死んだ息子夫婦にそっくりでな・・・助けてやりたくなったのさ」ホセのおかげで、ふたりは無事、首都カラカスにたどり着いた。さっそく、ふたりは日本大使館に保護を求めた。事情聴取を受けた長沼は、これまでの出来事をすべて話した。「分かりました。長沼さん、あなたはすぐに帰国してください」「彼女は・・・オマイラも一緒に連れて行けませんか?」答えは「ノー」だった。オマイラはコロンビアに帰国させる、というのである。「そんなバカな!コロンビアに帰ったら殺されてしまう!」長沼はオマイラも日本で暮らせるよう、何度も政府に働きかけた。しかし、事なかれ主義の日本政府は、オマイラの日本永住を認めようとしない。オマイラを受け入れたら、コロンビアから日本に難民が押し寄せてくる、とでも思ったのだろうか・・・。「オマイラは命の恩人です。彼女を捨てて、おれだけ帰るなんてできません」政府の対応に失望した長沼は、ベネズエラ政府に亡命を申請したのである。
こうして、長沼とオマイラは、そのままベネズエラに残ることになった。「ヒロト、本当にこれでよかったの?」「こうなる運命だったのさ」「あなた、日本に帰りたいんじゃない?」「いや・・・おれはもう、日本人じゃない。コロンビア人だ」長沼は自分の手を見つめて言った。「おれはコロンビアで何人も殺した。おれの手はコロンビア人の血にまみれている。おれはコロンビア人の命をもらって生きのびたんだ。だから、おれはもう、日本人じゃない。コロンビア人なんだ・・・」
さて、その後が大変であった。当然ながら、マスコミが押し寄せ、事件を大々的に報じた。「人質の日本人男性とゲリラのコロンビア人女性が恋に落ち、決死の脱出に成功」そんな見出しが新聞の紙面を飾り、ふたりは一躍、脚光を浴びた。「いいですか、長沼さん。マスコミに何を訊かれても、余計なことはしゃべらないでください。あなたはあくまでも被害者として振る舞ってください。ゲリラと戦ったとか、殺し屋として生活していたとか、そういうことは絶対に口にしないでください。あなたのためでもあるし、あなたのご家族のためでもあるんです。これ以上、ご家族を悲しませたくないでしょう?いいですか、ノーコメントでお願いしますよ・・・」事前に政府の役人から脅されるように言われていたし、長沼は沈黙を守った。家族を悲しませたくなかったから、そうしたまでなのだが、「おれは英雄なんかじゃない。嘘つきの人殺しのろくでなしだ。なのにマスコミは・・・」マスコミによって演出された美談に、長沼は怒りさえ覚えた。ゲリラは声明を出し、長沼とオマイラを「殺人者」と罵り、非難した。報復を避けるため、ふたりは名前を変え、姿を消した。ふたりの亡命生活が、ようやく落ち着きを見せたのは、翌年の春になってからだろうか。
この年、2004年。長沼とオマイラは、カラカスの安アパートで暮らしていた。生活は決して楽ではない。長沼は日本語学校の教師という職に就き、オマイラは家政婦として働いている。ベネズエラは石油がとれる豊かな国だが、それだけに、「おれたちは東洋なんかより豊かだ」という変なプライドがある。そのため、東洋人はどこへ行っても差別される。南米は北米に比べて、こうした人種差別は少ないのだが、ベネズエラだけは例外だった。世界を股にかけて活躍する日本の商社員も、ベネズエラだけは、「行きたくない国」として、嫌うらしい。テロや誘拐のリスクの高いコロンビアよりも、嫌われているのだそうな。そんな国だから、長沼も嫌な思いをすることが多い。それでも、「おれが犯した罪の報いだと思えば、なんでもないさ」と気丈に振る舞うのを常とした。
この年の夏、長沼に子どもが生まれた。オマイラが生み落とした元気な男の子に、長沼は、「アルベルト」という名前をつけた。日本から遠く離れた異国の地で、家庭を持ってみると、「一度、日本に帰りたい」という思いが強烈になってきた。オマイラに打ち明けてみると、「帰るべきだわ。あなたの帰りを待っている家族がいるのよ」という。そこで、長沼は一時帰国することにした。オマイラと、生まれたばかりのアルベルトを連れて、東京・稲城市の実家を訪ねると、「まあ、まあ・・・こんなになって・・・まあ・・・」見違えるようになった我が子と対面した長沼の母親・妙子が、うれしさと驚きがないまぜになった顔を涙に濡らし、「よく生きていたわねえ・・・本当に・・・」長沼を強く抱きしめてくるものだから、長沼も思わず、涙ぐんだ。
それから、町田市の山田の実家を訪ねた長沼は、「ぼくがヤマさんを殺したようなものです。本当に申し訳ない・・・」と山田の母親・三津子の前で謝罪し、山田の位牌が置かれた仏壇に線香をあげ、合掌した。「あの子はねえ・・・長沼さん、あなたの中で生きているのよ・・・」三津子がつぶやくように言った。「あの子は心のやさしい子だったからね・・・あなたの身代わりになって死んだと思うの」「お母さん・・・」「ヨースケちゃんは、あなたを助けようとして、あなたの代わりに殺された・・・」「・・・・・・」「だから、あなたには、ヨースケちゃんの分まで、頑張って生きてほしいの・・・」そう言われると、長沼はあふれてくる涙を止めることができなかった。
ベネズエラに戻る飛行機の中で、長沼が言った。「おれは本当に悪い奴だけど、なんだか、救われたような気がしたよ」「あなたは心のきれいな人よ」オマイラはアルベルトをあやしながら言った。「コロンビアには、愛は十倍に、憎悪は百倍にして返せ、という言い伝えがあるけど、あなたが家族や友だちを愛する心は、千倍に、いや、万倍にもなって、あなたに返ってくるはずよ・・・」
ふたりの生活は、貧しいながらも、ささやかな家庭の幸福に包まれ、明け暮れていった。すくすくと成長していくアルベルトを見ていると、長沼は人並みの幸せに溺れてしまいそうな自分に気がつく。時折、オマイラは長沼が涙を流し、ひとりで泣いている光景に出くわした。「ヒロト、どうしたの?」「おれが殺したマルコの娘・・・今ごろ、どうしているのかと思うと、この胸が張り裂けそうだ・・・」長沼は自分が手にかけた人々の遺族のことを一日も忘れたことはない。自分の過去を恥じ、自分の人生を極端に制限し、ストイックに生きてきた。「おれは、いつ死んでもいい。殺されても文句の言えないことをしてきている。だが、許されるならば、あと少し、アルベルトが大きくなるまで、生きていたい。しかし、人生、一寸先は闇だ。どんな運命が待ち受けているのか、誰も知らないのだからな・・・」と自分に言い聞かせながら、その日が来るのを静かに待っていたのである。
2005年の夏。長沼とオマイラがベネズエラで暮らすようになって、2年になる。ある日、長沼のもとに一本の電話がかかってきた。「久しぶりだな、ナガヌマ」長沼は来るべきものが来た、と直感した。「おれを殺すんだな?」「そうしたいところだが、あんたがベネズエラから出て行くなら、考えてもいい」「どういうことだ?」「あんたらは有名人だ。マスコミがあれだけ騒いで、愛の逃避行だのなんだのと書き立てれば、我々も手の出しようがない。あんたらを殺せば、我々ゲリラの印象が悪くなるだけだからな・・・」「おれたちを狙っているのは、お前たちだけじゃない。コロンビア政府も狙っているだろうよ」「奴らが我々の責任にするため、あんたらを殺そうとしたので、奴らの刺客は我々が始末してやった」「ほう・・・それで、おれたちを殺さなかったというわけか」「ほとぼりが冷めるのを待っていたのさ。あんたが女房と子どもを連れて、国外へ出るなら、見逃してやる。このまま、コロンビアのすぐ隣の国で、のうのうと暮らすのだけは、どうしても許せん」「おれを殺したければ、いつでも殺しに来い。ただし、これだけは約束しろ。オマイラとアルベルトには手を出すな」「あんた、どうしても我々の警告に従わないんだな?」「約束しろ。おれも約束する。おれの命はくれてやる。その代わり、妻子は見逃すんだ」「よし・・・いいだろう。その約束を忘れなさんな・・・」
数日後。長沼はアルベルトを抱きしめ、頬ずりをし、オマイラとキスを交わした。「じゃあ、行ってくるよ」「早く帰ってきてね」屈託のない笑みを浮かべ、長沼は家を出た。これが最後の別れになるかもしれない、という覚悟があった。「オマイラ、許してくれ。君を二度と不幸にさせないという約束は、守れそうにない。おれは死ぬ。君とアルベルトを残していくのは辛いが・・・おれが死ねば、奴らも満足するだろう。おれが死んだら、君はアルベルトを連れて、逃げてくれ。アルベルトが成長したら、君の口から父親の話をしてほしい。アルベルトには、父親の仇を討つ、などということは考えるな、と教えてくれ。何もかも忘れて、幸せに暮らしてほしい。最後に、これだけは約束する。君を永遠に愛しているよ・・・」という遺書をしたため、ひそかに残しておいたのである。職場へ向かって住宅街の路地を歩いていく途中で、長沼は3人の男たちに取り囲まれた。そして、至近距離から7発の銃弾を撃ち込まれ、長沼は即死した。
「ヒロト・・・あなたは、あの娘さんのために、死ぬつもりになったのね・・・」オマイラは長沼が一緒に逃げてくれなかったことを悔やんだが、彼の胸中を察し、涙を流した。その後、オマイラはアルベルトを連れて、アルゼンチンへ旅立っていった。
終わり

おれの復讐

おれの復讐
2001年6月11日、月曜日。この日、辻裕二は午前9時半ごろに家を出た。自宅は東京都F市K町1丁目のアパートK101号室である。トイレと小さな風呂のついたアパートだ。決して広くはない部屋だったが、辻は出るとき、「さよなら」と小声でつぶやいた。長年住み慣れた部屋を目にするのも、これが最後だった。もう二度とここに戻ることはない。辻は名残惜しそうに部屋を見渡して、ドアを閉めた。空はどんよりと曇っていた。辻は緑色の薄手のジャンパーに、白っぽいチノパンを履いていた。今の辻は無職である。4年前に勤めていた会社を解雇された。それ以来、ずっと無職だった。そして、3年前から母親のツネとふたりで暮らしている。ツネは辻が出かける30分ほど前に出かけていた。近所のスーパー「M」へ行ったのである。それは辻の再就職のことであった。無職の息子をどうか雇ってほしいと頼みに行ったのだ。本来ならば辻も一緒に連れて行くべきなのだが、「行きたくない」ということで辻は拒否していた。はっきりと、「行きたくない」と言ったわけではないが、ツネが何を言っても返事もしない。黙りこくってうつむいている。あるいは、「なんだよ、なんだよ・・・」と聞き取れないくらいの小声でつぶやいているだけだ。それでもツネがひとりでスーパーの面接の相談へ行ったのは、「今日、おかんがスーパー行って聞いてくるから、オッケーなら午後にでもお前を連れて行く」ということだった。つまり、先に行って面接を受け付けてくれるかどうか聞いてきて、受け付けるなら辻を連れて出直す、ということだ。スーパーは「店員募集」の張り紙をしているし、面接で通れば、明日からでも雇ってくれるだろう。無職の身なら喜ばしいはずだが、辻の表情は陰惨に暗く沈んでいる。働きたくないのだ。なぜか?うまい理由は本人も見つけられなかった。ただ言えることは、「そんなことをしたら、おれの復讐ができなくなってしまう・・・」ということである。辻は何に対して復讐しようとしているのか。それはただひとつ、「今まで散々自分を苦しめてきたおかんに復讐する」ということである。もう何年も何十年も前から心の底でひそかに望んできたことだった。それを今日、実行に移すのだ。復讐の計画はしっかりと頭の中で立ててある。「思えば、くだらねえ人生だった・・・」死を覚悟の復讐を前にして、辻が思うのはそのことだった。
辻は37歳だった。この37年の人生を振り返ってみても、「ろくなことがなかった・・・」と思う。あるのはただ、母親への激しい憎悪と復讐心だけである。それだけが今まで辻を支えてきたとも言えよう。とぼとぼと道を歩きながら、「だが、それも今日で終わる。おれはこの日のために生きてきたんだ・・・」と自分自身に言い聞かせていた。
午前10時ごろ、辻はF市S町のホームセンター「K」にたどり着いた。ここで辻は、刃渡り40センチほどの肉厚の牛刀を買った。それとゴムの滑り止めのついた軍手一着。これらのものをビニール袋に入れて、辻は店を出た。そのまま辻は道路を渡って正面の学校法人「M学園」に向かった。北側の正門から学園内に入った。入り口の守衛室には人がいたが、誰も辻を見咎めるものはいなかった。まっすぐ歩いていって、中学の校舎の前で右に曲がった。道なりに歩いていくと、そこに小学校の校舎がある。学園本部に面した昇降口から、辻は校舎に侵入した。ちょうど休み時間で、廊下には小学生の姿が目立つ。辻は土足で上がったのだが、途中、教員とすれ違ったときも、別に怪しまれることはなかった。教員のほうも、「誰かの父兄か学校と取り引きのある業者だろう」と思ったようだ。辻は一直線に廊下を進んだ。小学校の間取りは、だいたい知っていた。以前、学園祭で一般に開放されたとき、何度か訪れたことがあったのだ。そのときとまったく変わっていなかった。
やがて辻は、1階の1年松組の教室にたどり着いた。ここの小学校では、3クラスを「松竹梅」で分けて呼んでいるのだ。辻は袋から軍手を取り出して両手にはめ、さらに牛刀を取り出した。教室の戸は開いていた。室内をのぞくと、20人前後の生徒がいて、おしゃべりをしたり、絵を描いたりしている。誰もまだ辻の存在に気付いていないようだ。辻は何も言わずに後ろから教室に入った。「最初に目が合った子どもから殺す」と決めていた。この学校の子どもたちに恨みがあるわけではない。ただ、「子どもなら大人より弱いから抵抗されないし、一度にたくさん殺せそうだから」という理由だった。右手に牛刀を握り、教室の中ほどまで進んだとき、「あっ・・・」ひとかたまりになってしゃべっていた男子児童のうち1人が振り向き、辻と目が合った。「殺せ」と誰かが命じたような気がした。次の瞬間、辻は目が合った男の子を刺していた。刃先はズブリとやわらかい胴体に食い込んだ。力を込めて引き抜くと、白い半袖の制服から真っ赤な血がほとばしった。「きゃー・・・」どこかで悲鳴が聞こえたような気がした。もう頭の中は真っ白だった。
あとは無我夢中であった。すぐそばにいた男の子に牛刀で切りつけた。首を狙ったつもりだったのだが、こめかみから顎にかけて切り裂いた。血が滝のように流れ落ちて、制服を真っ赤に染める。「首を狙え、首だ・・・」自分に言い聞かせながら、辻は次々に子どもたちに切りかかった。横から首を狙って切りつけると、「ぴゅーっ」頚動脈が切断されたのだろう。噴水のように血が噴き出した。辻も返り血を浴びた。メガネのレンズに飛びかかった血しぶきを左手の軍手で拭った。子どもたちは絶叫しながら逃げ惑っている。机やイスが邪魔して、なかなか逃げられない。それを追って切りつける。女の子の髪の毛をつかんで引き寄せ、脇腹に牛刀を突き刺すと、「うえーっ・・・」なんとも形容しがたい悲鳴を上げた。床に転んだ男の子の背中を刺し、脳天に牛刀を振り下ろす。顔に生あたたかい血が飛び散る。子どもたちは泣き叫びながら、必死に教室のドアを開けて外へ逃れた。教室の外は人工芝を敷き詰めたテラスになっている。辻も追って外へ出た。隣の1年竹組の教室へ逃げようとする子どもたちを追いかけながら、「うわーっ・・・」辻は野獣のような雄たけびを上げた。テラスで何人かを捕まえて切りつけ、腹や胸を刺した。切りつけつつ、刺しつつ、竹組の教室に押し入る。「きゃーっ・・・」竹組でも辻は鬼のような形相で牛刀を振り回した。「できるだけ多く殺したい」と思っていた。「少なくとも10人は殺したい」と思っていた。たかが2,3人を殺したぐらいでは満足できなかった。これは自分を苦しめた母親に対する復讐である。母を苦しめ、恥をかかせるためには、たくさんの犠牲者が必要なのだ。歴史に残るような大事件にしなければならない。そのためには一撃で致命傷を与えなければならない。辻は子どもたちの首や胸など急所を狙った。だが、さすがに暴れているうちに息が切れてきた。もう40に近いのだし、もともと体力がない。「もっと、もっと殺さなければ・・・」と焦って牛刀を振り回すが、すばしっこく逃げられてしまい、かすり傷しか負わせられない。教室の隅っこに追い詰められた女の子が数人いた。辻はすかさず牛刀で突き刺し、さらに顔や頭を切りつけ、牛刀の柄で殴った。「死ね、死ね・・・」そこに異変を知らされた教員が2人駆けつけてきた。「こらっ!やめろ!やめないか!」教員たちは必死に制止したが、とても聞くものではない。「邪魔するな!」辻はカッとなって、取り押さえようとした教員の腕に切りつけた。もう1人は教頭で、果敢にも机を盾にして、辻に立ち向かった。腕を傷つけられた教員も、掃除用具のロッカーからモップを持ち出し、向かってきた。
こうなると、辻は防戦一方である。「うわーっ・・・」わめきながら、必死に牛刀を振り回すが、「こいつ!」若い教員がモップで牛刀を叩き落した。教員が机で辻を押さえつける。辻はなおも暴れたが、「おとなしくしろっ!」と一喝されると、急に抵抗をやめた。そして、ふてくされたように、「殺せ、おれを殺せ」とつぶやいた。
教員の通報で、F署の警察官がパトカーで駆けつけた。辻は殺人などの現行犯で逮捕された。捕まったとき、辻は頭から足まで返り血を浴びて真っ赤に染まっていた。まるで地獄からやってきた悪鬼のような姿である。手錠をはめられ、パトカーまで連行されていくとき辻は、「やったぜ、やったぜ・・・」とつぶやきながら、力なく笑っていた。もう死んでもいいと思った。これで母親への復讐は果たせたと思った。
学校は戦場のような騒ぎになっていた。凶行の現場となった1年松組と竹組の教室は血の海だった。教室の床といい壁といい天井といい血まみれである。すでに息の切れた子どももいれば、重傷にあえぐ子どももいた。次々に救急車がやってくる。上空にはテレビ局のヘリコプターも飛んできた。中継の映像が校庭に避難した子どもたちの姿を映し出す。各局が予定を変更して事件のニュースを伝えた。「お伝えしておりますように、今日午前10時15分ごろ、東京・F市のM学園付属小学校に刃物を持った男が押し入り、児童らに次々に切りつけました。これまでに入った情報によりますと、少なくとも4人が死亡、15人が重軽傷を負ったということです・・・」
その頃、ツネは浮き足立ってアパートの部屋に戻ってきたところだった。スーパーの店長に事情を説明したところ、すぐにでも面接に応じるというのだ。「ユージ、面接してくれるそうだ。今すぐ行こう。ユージ・・・」だが、部屋にはいたはずの辻の姿がどこにもない。「おい、ユージ。どこにいるんだ?ユージ」捜したがトイレにも風呂にもいない。靴がないことに気付いて、「逃げたのか?まったく、どこまで世話が焼けるんだ、あのバカは・・・」ムラムラと怒りが込み上げてきたが、どうせすぐに戻ってくるだろうと思った。それまで待っていようと思い、テレビをつけたところ、信じられない映像が飛び込んできた。「逮捕されたのは、F市無職の辻裕二容疑者37歳で、『たくさん人を殺して死刑になりたかった』などと犯行の動機を供述しているということです・・・」ツネは何が起きたのかまったく理解できなかった。しばらくして、電話が鳴った。受話器を取ると、「あー、こちらF警察署の者ですが・・・」
辻はF署で取り調べを受けていた。取り調べには淡々と応じていた。凶悪犯によくあるようなふてぶてしさはなく、まるで他人事のように話すのが特徴だった。
捜査員が訊いた。「なぜ、こんなことをしたんだ?」「死にたかったから」「あの学校に恨みでもあるのか?」「ない」「ならなぜあの学校を狙った?」「どこでもよかった。大きな学校なら」「大きな学校を狙ったのはなぜだ?」「有名になると思ったから」「有名になりたくてやったのか?」「有名にしないといけない」「なぜ?」「復讐にならないから」「復讐?誰に復讐したかったんだ?」「おかんに」「母親か?」「おかんに恥をかかせて、苦しませるためには、こうするしかなかったんだ」「なぜ母親に復讐しようと思ったんだ?」「憎いから」「ずっと復讐しようと思っていたのか?」「そうだ」「なぜ母親を殺そうとは思わなかったんだ?」「殺せば一瞬で終わるから」「何が?」「苦しみが」「母親を苦しませたくてやったのか?」「これから一生苦しむことになるんだ。おれのしたことで・・・」そう言って、辻は低く笑った。ほとんど感情のない顔を引きつらせ、「くっくっくっくっ・・・」と気味の悪い笑い声を洩らす。「こんなことをして、悪いと思ってるのか?」「思わない」「お前が殺したのは年端もいかない子どもたちなんだぞ」「いい気味だ」「なんだと?」「一生懸命勉強していい学校に入っても、おれみたいなクズに殺されてしまう世の中の理不尽さを分からせてやりたかったんだ」「ふざけるな!子どもたちに何の罪があるって言うんだ!」捜査員が激昂して机を叩いた。「すでに4人死んでる!病院に運ばれた4人も重体だ!負傷者だけで15人もいるんだぞ!」「・・・・・・」辻は無表情のまま黙っている。「申し訳ないとは思わないのか?少しは頭を下げて謝ったらどうだ?」「・・・・・・」「お前は自分の母親だけじゃなく、無関係の子どもたちの親御さんまで苦しめてるんだぞ?」「・・・・・・」「おい、聞いてるのか?どう思ってるんだ?何とか言ったらどうなんだ?」「おれには黙秘権がある。しゃべりたくないことはしゃべらない」「母親には何か言いたいことがあるだろう?」「何もない」「何もないだと?」「言いたいことはない。来たら追い返してくれ」そう言って、辻は再び黙り込んでしまった。
ツネはF署に駆けつけた。すでに周辺はマスコミでごった返していた。人ごみを掻き分けながら署内に入った。「あの、うちのユージは?ユージはどこなんです?」わらにもすがる思いで署員に尋ねたが、「お母さんですか?面会はダメですよ」「なんでユージがこんなことをしたんです?なんでです?」「今は取り調べ中です。会わせることはできません」「本当にうちのユージなんですか?別人じゃないんですか?」「お宅の電話番号を言ったんですから、別人ということはないでしょう」「お願いです!ユージに会わせてください!お願いします!」「これは規則です。会わせるわけにはいきません」と、そこに担当の捜査員が通りかかった。捜査一課の金野という刑事である。辻の取り調べに当たっていたが、まったく埒が明かず、困り果てていたところだった。「あなた、お母さんですか?」「そうです。ユージは何て言ってるんでしょうか?」「何も言いません」「ユージと会わせてください!お願いします!」金野は少し考えたが、「いいでしょう。ただし、5分だけですよ」独断で許可したのである。「いいんですか?勝手にそんなことして」「構わん。5分だけだ」
さっそくツネは辻のいる取調室へ連れて行かれた。ドアが開き、ツネが入ってきた。辻は、「もうどうにでもしてくれ」といった感じで、イスにもたれかかっていたが、ツネが入ってきたのを見て、急に態度を改めた。まさか、こんなところまで来るとは思わなかったのだろう。ツネはゆっくりと辻に歩み寄った。「ユージ、お前、なんだってこんなことを・・・」辻の顔にはまだ生々しい血痕が赤黒くこびりついている。これを見て、ツネも自分の息子のしでかしたことに疑う余地もなくなったようだ。「お前、何のためにこんなことをしたんだ」ツネの声は重々しい怒りに満ちていた。辻はニヤニヤと笑っている。「苦しめ、もっともっと苦しめばいいんだ・・・」などと思っているようだ。「お前、おかんを困らせようと思ってこんなことをしたのか?」ようやく、ツネも辻の真意を悟ったようだ。「図星だな?そうなんだろ?」辻はさも愉快そうに薄ら笑いを浮かべている。「おかんが憎たらしかったら、おかんを殺せばよかったじゃないか」辻は何も答えない。「なんでおかんを殺さなかったんだ?え?なんでだ?何がおかしいんだ?え?」ツネは怒りと悲しみを抑えきれなくなってきた。自分は息子のために精一杯のことをしてきたのだ。息子を愛することはあっても、今まで憎たらしいと思ったことはない。自分がなぜ憎まれなければならないのか。なぜこんなことをしなければならないのか。自分が憎ければ自分を殺せばいい。なぜ関係のない子どもたちを殺さなければならなかったのか。「答えろ。なんでこんなことをしたんだ。え?答えろって言ってんだよ」声が震えていた。せせら笑って何も言わない辻を見ているうちに、感情を抑えきれなくなった。
「このバカタレ!」言葉より先に手が出ていた。ツネの筋張った手が辻の頬を直撃した。辻は慌てて身構えたが、すでに遅い。容赦ないツネの鉄拳制裁が辻の頭上に降り注ぐ。「このバカ!バカ!バカ!なんでおかんを殺さなかったんだ!バカタレ!」金野は止めようとしなかった。ツネは息が切れるまで辻を打ち続けた。本当は打って打って、この手で打ち殺してしまいたかった。「このバカが・・・お前なんか産むんじゃなかった・・・なんだって、こんなことを・・・」ツネは泣きたかったが、もう涙も涸れてしまったようだ。泣きたくても心から泣けないのである。あまりにも息子が情けなかった。手塩にかけて育ててきた結果がこれなのか。「さあ、お母さん。もういいでしょう・・・」金野に抱きかかえられるようにして、ツネは取調室を後にした。辻は出て行くツネの背中に嘲笑の視線を送った。
この日の夕方までに、事件の犠牲者は8人に増えた。病院で手当てを受けていた4人が、治療の甲斐もなく、息を引き取ったのである。死亡者は次の通り。
1年松組 木内裕也 6歳 即死1年松組 瀧見勇喜 6歳 即死 1年松組 佐伯多志貢 6歳 即死1年松組 松山広信 7歳 即死1年松組 吉野冴香 6歳 2時間半後死亡1年竹組 榎本教代 7歳 3時間後死亡1年竹組 平田裕美 6歳 4時間後死亡1年竹組 伊藤有為子 6歳 8時間後死亡
さらに負傷者は15人に達した。
1年松組 黒沢伸行 6歳 全治2ヵ月1年松組 野崎元博 6歳 全治2ヵ月1年竹組 井上嘉一郎 7歳 全治3週間1年竹組 桧山陽一郎 6歳 全治3週間1年竹組 箕輪光貴 6歳 全治2週間1年竹組 阿部早紀子 7歳 全治2週間1年竹組 今井靖子 6歳 全治2週間1年竹組 大浦朝実 6歳 全治2週間1年竹組 小野あずさ 6歳 全治2週間1年竹組 北地祐美 6歳 全治2週間1年竹組 杉森玲奈 6歳 全治2週間1年竹組 田河理紗 6歳 全治2週間1年竹組 竹下順子 6歳 全治2週間1年竹組 田中愛 6歳 全治2週間1年松組担任 黒木一郎 45歳 全治2週間
男4人、女4人が死亡、児童14人と教員1人が負傷したので、全部で23人が死傷したことになる。まさに大事件であった。日本国中が衝撃を受けた事件だったが、事件のはっきりとした動機などは見えてこない。「誰でもいいからたくさん殺して死刑になりたかった」というのが辻の語った動機だが、そこまでしてやり遂げたかったものは一体何だったのだろうか。
辻裕二は1963年10月17日、愛知県名古屋市で生まれた。東京オリンピックの開かれる前年である。まさに時代は高度経済成長の真っ只中であった。辻の父親は地方公務員で、母親は専業主婦である。2つ年上の兄・裕一と4人家族だった。だが、母・ツネはなぜか長男の裕一よりも次男の裕二を溺愛した。これはなぜか?理由は出産時の違いである。裕一が安産だったのに対し、裕二は難産で、しかも生まれながらに虚弱児だった。母乳を与えても吐いてしまう。だから、ツネはわざわざ高価なアメリカ製の粉ミルクを買ってきて与えるほどだった。少しでも目を離すと喘息の発作を起こす。ゆえにツネは四六時中、辻に付きっきりだった。成長してからも、「ほら、カゼひくからちゃんと着てけ」だの、「ほら、もっともっと食べろ。これも食べろ」だのと口うるさく辻の健康管理に気遣った。夏でも薄着させず、冷たいものや辛いものもダメ。栄養のあるものをあれもこれもと食べさせた。それはいいのだが、結果として、ツネの過保護は辻から自立心を奪い取ってしまう。しかもツネは単なる過保護ではなかった。学歴社会の中で、我が子を落ちこぼれにさせまいとして、幼少の頃から猛勉強を課したのである。自分に学歴がなく、社会に出て苦労しただけに、「ユージだけは落ちこぼれにさせたくない」という思いは強烈だった。辻は小学校に入る前から、外で遊ぶ暇もないくらいに勉強ばかりさせられた。そのおかげで、小学校での辻の成績は常にトップクラスだった。しかし、勉強しかしたことのない辻は、圧倒的にコミュニケーション能力に欠けていた。同世代の子どもたちが知っていて当たり前のマンガやアニメやオモチャといったものをまったく知らないので、友達を作れず、いつも教室では孤立していた。それに運動をしたことがないので、勉強は出来ても、体育だけはいつもダメだった。当然、辻はイジメの標的となった。毎日、ツネに連れられて学校にやってくる辻に与えられたあだ名は、「デブ」あるいは、「マザコン」であった。いじめられても何ら反論できず、いつもうつむいて小声で、「なんだよ、なんだよ・・・」とつぶやくことしか出来ない辻は、いじめっ子にとっては最高の獲物だったのである。言葉によるイジメは、やがて暴力を伴ったイジメへとエスカレートしていく。動きの鈍い辻は、いつも殴られたり、蹴られたりして、いじめっ子たちのストレスのはけ口となった。やがて、ツネは辻が学校でいじめられていることを知る。ランドセルやズボンに残った足跡から、辻が日常的にイジメを受けていることは容易に察しがつく。ツネは辻を問い詰めたが、辻は頑としてイジメの事実を否定した。そんなことを言えば、余計にクラスの連中からいじめられるに違いないと思ったからである。実際、ツネが学校の担任に頼んで、辻へのイジメをやめさせようとしたが、「おい、デブ。お前、なんでママにチクってんだよ」「やい、マザコン。お前、まだママのオッパイ吸ってんだろ?」などとからかわれ、さらにイジメがひどくなるばかりであった。辻はじっとイジメに耐えた。他に対処する術を知らなかったからである。「おれがこんな目に遭うのも、みんなおかんがいけないんだ。おかんのせいでいじめられるんだ・・・」気の弱い辻は、いじめられた恨みをツネに向け、蓄積させていったのである。
辻が中学3年生のとき、ある事件が起こった。兄・裕一が電車に飛び込んで自殺したのである。遺書などはなく、自殺の原因は不明だった。しかし、辻は兄の自殺の原因がツネにあると思い込んだ。兄の命日がツネの誕生日だったからである。かねてから弟ばかりかわいがる母を裕一は憎んでいた。兄弟でどこかへ出かけたときも、「ほら、ユージ。これ食べろ。これも・・・」とか、「ほら、ユージ。お前にこれ買ってやったぞ。ほら・・・」というように、同じ兄弟でも明らかに弟とは扱いが違うのである。それを見た周囲の人間も、「裕二君ばかりじゃ裕一君がかわいそうですよ。裕一君ももっと・・・」などと忠告したが、「いいのいいの。裕一は手がかからないから。ユージと違って・・・」と答えるのが常であった。これでは裕一もたまったものではない。おまけに辻も、「おれは兄貴より劣ってるんだ。兄貴よりダメな奴なんだ・・・」と劣等感を抱くようになる。そして、兄の自殺である。辻はツネを深く憎むようになった。「兄貴はおれのことばかり構って、自分を構ってくれないおかんを恨んで自殺したんだ。だから、わざわざおかんの誕生日を選んで自殺したんだ。兄貴を殺したのはおかんなんだ・・・」
兄の死後、辻とツネの関係はさらに深まった。父・裕造は無口で陰気な男で、家庭内のことはすべてツネに任せていた。辻は裕造とほとんど会話らしい会話をしたことがなかった。兄が死んだときも無表情で何も言わなかった。「オヤジもオヤジだ。おかんに何も言えないなんて・・・」家庭内でまったく存在感を示さず、ツネの言いなりになっている裕造を見て、「おかんも悪いがオヤジも悪い」ツネだけではなく裕造に対しても憎悪を募らせ、「おれは不幸な星の下に生まれてきたんだ」と自分で自分を慰めるのが日常となっていった。
辻は二浪して、東京の大学へ進んだ。東京で一人暮らしを始めた辻は、「これでやっと、おかんの束縛から解放される」と思い、ひそかによろこんだ。ところが、ツネは毎週必ず上京してきて、あれこれ口うるさくちょっかいを出す。週末やってきて、そのまま泊り込むこともあった。辻は、「おれはどこまで行っても、おかんから自由にはなれないのか・・・」と思い、深く失望した。それだけではない。大学を出て、都内に本社のある「S商事」という中堅商社に勤めるようになると、「お前も大学出て、立派な社会人になったんだから、早いとこ結婚しろ。いい嫁さんを見つけて、早く家庭を持て」としつこく結婚を迫るようになったのである。これまでは何でも言われたとおりに従ってきた辻だが、「結婚だけは無理だ」というのが本音だった。それはなぜか?
辻が結婚できない理由は、「女が嫌い」だからである。ツネを深く憎むあまり、「女は汚らわしい」という固定観念があり、「女とは一緒になれない」のである。事実、学生時代も異性との交際経験はゼロだし、「女なんか興味もない」辻なのである。他の学生がデートだスキーだレジャーだと浮かれているとき、「そんなのやるより、ファミコンのほうがおもしろい」と言って、ピコピコ遊んでいた辻なのだ。テレビ・ゲームの中では、傷つくこともないし、自分が勝者になれる。辻が唯一、心を許せるのがこの狭い仮想空間の中だけであった。本当は、「このまま一生好きなゲームをやって、なんとなく過ごせたらいいんだけどなあ・・・」と思っていた。だが、ツネはそれを許さなかった。いつまでたっても彼女ひとつ紹介しない辻にしびれを切らし、「ほら、ユージ。見合い写真を持ってきてやったぞ。この中から好きなのを選べ。ほら・・・」などと大量の見合い写真を持ってやってきて、辻に結婚を迫るのだ。「なんだよ、いいよ、そんなの・・・」「何がいいんだ?え?どれだ?」「いいよ、そんなの・・・なんなんだよ・・・」「え?何?聞こえない。はっきり言え」ツネは耳が遠いのである。辻はうざったくて仕方なかった。「だから、いいって、そんなの・・・」「何がいいんだって?え?」「もう、なんなんだよお・・・」「え?何?お前、さっきから何言いたいんだ?え?」「もおいいよお・・・帰れよ・・・」「何が帰れだよ?え?誰のためにこんなことしてやってると思ってんだ。え?お前のためじゃないか。え?おかんがわざわざ頭下げて、いろんなとこ回って、重たい荷物しょって、東京まで来てやってんのに何だその態度は?え?お前、ふざけんじゃないぞ。自分じゃ何にもできないくせに、何が帰れだ。え?お前、自分から結婚相手見つけてきて結婚できんのか?え?できないから、こうしておかんが手回してやってるんじゃないか。え?それをなんだと思ってんだ?え?誰のためだと思ってんだ?え?」ツネの攻撃は容赦を知らない。このあと延々と説教が続くのだ。辻は本当にうざったかった。自分はただ、自由に生きたいだけである。それがなぜいけないのか?「結婚しない」という理由だけで、なぜこうも叩かれなければならないのか。「それもこれも、みんなおかんがいるからだ。おかんのせいでおれは苦しめられるんだ・・・」辻は結婚を迫られるたびに、ツネを深く深く憎悪していくようになった。いっそのこと、「おかんさえいなければ、おれは自由になれる。おかんを殺そう」と思ったことも一度や二度ではなかった。しかし、実行できない。面と向かってツネを殺すことなど、考えてみただけで怖くて震えてしまうのである。
辻はそんな自分が情けなかった。「結局、おれはどこまで行っても、おかんに頭が上がらないのか・・・」みじめだった。ますます陰気な性格になった。ツネの電話や訪問におびえながら、ファミコンにのめり込む毎日が続いた。辻は会社でも、「人付き合いが悪い」と評判だった。仕事が終わると、さっさと帰宅してしまう。買ってきた弁当を食いながら、夜更けまでファミコンで遊んでいるのだ。会社でのニックネームは、「ネクラ君」あるいは、「オタク」であった。周囲の評価は気にしない辻だったが、「結婚しろ。早くしろ」というツネの執拗な電話&訪問を無視するわけにはいかなかった。ツネはあきらめずにちょくちょくやってくる。そのたびに居留守を使うこともあったが、「ドアを開けろ!開けなきゃ窓を割るぞ!」と怒鳴られては、さすがに開けないわけにはいかない。電話だって無視していると、そのまま1時間でも2時間でもかけてくる。何の予告もなしにいきなりやってくることもある。間一髪で気付いて、慌てて押し入れに隠れたものの、一日中居座られたこともあった。身動きもできないくらい狭い押し入れの中で、辻は息を潜めながら、「ああ、なんだっておれは、こんなことをしてなきゃいけねえんだ・・・」と思い、悔しくて涙があふれた。せっかくの休日である。ツネさえ来なければ、好きなように過ごせたのだ。自分の部屋なのに、ほとんど身動きもとれず、トイレにも行けない。これなら刑務所のほうがマシだ、と思った。悪いことをして捕まったのなら、まだ我慢もできるし納得もいく。それに、刑期を終えれば自由になれるという希望もある。だが、自分は悪いことをしたわけではないし、おそらくこの先一生、こんなことが続くのだ。「こんなことが続くんだったら、死んだほうがマシだ・・・」と思った。思ってはみるが、とても自分から死ぬ勇気などない。ツネを殺すこともできないし、自殺することもできないのだ。「まったく、おれはダメな奴だ・・・」自己嫌悪感に苛まれつつも、「やっぱり、ゼルダの伝説はおもしれえ・・・」ファミコンをやっている間は何もかも忘れることができるのである。辻が人生の教訓として学んだことは、「とにかく、嫌なことからは逃げよう」であった。とりあえず逃げればいいのだ。黙ってじっと耐えていれば、「いつかは嵐も過ぎ去る」のである。だから、ツネが何か言ってきたら、「石のようになればいい」と思っていた。ファミコンさえあれば生きていけるし、まんざら人生も捨てたものではないのだ。
そんな辻の人生に大きな転機が訪れた。1997年3月、辻は9年間勤めた「S商事」をリストラされた。「明日から来なくていい」と言われたのである。会社の業績が悪化し、人減らしをするに当たって、まず選ばれたのが辻であった。大した仕事もせず、会議でも発言しない辻は、「やる気のない奴」と見なされたようだ。普通なら、「何とかして、次の仕事を見つけなければ・・・」と思い、奮闘することだろう。しかし、辻の場合は違った。「これで毎日会社に行かなくても済む」であった。もともと行きたくて行っていた職場ではない。やりたくてやっていた仕事でもない。ただ惰性でなんとなく通い、なんとなく勤めていただけである。他の社員と違って、家族を養う必要もないから、「クビになってラッキー」だと思った。「もう行きたくない会社にも行かなくて済むし、毎日ファミコンをやって遊んでいられる」と思った。自由になれたと思ったのである。「このことをおかんに黙ってさえいれば、おれは自由なんだ・・・」と思ってしまったらしい。辻は晴れ晴れとした気持ちになった。
その日から辻の「自由な生活」が始まった。もう朝起きて会社に行く必要はない。好きなときに起きて、ファミコンをして、腹が減ったら食べて、眠くなったら好きなだけ寝ればいいのである。退職金と貯金があるから、これでしばらくは暮らせると思った。蓄えが底を突いたときどうするのか。考えないことにした。いつもそうやって都合の悪いことから逃げてきた辻である。そんなことを考えるより、生まれて初めて手にした自由を精一杯謳歌したかった。好きなだけ遊んで、好きなだけ食って、好きなだけ眠る。最高の贅沢である。始めて1ヵ月もすると、「もうやめらんないな」と思った。見る見るうちに体重が増えた。近くのコンビニへ行くだけで息が切れるようになった。時々やってくるツネが、「お前、また太ったんじゃないか?」と嫌なことを聞いてくる。「お前、もう30過ぎたんだぞ。一体いつになったら結婚する気だ?え?このままじゃあ結婚できずに40過ぎて中年のオヤジになっちまうぞ。ただのデブになっちまうぞ。え?それでもいいのか?」じつに不愉快なことを平気でずけずけと言ってくる。ツネとしては、そうやってハッパをかけているつもりなのだが、「なんだよ、なんなんだよお・・・」辻にとってはウザイばかりである。「結婚しろ。早くしろ」会社という束縛からは解放されても、ツネという束縛からは解放されないのである。
同じ頃、辻はひとりの男と出会う。男の名は中三川幸也(なかみかわ・ゆきや)。1952年4月19日、栃木県真岡市生まれの一人っ子。早稲田大学英文科を中退し、学生運動で何度も捕まった経験のある左翼活動家だ。たまたま行きつけのパチンコ屋で知り合ったのが始まりである。当時、中三川は辻と同じく独身だった。「コントラ」というアングラ系の左翼雑誌の編集長を務めていた。世の中のありとあらゆるものに対して噛みつく癖のある男で、正直辻は、「かっこいい」と惚れ込んでしまった。聞いてみると、中三川の人生はまさに刺激的である。学生時代にマルクス・レーニンの本を読んで感銘し、「今こそプロレタリア革命を起こすときだ!」と息巻いて、学生運動に身を投じた。親に反対され、学費の支給を止められてしまうと、「おれは労働者とともに立ち上がるぞ!」と言って、せっかく入った早稲田を辞め、本格的な政治活動にのめり込んでしまう。「へえー、すげえな。すげえよナカミー・・・」親の言うことに逆らえず、何でも言いなりになって生きてきた辻にとって、中三川という男は、「初恋の相手」というべきほどの存在となったわけである。痩せて見栄えのしない暗い感じの男なのだが、話を聞けば聞くほど、「ナカミーってすごいな」と思ってしまう。1975年8月、中三川は成田空港の建設反対闘争に参加、千葉県三里塚で機動隊と衝突し、公務執行妨害の現行犯で逮捕されてしまう。「えっ、ナカミー警察に捕まったことあんのか?」「ああ。二度捕まったよ」「えっ、二度も?」「一回目は不起訴処分になったけど、二回目はアパートで爆弾作っててね、アウトだよ」中三川は当時住んでいた高田馬場のアパートで、運輸省の政務次官宅を狙い、爆弾テロを計画。そのための爆弾を作っていたところ、公安に踏み込まれ、あえなく御用となる。東京地裁で懲役5年の実刑判決を受け服役。服役中の77年9月、あの有名な「ダッカ事件」が起こった。9月28日、パリ発東京行きの日航機472便がインド上空で日本赤軍のメンバー5人に乗っ取られ、バングラデシュのダッカ国際空港に着陸させられた事件だ。犯人グループは乗客乗員151人を人質に、「日本国内で拘束中の日本赤軍メンバーら9人の釈放と身代金600万ドル(当時で16億円)」という要求を日本政府に突きつけた。福田首相(当時)は、「人命は地球より重い」という名言?とともに要求を受け入れ、6人の釈放犯(3人は出国を拒否)と身代金を現地へ送った。釈放犯には日本赤軍とはまったく無関係の泉水博(強盗殺人犯で無期懲役囚)も含まれていた。そして、犯人たちはアルジェリアで人質を解放、6日間に及んだ事件は終結した。この時、獄中にいた中三川は、「当然、おれも釈放される」と期待していた。中三川は日本赤軍の関係者とも親交があり、獄中で事件を知ったとき、「おれも日本を出て、アラブで革命戦士に加わり、いつの日か日本に戻って革命を起こすんだ!」と思い、興奮して寝つけなかったものだ。ところが、ハイジャック犯の出した釈放要求リストには、「中三川幸也」という名前は含まれていなかったのである。結局、中三川はそのまま日本の刑務所に取り残され、千葉刑務所で3年間服役したのだった。
「へえー、ナカミー刑務所にも入ったことあんのか」「あの事件があって、おれは国内での闘争に幻滅してね、出てから海外へ行ったんだ」刑務所を出所後、中三川はフィリピンへ飛んだ。1983年のことである。当時、フィリピンではマルコス大統領の独裁と腐敗に対する抗議運動が盛り上がっていた。中三川はルソン島でゲリラ活動を展開する「新人民軍(NPA)」という共産ゲリラに加わった。「へえー、ナカミーそんなとこまで行ったのか」「ああ、楽しかったよ。ゲリラと2年間、一緒に山で生活したんだ」中三川はフィリピンで革命が成功すれば、「ドミノ倒し的に東南アジアで革命が起こり、やがては日本にも革命が波及する」という考えを持っていた。「今思えば、甘い考えだったけど、当時は何でもファイトでやれそうな気がしてね・・・」85年8月、中三川は政府軍と交戦中に右足を負傷して捕らえられ、日本に強制送還された。その翌年、マルコス政権は軍と民衆の蜂起により崩壊。革命は成功したが、中三川の望むような革命は起こらなかった。武装闘争に限界を感じた中三川は、以後、暴力的な革命運動から身を引いたのだった。中三川の壮絶な半生の話を聞いているうちに辻は、「ナカミー、ナカミー・・・」中三川のことしか頭に思い浮かばなくなっていた。生まれて初めて恋した相手が、「中年のオッサン」だったのである。しかも独身だ。自分と同じ境遇である。いつも孤独に政治を論じている中三川を見ているうちに、「ずっとナカミーと一緒にいたい・・・」と思うようになっていった。
辻は頻繁に中三川を自宅へ招くようになった。最初のうちは、ただ酒を飲み語り合うだけだったのだが、「ナカミー・・・」そのうち辻の目つきが怪しくなってきた。中三川が酔って上機嫌で語っていると、「お、おい、なにしてんだよ?」下半身に違和感を覚えた。見ると、辻の手が股間をまさぐっているのである。「おい!どこに触ってんだよ!やめろよ!」慌てて辻の手を払いのける。「ナカミー・・・」「お、おい!よせよ!何すんだよ!」辻の重たい体が覆いかぶさってくる。熱くて臭い吐息が迫ってくる。「よせ!やめろ!やめろよ!おいっ!」中三川は窒息しそうになりながら、必死にもがいて辻を突き飛ばした。ホモっ気などない中三川はカンカンに怒っている。そのまま何も言わずに出て行く中三川を追って、「おい、待てよ!ナカミー!」後ろから辻が抱きつき、再び股間をまさぐる。「やめろ!」辻を払いのけ、中三川はすばやく走り去った。
この一件があって後、すっかり中三川は寄り付かなくなってしまった。辻と道端で出会っても、冷たく無視して通り過ぎていってしまう。辻は完全に嫌われてしまったのだが、それでも中三川をあきらめることはできなかった。
それからというもの、辻はしつこく中三川に付きまとうようになった。ストーカーである。仕事もしないし、他にやることもないのだから、余計に執念深くなる。時間もたっぷりある。朝から晩まで、辻は中三川を追い回した。中三川もそれに気付いたのか、徹底して辻を無視する。無視されればされるほど、辻も陰湿になる。無言電話をかけたり、深夜に電話をかけっ放しにしたりした。いつしか中三川への思いが、「愛着から憎悪へ」変わってしまったことに辻は気付いていない。
さらに追い討ちをかけるような出来事があった。中三川が結婚したのである。98年3月、辻がリストラされてから1年後のことであった。それまで中三川が住んでいたアパートから突然姿を消し、「ナカミーは一体どこへ行ったんだ?」不安になって、アパートの管理人を問いただしたところ、「なんでも結婚されるそうで、マンションへ移ったそうですよ」というので、辻は愕然となった。さっそく、中三川の新居を突き止めて向かってみると、確かに幸せそうな中三川の姿がある。新居には真新しい家具も運び込まれ、まだ若い中三川の妻もいた。辻はカッとなった。外で中三川を捕まえて、「ナカミー、結婚したそうじゃないか!一体どういうことだ?」問い詰めてみると、「こういうことだ」そっけない返事。「なんでおれに一言も言わずに・・・」「なんでお前に言わなきゃいけねえんだよ」嘲笑を浮かべて言う中三川に辻は怒りを抑えきれず、「チクショウ!なんでだ!なんでだナカミー!」中三川の首を絞めた。「やめろっ!」中三川は難なく払いのけ、「いいか、今後二度とおれの前に姿を見せるな。どっかに失せろ」と言い残して、去っていった。辻は怒りと悔しさで涙に満面を濡らしながら、「ナカミー・・・今に見てろよ・・・絶対このままじゃ終わらせないからな・・・」と誓った。
冷静に考えてみれば、中三川が結婚してはならない理由など存在しない。辻が結婚しないのは、「辻が女嫌いなだけ」であって、中三川がこれまで結婚しなかった理由には当てはまらないのだ。それをどう思ったのかは知らないが、「ナカミーが結婚したのは、おれを裏切ったからだ」と辻は決め付けてしまった。中三川はホモではないし、女嫌いでもない。以前から職場で付き合っていた相手がいたのだが、辻が知らなかっただけである。しかし、辻は自分に対する当てつけ、嫌がらせだと受け取った。そして、中三川を離婚させるために、ありとあらゆる嫌がらせをしてやろうと思ったのである。そうしなければ、自分がみじめでみじめで仕方なかった。いったん思いつめたら何をするか分からない男なのである。
それはもう執拗を極めた。辻としても必死である。ドアのポストに小便を流し込んだり、中三川が入浴中に外のガス栓を閉めたりした。シャワーを浴びていて、いきなり温水が冷水に変わるのだからたまらない。寝静まると、待っていたように電話がかかってくる。出てもすぐに切ってしまうので、無視していると、そのまま何時間でも鳴らし続ける。ちょうどその頃、中三川に子どもが生まれた。40を過ぎて初めてもうけた長男に中三川は「等」と名付けた。それを知った辻は狂ったようにストーカー攻撃を仕掛けてくる。中三川は、このままでは嫉妬に狂った辻が何をしでかすか分からないと思い、不安で夜も眠れなくなった。そこで辻を呼び出し、ストーカーをやめるよう警告したのだが、「おれにストーカーをやめろだってえ?おもしれえ。やめなかったらどうするって言うんだ?」「その時は警察に訴えるぞ!これは脅しじゃない!本気だ!」「へえ、警察に訴えるって?おもしれえ。やってもらおうじゃねえか。どうせおれは無職だ。家族なんて年寄りの親だけだ。今さら失うものなんて何もねえんだ。いつ死んでも惜しくねえ命だ。勝手にしろってんだ。その代わり、おれもただじゃ捕まってやんねえ。ナカミーがサツにチクったら、おれはナカミーの女房とガキをぶっ殺してやる。どうだ?そっちが本気ならこっちも本気だぜ。それでいいんだな?」「・・・・・・」失うものがないというのは強みである。辻は中三川の立場を知っていて、中三川が強気な態度に出られないと踏んでいるのだ。
ストーカーは日増しにエスカレートしていった。チャイムを鳴らすので表に出てみると、「うわっ!」思わず踏んでしまったものがある。人糞であった。辻が玄関で脱糞して、チャイムを鳴らしたのだ。「あの野郎・・・」中三川は思い切って警察に相談した。反権力の象徴である自分が、「警察力に頼るなんて嫌だ」と思っていたのだが、そうも言っていられない。それほどに辻のストーカーはひどかったのだが、「警察は民事不介入。刑事事件にならないと何もできない」の一点張りである。「他人の家の前でクソするなんて犯罪じゃないか!器物損壊で逮捕できるだろ!」と中三川は怒鳴った。自分のときは大したことでもないのに、公務執行妨害なんて大げさな罪状で現行犯逮捕したくせに、と思った。「証拠がなきゃ逮捕できませんよ。何か証拠はあるんですか?」と担当の警察官は事務的に言う。「じゃあ、ここにクソまみれのおれのサンダルを持ってくればいいのか?」「そうじゃないんですよ。本人がやったという確かな証拠じゃなきゃダメなんです」防犯カメラを設置して、辻が脱糞した現場を押さえなければ、何もできないのだという。それに、たとえ逮捕したとしても、大した罪ではないからすぐに出てきてしまう。結局、泣き寝入りするしかなかったのである。「警察の奴ら、おれが前科者だから、やる気がないんだな・・・」そう思うと、中三川は悔しかった。ようやくつかんだ人並みの幸福な家庭も、自分の前科と、辻という変質者によって破壊されてしまうのか。中三川はパンを盗んで人生を狂わされた「レ・ミゼラブル」のジャン・バルジャンを思い出した。「一度歪んだコマはどこまでも回り方がおかしいというが、一度歪んだ人生もコマと同じなんだな・・・」自嘲的にそう思った中三川だったが、ある時から急にピタリと辻のストーカーが止んだのである。
98年10月のことであった。突如、ツネが上京してきたのである。それだけなら、いつものことなので不思議でも何でもない。ところが今回は違った。いつものように大量の見合い写真を持ってきたツネは、「お前ももう今年で35だ。いい加減に結婚しないでどうする。何が何でもお前を結婚させてやっから、それまでおかんも一緒にここで暮らす」などと言い出したのである。そこにはツネの焦りと執念が感じられた。「お前だって結婚したいだろ?え?おかんがさせてやっから、好きなのを選べ。ほら・・・」そう言って、辻の目の前にドサリと見合い写真を積み重ねる。辻はうんざりしてしまった。「いいよお・・・なんなんだよお・・・ったく・・・」うつむいてブツブツ言っていると、ツネが思い出したように言った。「そうだ!お前の見合い写真、まだだったな?撮ろう!これから撮りに行こう!」「ええっ?」嫌がる辻を強引に引きずり出して、ツネは写真屋へ直行した。この時、辻は風邪を引いていたのだが、「ほらほら、善は急げだ!ユージ!」ツネはお構いなしに辻の腕をつかんで引きずっていく。鼻水は垂れるし、顔がむくんでいるのに、である。結局、出来上がった辻の見合い写真は、「とても人様には見せられない」ようなものになったのであった。
その日からツネは辻と同居することになった。おかげで辻は中三川にストーカーすることもできなくなり、「このところ、辻の野郎、来なくなったな。よかったよかった・・・」中三川の新婚生活にようやく平穏が戻ってきたのである。一方、辻はツネがいるので、「一応、会社に行ってるふりをしないと・・・」ヤバイと思い、1年半ぶりに背広を着て、ネクタイを締めようとしたのだが、「ズ、ズボンが入らねえ・・・」太りすぎてしまい、昔履いていたズボンが履けなくなっていたのだ。それだけではない。「ネ、ネクタイの締め方まで忘れちまった・・・」辻は冷や汗でびっしょりになりつつ、何とかその場をごまかそうと必死だった。「おい、ユージ。お前、また太ったんじゃないのか?え?」「そ、そんなことないよ」「見ろ、ズボンだってキツキツじゃないか。また買ってこないと。少しは痩せろ」「んだよ・・・」「おかんがいないと好きなものばっか好きなだけ食べてんだろ?だからそんなに太るんだよ」「んだよ・・・」「これだから早くいい嫁さん見っけて結婚しないとダメなんだ。分かったろ?」「・・・・・・」毎朝、ツネに小言を言われつつ家を出るのだが、「行くとこなんかない」辻なのである。ほとんど冗談みたいな自分の姿など見られたくないから、「ナカミーのとこにも行けない」と思った。毎日毎日、日が暮れるまで辻は公園で時間をつぶしたり、あてもなくうろついたりしていた。ツネにはもちろん、1年半も前に会社をリストラされたことなど話していない。もしそれがバレたら、と思うだけで目の前が暗くなるような感じがした。
「ヤバイよなあ・・・なんとかしねえとマジでヤバイなあ・・・」辻はとぼとぼ歩きながら、ツネを名古屋に追い返す方法を考えていたが、「ダメだ・・・うまい言い訳が見つかんねえ・・・」出てくるのはため息ばかりである。家に帰っても、「いつバレるか・・・」と思うと、一瞬だって心の休まる時間はなかった。そして、とうとうその時はやってきたのである。
ある日のこと。いつものように家を出た辻は、「さて、今日はどこで時間をつぶそうかな・・・」と考えつつ歩いていたが、「ユージ!どこへ行くんだ?駅はこっちだぞ!」いきなり背後からツネの声を浴びせられ、辻は飛び上がるくらい驚いた。恐る恐る振り向くと、ツネが鬼のような形相で迫ってくる。「お前、やっぱり会社に行ってないんだな!そうだろ!」この期に及んでまだ辻は言い訳できると思い、「ち、ちげえよ!行ってるよ!」と必死である。ツネはぎょろりと目玉をむいて、「じゃあこれはなんだ?これはどういうことなんだよ?」辻の鼻先に手帳を突きつけた。辻の預金通帳である。ツネは手帳をパラパラとめくって、「お前、全然会社から給料が振り込まれてないじゃないか!え?なんで振り込みがないんだよ?え?会社をサボってんのか?え?」なんとも動かしがたい証拠であった。1年半前に会社をリストラされてから、当然、給料の振り込みはない。記録されているのは、どんどん減っていく残高だけである。「え?振り込みがないってどういうことなんだよ?え?会社をクビになったのか?え?」万事休すである。もう言い逃れはできないと思った。「おかしいと思ってたんだよ。急に太ったり、ソワソワして落ち着きがなかったり。それで今日、お前が出てから後をつけてきたら案の定、このザマだ」辻はグッタリとうなだれた。「え?どうなんだよ?会社をサボってクビになったのか?え?それとも会社が振り込みを忘れてるだけなのか?え?どっちなんだ?はっきりしろ!」「・・・・・・」「え?会社が振り込みを忘れてんなら、これからおかんが行って怒鳴り込んでやるぞ。え?それでもいいのか?え?どうなんだよ?」「クビだよ・・・」「え?何?」「クビだって・・・」「え?なんだって?はっきり言え!」「クビにされたんだよお・・・」辻は泣いていた。みじめだった。通行人が何事かとのぞき込むように見ていく。悔しかったし、恥ずかしかった。「クビにされたってえ?なんでだ?いつからだ?え?なんでおかんに黙ってたんだよ?え?」辻の1年半に及んだ「自由な生活」に終止符が打たれた。ツネはわざわざ会社に電話し、辻のリストラされた事実を確認した。恥の上塗りになったわけである。
次の日から、辻の再就職活動が始まった。ツネに尻を叩かれながら、ハローワークへ行ったのである。朝からものすごい人だかりだった。戦後最悪といわれる不況の中、仕事を見つけるのは容易ではないのだろう。何日も続けて通ったが、辻を雇ってくれそうな会社はなかなか見つからない。「ったく、だからクビにされた時点でおかんに言っとけば、こんな苦労せずに済んだものを・・・」とグチるツネ。くたびれて帰ってくると、追い討ちをかけるようなツネの罵詈雑言である。辻は身も心もクタクタに疲れきってしまった。それでもハローワークへ通い続け、何とか面接までは漕ぎ着けたのだが、「辻さん、この1年半は何を?」と担当者に訊かれると、「あ、あの、あ、いや、あの、あ、はい、何も・・・」「何もしてない?」「あ、はい、あ、いや・・・」「はい、分かりました」結果は「不採用」である。他にも数社、面接へ行ったのだが、どこも結果は同じであった。「ほれ見ろ。だから言ったじゃないか。おかんに言っとけば、まだ何とかなったんだ。それを・・・」もうたくさんだと思った。辻は起き上がる気力さえ失った。「ほら、起きろ!いつまで寝てるんだ!え?行かないのか?」「んだよお・・・うるせえな・・・」「お前が働かなきゃいけないのに、なんでおかんが行かなきゃいけないんだ?え?」「もお・・・いいよお・・・」「何がいいんだ?え?お前、このまま仕事もせずに結婚もできなくていいのか?え?人生の落伍者になってもいいのか?え?どうなんだよ?」ツネは耳元で口うるさくわめきたてる。「こんなことが続くんだったら、死んだほうがマシだ・・・」何度も思ってきたことだが、やはり自分から死ぬ勇気はない。「もうダメだ・・・おれは何をやってもダメだ・・・もうどうにでもなれ・・・」辻はすっかり投げやりになってしまった。
再就職もままならず、ツネが居座るようになって、自由もない。一日中、何もせず、ただ横になってぼんやりとテレビを見ているか、居眠りをしているだけのことが多くなった。ツネは相変わらず、嫌味なことを言ってくる。「名古屋に帰れよ」と言いたかったが、言ったところで聞くわけもなかった。名古屋の実家では、老いた父・裕造がひとりで気ままに暮らしているらしい。「チクショウ・・・いつもオヤジだけ・・・」と思うと、悔しかった。ただ食って寝て、ツネの小言にうんざりするだけの毎日が続いた。99年の夏になった。体の具合がおかしい。だるくて食欲もなく、少し体を動かすだけでもおっくうなのだ。最初は単なる夏バテだと思ったが、秋になっても治らない。無理して食べると吐いてしまう。どうしようもなくだるくて、何もする気になれないのだ。「このまま死ねたら楽になれる」と思ったが、そう簡単に死なせてはくれない。「お前、病院に行ったほうがいいんじゃないか?え?このままじゃ死ぬぞ。お前に死なれたら、おかんが苦労して育てた甲斐がなくなる・・・」ツネに連れられて、ようやく病院を訪れたのが99年12月のことだった。
診断の結果は、「糖尿病」であった。それもかなり悪化しているらしい。不摂生な生活ですっかり体を壊してしまったのだ。すぐに入院が必要といわれた。冬になって風邪を引き、こじらせていた。市販の風邪薬を飲んでいたのだが、一向に回復しなかった。それもそのはず、「肝臓にうみがたまっている」というのだ。これを吸い出さないと熱が下がらないと言われた。即日入院した辻は、点滴で栄養補給を受け、体力が回復してきたところで手術を受けた。腹に管を差し込み、うみが出てくるまで安静にしていろと言われた。他にもいろいろと悪いところがあって、結局、3ヵ月も入院する羽目になった。それだけではない。糖尿病なのだから、食事制限を受けることになった。もう好きなものを好きなだけ食うことは許されない。退院後、アパートの部屋に戻った辻は、ツネの作った味気ない少ない食事を前に、「これから一生、こんなものを食わされるのか・・・」と思うと、もうつくづく生きているのが嫌になってきた。肉は一日50グラム。肉片のようだ。ご飯も茶碗に半分。薄味の野菜の煮物に果物が少々。当然、甘いお菓子などダメだ。ビールは大敵。アルコールは一切ダメ。こんな食生活がこの先何年も何十年も続くのだ。人生の楽しみがまたひとつ、失われたわけである。視力も悪くなっていたので、「テレビゲームなんかダメだ」と言われ、ツネに大切なゲームのソフトごと捨てられてしまった。あとに残されたものは、行く手に何の望みもない無味乾燥な人生だけである。「もう死にてえや・・・」と思った。「どうせ死ぬなら、何かデカイことをしてから死にたい」とも思った。
そんな中、ある事件が起こった。2000年5月3日、ゴールデンウィークの最中、佐賀県下で西鉄の高速バスが刃物を持った17歳の少年に乗っ取られたのである。乗客1人が殺害され、バスは警察のパトカーに追跡されながら、広島県内に入った。日本国中が事件の中継を見守る中、辻もテレビで事件の推移を見つめていた。乗客が殺されたと報じられると、テレビを見ていたツネは、「あんなガキ、さっさと殺しちまえばいいんだ!なんで撃ち殺さないんだ?」などと憤慨していたが、辻は別の意味で興奮していたものである。「すげえな・・・17のガキでもあんなことができるんだ・・・」事件は発生から15時間半後の4日午前5時すぎ、警官隊の強行突入で幕を閉じた。現場に閃光弾の閃光が走り、白煙の中を逃げ惑う乗客、突入する警官たち。少年は逮捕され、人質は救出されたが、事件は辻に大きな影響を与えることになる。「おれも死ぬ前に、あんなことがやってみたい・・・」と思った。社会を騒然とさせる大事件を起こして死ねれば、「もう思い残すこともない」と思った。それに、自分がそういう事件を起こせば、「おかんに恥をかかせられる。苦しませることができる」
大きな事件を起こして有名になり、「おかんに復讐できるなんて素晴らしいじゃないか」と思った。ひとり淋しく自殺したところで、「犬死になるだけだ」と思ったし、勇気を振り絞ってツネを殺したところで、「苦しみなんて一瞬で終わってしまう」と思った。自分の死を無駄にせず、なおかつ、自分を苦しめてきたツネに苦しみを与えるには、「これしかない」と思ったのだ。
辻は具体的な方法を考えた。最初は佐賀の少年と同じようにバスジャックするつもりでいた。バスを乗っ取り、乗客を人質にして立てこもる。マスコミが集まってきたところで、次々に人質を殺す。生中継の現場で人を殺すのだから、「みんなビックリするだろう」と思った。しかし、たった1人で次々に大人を殺すのは大変だと思った。抵抗されるだろうし、人質を殺し始めたら射殺されてしまうだろう。刃物程度の凶器で人を殺すのは難しいのだ。1人2人を殺したくらいでは満足できなかった。どうせやるからには、「歴史に残るような大事件」でなければ意味がない。すぐに忘れられてしまうような事件ではダメなのだ。そのためには1人で大量に人を殺さなければならない。銃器を使えば1人でも簡単に大量に殺せると思ったが、「手に入れるのが難しい・・・」のである。警察官を殺して拳銃を奪うことも考えたが、警官を殺すのは民間人を殺すのよりも難しいだろう。失敗する可能性が大きい。「もっとうまい方法はねえかな・・・」辻は来る日も来る日も考え続けた。通り魔的な犯行を考えてみた。繁華街やアーケードで次々に人を襲って殺すのだ。うまくやれば1人でも4,5人は殺せると思ったが、「少なくとも10人は殺したい」と思っていた。刃物で大人を殺すのは大変だ。火炎瓶を投げたり、車で突っ込んだりすれば、たくさん殺せるだろうが、「火炎瓶はそんなにたくさん持っていけない」のだし、「車で突っ込んでも、逃げられたらそんなに殺せない」だろうと思った。他にも電車を脱線させたり、飛行機をハイジャックして墜落させることも考えたが、「どれもこれも実行が難しい・・・」のである。走っている電車を脱線させるには、線路上にかなり重たいものを乗せなければ電車に弾き飛ばされてしまうだろうし、あまり大きすぎると気付かれて失敗する。ハイジャックは凶器の持ち込みが困難だし、1人ではパイロットに抵抗されて失敗する恐れがある。あれでもない、これでもない、と大量殺人の方法に思い悩む日々が続いた。「もっと確実に、大量に人を殺せる方法はねえもんかなあ・・・」
そんなある日のこと、辻はふと思った。「大人より子どものほうが殺しやすいんじゃないか・・・」これまで大人を殺すことばかり考えていたが、「小さなガキなら、おれ1人でもたくさん殺せる」だろうと思い、「小学校を襲って子どもを殺そう」と思ったのである。
辻は犯行に向けて準備を進めた。まず、攻撃対象となる学校だが、「大きな学校なら有名になる」ということを念頭に、F市内の学校を地図で調べた。その結果、S町の「M学園」が目に留まった。幼稚園から高校まで入っている大きな学校である。F駅でバスに乗れば7分ほどで行ける。辻は何度も下調べをした。糖尿病を患って以来、主治医から、「1日に1時間は歩くように」と指導されていたので、「散歩に行ってくる」と言って家を出れば、ツネにも怪しまれることはない。毎年11月に開かれる「学園祭」では一般開放される。辻は来客を装って校内に入り、教室の間取りをしっかりと頭に入れておいた。
2000年の暮れになった。辻の大量殺人計画は最終段階に入っていた。当初は幼稚園を襲うことを考えていた。幼稚園児ならたくさん殺せそうだし、先生も女ばかりだ。しかし、手書きの見取り図で検討した結果、「幼稚園だと、北門の守衛室に近いから、すぐに捕まってしまう危険がある」と判断し、「やはり、小学校の低学年を襲うのが一番だ」と思った。凶器については、「肉厚の大きな刃物で首を狙って切りつければ、頚動脈を切断し、出血多量で即死する」だろうと思い、事前に学園前のホームセンターを物色した。目当ての牛刀はすぐに見つかったが、「買うのは決行当日にしよう」と思った。買って自宅に隠しておけば、「いつ何時、おかんに見つかってしまうか分からない」からである。辻も慎重になっていた。ツネには大量殺人計画を、「毛筋ほどにも悟られてはならない」のである。計画が最終的にまとまると、手書きの見取り図はトイレで燃やして流した。すべては頭の中に叩き込んであった。最後に、決行の時期については、「年明け早々だと3学期で休みも多い。やるのは新学期になって落ち着いてから」と考え、「2001年の春、5月か6月に決行」と決めたのである。それまでの半年に、辻はできるだけ自由を味わっておこうと思った。
家では味気ないものばかりなので、「散歩がてらに・・・」気付かれないよう、ひそかに、ファミレスで好きなものを飲み食いした。大好物のハンバーグも食った。ずっと飲めなかったコーラも飲んだ。ただし、アルコールは気付かれてしまうので、我慢した。もっとも、ずっと飲んでいないと、「そんなにビールも飲みたいとは思わない」のだから不思議だと思った。
年が明けて2001年を迎えた。辻はとにかく体力を養うことにしていた。毎日散歩に出かけた。以前は300メートルも歩くと息切れして、汗だくになっていたのが、「今では1キロでも2キロでも歩ける」ようになっていた。自宅から犯行現場となるM学園まで歩いてみた。往復するとかなりの距離だったが、「息も切れないし、あまり汗もかかない」のがうれしかった。何気ない街の風景も心に残った。「こうして自由に歩けるのも、今のうちなんだ・・・」と思うと、残された時間を精一杯生きたいと思うようになった。今まで味わったことのない爽快な気分だった。それと比例して、「このまま生きたい・・・」という思いも強烈になっていったが、「生きてみたところで、また生きるのが嫌になってくるだけだ」とも思った。ツネは毎日のように嫌味なことを言ってくるし、名古屋に帰ってくれる見込みもない。「どうせ、生きてみたところで同じだ」と思った。それより、「命がけの復讐を果たして死ねれば本望だ」と思った。「おかんはまだ何も知らないんだ。今に見てろ。ふふふっ・・・」そう思うと、自然に笑みがこぼれた。「なんだ?何がおかしいんだ?」「別に・・・」「今、笑ってたじゃないか。え?何かあったのか?」「なんでもないよ・・・」と言いながら、辻は心の中で笑っていた。そんな辻を見ているとツネは、「やっとユージも働く気になってくれたのか・・・」と思い、うれしくなってきた。ツネはひたすら、辻が立ち直ってくれることを待ち続けていたのである。「病気をして、摂生するようになって、ユージも考えを改めたみたいだな・・・」と思った。「これなら、仕事を見つけて、働いて、結婚して、人生をやり直してくれる・・・」と期待した。「よし、そんならあたいもまだまだ死ねないぞ・・・」ツネも元気になってきた。5月、ツネは辻を連れて伊豆の温泉を旅行した。これが親子水入らずの最後の時間になることなど、ツネは夢にも思わなかった。
旅行から帰ってきて数日後、ツネは思い切って切り出した。「ユージ、そろそろ働いてみないか?」辻は食事をしていたが、ピタリと箸が止まった。「お前も体の具合が良くなってきたし、そろそろ働いてみたらどうだ?」ツネはさりげなく、お手柔らかに言ったのだが、辻の表情は浮かない。「どうだ?え?いきなり会社勤めをしろって言ってんじゃないんだ」そう言って、ツネはスーパー「M」のチラシを持ってきた。「ここの店で店員を募集してるそうだ。週に何日でもいいんだ。働かないか?」「・・・・・・」辻の返事はない。「さては、気付かれたか・・・」と思った。ツネに犯行計画を悟られたのではないか、と思った。伊豆旅行の話を持ち出されたときも、渋々ながら承知した辻だったが、「もしかしたら、おれがやろうとしていることをやらせないつもりなのか?」と勘繰った。「まさか・・・でも、旅行の話をしたり、今度は仕事の話をしたり、どうもおかしい・・・」辻は内心、焦り始めた。ツネはM小学校襲撃計画を阻止しようとしているのだ、と思った。「え?どうなんだ?お前もやる気が出てきたんだろ?え?毎日どっか行ってるじゃないか・・・」もちろん、ツネは辻の犯行計画など知らない。ただ、最近の辻の積極的な行動から、「ユージも働く気になったんだろう」と思い込んでいるに過ぎない。ツネがどう思っているのかは辻も知らない。疑心が暗鬼を呼ぶ。「毎日どっか行ってるじゃないか・・・」という言葉に引っかかった。「やっぱり、おかんはおれがMへ行ってることを知ってるんだ・・・」辻は青ざめた。リストラがバレたときも、ひそかに後をつけてきたツネのことだ。散歩に出かけた自分を尾行していたのだ、と思った。「やべえな・・・こうなったら一日でも早く、計画を実行に移さねえと・・・」だが、うかつなことはできない。ツネが外出したときでなければダメだ。1年がかりの計画なのだ。ここまで来て失敗するわけにはいかない。「焦るな、焦るな・・・」辻は自分に言い聞かせた。
しかし、その後もツネのしつこい催促は止まない。行動も監視されているようだ。何もできずに6月になった。7月に入れば夏休みだ。何が何でも6月中には計画を実行に移さなければならない、と思った。6月10日になった。この日、ツネはいつまでも動こうとしない辻にしびれを切らし、激しく辻を責め立てた。「お前、いつんなったら働くんだよ?え?いつまで待たせりゃ気が済むんだよ?え?」辻は何も言えずにうつむいている。そんな辻がツネはじれったかった。「え?先月は旅行にも行ったじゃないか!毎日どっか行ってたじゃないか!え?なんで仕事だけできないんだ?え?重労働しろって言ってんじゃないんだよ!スーパーで週何日でもいいから働けって言ってんだよ!え?そのくらいのことがなんでできないんだ?え?甘えてんのか?」ツネは理解できなかったのだ。辻がなぜ意気揚々としながら、働こうとしないのかを。
「お前、このまま何にもしないでどうするつもりだ?え?働かないのか?え?結婚もしないのか?」「・・・・・・」「スーパーで働くなんて、大したことじゃないんだ。ちょっと荷物を運んだり、片づけしたり・・・病気持ちなんだから、そんなにキツイ仕事はさせないでくれっておかんが頼んでやるから・・・」「・・・・・・」「とにかく、明日、おかんが行って聞いてみるから、働くんだぞ?え?いいな?・・・」辻は覚悟を決めた。もう明日やるしかない。ツネが出かけた隙にやるのだ。このチャンスを逃がしてはならないと思った。
そして、運命の2001年6月11日を迎えた。辻は計画通り、M小学校を襲撃し、8人を殺害して逮捕された。「少なくとも10人は殺したかったが・・・まあ、8人でもいいや。歴史に残る大事件なんだからな・・・」これでツネに対する復讐は果たせたと思った。自分のやったことで、ツネは一生、苦しみ続けることになるのだ。もう思い残すことはなかった。あとは一日でも早く死刑になって、この「復讐劇」を見事に完成させたかった。辻は起訴され、裁判を受けるにあたって精神鑑定を受けることになった。鑑定の結果、「妄想性人格障害、非社会性人格障害、情緒不安定性人格障害」と診断されたが、「死ぬのは怖くない。死刑になるのは覚悟している」と話したことから、「極めて重度の人格障害だが、責任能力は十分に問える」と判断されたのである。
2001年12月14日、東京地裁で辻の初公判が開かれた。初めて被害者の遺族の前に姿を見せた辻は、「裁判長。裁判の前に遺族の皆さんに言っときたいことがある」と言い、遺族の方を向いた。8人の子どもを惨殺した凶悪犯だが、さすがに悪いと思い、謝罪の言葉を口にするのか・・・。誰もがそう思った、次の瞬間、辻の口から信じられない言葉が飛び出した。「あー、えーと、遺族の皆さん。おれは、あんたらのガキに感謝してる。マジだよ。マジで感謝してる。だって、あいつら、おれが死ぬために死んでくれたようなもんだからな。おれは正直、死ぬのが怖い。自分で死ぬ勇気なんてないんだ。だから、あんたらのガキに死んでもらって、国に殺してもらおうってわけだ。あんたらのガキは踏み台だよ。おれが死ぬための踏み台。それだけの価値だよ。あのガキどもも、あの世で満足してると思う。おれのために役に立てて死ねたんだからな。ご苦労さん・・・」辻の暴言に、遺族たちは言葉を失い、我が子を殺された母親は卒倒した。「あの人でなしが死刑になっても満足しません。私たちの手で八つ裂きにしてやりたい・・・」公判後の記者会見で、被害者の木内裕也の父親・勝彦は声を震わせながら語った。
辻の弁護人を務めた川久保恵市弁護士は、「なぜ、あのような事件を起こしたのか、君自身の口から語ってほしい」と公判で辻に呼びかけた。それは、川久保やツネだけでなく、被害者の遺族も望んでいたことだったが、辻は何も語らなかった。出廷したツネは、「自分は無学で、社会に出て苦労しました。息子にはみじめな思いをさせたくない、ただその思いで、息子には出来る限りのことをしてきました。なんで息子がこんなことをしたのか分かりません・・・」と語り、泣き崩れた。そんなツネを冷ややかに見ながら、「ざまあみろ。もっともっと苦しめ。こんなのおれが味わってきた苦しみに比べりゃ、どうってことない」などと思っていた。みんなが怒ったり、悲しんだり、苦しんでいる様子が、たまらなく面白いのである。
一方、中三川は辻のストーカーが止んで、すっかり辻のことなど忘れていたのだが、「まさか・・・辻の野郎が・・・」2001年6月11日、テレビのニュースで事件を知って、少なからずショックを受けた。「あいつは一体、どこへ行こうとしていたのか・・・」本人は死刑を希望しているという。死ぬことが分かっていながら、「なぜ、あんなことをしたのか?」であった。考えてみたが、まったく理解できない。「奴は死にたかったのか?それとも、人生に意義を見出せなかったのか?・・・」自分の姿と重なるような気がした。「人生の意義」を求めて学生運動に飛び込み、約束された人生を棒に振ってしまった。そのことを後悔してはいない。今はこうして結婚し、愛する妻と3歳になったばかりの息子がいる。今更、この人生を捨ててまで意義を求めようとは思わなかったのだが、「おおっ!・・・」2001年9月11日、ニューヨークからさらなるショッキングな映像が飛び込んできた。ハイジャック機の突入、ビル崩壊、そしてアメリカの報復宣言。衝撃的なシーンを何度も見ているうちに、長らく忘れていた闘争心を掻き立てられた。アメリカの激しい報復感情の矛先はアフガニスタンへ向けられている。戦争は時間の問題であった。「こうしてはいられない!」中三川は奮い立った。知り合いの小島アブドゥル健太郎という男は、「アフガンへ行ってアメリカと戦いますよ。これはイスラム教徒の義務です」と言い、中三川にも、「どうです?あなたも一緒に戦いませんか?」と持ちかけてきた。小島はトルコ人の父親と日本人の母親を持つムスリムであった。都内の高校で世界史を教えていたのだが、学校のトイレでアラーへの祈りを捧げていたのを見つかって生徒にバカにされてしまい、教職を辞した。「おれは世界のムスリムと連携して戦うぞ!」そう叫んで、日本を飛び出し、ボスニアやチェチェン、アフガンでイスラム戦士として戦った。アフガンではビンラディンにも会ったし、アルカイダのキャンプで訓練も受けた。たまたま雑誌の取材で知り合ったのだが、親交を深めていくうちに、「いい奴だな・・・」と好意を寄せていたのである。小島に激励され、若き日の闘志が再び燃え上がってくるのを感じた中三川は、「よし、おれも闘うぞ!米帝の侵略に対抗し、アフガン人民と連携するぞ!」と決意し、幸せな家庭も平和な暮らしも捨てて、小島とともにアフガンへ飛んだのである。テロから10日後のことであった。「君には感謝している。息子のことをよろしく頼む。おれのことは忘れてくれ・・・」という置手紙を残し、忽然と姿を消してしまったのである。10月8日、アメリカはアフガン空爆を開始。圧倒的な軍事力に押され、イスラム原理主義のタリバン政権は崩壊。12月にはアフガン南部のカンダハール付近で小島が米軍に拘束された。小島はテロリストとして、キューバのグアンタナモ基地へ連行されたが、中三川の消息は不明のままだった。「あなた・・・一体どこへ行っちゃったの?・・・」妻・千鶴は自分と幼い息子・等を残して消えてしまった中三川の身を案じ続けた。中三川の生死はまったく分からなかった。1年たった。突然、中三川の生存情報が千鶴のもとにもたらされたのである。
2002年10月のことであった。中三川はアフガニスタンとパキスタンの国境地帯、いわゆる「トライバル・エリア」のイスラム指導者のもとにかくまわれていたところ、パキスタン軍に拘束されたのである。当初、中三川は「アリ・ハッサン」と名乗り、アラブ人を装っていた。痩せこけてヒゲは伸び放題だし、ターバンを巻いてそれらしい姿をしていたのだが、「お前、日本人だろう?」「いいや、おれはアラブ人だ」中三川は頑として認めようとしなかったが、拷問にかけられると、「お、おれは、日本人だ!アイ・アム・ジャパニーズ!」と叫んでいた。あまりにも苦しかったからである。裸にされ、電気ショックによる拷問を受けたのだ。性器にも電気を流された。パキスタンのような国では日常茶飯なのだが、日本の警察で紳士的に扱われてきた中三川などひとたまりもない。中三川はほとんど廃人のようになって、日本に帰ってきた。「お帰りなさい。あなたが生きて帰ってくることを信じていたわ・・・」千鶴にあたたかく迎えられても、うつろな目をして、黙りこくっている。1年ぶりで妻の体を求めると、中三川は泣き出してしまった。「あなた、どうしたの?」「おれは、おれは、もっと強い男だと思ってた。なのに、あんなに簡単にゲロして、生きて帰ってきた。情けない。自分が情けなくて許せないんだよお・・・」悔やんでも悔やみきれなかった。「負けた・・・おれは、自分に負けた・・・情けない・・・本当に情けない・・・」中三川は千鶴の胸の中でオイオイ泣き続けた。
2003年9月1日、東京地裁は求刑通り、辻に死刑の判決を言い渡した。関口秀見裁判長は辻の犯行を、「被告人の動機には寸毫も情状酌量の余地はない。本件は我が国の犯罪史上でも稀に見る凶悪で重大な犯罪である。真摯な謝罪や反省の態度もなく、極刑をもって臨む他はない・・・」と厳しく断罪した。辻にとっては本望だっただろう。2週間の控訴期限が迫る中、9月12日、弁護側は控訴したが、「先生、やめてくれ。おれは死にたくてやったんだ。控訴なんてバカバカしいことはやめてくれ・・・」と言い、川久保の説得にもまるで耳を貸さず、9月29日、控訴を取り下げた。これにより、辻は一審で死刑が確定したわけである。その後まもなく、辻の身柄は東京拘置所から名古屋拘置所へ移送された。名古屋は辻の故郷である。「名古屋に移されたってことは、もうすぐ死刑になるってことだろうな・・・」と思った。「早いとこ死刑にしてくれ。もうこの世に未練もない・・・」と思っていた。
2004年3月14日、川久保が面会に訪れた。「先生、何の用だね?もう裁判は終わったんだ。用なんかないだろう?」「いや、まだあるんだ。君の口からまだ聞かせてもらっていない」「謝れってか?無駄だよ。おれは謝らん。死んだって頭なんか下げてやんねえぞ」辻はせせら笑って言った。謝ったら負けだと思っていた。みんなを苦しませるのが面白くて仕方なかった。「君はお母さんが憎くてやったんだろう?違うのか?」「そうだが?それがどうしたって言うんだ?」「相手を憎むということは、それだけ相手のことを強く思うということだ。つまり君は、お母さんを憎みながら愛していたんだ。愛おしくてたまらないのだろう・・・」意外な答えだった。辻は見る見る顔色を変えた。「おれがおかんを愛しているだってえ?じょ、冗談じゃねえや!」「いや、君はお母さんを愛している。お母さんしか愛することができないんだ」
川久保が挑戦的に言った。「君は心からお母さんを愛したんだ。お母さんも君を心から愛しているんだ。私は君のお母さんにそう伝えておくよ」「ふ、ふざけるな!おれはおかんを愛しちゃいねえ!憎んでるんだ!心から憎んでるんだあ!」「憎悪は愛情の裏返しだよ。君は心の底からお母さんを愛した。これでお母さんもみんなも救われるだろうよ」川久保は勝ち誇ったように言った。辻はツネを殺したいほど愛していた。そう言ってやることで、辻の「復讐劇」を終わらせようと思ったのだ。このまま辻を死なせれば、辻を満足させてしまうことになる。それでは無残に殺された被害者が浮かばれない。辻を満足させてはならないのだ。それは弁護士である川久保の「最後の賭け」であった。そして、辻は最後の最後で負けたのである。「私は君の心中が理解できなかった。ずっと考え続けてきた。そして分かったのだよ。君は自分しか愛せない男だ。他者への共感や思いやりなど微塵もない。だが、君は愛を否定することで、自分を愛してきた。つまり、君は愛を肯定されることで、自分を愛せなくなるんだ」「・・・・・・」「君はずっと自分の存在を否定されてきた。ゆえに、この世の中で自分を愛せるのは自分しかいないと思っている。不幸な自分を愛することで、君は自己満足に酔ってきたんだ。違うか?」「だ、だから、なんだってんだ」「つまり君は、愛されていない自分を愛していたんだよ。ところが、君のお母さんは君を間違いなく愛している。君にはお母さんの愛が重すぎた。ゆえに、お母さんの愛から逃れようと自分の世界に引きこもってしまった・・・」「・・・・・・」「そこには自分に対する愛しか存在しないはずだった。ところが、君はお母さんを困らせようとして、復讐劇を計画した。構ってもらおうとして、子どもがわざといたずらをするのに似ている。結局、君はお母さんの愛から逃れられなかったのだよ・・・」辻は絶対的な自分の価値観が音を立てて崩れていくのを感じていた。「もう会うこともあるまい。君の魂が救われることを祈っているよ・・・」川久保は去った。辻は大声で怒鳴り、暴れ狂った。「チクショー!おれは誰も愛しちゃいねえぞ!みんな敵だ!みんな死ねっ!クソーッ!・・・」
2004年9月1日、ロシア・ベスラン学校占拠事件発生。チェチェン武装勢力が学校を占拠し、児童ら千人以上を人質にした事件は3日、ロシア軍の突入で人質に330人以上の犠牲を出す惨事となった。事件は世界中に衝撃を与え、日本でも大きく報じられた。法務省刑事局はひそかに死刑執行計画書を作成した。「この時期ならば、死刑を執行しても、死刑反対派の批判を抑えられる・・・」と判断し、選ばれたのが辻であった。
2004年9月14日、火曜日。名古屋拘置所で辻の死刑が執行された。刑の確定から1年足らずでの執行は極めて異例である。この日の朝、独房から出された辻は、「最期に何か言い残すことはないか?」と所長に問われると、「ない。何もない・・・」かすれた声でそう答えるのが精一杯だった。後ろ手に手錠をかけられ、目隠しをされて、首に縄を巻かれながら辻は、「川久保の野郎、余計なことを言いやがって・・・チクショウめ・・・あいつさえいなけりゃ・・・」おれの復讐は成功したのに、と思った。午前9時30分、死刑執行。40歳だった。
その日の昼前、ツネは、名古屋拘置所の所長から、電話で辻の死刑執行を知らされた。事件後、ツネは名古屋へ戻り、裕造とふたりで、人目を避けて、ひっそりと暮らしていた。「まさか・・・こんなに早く・・・」いずれは来るだろうと覚悟していたことだったが、意外に早い刑の執行にツネは驚き、落胆した。「ユージ・・・お前も、裕一も、なんでこんな早く、おかんを置いて、あの世へ逝っちまうんだ・・・」長男は自分の誕生日に自殺、そして次男は自分に恨みを残して処刑されてしまった。「もう、生きていてもしょうがない・・・あたいも死のう・・・」と思った。そこへ、知らせを受けた弁護士の川久保が東京から駆けつけてきたのである。「あれ、先生・・・」「お母さん、死んじゃいけませんよ」「でも先生、あたいはユージが生きがいだったんです。あの子に死なれたら、もう生きてても別に・・・」「お母さん、それは違う。息子さんはあなたを愛していたんです。あなたを憎みながらも愛していたんです。息子さんは死ぬまで、あなたのことを思い続けていた。あなたもそうだ。だからこそ、あなたは生きるしかないんです。生きて生きて、もっと愛される存在になるべきなんです」「先生・・・あんたは立派だよ。もっと早く、先生と出会えていたら・・・」自分も、ユージも、違う人生を歩めたかもしれないのに、と思うと、涙があふれた。
終わり

彦左衛門の切腹

彦左衛門の切腹
天保3年(1832年)の早春のことである。清水彦左衛門は江戸・桜田の彦根藩邸にいた。彦左衛門は近江・彦根35万石、井伊掃部頭(かもんのかみ)の家来である。禄高は150石で、勘定方に属していた。国許の彦根から江戸屋敷へ転勤を命ぜられたのは2年前であった。以来、妻・八重とともに藩邸の長屋で暮らしていた。夫婦にはまだ、子がなかった。
国許からは時折、手紙が送られてきた。親類や友人・知人からの便りである。その中に佐々木辰之助からの手紙もあった。辰之助は彦左衛門の幼なじみであった。国許では屋敷が隣り合っていたということもあり、父祖の代から親交が深い。辰之助も同じ勘定方に属していた。辰之助からの手紙は二通あった。一通は彦左衛門に宛てたものである。もう一通は彦左衛門の妻に宛てたものであった。彦左衛門は自分宛ての手紙を読んでみた。どうということのない内容である。次に彦左衛門は自分の妻に宛てた手紙を手に取った。自分宛てのものと比べてみると、妻に宛てたものの方が分厚い。「はて?・・・」彦左衛門は不審に思った。一体、自分の妻に何の用事なのか。彦左衛門はしばし考えた。手紙はまだ、八重の手には渡っていない。したがって、この手紙はまだ誰も読んでいないことになる。「何が書かれているのか?・・・」彦左衛門は気になって仕方なかった。少し迷った末、彦左衛門はそっと、手紙を読んでみることにした。手紙を開いてみて、彦左衛門の表情が固まった。「これは・・・」ただの手紙ではない。辰之助の字で、「今一度、会いたい」とか、「もう一度、もう一度、唇を吸わせてくれ」などと書かれてある。不義密通の動かしがたい証拠であった。さらに辰之助は、「近いうち、公用で江戸へ赴くことになった。そのときに会いたい。江戸屋敷では目立つゆえ、どこぞで落ち合いたいと思う。連絡してほしい・・・」とまで書いていた。手紙を読み終えて、彦左衛門は石のように動かない。「まさか、辰之助と八重が・・・」信じられないことであった。いや、信じたくないといった方が正しいかもしれない。これまでふたりにそのような関係があるとは、夢にも思わなかった彦左衛門である。親友と最愛の妻に裏切られたショックは計り知れなかった。八重は国許の上役、河村弥次郎の娘であった。上役に半ば押し付けられた縁談だったが、当時としては、これが当たり前なのである。彦左衛門は当然のこととして受け入れ、当然のこととして妻を愛してきた。
上役の弥次郎からは目をかけられてきた。その恩に報いなければならない。それが武士として、あるべき姿なのである。彦左衛門は八重と結婚し、彼女を幸福にさせてやることこそが、「弥次郎どのの恩義に報いることだ」と考えていた。義務感に縛られたものであったことは否めない。しかし、彦左衛門は彼なりに八重という女性を愛してきたつもりだし、「八重どのが私を望まぬ、と申されるのであれば・・・」この縁談は断るつもりでいたのである。八重は承知したし、この2年間の夫婦生活を振り返ってみても、「八重に裏切られるようなことをしていたとは・・・」微塵も考えられなかった。彦左衛門は沈思した。「どうすればよいのか?・・・」一番いいのは、彦左衛門が八重を姦婦として成敗することである。不義密通を犯した妻を殺せば、彦左衛門は罪に問われることはない。むしろ、名誉を守るために行なったものとして、彦左衛門は賞賛されることだろう。「しかし・・・」それだけでは済まされないのだ。当然、彦左衛門は取り調べを受けねばならない。そこでは八重の不倫関係の相手を追及される。辰之助と八重が不倫をしていたということが明るみに出れば、「何の関係もない辰之助の親兄弟にまで迷惑がかかる」のである。当時、不倫は死に値する重罪であった。当人が処罰されるのはやむを得ないとしても、「関係のないものにまで迷惑が及ぶ」のである。このことが公になれば、清水・佐々木の両家はもちろんのこと、「何も知らない弥次郎どのにまで迷惑をかけてしまう・・・」ことになるのだ。それだけは何としても避けたかった。だからと言って、このまま見逃しておくわけにはいかない。辰之助は公用で江戸へ来るというし、その時、八重と肉体関係を結ぶことになるだろう。藩邸では怪しまれるので、どこか外で落ち合い、互いに求め合うのだろうか。そうした秘密の関係を続けていれば、「いずれは誰かに知られてしまう・・・」と思った。どんなに包み隠そうとしても、あちこちに人の目が光っている。目付役にでも知られたら、それこそ一巻の終わりである。当人だけでなく、周りのすべてに迷惑が及ぶのだ。そうなる前に何とかしなければならない。彦左衛門は決意を固めた。
その日は非番であった。彦左衛門は大刀を片手に持って立ち上がった。八重は隣の間で針仕事をしていた。彦左衛門は音もなく襖を開けた。八重は気付かないのか、せっせと針を動かしている。彦左衛門は静かに鞘を払った。八重の白いうなじに目が留まった。「えいっ!・・・」鋭い掛け声とともに白刃が奔った。
次の瞬間、八重の首は畳に転がっていた。首の切り口から鮮血が噴き上がった。見事な腕前である。首を失った八重の体は、そのまま動かない。しばらくして、横に倒れた。彦左衛門は刀の血を八重の着物の袖で拭った。それから、問題の手紙を火鉢にくべた。紙は黄色い炎を上げて燃え上がった。彦左衛門は手紙が灰になるまで、じっと見つめていた。と、表に人の気配がした。足音が近付いてきて、無遠慮に戸が開かれた。「彦、おるか?」そう言って、顔をのぞかせたのは朋輩の伊藤甚兵衛である。甚兵衛は非番の日など、よく彦左衛門を訪ね、将棋を指したり、碁を打ったりしていく。今日もそのつもりで訪れたのだが、「あっ!・・・」室内の血も凍るような光景を目の当たりにして、「や、彦、乱心したか!」と叫んだ。彦左衛門は通常と何ら変わらない表情で、「いかにも。乱心いたした」と答えた。甚兵衛は大いに驚いて、「ひ、彦が、人を殺めたぞ!おのおの方、出会え!出会え!」叫び声を上げつつ、長屋の通りを駆けていった。
甚兵衛の通報により、彦左衛門はただちに捕らえられた。彦左衛門は抵抗することもなく、素直に両刀を差し出したので、ようやく人々の緊張も解けた。すぐに取り調べが始まった。「何ゆえ、妻を手にかけたのか?」「お答えでき申さぬ」「何ゆえか?」「申し上げることは何もござらぬ」「何と申す」「すべては、それがしの乱心によるものでござる。一言も申し開きはござらぬ」そう言って、彦左衛門は何も答えようとしない。ここで八重の不倫関係を暴露してしまえば、「皆に迷惑が及ぶ」と考えていた。絶対に真実を語ることは出来ないのである。だから、乱心による犯行ということにしておいて、切腹するつもりでいた。すべては自分の胸のうちにしまっておき、「自分のみの処罰で済めば、これに越したことはない」と思っていた。ところが、これを聞いた上役の川上和右衛門が、「彦左衛門の身柄をこちらへよこせ。それがしが直々に取り調べる」と言い出したのである。和右衛門は彦左衛門の実直な性格をよく知っており、「彦左衛門ほどの男が、乱心で妻を殺すはずがない」ということを見抜いていたのだ。目付役も処置に困ったのか、夕方になり、彦左衛門の身柄は和右衛門方へ引き渡された。和右衛門が入ってくると、彦左衛門は目を閉じて、客間に正座していた。「わしが調べる。他のものは出てゆけ」和右衛門が人払いを命じたので、部屋には彦左衛門と和右衛門だけが残された。
和右衛門は彦左衛門と向かい合って座った。彦左衛門は目を閉じたまま微動だにしない。和右衛門は彦左衛門をしばし見つめていたが、「日頃からのそこもとの所業とは思えぬ。ここにて仔細を申し述べてみよ」と言った。しかし、彦左衛門の返事はない。重苦しい沈黙が続いた。たまりかねて和右衛門が、「これ・・・」手にした扇子の先で彦左衛門の膝を打つと、「・・・・・・」彦左衛門の閉じられた瞼からツーッと涙が一筋こぼれ落ちた。和右衛門は思わず息をのんだ。やがて、彦左衛門が目を開け、静かに言った。「理由もなく妻を斬ったとあれば、切腹にも値しましょう。もとより一命は惜しみませぬが、ひとつだけ果たしておきたいことがあるのです」「それは何だ?」「訳あって、理由は申し上げられませぬが、これだけは約定できます」彦左衛門は中庭に目をやった。そこには桜の木が植えられている。枝にはまだ青いつぼみが生えたばかりだが、「あの桜が咲くまでには、必ず、当所へ立ち戻りますゆえ、ここは上役の一存で、見逃してはもらえないでしょうか?」と言ったのである。「桜が咲くまで、そこもとを見逃せと申すのか?」「御意」「ふうむ・・・」和右衛門は彦左衛門の顔を凝視した。彦左衛門の顔には誠意があふれ出ている。和右衛門は考えた。彦左衛門が苦し紛れに言い訳をしているとは思えない。彼が理由を述べず、それでも必ず戻ってくると約束して、何かを果たそうとしているのであれば、「よほど深い事情があるに違いない・・・」と思った。ややあって、和右衛門は言った。「よかろう。ただし、桜が咲くまでじゃぞ」彦左衛門は深々と一礼した。そのまま出て行こうとするのを、「待て」と制しておいて、「そのままでは怪しまれる。これを差してゆけ」彦左衛門は身に寸鉄も帯びていないのだ。和右衛門は自分の両刀を与え、「出て行くときは、これを被れ」深編笠を渡したうえ、路銀まで与えたのである。「さ、早く行けい。誰にも見つかるなよ」「かたじけない・・・では、桜が咲くまでには戻ります。御免を・・・」彦左衛門は藩邸から姿を消した。その行方は誰にも分からない。和右衛門は故意に罪人を逃がした罪に問われた。そして、自宅謹慎を命じられたのである。一応、彦左衛門を捕らえるために、数人の藩士が捜索に出た。しかし、何の手がかりもつかめないまま、戻ってきた。彦左衛門は一体、どこへ行ってしまったのだろうか。
それから十日後。彦根城下には、冬の名残りの雪が降りしきっていた。城下の北にある伊吹山も白く染まっている。佐々木辰之助は、いつものように城へ出仕した。辰之助の屋敷は城の外濠に面している。隣が彦左衛門の屋敷であった。前の日の夜から降りだしていた雪は、午後になって止んだ。
一日の仕事を終え、辰之助が城から出てくると、「・・・・・・」無言で前に立ちはだかったものがいる。面体は笠で隠していたが、「お手前は佐々木辰之助どのか?」と問われて、「いかにも。そこもとは清水彦左衛門どのだな?」辰之助は直感した。「話がある。ともに参られよ・・・」そう言って、彦左衛門は返事を待たず、先に歩き出した。辰之助も黙って後に従った。
ふたりは城下の外れの寺の境内にやってきた。この寒さだし、境内には誰もいない。「話とは何だ?」辰之助が彦左衛門の背中に浴びせるように言った。「おれは寒さが苦手だ。早くしてくれ」白い息を吐きながら辰之助が言った。彼は明らかに彦左衛門を挑発するように、「八重どのが斬られたという話は聞いている。気の毒だったな」と言って、ニヤリと笑った。彦左衛門がくるりと振り向いて叫んだ。「言うな、辰之助!未練だぞ!」「未練?おれが八重どのに未練を残していたと申すのか?」「なに?・・・」「確かに、不義密通の手紙を書いて送ったのはおれだ。だが、八重どのがおれと密通していたなどというのは、とんでもない誤解だぞ」「今更、何を言うのだ!」「いや、真実、八重どのは不義密通などしていない。おれに抱かれたことはあっても、八重どのから求められたことは一度もなかった」「・・・・・・」「八重どのは終生、貴様という男のみを愛していたのだ。それに気付かず、八重どのが不義を犯したと思い込んで手にかけた貴様の浅はかさ、八重どのは何と思っていることだろうな・・・」「では、貴様は、おれを罠にはめたというのか?卑怯だぞ!辰之助!」信じられない展開に彦左衛門は当惑の色を隠せなかった。辰之助が送った手紙は、八重との不義密通の手紙ではないというのだ。彦左衛門に、八重と密通しているように思わせ、八重を手にかけさせるための巧妙な罠であった。それを見抜けず、八重が辰之助と密通したと思い込み、確かめもせずに妻を殺してしまったのだ。彦左衛門は奈落の底に突き落とされたような気持ちになった。「だが、なぜ、なぜ、貴様は、そのようなことをしたのだ?おれに何の恨みがあるのだ?・・・」困惑する彦左衛門の表情を楽しむかのように、辰之助が言った。「おれは貴様が憎かった。幼少の頃から、おれと貴様はいつも見比べられてきた。そして常に貴様はおれを出し抜いてきた。剣術でも、学問でも、仕事でもそうだ。おれがどんなに頑張っても、貴様には勝てなかった。同じ勘定方にあっても、貴様は上役の娘を嫁にもらい、将来が約束されている。おれは何をしても、貴様に追いつき、追い越すことは出来ないのだ。貴様には、おれの気持ちなど分かるはずもない。おれが貴様をどれほど憎み、貴様のせいで苦汁をなめさせられてきたかを・・・」
辰之助は積年の恨みをぶつけるように言った。彦左衛門は思わず息をのんだ。それは今まで見たことのない辰之助の姿であった。「おれと貴様は、ただ屋敷が隣り合い、父祖の代からの付き合いということで、まるで兄弟のように比較されてきた。そして、貴様はいつもおれより上で、おれは貴様の下に甘んじていなければならなかった・・・」「辰之助、それは違う。わたしはお前を一度も見下したことなどない。いつも大切な友人として扱ってきたつもりだ」「黙れ!おれは貴様のそういう性格が嫌いなのだ!何事も割り切るところが憎いのだ!」「どういうことだ?」「男なら、いや、人間ならば、怒り、悲しみ、笑うところを、お前は澄ました顔で、受け流す。侍の道に外れまいとして、必死におのれを偽ろうとする。そういう貴様の生き方が憎いというのだ」「なんだと?」「気高くあろうとして、貴様は自分を偽り、人を欺いてきたのだ。違うか?」「おれがお前に嘘を申したというのか?」「貴様は心から八重どのを愛していたと言えるのか?」「・・・・・・」「おれが書き送った偽の密通の文を、貴様はそのまま信じて、八重どのを斬った。八重どのを愛しているならば、それがまことかどうか、確かめようとしたはずだ。貴様はおのれの体裁を気にして、八重どのを斬って捨てた。貴様の頭には、家名だの、武士の亀鑑だのという、くだらぬ見栄を張ることしかないのだ。違うか?」「・・・・・・」彦左衛門は言葉に詰まった。確かに、言われてみれば辰之助の言う通りなのだ。考えてみれば、辰之助が密通の手紙を送ったことからして怪しい。当然、彦左衛門の目につくことが分かっていて、わざと送ったとしか考えられない。そのことには全く考えも及ばず、八重を斬ったのは、彦左衛門の不覚であった。「だが、何ゆえ、お前はそのようなことをしたのだ?」「貴様を怒らせてみたかったのだ」「なに?・・・」「貴様はいつも、おれの挑戦を真に受けてこなかった。どうせ、おれが負けると思っているから、剣術の試合でも、わざと手加減して、おれに勝たせてやったりした。おれは貴様のそういうところが許せないのだ。貴様が負けても、周りはおれに勝たせてやったのだとしか思わない。そうしたときのおれのみじめな敗北感が貴様には分かるか?」「・・・・・・」彦左衛門と辰之助は、彦根城下に道場を構える小枝指(こえさし)兵庫の門人であった。ふたりとも剣術を好み、相当な腕前で、「小枝指の竜虎」などと評されたものだ。彦左衛門は辰之助を好敵手とは思っていても、見下して、優越感に浸ったことなどない。辰之助が自分を憎んでいたなどとは、夢にも思わなかったことである。「貴様が八重どのと結ばれたとき、おれは貴様を試してみようと思った」「なに?・・・」「貴様が本当に八重どのを愛しているかどうか、試してみたかったのだ・・・」辰之助は語り始めた。それは彦左衛門が八重と結婚して間もなくのことだったが・・・。彦左衛門が月に何度か宿直で留守にするのを狙って、辰之助は塀を乗り越え、八重を抱きに行ったというのだ。「八重どのはおれを拒んだ。拒まれたが、何度も行った。力ずくで犯した。八重どのは傷を隠したが、そこは夫婦の仲というものだ。八重どのを愛していれば、おのずとそのことに気付いていたはずだ。だが、貴様は何も言ってこなかった。御城で顔を合わせても、貴様は何食わぬ顔で振る舞っていた。つまり貴様は、八重どのを心から愛していなかったのだ。おのれの出世のために、八重どのをもらい受けただけだ。違うか?」そう言って、辰之助は笠の下から、燃えるような視線を射つけた。
何もかも信じられない話ばかりだった。彦左衛門は凍りついたように動けなかった。辰之助は話を続けた。「おれはそんな貴様が憎かった。貴様の目の前で八重どのを犯し、貴様がどのような顔をするのか見届けてやりたかったくらいだ・・・」「黙れ!それ以上言えば、斬る!」「望むところだ。貴様はおれを斬りに来たのだろう。おれも貴様を斬りたかったのだ」彦左衛門と辰之助は対峙した。辰之助は言った。「貴様が八重どのと江戸詰になったとき、おれは正直、ホッとした。これで貴様と顔を合わせることもないと思うと、おれも貴様への憎しみを忘れることができると思った」「・・・・・・」「なれど、貴様が江戸で愛してもいない八重どのと暮らしながら、出世していくのだと思うと、ようやく薄れかけていた貴様への憎しみが、また、ふつふつと湧き上がってきた」「・・・・・・」「おれは考えた。貴様を怒らせるには何がよいかと。偽の密通の文を送れば、貴様は必ず、八重どのを手にかけるに違いない。愛してもいない八重どのを斬るのは簡単だ。そして、おれを斬るためにやってくる。そこで、貴様にすべてを打ち明ける。貴様は怒り、絶望し、おのれのやったことでもがき苦しむことになる。ここまで、すべておれの筋書き通りだ」「・・・・・・」「彦よ、おれの苦しみが分かるか?愛する女を貴様に渡さねばならぬ、おれの苦しみを・・・」「?・・・」「おれは八重どのを愛していた。貴様との縁談がととのう前、おれは、何度も、八重どのをもらい受けたい、と自分から頭を下げに行った。だが、断られた。断られて当たり前なのだよ。同じ勘定方でも、おれと貴様では違う。貴様には才能があり、上役にもかわいがられている。おれは凡人だ。どんなに頑張ったところで、貴様には頭が上がらないのだ」「・・・・・・」「おれは涙をのんで、八重どのを貴様に渡した。貴様が八重どのを心から愛してくれればいいと願っていた。八重どののことはあきらめた。だが、貴様は八重どのを愛してはいなかったのだ・・・」「・・・・・・」「八重どのを斬った、その手で、おれを斬るがいい。貴様が愛しているのは、おのれだけなのだ」「・・・・・・」そこまで言うと、辰之助が抜刀した。彦左衛門は動かない。「どうした?なぜ抜かぬ?おれを斬れぬのか?」「・・・・・・」「貴様、いつから唖になった?おれを斬るのが、怖いか?」「・・・・・・」「おれを斬れば、このことを知っているのは、貴様だけになる。貴様の体面は保たれるのだぞ」「・・・・・・」「さあ、抜け!抜いて戦え!貴様と存分に戦って死ぬなら本望だ!」辰之助は挑発していた。彦左衛門を怒らせたくて仕方ないのだ。それが辰之助にとっての復讐なのだろう。彦左衛門は耐えた。ここで挑発に乗って刀を抜き合わせれば、辰之助を満足させてしまうことになるのだ。「どうした!早く抜け!おれが怖くて抜けぬのか?」「・・・・・・」「何という卑怯な奴だ!女は斬れても、男は斬れぬと申すか?」「・・・・・・」辰之助は苛立ってきた。「どうしても抜かぬと申すか!構わぬ!斬り捨ててくれる!・・・」たまらず辰之助が斬りかかった。辰之助の一刀をかわしておいて、彦左衛門は向き直った。
そこへ辰之助がすかさず斬り込んでくる。「ええいっ!」頬に刃風を感じつつ、彦左衛門は難なくかわした。ふたりは対峙した。「なぜ、抜かぬ?おれが怖いのか?」「・・・・・・」「おれが斬るか、貴様が斬るか・・・いずれにせよ、どちらかが死なねばならぬ」「・・・・・・」彦左衛門は石のように動かない。辰之助は片手で笠のひもを解き、笠を投げ捨てた。「さあ、彦。かかってこい。手加減は無用だぞ」彦左衛門は無言のまま、笠を脱ごうともせぬ。その態度が自分への挑戦と受け取った辰之助は、「たあっ!」掛け声とともに斬り込んだ。彦左衛門はかわしたが、笠の先を切り割られた。「ふっ・・・」辰之助が不敵な笑みを浮かべた。「斬れる・・・いや、斬る!必ず斬ってやる!」笠が視界を遮っている。このままでは斬られる、と思った彦左衛門が笠のひもに手をかけた瞬間、「うぬっ!・・・」間髪を入れず、辰之助が打ち掛かってきた。彦左衛門はとっさに大刀を抜き、辰之助の一刀を下から掬い上げるように受け止めた。刃と刃が噛み合う鋭い音が響き、青い火花が散った。辰之助の攻撃は猛烈なものとなった。息つく暇も与えぬくらいの烈しさで打ち込んでくる。「どうした!貴様からも斬り込んでこい!防ぐばかりで剣術ができるか!」刃をかわし、受け止めながら、彦左衛門は自分から斬り込もうとはせぬ。辰之助は息を弾ませ、全身が燃えるように熱してきた。激闘の末、再び対峙したとき、彦左衛門が言った。「お前に、わたしは斬れぬ」その一言が辰之助を逆上させた。「なに・・・」辰之助が目を細め、「おのれ!」殺気を迸らせて斬りかかった。その一刀をかわしつつ、彦左衛門の刃が辰之助の脇腹を存分に抉った。「うっ・・・」振り向きざまに彦左衛門は辰之助を袈裟懸けに斬った。「う・・・うぬっ・・・おのれ・・・」辰之助が白目を剥き、がっくりと膝をついた。雪の上に突っ伏し、傷口から流れ出た血が雪を赤く染めていく。「お、おのれ・・・貴様・・・」辰之助は血走った眼で彦左衛門を見上げ、最後の力を振り絞って上体を起こそうとしたが、やがて力尽き、顔を雪に埋めた。彦左衛門は血糊のついた抜き身を辰之助の着物の袖で拭い、静かに鞘に収めた。辰之助の死体は、ぴくぴくと痙攣していたが、しばらくして動かなくなった。その背中に白いものが積もり始めた。彦左衛門が笠を押し上げて空を見上げた。この雪が止めば、もう春は近い。彦左衛門は歩き出した。ふたりの決闘を目撃した者はいない。辰之助の斬殺体を残し、彦左衛門は雪の中に溶け込むように、城下から姿を消した。
それから十日後。彦左衛門が江戸の藩邸から消えて二十日が経過している。この間、彦左衛門を逃がしたとして、川上和右衛門は閉門を命ぜられ、自宅に軟禁されていた。和右衛門は、「彦左衛門は約定を違えるような男ではない。彼は必ず、桜が咲くまでに戻ってくる・・・」と信じていた。
その日。和右衛門が中庭に出てみると、桜の木が花を咲かせている。「彦左衛門は戻ったか?」と若党の松永忠七に訊いてみるが、「いえ、まだ戻ったという話は承っておりませぬ」という返事。「左様か・・・」和右衛門は自室へ戻ると、「こちらから呼ぶまで、誰も部屋に近づけるな」と命じておいた。
日が暮れた。彦左衛門はまだ戻らない。和右衛門の部屋に灯りがつかないので、「?・・・」不審に思った忠七が呼びかけてみたが、返事はない。「もしや?・・・」と思い、障子を開けてみて、忠七は言葉を失った。和右衛門は見事に切腹して果てていたのだ。血まみれの座敷にうつ伏せになって倒れている。その傍らには遺書があった。ただちに目付役の中村幸右衛門が検視した。遺書を広げてみると、そこにはこう記されてあった。「自分は彦左衛門を信じている。彼は約束を破ったのではない。必ずや、ここに戻ってくるであろう。だが、自分が生きてそれを申したのであれば、人々は、自分が命惜しさに申したと受け取るであろうゆえ、武士の意地で腹を切った次第である・・・」
その夜。和右衛門が切腹した、ほんの一刻(2時間)ばかり後・・・。彦左衛門が江戸屋敷に戻ってきたのである。役向きに名乗り出たので、彦左衛門はすぐに捕らえられた。今まで何をしていたのか、どこへ行っていたのかと訊かれても、一切答えなかったが、「そこもとを逃がしたばかりに、和右衛門どのは御生害なされたのであるぞ」と幸右衛門から知らされると、「なに、和右衛門どのが・・・」彦左衛門は顔面蒼白となった。「わたしを逃がしたために、わたしは和右衛門どのまで死なせてしまった・・・」和右衛門が最期まで自分を信じ、武士の名誉を守るために腹を切ったのだと知って、「すごい人だ・・・」彦左衛門は感動した。親友だと思っていた男に裏切られ、妻も地位も名誉も失った今の彦左衛門にとって、和右衛門の死は言い知れぬ衝撃とともに、深い感動を与えることになったのである。自分も死んで詫びなければならない、と思った。この人のためなら死んでもいい、と思った。そして、生まれ変わっても、この人に従っていきたいと思った。もう自分に失うものなどないのだ。一刻も早く死んで、和右衛門のところへ謝りに行きたいと思った。
翌日。彦左衛門は切腹を命じられた。「その方儀、乱心にて理(ことわり)なく妻を殺害せし段、不届き至極に付、切腹を申し付けるもの也・・・」幸右衛門が御沙汰書を読み上げた。彦左衛門は表向き、「頭がおかしくなって妻を殺した」ということになっている。しかし、国許の彦根では、辰之助が彦左衛門に斬り殺されている。無論、目撃者はいない。目撃者がいないから、犯人は誰で、理由は何なのかも分からない。そして、彦左衛門は妻を殺し、どこかへ逃げていた。このふたつの事件が結びつき、「辰之助と八重は不義を犯し、彦左衛門が気付いて、ふたりを斬った」という憶測にたどり着くのは、時間の問題である。だが、自分があくまでも真実を語らず、切腹してしまえば、「八重と辰之助の実家に害が及ぶことはない」と彦左衛門は考えていた。そうすることによって、「潔いことをした」と評価され、残された遺族を悪いようには扱わぬ、ということになろう。辰之助が仕組んだ復讐劇も、彦左衛門の苦悩も、闇から闇へ葬られていくのだ。
切腹の刻限までは時間があった。彦左衛門は国許の親類に宛てて遺書をしたためた。国許に残してきた老母には、「何事も運命だと思い、あきらめてください。御体に気をつけて、達者で暮らしてください」と書いた。遺書を書き終えると、それまでいろいろなことが脳裏を駆け巡っていたが、それらすべてを清算して、心静かに死ねそうな気がしてきた。体を洗い清め、用意された死装束に着替えた。彦左衛門が落ち着いた様子なので、「何か欲しいものがあれば、何なりと申しつけよ」と幸右衛門が言った。彦左衛門はしばらく考えていたが、「では、火鉢に火を多く起こしてくだされ」と言った。彦左衛門は片肌を脱いで火にあぶり始めた。さらに、「まんじゅうを所望いたす」というので、山盛りにしたまんじゅうを出したところ、ことごとく平らげてしまった。それらの行動が何を意味するのか、理解しかねた幸右衛門が、「何ゆえ、そのようになされるのか?」と訊くと、「武士たるもの、死んで、すぐに青白くなってしまうのは見苦しいかと存じ、赤くなるまで身をあぶった次第でござる。武士の心得でござるよ」と答える。また、「武士たるもの、腹を切るというのに、腹がへこんでいたのでは見苦しいと存じ、まんじゅうを食い尽くして、腹を膨らませるのも、また武士の心得なのでござる」と臆面もなく答えたので、「なるほど・・・死に臨んで、それだけの心構え、あっぱれ武士の鑑でござる」さすがに幸右衛門も感心するばかりであった。そして夕方になり、彦左衛門の切腹が行なわれることになった。
彦左衛門は従容と死の場所に赴いた。切腹の場は藩邸内の中庭に用意されていた。桜の木の下に端座した彦左衛門は、「和右衛門どの。それがし、約を違えたなれど、御身が信頼されて余りあり!」と天に向かって叫び、「これより、冥土の御供を仕る」三方に乗せられた小刀をつかみ取ると、一気に腹を七寸ばかり切り裂き、「刃の切れ味が、ことのほか、優れておる」ニコリと笑って言い、それから刀を置いて、「いざ、首を打たれよ」と介錯人の土屋孫六に声をかけた。土屋は禄高150石の剣術指南役で、直心影の皆伝だったそうな。扇腹(実際には腹を切らず、形のみの切腹)が常識だった中で、彦左衛門の切腹は、「じつに見事な切腹でござった」と、のちに土屋は語っている。
国許の彦根から、佐々木辰之助が何者かに斬殺された、という知らせが江戸に届いたのは、切腹の翌日のことである。
終わり

ガブリエルの一生

ガブリエルの一生
タナカ・ガブリエル・カズヒコが中学の頃の話。
ある日、タナカが学校の授業を終えて帰宅する途中、赤いマ○ダの軽が走ってきて、タナカの横で停まった。運転していたのは、メガネをかけた、中年のデブ男だった。「これから駅へ行きたいんだけど、どうしたらいい?」「駅ですか?この道をまっすぐに行って、右に曲がって・・・」「ちょっと分からないな。近くまで乗って教えてくれないかな」タナカは男の求めに応じた。タナカが助手席に座ると、車は走り出した。ところが、男は車をどんどん人気のない方向へ走らせていった。怖くなったタナカは男に言った。「すいません。降ろしてください」その瞬間、男の態度が豹変した。タナカはいきなり顔を殴られた。「な、なにするんですか!?」男はさらにタナカの顔を殴った。そして、こう言った。「静かにしろ。静かにしてないと、お前を殺すぞ」
男は車を人気のない空き地に停めた。そして、おびえているタナカのズボンとパンツを引きはがした。男はフェラチオを始めたのだ。しかし、タナカのそれは恐怖で勃起しなかった。すると、男は怒り、タナカの顔を拳で殴った。タナカは目がくらんだ。あたたかいものがポタポタと流れ落ちた。鼻血だった。「しょうがねえな。おい、外に出ろ」男はタナカを車から引きずり出した。車のボンネットに手をつかせておいて、アナル・セックスを始めた。男のいきり立ったそれが、タナカの肛門から直腸に押し入ってきた。「あっ、あっ、い、痛いっ・・・」「黙れ!静かにしてろ!」
タナカは痛みのあまり、思わず尻をすぼめた。「あっ、あっ・・・」男のそれが反り返った。それと一緒にタナカのそれも立ち上がった。タナカはあわてて股間を手で押さえた。男が射精した。悪夢のような時間だった。男は言った。「誰かにチクッてみろ。今度は生かして帰さねえからな」呆然としているタナカを残して、男は車で走り去っていった。タナカはトボトボと歩いて帰宅した。泣きたかった。誰かの慰めが必要だった。家には母親がいて、テレビを見ていた。「ただいま・・・」母親の信子はタナカが帰ってきても無反応だった。「ママ、ぼく、いじめられたんだ。変な男の人に・・・」すると、信子が言った。「そうね。誰だって、アンタみたいなバカを見てると、いじめたくなってくるわね」タナカは自分の部屋へ入り、ひとりで泣いた。
ホモにレイプされ、心に傷を負ったタナカは、その傷を隠して高校に進学した。誰もタナカの過去を知るものはいなかった。いや、いないはずだった。
タナカは恋をすることになった。相手はカワイイ女子高生だった。木村雪菜という。雪のように色の白い娘だった。ふたりは交際を始めた。付き合って数ヵ月もすると、タナカは雪菜と本気で将来の結婚をも考えるようになった。その位、雪菜は優しくて、明るい性格の女の子だった。
ある日、タナカは付き合って初めて、雪菜の家へ招かれることになった。タナカは雪菜の両親と会って、「雪菜さんを僕のお嫁さんにください」と打ち明けるつもりでいた。その位、タナカは雪菜を愛していたのだ。
やがて、木村邸の前に到着した。タナカは希望と期待に胸を膨らませていた。その時、ふと、気になることがあった。家の前に停められている車だ。おそらく、雪菜の親の車だろう。赤いマ○ダの軽だった。タナカは不吉な予感がした。「そんな、まさか・・・気のせいだ」タナカは勇気を振り絞って、玄関のチャイムを鳴らした。
ドアが開いた。タナカは彼女に快く迎えられた。「初めまして。タナカと申します」タナカはリビングに通され、雪菜の両親と対面した。「よく来たね。なかなかの好青年じゃないか」雪菜の父親が、いかにも人の好さそうな顔をニコニコさせて言った。タナカは一礼して、顔を上げた。その時であった。「あっ・・・」目の前にいたのは、メガネをかけた、中年のデブ男だったのだ。タナカの脳裏に数年前の忌まわしい記憶が鮮明に蘇った。「どうしたのかね?顔色が悪いようだが・・・」相手はタナカのことなど覚えていないようだった。タナカは恐怖で体が小刻みに震えだした。「す、すいません。ちょっと、トイレを・・・」逃げるようにタナカはトイレに駆け込んだ。
タナカはトイレで吐いた。「まさか・・・雪菜のお父さんが・・・そんな馬鹿な・・・」次第に落ち着いてくると、考えも変わった。「俺の勘違いだ。絶対にそうだ。そんな馬鹿なことがあるはずない・・・」タナカは気を取り直して、トイレを出た。楽しい語らいが続いた。夕食もにぎやかなものになった。タナカはすっかり自分の勘違いを恥じていた。「お父さんもいい人だ。こんないい人がレイプなんてするわけがない。ホント、俺はどうかしてたよ・・・」夜も更けて、タナカは帰ることになった。「お邪魔しました。今日は楽しかったです」その時、雪菜の父親が言った。「タナカ君、ちょっと話があるんだ。いいかな?」タナカは書斎のような部屋に連れ込まれた。暗くて陰気な部屋だった。タナカは急に怖くなった。「あの、話ってなんですか?」次の瞬間、タナカは強い衝撃を受けて倒れた。顔を殴られたのだ。「痛い・・・どうしたんですか?急に・・・」すると、雪菜の父親が、メガネの奥の目を怪しく光らせて言った。「お前、まさか、あのことをチクッっていないだろうな?」「え?・・・」タナカは全身の血が凍り付いていくような感覚にとらわれた。「すっとぼけるな!お前のカマを掘ってやったのは俺だ」「そんな・・・」「お前がノコノコと家に来やがったんで、こっちも心臓が飛び出るくらい驚いたぜ」優しい雪菜の父親が、自分をレイプしたホモの変態だったなんて・・・。タナカはこの世のものすべてが信じられなくなった。「どういうつもりだ?俺の娘をたぶらかして、俺をゆするつもりか?」「ち、違うんです。本当に知らなかったんです」「嘘をつけ。あのことを娘にチクッたのか?」「誰にも言ってません。本当です」「ふん、どうだかな。それより、二度と俺の前にあらわれるな。今後、一切、娘にも近付くな」「そんな・・・彼女は関係ないんですよ」「馬鹿野郎。お前みたいな女の腐ったナヨナヨした奴に、うちの大事な娘をやれるかってんだ。お前には俺のマラで十分だわな」そう言って、雪菜の父親はゲラゲラ笑いだした。
タナカは木村邸を後にした。雨が降ってきた。ずぶ濡れになりながら、タナカはすべてが終わったと思っていた。「もう、俺は、誰も好きにならないぞ・・・一生、ひとりぼっちで生きてやる・・・」
その後、雪菜も寄り付かなくなった。父親から何を言われたものか、道ですれ違っても、タナカには目も合わせなかった。この後、タナカは結婚まで考えた元彼女から、予想もしない仕打ちを受けることになるのだが・・・。それはまた後で述べるとしよう。
誰も愛さないことを心の中で誓い、孤独な人生をまっとうすることを覚悟したタナカは、その後、大学へ進学した。タナカは大学でコンピューター・プログラマーの資格を取り、将来は、コンピューター関連の仕事に就こうと考えていた。機械が相手の仕事なら、人と接触することも少ないし、人に傷つけられ、裏切られたりすることもない。機械は人間に従順で、決して人を傷つけたり、裏切ったりしないからだ。タナカは大学ではサークルにも入らず、誰とも親しく付き合わなかった。彼女もいなければ、友達らしい友達もいなかった。孤独ではあったが、誰からも傷つけられることはないし、裏切られることもない。タナカは大学生活に満足していた。
そんなある日のこと、タナカはインターネットの掲示板で、自殺をほのめかしている少女と出会った。少女は、「アホ」というハンドル・ネームで、次のような書き込みをしていた。「私は17歳の高校生です。学校には行ってません。いじめられるからです。今は引きこもりです。私、死にたいんだけど、苦しんで死ぬのは嫌だな。道を歩いていて、変な人にいきなりナイフでグサッとやられて即死ってなら良いと思う・・・」タナカはこの「アホ」という少女に興味を持った。
タナカはアホに対して、次のような返事を送った。「僕も君と同じだ。死にたいと思ったことは何度もある。だが、今はこうして生きている。生きていても別に良かったとは思わないけど、死んでいても同じだったと思う。生きていれば、それなりに良いこともあるだろうし、人間、黙っていてもいずれは死ぬんだから、そう死に急ぐこともないと思うけどね・・・」しばらくして、アホから返事が来た。「ありがとう。そうだね。もうちょっと頑張ってみる」タナカはアホが自殺を思いとどまり、前向きに生きてくれることを願った。
それからもたびたび、タナカとアホのやり取りは続いた。タナカは誰にも打ち明けなかった自分の過去をアホに打ち明け、こんな自分でも生きているのだから、自殺などは考えない方がいい、とアホを励ました。アホは次第に生きる力を取り戻していった。タナカは自分の言葉で、アホを死の淵から救ったのだと思うと、自分に初めて自信が持てたような気がした。
タナカとアホのネット上での交際は数ヵ月続いた。アホは徐々に心を開くようになり、タナカに近況や悩み事を打ち明け、タナカもそれに対して、アドバイスをするようになっていた。そんなことが続いたのち、アホの方からタナカに会いたいと切り出してきた。タナカは返事に困った。「アホと会うべきか?アホと会ったことで、また、裏切られるようなことになりはしないだろうか?」
タナカは数日悩んだ。最初は人に傷つけられ、裏切られることを恐れていたが、アホとのやり取りで、だいぶ自信もつけていただけに、一度、アホと会ってみようという気になった。
数日後、タナカはアホと落ち合う約束をし、約束の場所に赴いた。「タナカさんですね?」アホの方から声をかけられた。相手は思っていたよりも美人だった。色白で、どこか幸薄そうな感じだが、清楚な美人であることに違いはない。タナカは一安心した。アホは松尾礼子という本名を名乗った。実際に会って話をしてみると、礼子は、それほど人生を悲観しているようには見えなかった。タナカは礼子と再会を約束し、その後も交際は続いた。
そんな中、礼子からメールが届いた。内容は、次のようなものだった。「両親が自分を精神病院に入れようとしている。自分は病気ではない。しかし、両親は自分を完全に異常者扱いしている。このままでは病院に入れられてしまう。助けて欲しい」タナカは面倒なことになったと思った。だが、一応、命を助けてやったわけだから、ここで礼子を放り捨てることはできないと思った。タナカは一度、礼子の両親と会おうと思った。
タナカは松尾家へ赴いた。礼子の両親を説得しようとしたが、両親の返事はこういうものだった。「あの子はうちの大事な一人娘だ。あなたは赤の他人。家のことには口を出さないでほしい」そう言われては、タナカも引き下がるしかなかった。礼子は家を出たいので、自分を連れていってほしいと言った。しかし、タナカは拒否した。これ以上、面倒なことに巻き込まれるのは嫌だったし、何よりも、自分は孤独に生きると決めていたからだ。
タナカはトラウマを引きずったままだった。人に傷つけられ、裏切られることを恐れるあまり、どうしても自己保身に傾いてしまうのだった。タナカは礼子を助けたことを後悔した。「俺は、こういう人間だから、君を助けることはできない。たとえ、君と一緒になったとしても、俺は不器用だから、君を幸せにすることはできない。だから、俺のことは忘れてくれ」残酷だとは思ったが、タナカは、礼子との縁を切ることにした。
その後、礼子からの連絡は途絶えた。精神病院に入れられたとの噂は聞いていた。しかし、それほど重症だとは思いもしなかった。実際、礼子はタナカの説得で、一度は自殺をあきらめたのだ。
数ヵ月後、タナカは気になって、松尾家を訪ねてみた。あれから何の音沙汰もなかったからである。自宅には、礼子の両親がいた。暗く、沈んだ表情だった。「礼子は死にましたよ」「死んだ?」「病院で自殺未遂をやらかしたんです。個室に閉じ込めておいたら、今度は看護婦が目を離したすきに、ソックスで首を吊ったんです」「まさか・・・」タナカは我が耳を疑った。しかし、礼子の遺影と位牌を目にして、それが紛れもない真実だと知った。
タナカは自責の念に苛まれた。あの時、あんな冷たい言葉を吐かなければ、礼子は自殺しなかったかも知れない。いや、そもそも、自分が礼子に救いの手を差し伸べさえしなければ、こんなことにはならなかったのだ。
結局、タナカは人に傷つけられ、裏切られることを恐れたあまり、今度は逆に、人を傷つけ、裏切ることになってしまった。タナカは思った。「俺は一生、誰からも愛されない、誰も愛しちゃいけない存在なんだ」一生、誰とも付き合わない。そう心に刻みつけたのである。
タナカの父親の実家は千葉県の北部にある。タナカ家は数代にわたる悲惨な歴史を背負ってきた。
江戸時代中期の天明年間、その地方で百姓一揆があった。天明年間というと、浅間山が噴火し、全国で大飢饉が起こり、数百万人が餓死した時代だ。領主・松尾肥前守は江戸の旗本である。現在の千葉県北部に3千石の領地を持っていた。江戸時代もこの頃になると、物価が上がり、武士の生活も困窮を極めている。松尾家も例外ではなく、領地の農民に課す年貢だけが唯一の財源だ。飢饉であろうが何であろうが、年貢を取り立てるしかないのが実情だった。そして、松尾家は数年にわたる凶作に苦しむ領内の農民に対し、「再来年の分まで年貢を納めよ」と無茶な要求を押し付けたのである。これは松尾家の家老・平山外記が領主と相談して出した結論であった。それほどまでに松尾家の財政は逼迫していたのだ。これでは領民もたまったものではない。すぐに領内の名主たちが集まって緊急会議を行なった結果、「これは領主に訴え出て撤回させるしかない」ということになった。まず、名主たちは役所へ赴き、平身低頭して年貢の減免を訴えたが、「百姓の分際にて、お上に楯突くとは不届き千万」と罵られ、門前払いを喰ってしまった。「かくなるうえは、江戸表に直訴するより他はない」ということになり、代表者8名が江戸へ出て、領主に直接、訴えることになった。選ばれたのは、四郎兵衛、太兵衛、伝助、五平、七郎左衛門、九兵衛、五郎太、仁兵衛の8名。彼らはひそかに村を出て、江戸へ向かった。捕まえれば死罪も覚悟だから、命がけの直訴である。
天明5年(1785年)の暮れ。江戸入りした8名は、日本橋の馬喰町に宿を取り、直訴の計画を練った。万一、直訴が失敗した場合に備え、4名が残ることになった。松尾家の屋敷に訴え出た場合、松尾家が代表者をひそかに抹殺してしまうことも考えられる。そこでまず4名が訴えて失敗したら、残る4名が幕府の老中か将軍に直接、訴えることにしたのである。将軍や老中の耳に入れば、松尾家も黙っているわけにはいかない。必ずや農民たちの必死の要求が受け入れられることだろう。
ところが、直訴決行の前夜になって、脱落者が出た。伝助がただひとり、宿を出て、そのまま本所の松尾屋敷へ駆け込んだのである。「申し上げます。四郎兵衛ら7名が直訴を企てております」「なに?」「直訴が失敗した場合、将軍様かご老中へ直訴する手はずにて・・・」伝助は勝ち目のない闘いだと見切りをつけたのだろうか。なまじ命を捨てるよりも、領主側に寝返って、うまく立ち回ろうと考えたものか。それはともかく、伝助の密告により、四郎兵衛たち7名は、その夜のうちに捕らえられた。7名は松尾屋敷へ連行され、ろくな取り調べも裁判もないまま、首を斬られてしまった。
7名の名主の家は断絶となった。7名の親子親類まで残らず首をはねられ、彼らの土地は伝助のものになった。言うまでもなく、密告に対する報酬として与えられたものである。村人たちは7名の義民を讃え、ひそかに義民塚をつくって供養することを忘れなかった。一方、村の大地主となった伝助は「田中」の姓を与えられた。これがタナカ家の祖先となったわけである。しかし、義民たちの祟りなのか、伝助はその後まもなく、発狂して死んでしまったという。
その後、タナカ家は多くの土地を持つ豊かな地主として知られたが、明治時代になり、タナカ家の当主・五郎兵衛が散財のかぎりを尽くし、一家は破産した。
五郎兵衛はカツオの塩辛が大好物の大酒のみで、千葉、埼玉、東京、神奈川などの賭場を荒らしまわり、「田中五郎兵衛」という名前は関東一円の渡世人の間で知らないものはいないくらいに広まった。官憲に追われる身となったが、久々に実家に戻ってきて、風呂に入っていたところ、数名の討っ手に襲われた。「五郎兵衛!てめえ、よくも伊右衛門親分がかわいがってた源八を殺しやがったな!」「覚悟しろ!死ねっ!」五郎兵衛は湯舟から飛び出したが、あいにく、得物がない。それでも素っ裸で立ち向かい、討っ手のひとりから刀を奪い、額を割った。「この野郎!」「ぎゃあああっ!」「畜生!死にやがれ!」五郎兵衛の裸体に右と左から一斉に刀が突き込まれた。五郎兵衛のすさまじい悲鳴が上がった。それでもなかなか死ななかったので、刺客たちはよってたかって斬りつけ、ようやく死んだことを確かめた。
刺客を差し向けたのは、宇都宮の賭場で五郎兵衛が刃傷沙汰を起こした際、弟分を殺された土地の親分で、小栗伊右衛門という侠客だという。五郎兵衛には正妻の「きね」に生ませた子が5人いた。長男の九左衛門は、父の死後、冷酷な金貸しとして恐れられる存在となった。九左衛門は、なりふり構わぬ取り立てで他人の田畑を手に入れ、再び、タナカ家は地元でも裕福な名士となった。
だが、それも太平洋戦争までだった。戦後、GHQの農地解放政策で、タナカ家は土地を失ってしまった。一夜にして、地主から、「ただの田舎者」に成り下がってしまったのである。
タナカ家の次男・和男は小学校を出るとすぐ、働きに出された。和男は働いて稼ぎ、いつの日か、「土地を取り戻して、昔のタナカ家に戻る」ことを夢見ていた。和男は東京に出て、あらゆる職場で一生懸命に働いた。
時代は高度成長期。働けば働くほど稼げた時代だった。どこの職場でも人手が不足していた。和男はよりよい職場を求めて渡り歩き、寝る間も惜しんで働きぬいた。
やがて、和男は三菱重工の子会社に雇われることになった。日本中が東京オリンピックに湧いていた。仕事はいくらでもあった。和男は方々の建設現場で額に汗して働いた。すべては、「昔のタナカ家に戻る」という目標のためだった。
和男は結婚した。だが、相変わらず仕事は忙しく、家庭を顧みる余裕などなかった。和男は身を粉にして働いた。せっせと実家に仕送りをし、タナカ家は再び、地元でも裕福な農家のひとつになった。
1974年8月30日、和男は丸の内の三菱重工本社ビルにいた。何の前触れもなくそれは起こった。爆弾テロである。「東アジア反日武装戦線」を名乗る極左テロ集団の犯行だった。死者8人、重軽傷者376人を出したこの事件で、和男は片耳の聴力のほとんどを失った。
事件後、和男は退職した。再びテロに遭うかも知れないという恐怖と、大企業に使い捨てられることの虚しさが和男を襲った。和男は運送業を始めた。
商売は順調に軌道に乗った。その頃、世界は大きく動き出していた。ベトナムではアメリカが負け、カンボジアでも革命政権が誕生した。ポル・ポト(本名サロト・サル)率いるクメール・ルージュ(赤いクメール)は75年4月、首都プノンペンを制圧。親米派のロン・ノル政権を倒すと、ただちに世界でも例のない共産主義革命を実行に移した。プノンペンの全住民は農村へ強制疎開を命じられ、町から人の姿が消えた。彼らを待っていたのは農村での終わりなき強制労働であった。ポル・ポト政権は通貨制度を廃止し、全国民に農業で生きていくことを強制したのである。反抗するものは情け容赦なく殺された。知識人というだけで敵とみなされ、根こそぎ殺されていった。彼らの死体は畑の肥料として埋められた。カンボジア国民は「サハコー」と呼ばれる強制収容所に押し込まれ、一切の人権もプライバシーも許されない、徹底的な監視社会の中で、恐怖と飢えと重労働に耐えていくしかなかったのである。
同じ頃、和男は「チェン」というカンボジアの留学生を雇った。チェンはカンボジアのために勉強したいと語っていた。和男はチェンのよき理解者であった。
ある日、チェンはカンボジアに帰国することになった。ポル・ポト政権が海外にいる留学生に、「国のために協力を」と呼び掛けたのである。
和男は羽田空港までチェンを見送った。チェンの表情は心なしか暗かった。チェンはカンボジアに帰れば殺されるだろう、と言った。本国の共産政権は知識人を粛清している。帰れば自分も「階級の敵」とみなされ、処刑されるだろう、と。和男は笑った。「国に帰ったら、手紙を送ってくれ」
チェンが帰国して数年が過ぎた。チェンからの便りはなかった。79年1月、ベトナム軍の侵攻でポル・ポトは政権を追われた。そして、カンボジアの地獄が明るみに出た。和男は青くなった。
20年後。1999年の春、和男はタイとカンボジアを旅行した。カンボジアでは世界的な仏教遺跡、アンコール・ワットを見物した。プノンペンにあったトゥールスレン強制収容所も見学した。ここでは毎日、反革命派とみなされた人々が処刑されていたという。敷地内には名もない犠牲者の人骨が山のように積まれていた。収容所の壁には犠牲者の無数の顔写真が貼られていた。和男は目を凝らしてチェンの写真がないか探した。和男はチェンと撮った一枚の写真を持参していた。その写真を行く先々で見せては、チェンの消息をたどろうとした。しかし、何の手がかりも得られなかった。
カンボジアでは国民の6人に1人が殺されたという。チェンもほぼ間違いなく殺されただろう。20年の歳月を経て、和男はチェンの生存をあきらめる気になった。「あの時、無理にでもチェンを引き留めておけば・・・」チェンは助かったのだと思うと、自責の念は膨らむばかりだった。チェンは自分に恨みを残して死んだのだろうか。今となっては、それすらも知る由はない。
和男の体は病魔に蝕まれていた。風邪でもないのに咳が止まらない。診断の結果、肺気腫と分かった。若い頃、職場でマスクも付けず、アスベストを扱っていたことを思い出した。和男は苦しい治療を続けた。この苦しみも、チェンが受けた苦しみに比べれば大したことはない、と思うことにした。「おれが病気で苦しむのも、すべては報いだ。先祖のしたことと、おれのしたことが報いとなって返ってきたのだ。だから、悪いことはできないんだよ」と息子や社員を諭すのが、和男の日課のようになっていった。
タナカの母親の実家は岩手県である。タナカの母方の姓は「太田」という。そして、このオオタ家もタナカ家同様、悲惨な歴史を背負ってきた。
江戸時代初期の寛文年間、太田作右衛門は岩手藩・南部家の上級藩士であった。作右衛門の娘「はつ」は藩中随一の美女といわれ、「南部小町」の名で知られていた。悲劇はここから始まったのである。
寛文4年(1664年)の早春。作右衛門に藩主の南部重直から命令が下された。「娘を側妾にほしい」というのだ。作右衛門は苦慮した。この時、すでにはつには婚約者がいたのである。だが、主君の命令となれば、これを拒否するわけにはいかない。作右衛門は娘の婚約者の山根千代之助を説得し、さらにははつも説得した。はつも渋々ながら、これを承諾した。ところが、明日には城へ上り、主君のものになるという夜、はつは自害してしまった。懐剣で乳房の下を突いたのだ。婚約者である山根千代之助への貞操を貫いたのである。
作右衛門は主君に申し訳が立たないとして、屋敷で切腹して果てた。これで、太田家は主君に忠誠を尽くしたことになる。いや、なるはずだった。
作右衛門の息子・庄四郎は家督相続を願い出た。だが、重直は許さなかった。重直は日頃から悪評が絶えず、気性が激しく、短気で、独裁者であった。それを諫めるものがいても、逆にその家来の家禄を没収するという横暴ぶり。歴史書にも、「無法非儀の御方」と記されている。はつを我がものにできなかった怒りと悔しさを、ここぞとばかりに太田家にぶつけたのである。
太田一族はこれに抗議し、屋敷に籠城した。家を継ぐことが許されないのであれば、屋敷を枕に討ち死にする覚悟であった。まだ戦国時代の荒々しい気風が残っていた時代である。たとえ主君といえども、この非道に黙っているわけにはいかない。むしろ主君と戦って死ぬくらいの意地がなければ、「何のために武士は刀を差しておるのだ、と笑いものになりましょう」と庄四郎は若いに似合わず、説得しようとする藩士に言い放った。時に庄四郎は18歳である。
数日後、太田家の門を叩くものがあった。「上意であるぞ。庄四郎、門を開けよ」との声。庄四郎は重直が跡目相続を許したものと思い、門を開いた。が、飛び込んできたのは朗報ではなく、重直が放った上意討ちの討っ手だった。「上意である。覚悟せよ」庄四郎は抜刀して、果敢に立ち向かった。叔父の利兵衛や弟の虎次郎も槍や刀を手に応戦する。すさまじい斬りあいの音と男たちの怒号、女たちの悲鳴が沸きあがった。庄四郎が討っ手のひとりを斬り倒した。頭を割られた敵が悲鳴を上げて庭に転げ落ちる。庭の雪がたちまち血で赤く染まった。激しい戦闘は夜明けまで続いた。庄四郎以下、男たちは全員討たれ、女子どもも一人残らず斬殺された。「ひとり残らず斬って捨てよ」という重直の厳命である。こうして、太田家は無残にも一家全滅させられた。生き残った親類も城下から追放された。太田家の悲劇は歴史の闇に葬られたのである。
寛文4年(1664年)9月、南部藩28代藩主・南部重直が病死。重直には子がいなかった。藩主が跡継ぎのないまま死んだ場合、家名断絶・領地没収が当時の慣例である。ここに至って南部藩は存亡の危機に直面した。
同年12月。重直の弟・重信と親類の中里家の当主・直房に対し、幕府は本来なら領地没収となるところ、岩手藩10万石を8万石に減らし、重信に家督相続を認め、直房には2万石を与えて新たに創設した八戸藩の藩主になることを命じた。
しかし、不幸は続く。寛文6年(1666年)5月26日、初めて自分の領地に入った八戸藩主・直房は、わずか2年後の寛文8年6月、家来によって暗殺されてしまった。
ふたりの藩主の相次ぐ死。人々は、「太田一族の祟りだ」と恐れ、この悲劇を長く語り継いだという。 その後、太田家の末裔は岩手の寒村に細々と暮らしていた。生活は苦しく、北海道へ出稼ぎなどをしていた。第二次大戦前、仕事を求めて中国大陸へ移住。満州で苦労の末、かなりの土地と財産を手にした。が、終戦直前のソ連軍の侵攻で命からがら逃げ出す。その途中でソ連兵に強姦されたのがタナカの母方の祖母・キヨである。
キヨは身ごもってしまった。夫の安次郎はソ連兵に捕まり、シベリアへ送られてしまった。厳しい労働と飢えと寒さで、安次郎は2年後に死んだ。日本に帰国したキヨは、直後に子を産んだ。タナカの母・信子である。ロシア人とのハーフである信子は美しい娘に成長した。そして、この美しさがまた、悲劇の始まりとなった。
高校を卒業後、信子は東京へ出てモデルになろうと決心した。ハーフとしていじめられて育った少女時代、信子は何とかこの逆境から抜け出そうともがいていた。モデルになって自分を蔑んできた連中を見返してやろうと思った。
信子は東京でモデルの勉強を始めた。トップになろうとするあまり、周囲とはいざこざが絶えなかった。チャンスをつかむために何でもした。妻子持ちの男や米軍の軍人と寝たこともあった。
だが、信子のなりふり構わぬやり方は、同僚の深い憎しみを買った。あるショーの最中、信子は舞台裏で何者かに塩酸をかけられた。酸は信子の顔を焼き、醜い痕を残した。信子はモデルの道を断念した。
その後、信子は保険会社に就職したが、顔半分に残る火傷の痕は信子から、ことごとくチャンスを奪っていった。見合いも何度もしたが、すべて相手から断ってきた。信子が田中和男と結婚したのは、高校の同級生のほとんどが結婚した後のことだった。
結婚後、信子は子をもうけ家庭を築いた。血を吐くような努力の結果が、こんな平凡すぎる家庭の主婦だったのかと思うと、信子は運命を呪い、怪しげな宗教に傾き、精神を病んでいった。
1980年、タナカはタナカ家の長男として東京郊外の小金井市に生まれた。父・和男は運送業の仕事が忙しく、母・信子はその頃、精神的に不安定でキリスト教を妄信していた。和男は普通の病院で生むことを望んだが、信子は小金井市のキリスト系の病院で生んだ。生後まもなく、タナカは洗礼を受けたので、タナカは「ガブリエル」という洗礼名を持っている。
タナカは6歳まで東京の武蔵野で暮らした。両親は喧嘩が絶えず、和男は家のことを信子に一任していた。信子はノイローゼ気味でタナカを折檻した。タナカはよくおねしょをしたので、信子はタナカのペニスを糸で縛ってしまった。タナカが指しゃぶりを止めないので、両手を縛ってしまうこともあった。信子は厳格なルター派教徒だったため、「性は汚れたもの」と教え込み、異性との接触を禁じた。タナカは誰とも遊ばない、内気で大人しい子になった。
タナカが幼稚園のとき、一家を立て続けに悲劇が襲った。和男が仕事中、フォークリフトに足を踏み潰されて重傷を負った。和男が入院したため、信子は育児と仕事の両面に追われた。さらにキヨが死んだ。直腸ガンである。信子はキヨの仏壇を家にもうけることに反対だったが、和男は、「死んだ人は供養した方がいい」と言って家に仏壇を置いた。そのロウソクの火が倒れて燃え移り、自宅は全焼してしまった。その上、従業員が居眠り運転で大事故をやらかした。タナカ家は一気に膨大な借金を背負い込み、和男はやむなく店をたたんだ。
信子は離婚を申し出た。和男は何とかやり直したいと思っていたので承知しなかった。信子はタナカを引き取りたいと言った。和男は精神を病んでいる信子にタナカを預けるのは不適だと思い、タナカを連れて千葉の実家へ戻った。
タナカは地元の小学校に入学した。タナカはすぐにイジメの標的に選ばれた。学校の近くに印旛沼という大きな沼があった。そこから流れる川は子どもたちの遊び場だった。ある時、タナカは同級生と川に遊びに行った。川には古いコンクリートの橋がかかっていた。子どもたちはここから数メートル下の川へ飛び込んだ。これができて初めて「一人前」と認められるのである。タナカは足がすくんだ。「早くやれよ!」背中を押されてタナカは頭からダイブした。川面に勢いよく叩きつけられ、タナカは意識を失った。気がついたとき、タナカは鼻血を流して川岸に横たわっていた。
和男は実家の農業の手伝いをしながら、「会社再建」を夢見ていた。再建には資金がいる。その資金を兄・昭男から借りようと何度も頭を下げた。しかし、昭男は承知しない。和男はつい感情的になって言った。「兄貴、東京に出て苦労して、田中の家をここまでにしたのは、おれなんだぜ。兄貴が困ったときには、いくらでも力を貸してきた。もちろん、金も貸した。そのおれが困っていて、兄貴は楽々と暮らしているのに、実の弟にはビタ一文貸せないってのか?そいつはあんまり冷たすぎるぜ」すると、昭男が忌々しげに言った。「お前が戻ってきて、近所の連中は何と思ってるか分かるか?あの成り上がり野郎が落ちぶれて戻ってきやがった、ざまあみろと思ってるんだ。お前は田中家の恥さらしだよ。とっとと荷物をまとめて出ていってくれ」「・・・・・・」和男は悔しかったが、ぐっと怒りをこらえた。それでも悔しくて、夜になると便所の中で、声を殺して泣いた。
世間の目は冷たかった。成り上がりの成り下がりほどみじめなものはない。タナカにはひとりも友だちがいなかった。親たちが、「あそこの子とは遊んじゃいけない」と言っていたのだ。タナカは本を読み、ひとりで過ごした。千葉の夏は暑く、いつまでも続いた。タナカは田んぼの先に広がる新興住宅地を眺めながら、「早く東京へ帰りたいな・・・」と思っていた。そして夜になると、和男と同じように、布団の中で声を殺して泣いた。
小学5年生のとき、タナカは和男とともに北海道へ移住した。札幌に宮本信夫という和男の恩人がいた。宮本は和男がかつて勤めていた三菱重工の子会社の上司である。退職後、宮本は実家の運送業を手伝っていた。そこへ和男はタナカを連れて、「何とか金を貸してくれないか」と頼みに行ったのである。宮本はすぐには返事をせず、「しばらくここで働いてみたらどうだ?」と言ってきた。「息子さんもまだ小さいことだし、母親がいないというのは不憫だ。うちには娘がいるから、何かと面倒を見てやれるだろう。それに私も妻に先立たれて、最近はいささか淋しい思いをしていてね・・・」「えっ、それじゃあ、お宅にお邪魔しても構わないんですか?」「ああ。いつまでいてくれても構わんよ」
こうして、和男とタナカは宮本家に居候することになった。宮本の長女はすでに結婚していた。当時、高校を出たばかりの次女・宏美がひとり家にいて、「お母さん代わりになるかどうか分からないけど、何でも遠慮せずに言ってね」タナカの面倒をよく見てくれた。タナカもつい、「今日は湯豆腐が食べたいな」などと甘えてしまう。和男は昼間は営業所へ出向いて、配車などの事務の仕事を任されていた。ずっと現場で培ってきたノウハウがあるのだから、お手のものだ。北海道の冬は厳しく長い。タナカはひとりで雪だるまを作りながら和男の帰りを待った。誰もいない夜道でひとり雪を転がしながら、「いつになったら東京へ帰れるのかな・・・」いつも思うのはそのことだった。
ある夜。「お風呂が沸いてるから入りなさい」宏美に言われ、タナカは服を脱いで浴室に入った。浴槽に浸かっていると、そこに宏美が入ってきた。宏美は身に何も着けていない。タナカは慌てた。「恥ずかしがることなんてないのよ」宏美が言った。「変なことをするわけじゃないんだから・・・」浴槽に入ってきた宏美は、タナカのペニスをつかんだ。「あっ・・・」「大丈夫。何もしないから」「で、でも・・・」「おちんちんが大きくなってきたね」「うっ・・・」タナカは初めて勃起した。手で隠そうとすると、「みんな経験することなの。おかしいことじゃないわ」宏美がそう言って、ペニスをしごき始めた。「あ、ああっ・・・」「うふふ・・・くすぐったい?」「あ、なんか・・・」「気持ちいい?」「あ、うう・・・」タナカは初めて性的興奮を覚えた。
それ以降、宏美は夜になるとタナカを自分の寝室へ呼ぶようになった。「お父さんには内緒よ。これはふたりだけの秘密。分かったね?」「う、うん・・・」タナカは悪いことをしているという気持ちはなかったが、どこか後ろめたいものを感じていた。宏美は裸になって、足を広げる。体毛に覆われた部分をタナカに見せて、「そこに指を入れて」とか、「そこを舐めて」などと指示をする。タナカはこわごわやってみた。正直、女の陰部はグロテスクなもので、決して美しいとは思わなかったが、「あぁん・・・」とか、「うふぅん・・・」などと宏美が甘い声を漏らして興奮してくると、得体の知れない衝動が体の奥底から湧き上がってくるのを感じた。
宏美によってタナカはオナニーを覚えた。学校へ行っても、家で勉強をしていても、無性にオナニーをしたくなってきた。まだ小学5年生だというのに、毎日オナニーをしないとイライラするようになった。勃起はするが、まだ射精はしない。信子によって、「性は汚れたもの」と教え込まれていただけに、「オナニーは悪いことだ」と思っていた。当然、隠れてオナニーをした。自分の部屋でオナニーをしていると、宏美がやってきて、「大丈夫。恥ずかしがることなんてないのよ。悪いことじゃないんだから・・・」と言って、オナニーを手伝う。さらに自分もオナニーをする。それをタナカに手伝わせる。信子の言うことが正しいのか、それとも宏美が正しいのか。何も分からないうちにタナカはオナニーにふけることだけを覚えていった。
1年後。和男はタナカを連れて東京へ戻ることになった。宮本が和男に会社の再建資金を貸したのである。和男の真面目な仕事ぶりが認められたのだ。和男はよろこび勇んで東京行きの航空券を買ってきた。「よろこべ。やっと東京へ戻れるんだぞ」「うん・・・」「母さんと一緒にやり直すことになった。また家族で暮らすんだ」「・・・・・・」「どうした?うれしくないのか?」「別に・・・」タナカは宏美と別れて東京へ戻り、またあの厳格な信子の下で暮らすのかと思うと、正直、このまま残りたいという気持ちのほうが強かった。
別れの日。「じゃあ、元気でね。また北海道にも来てね」「うん」「帰ったら電話ちょうだい。手紙も送って」「分かった」「それと、淋しくなったら、これで私のことを思い出して・・・」そう言って、宏美はタナカの目の前でスカートをめくり、パンティを脱ぐと、タナカに手渡した。「これは私の気持ちよ。あなたが東京でも淋しくないように・・・」タナカは宏美の白いパンティを顔にこすりつけた。甘い宏美の体臭がしみ込んでいる。思わず勃起した。「私、絶対にあなたのことを忘れないから。あなたが大きくなったら、私をお嫁さんにしてくれる?」「う、うん」「本当に?約束してくれる?」「約束する」「待ってるわ。絶対に忘れないでね」「さよなら」「さようなら」宏美は空港まで見送りにきた。いつまでも手を振っている。タナカは宏美のパンティをズボンのポケットにしまい込み、東京へ戻った。
その後。和男は宮本から借りた金で会社を再興した。信子も戻ってきた。一家は再び東京の府中市で暮らし始めた。和男は会社の営業所を八王子に設けた。府中の自宅から八王子まで毎日通う生活である。タナカは宏美のことが忘れられず、毎日、宏美のパンティの匂いを嗅ぎながらオナニーにふけった。
そんなある日のこと。信子がタナカの部屋を掃除していて、偶然、宏美のパンティを見つけた。信子は半狂乱になってタナカを問い詰めた。タナカは死んでも宏美との関係を白状しないつもりだったが、信子に折檻され、すべてを白状に及んだ。信子の怒りは収まらない。すぐに信子は北海道の宮本宅へ電話をかけた。そして口汚く宏美を罵った。宮本は困惑するばかりだった。以後、タナカ家と宮本家の親交は途絶えた。タナカは宏美と連絡を取ることを禁じられ、宏美のパンティも処分された。
タナカは中学に入った。勉強はできたが、孤独だった。親しい友だちはひとりもいなかった。勉強をしているか、宏美のことを思い出してオナニーをしているかだった。射精するようになってから、オナニーに伴う快感も鋭くなってきて、自然と回数は増えた。そんなある日、タナカは校舎の裏でオナニーしていたところを、たまたま女子生徒に目撃されてしまった。
翌日。放課後、タナカは廊下で数人の女子に詰問された。「タナカ君、昨日オナニーしてたでしょ」「してないよ」「ウソ。見てたのよ」タナカは女子に拘束された。解放の条件は、「オナニーしてみせて」というものだった。タナカは拒否した。逃走を試みたが、失敗した。タナカは手足を押さえつけられ、ズボンとパンツをはぎ取られた。「よせよお!やめろよお!」女子の手がタナカの小さなペニスに群がる。まだ皮をかぶったまましょんぼりとうなだれているそれをいじくり回す。「わあ、すごい。なんか立ってきたよ」「皮はむいたほうがいいんだよね?」女子がみかんの皮をむくようにタナカのペニスの皮をむいた。ピンク色の亀頭がぷるんとむき出しになった。「やめろよ!オマエら、女のくせに何やってんだよ!」タナカが抗議しても、返ってくるのは女子のクスクスという笑い声だけである。「この皮、どこまでむけばいいのかな?」「むけるとこまでむいていいんじゃない?」そんなやり取りにタナカはゾッとした。女子の手が無理やり皮をむいていく。赤くなった亀頭がピクピクと震えだした。亀頭が完全に露出した。ペニスは青筋を立ててビクビクと小刻みに震えている。「オレのチンコはオマエらのオモチャじゃないぞ!」
タナカはかろうじて抗議の声を挙げたが、それが精一杯の抵抗だった。手足は女子にギッチリと押さえつけられ、体を起こすことも、動かすこともできない。今やタナカは女子に何をされても耐えるしかないのだ。「これ、どんどん大きくなってきたね」「かたい」「こすってたら精液が出てくるのかな」「ここをこすると痛いみたいね」「タナカ君、大人しくなってきたね」「あんなに抵抗してたのにね」「あきらめたみたいだね」「最初から大人しくしてればいいのにね」「こ、こらー!オレはオマエらのオモチャじゃないんだぞ!」と叫びたかったが、すでにタナカの意識は女子の手で荒っぽく扱われる下半身に集中していた。このまま女子の目の前で射精してしまうのか。それだけは避けたいと思っていた。宏美との甘美な思い出を破壊されたくなかったからだ。だが、この状況でどうすればよいのか。タナカは女子の中でひとりだけ、タナカのペニスに手をつけていない子に必死に救いを求めた。
「頼むよ!みんなを止めてくれよ!頼む!」その子は哀れそうな目でタナカを見ていたが、「苦しいの?痛いの?それとも気持ちいいの?」と聞いてきた。「い、いいから、止めさせてくれよお・・・」「おちんちんをこすられると気持ちいいの?ねえ、気持ちいいんでしょ?なんで気持ちいいのに止めてほしいの?」「な、なに言ってるんだ、こいつは・・・」もう限界だった。女の子に男の体の構造をいちいち説明している余裕はない。男女の性差(ジェンダー)がもたらした悲劇だ。チンコのない女に男の気持ちなど理解できるはずもない。カワイイ顔してやることは残酷。それが女という生き物なのか。「これ、かわいいね」誰かが睾丸をつまんで袋の中の玉をクリクリ動かした。その瞬間、タナカは逝った。「すごい量の精液!」「まだ出てるよ!」「やだ、手が汚れちゃった」「こんなに出したのにまだ立ってるよ」「まだ出るのかな」「どのくらい出るの?」「もっとこすってみる?」「出なくなるまで出してみよう」タナカはゾッとした。精液が出なくなるまでこすられるのか。オレには自分の意思でオナニーする自由すらないのか。「お、オレは、一体、なんのために学校に来て、女どもに精液を搾り取られてなきゃいけないんだ?・・・」
放課後の校舎の片隅の廊下は薄暗く、ひんやりとしたカビ臭い空気が漂っていた。そこに強い精液の臭いが加わった。女子の手でタナカのペニスは容赦なくしごかれ、何度も射精した。しまいには水のような精液しか出てこなくなった。「もう出てこないのかな?」「おちんちんも立たなくなってきたね」「引っ張ってみたら?」「こうかな」ペニスを引っ張られ、指で弾かれても、すでに精液を出し尽くしたタナカのそれは立たなかった。そうなると女子の関心は急速に薄れていったようである。「なーんだ、つまんない。帰ろ、帰ろ」「こ、こらー!人のチンコをさんざんいじくっといて、な、なにがつまんないだ!」ようやく解放されたとき、タナカは起き上がる気力すら失っていた。
その日。皮をむかれたタナカは背中を丸めて帰宅した。歩くたびに亀頭がパンツにこすれて痛むのである。家に帰って自分の部屋に入っても落ち着かない。タナカはトイレに入った。「この皮を元に戻さないと、痛くて勉強もできないぞ・・・」タナカは悩んだ。悩んだ末に、「包茎に戻す方法」を思いついた。皮でペニスの先端を包み込むようにして放尿するのである。尿は皮の中にたまってパンパンに膨れ上がる。そこで手を放すと勢いよく尿がほとばしり、皮が元通りになるという寸法だ。タナカは便器の周りに尿を飛び散らせながら、苦心の末、また包茎に戻ることに成功した。タナカはホッとした。その夜は安眠を得ることができたのである。
翌日。放課後、タナカは再び、女子に拘束された。「タナカ君、あれからオナニーはしたの?」「な、なんでそんなこと聞くんだよ」「また学校でオナニーするつもり?」「ど、どこで何しようがオレの勝手だろ」「タナカ君のエロチンチンにはみんな困ってるのよ」「なにが困ることあるんだよ」「タナカ君みたいなエロガキがオナニーなんかしてたら、女子が安心して勉強できないじゃない」「か、関係ねーだろ」「いいから、脱がしちゃえ、脱がしちゃえ!」タナカは手足を押さえつけられ、ズボンとパンツを引き下げられた。ペニスをつかまれる。「あれ?また皮かぶってない?」「あ、よせ!やめろ!」「これ元に戻したの?」「やめろって!」「皮をむかないと病気になるよ。チンカスいっぱいたまってバイキンだらけになってオシッコできなくなるんだよ」勝手なことばかり言いやがって。オレが包茎であろうとなんであろうとオマエたちに何の関係があるというのだ?「皮むくからね」タナカはゾッとした。恐怖の表情を浮かべた。「大丈夫だよ」女子は笑いながらタナカの皮を無造作に引きはがすようにしてむいた。「ああっ・・・」とたんにアンモニア臭がぷーんと広がった。皮の中に残った尿の腐ったような臭いだ。女子が顔をしかめた。「うわっ、臭い!」「不潔!」「性病!」「バイキン!」「タナカ臭い!」一斉に心を踏みつけるような言葉を浴びせられ、タナカのペニスは急速に萎えていった。
数日後。放課後、タナカは誰もいない昇降口で靴を履き替えようとしていて、ひとりの女子に呼び止められた。「話があるんだけど・・・」「なに?」「いいからこっち来て」相手はタナカの強制オナニーの際、ただひとりだけ、タナカのペニスに触れなかった子である。哀れむようなまなざしでタナカをじっと見つめていた。その子の名は石井理香という。
ふたりは校舎の裏庭のベンチに並んで座った。数日前、タナカがひとりでオナニーをしたのもここだ。その時は気付かなかったが、ちょうど斜めにある校舎の窓からここが丸見えになっている。タナカのオナニーは完全に丸見えになっていたのだ。「タナカ君、もうオナニーなんてやめたほうがいいよ」と理香が切り出した。「タナカ君のこと、みんな噂になってるよ。このままだと学校にいられなくなるかもしれないよ。だからやめたほうがいいよ」タナカは何も言えずうつむいて黙っていた。「それと、なぜいじめられるか分かる?」リカちゃんがタナカの顔をのぞき込むように言った。「なんでだか分かる?タナカ君がおちんちん大きくするからだよ。だから、おちんちんを大きくしなければいじめられないんだよ」無茶苦茶だ、とタナカは思った。最初にチンチンをいじってきたのはどっちだ?誰だって、チンチンをいじられたら大きくなる。それが男というものだ。 宏美だって言った。「大丈夫。恥ずかしがることじゃないのよ。これが普通なんだから・・・」
理香は続けた。「タナカ君がおちんちんいじられても大きくしなければ、みんなつまんないからタナカ君のことをいじめなくなるよ。だから、どんなことがあっても絶対におちんちんを大きくしないようにすればいいんだよ。分かるでしょ?」そりゃ、無理だよと言おうとすると、理香が必死なまなざしで言ってきた。「私はタナカ君がかわいそうだから言ってるんだよ。タナカ君がこれ以上、いじめられるのを見ていられないから言ってるの」タナカは思わず息をのんだ。もしかしてこれが初恋?こういう形で告白されるとは。いや、自分には宏美がいる。いつの日か必ず、北海道へ戻って宏美と結婚するという妄想を、タナカはまだ捨てていなかった。次の瞬間、理香の手がタナカの下半身に伸びた。「あっ、なにしてんの?」「おちんちんをいじられても大きくしないように」理香はズボンのファスナーを下ろし、そこに指を入れて、タナカのペニスを引っぱり出した。ペニスはみるみるうちに大きくなっていく。「ダメ!大きくしちゃダメだって!だからいじめられるのに」「そ、そんなこと言われても・・・」「ダメだって言ってるでしょ!なんで分からないの?タナカ君って日本語分かる?言ってる意味分かるよね?おちんちん大きくしちゃダメだって言ってるのに何で分からないの?」「ひいぃ・・・」 「これ大きくしちゃダメだって言ってるでしょ!」理香の手がタナカの首に伸びた。「うぐぅ・・・」タナカの首を絞めながら、「なんで小さくなんないの?なんで?ねえ?なんで?」「く、苦しい・・・」窒息状態でタナカのペニスは異常なほど勃起した。こういうことはよくあるらしい。タナカは本で読んだ話を思い出した。絞首刑になった死刑囚は勃起して大量の精液を漏らすという。これは人間の体が生きようとする生存本能で無意識のうちに起きる現象だ。子孫を残そうとして、ありったけの精子を出そうとするのだという。それと同じことがタナカの身にも起こっていた。「あ、もう、ダメだ・・・」理香に首を絞められつつタナカは射精した。「あ、ダメ!出しちゃダメ・・・」理香が親指で栓をした。行き場がなくなった精液があふれ出す。タナカのペニスと理香の手をベトベトにしながら。
「もう、タナカ君って最低ね」タナカには辛い言葉だったが、この時、タナカは、「窒息状態での射精ほど気持ちいいものはない」ということを学んだ。タナカはタオルで自分の首を絞めながらオナニーすることを覚えた。
中学を卒業するまでタナカは女子に精液を搾取され、人体実験のモルモットにされ続けた。
ある時、タナカは生物部の女子に拘束された。「顕微鏡で精子を見てみたいの」すでにタナカの強制オナニーを知らない女子はいないくらい、校内では有名になっていたのである。「分かった、分かった」タナカは自分からペニスを引っぱり出してしごき始めた。どうせ抵抗したところで多勢に無勢、手足を押さえつけられてパンツまではぎ取られ、大勢の目の前で射精するまでこすられるのだ。射精するしか自由になる道はないのなら、男のプライドなど捨ててしまって構わないと思った。いや、すでにプライドなんてないのだ。ホモにもレイプされたんだし。「タナカ君、素直になったね」「いい子になったよ」「もう逃げたり反抗したりしないんだね」「女の子の言うことはなんでも聞くんだもんね」「いい子になってよかったね」「タナカ君はいい子になったんだよ」 女子に完全に包囲され、もはやオナニーする以外に絶対に自由の身にはなれないことを自覚したタナカは、飼い慣らされたペットのように従順だった。が、大勢の女子が見守る中で、タナカのペニスはいくらしごいても勃起しない。意識を集中させ、心を込めてしごく。それでもペニスは死んだ毛虫のようにヘナヘナと力なく横たわったままだ。「コラ!立てよ!立て!早く!何やってんだよ!」タナカは自分のペニスに呼び掛けるが、ペニスは主人の意向を無視して立たない。まるでオナニーに酷使されたことに対する無言の抗議でもあるかのように。「はやくー」「はやくやってよー」「タナカ君、はやくー」「まだあ?」「精子出してよ、精子」女子にせかされればせかされるほどタナカは焦ってペニスをしごくがなかなか勃起しない。この時、タナカは緊張すると勃起しないものだということを学んだ。
タナカが最も困ったのは授業中である。突然、何の前触れもなしにいきなり勃起してしまうことがしばしばあった。みんな何事もなかったように教科書を読んだりノートを取ったりしているが、この教室の中のほぼ半数は自分のペニスをオモチャにした女子なのだ、と思うと、タナカのそれは際限なく膨らみ、いきり立つのだった。
タナカは知った。女子に自由を奪われ、何をされても絶対に抵抗できない状況下でなければ、いくら勃起しても射精しても、「逝った」という気分になれないということを。こんな自分を宏美は受け入れてくれるだろうか?やさしく、気立てのよかった宏美が今の自分を見たら、何と思うだろうか?「ダメだ・・・おれはもう宏美さんと結婚なんてできない・・・」
タナカは、「強い男」になろうと思った。何があっても宏美を守ってやれるだけの男になりたいと思った。そこで近所の空手道場へ通い始めた。しかし瓦割りをやらせてみても手をくじいて瓦は一枚も割れない。ちょっと足をひねっただけで立てなくなってしまう。空手着一枚の薄着で外に出ただけで風邪を引いてしまう。まったく何をやってもダメなのだ。
タナカは気分だけでも、「強い男」になろうと考えた。女子に手足を押さえつけられ、ペニスをもてあそばれているとき、タナカは努めて、「戦争」をイメージすることにした。シルベスター・スタローンやアーノルド・シュワルツェネッガーのアクション映画を観て想像力を膨らませ、女子の手が自分のペニスをいじくり回しているときは機関銃やバズーカ砲をぶっ放している自分を想像し、女子のいやらしい笑い声を銃声や爆音でかき消そうとした。それでも最後は、「逝く」ことに変わりはなく、また、「逝く」ことに人生の無上の喜びを見出していたのだが。
タナカは本を読みあさり、「これだ!」と思う書に巡り会った。中国の偉大なる作家・魯迅の不朽の名作『阿Q正伝』である。主人公の阿Qは弱いくせに強がる卑屈な人間である。タナカそっくりである。阿Qはどんなに負けても、「オレが勝たせてやったんだ」と言ってはばからない。これを、「精神的勝利法」という。タナカもこれを真似することにした。女子にいじめられても、「性教育の実習をさせてやったのだ」と思えばいいのだ。女子に皮をむかれたのも、「タダで包茎手術ができた」と思えばいいのだ。タナカは精神的に成長したような気がした。「そうだ。オレはいつも相手に勝たせてやったんだ。オレは負けたんじゃないんだ。オレは本当はすごく強い人間なんだ」と思った。この「精神的勝利法」は最高だった。どんなにいじめられても、心ない言葉を浴びせられても、タナカはいつも精神の安定を失わずに済むことを得たのである。
「精神的勝利法」によって、「強い男」になれたと思ったタナカは、以降、積極的になった。高校に入ったとき、タナカは以前のタナカではなくなっていた。明るく前向きで、「切れた」状態であった。本当に何かが吹っ切れたような気がした。自分をつなぐ見えない鎖が断ち切れたと思った。タナカはよくしゃべり、友達もたくさんできた。
しかし、運命とは皮肉なものである。宏美の次に手にした、「彼女」の父親が中学時代にタナカをレイプしたホモだったとは。タナカは「精神的勝利法」によっても乗り越えられない壁にぶち当たった。
それはタナカの恋が思いがけない形で破綻した直後のことだ。放課後の教室でタナカは女子に拘束された。タナカを拘束した女子グループのリーダーは、あのホモの娘、つまりタナカの「元カノ」である雪菜だった。なぜ拘束されなければならないのか?訳が分からずにいると、雪菜が言った。「アンタ、痴漢なんだってね」「はぁ?」「はぁじゃねーよ。うちのパパが言ってたんだよ。アンタが電車の中で痴漢してるのを見たって」「なにぃ?」濡れ衣とはまさにこのことだ。あのホモ野郎は、自分の娘とタナカの縁を切らせるためにそんなウソを吹き込んだのか。
タナカの「処刑」が始まった。それは中学時代のものとは比較にもならないほど凄惨なものだった。タナカは身ぐるみはがされ全裸にされた。すでにタナカの周りには十数人の女子が群がっていた。絶対に逃走も抵抗も不可能である。タナカは緊張のあまり勃起しなかった。ペニスは無惨なほど小さくしぼんで垂れている。「わー、ちっちぇー!」「子犬のシッポみたい」誰かが言った。「前立腺をやれば一発だよ」
タナカは机に押し付けられ、無理やり肛門に異物を挿入された。教室に活けてあったカーネーションを茎から差し込まれたのだ。「入った?」「まだ入ってないよ」「もっと広げて」「こう?」「あ、入った」「もっと入れないと」タナカはホモにレイプされたときのことを思い出していた。肛門から直腸に異物が押し入ってきた瞬間、反射的に勃起した。「あぁっ・・・」
3人の女子がフェラチオを始めた。2人が両側から金玉を、1人が竿を舐めた。まるで餌に群がる鯉のように。女子のあたたかい吐息とヌルヌルした舌先と唾液が容赦なくタナカのペニスをなぶっていく。雪菜がタナカの乳首をつねる。周りに詰め寄った女子が甲高い笑い声を上げながらタナカの股間に視線を集中させる。フェラをしている1人がタナカの袋を舐めながらじっとタナカの目を見つめた。タナカは目をそらした。そいつの目は明らかにこう言っていた。「オマエ、女に大事なものを舐められながら何にもできないのか?」タナカは耐えた。「戦争」をイメージした。それでも体の自然な反応を抑えることはできなかった。
悪夢のような時間が去った。タナカは、「タダで風俗に行けたと思えばいいんだ」と自分に言い聞かせた。しかし、大勢の女子の前で辱めを受けたことはタナカの心に癒しがたい傷を残した。タナカはそれ以降、女と目を合わせることができなくなった。
タナカは何とかして、「女に仕返しをしたい」と思った。いつもやられっ放しではたまったものではない。かといって、自分をいじめた同級生に仕返しをすることなど、「とても勇気がなくてできない」タナカなのである。そこでタナカは卑怯なやり方で女に仕返しをしようとした。
ある晩秋の夕方。タナカは早めに自宅に戻り、目立たない私服に着替えた。人相が分からぬようキャップを目深にかぶり、マスクもした。黒いジャンパーのポケットにはカッターナイフを忍ばせてある。タナカは閑静な住宅地の公園で獲物を待った。公園の前は近くの公立中学校の通学路になっている。すでに日は落ち、街灯が道を照らし出していた。暗がりに身を潜めていたタナカは、「来た!・・・」道の向こうから並んで歩いてくる2人の女子中学生に狙いを定めた。ふたりが近付いてくると、タナカは無言で道に走り出た。ポケットからカッターを取り出して刃を滑らせ、「騒ぐな!騒ぐと顔を切るぞ!」と脅した。ふたりの女子中学生は一瞬、表情が凍りついた。タナカは2人の顔に刃を近付け、「いいか、騒ぐなよ!逃げたら殺すぞ!こっちに来い!」ふたりの肩を押して、公園の隅の公衆便所へ連れ込んだ。ふたりを個室に押し込み、タナカも入って戸を閉めた。「まず、生徒手帳を出せ」と命じた。ふたりは恐る恐る学校の生徒手帳を差し出した。ふたりの氏名と住所をすばやく頭に入れておいた。原田佳代と林真由美という中学3年生の少女だった。原田は髪を両肩でお下げにしている。林は耳の下までの長さに切りそろえたショートヘアだ。原田が林より少し背が高かった。「お前らの名前と住所、覚えたからな!もし警察に訴えたりしたら、お礼参りに行くからな!」と脅しておいて、生徒手帳を返した。「よし、じゃあ、パンツを脱げ!」タナカが命じると、原田も林もキョトンとしている。「何してる!早くしないと顔切るぞ!」押し殺した声で脅して、2人の顔にカッターの刃を近付ける。女には、「殺すぞ!」という脅し文句よりも、「顔を切るぞ!」と言ったほうが効果があると思ってのことだ。原田が困った顔をして林に、「どうする?」と聞く。「脱ごうか?」と林。うなずいて、原田が先に脱ぎ始めた。ふたりとも狭い便所の個室の中で、制服のスカートを持ち上げ、白いパンティを引き下げる。脱ぐときは靴が邪魔なので、履いている革靴を脱ぎ、片足を持ち上げてパンティを脱ぐ。タナカは興奮してきた。チノパンのチャックを下げて、すでに勃起しているペニスを左手で引っ張り出す。それを握りしめてこすりながら、「そ、それをよこせ!」と促すと、原田が脱いだパンティをタナカの持つカッターに引っかけた。林も同じようにした。「よ、よし。それじゃあ、本当にパンツを脱いだかどうか、スカートをめくって見せてみろ!」さすがに原田も林もためらった。タナカは片手でペニスをしごきながら、「早くしろ!マジで顔を切るぞ!」とカッターを向けて脅す。こうして女の子を辱めることで、女に仕返しをした気分に浸りたいのだ。そのくせ、力ずくで女の子を犯すつもりはない。せいぜい、この子たちに自分の精液を引っかけて、「ざまあみやがれ!」と歪んだ征服感を満たすのが関の山だ。再度、脅すと、渋々ながら、2人ともスカートをめくり上げた。「何してんだ!もっと上げろ!そう、あそこの毛を見せて・・・あっ・・・」ふたりがスカートを腰までめくり上げる前にタナカは射精していた。大量の精液がほとばしった。「なんか、すごい量出たね」と原田が言えば、「まだ出てるよ」と林が言う。ふたりともスカートをめくり、何も着けていない下半身を露出したまま、興味深そうにタナカのペニスをじっと見つめている。原田の陰毛はY字型にかなり濃く、林はI字型に薄く生えている。お互いに陰部を見つめていたが、原田と林はタナカのそれを見ながら笑い出した。「この人のかなり大きいね」「もっと有意義なことに使えばいいのにね」「使いたくても使えないんだろうね」「使わせてくれる人がいないんだろうね」「さびしい人だね」「かわいそうだね」などと女子中学生とは思えぬ冗談を言い合いながら、ケラケラと笑っている。タナカのペニスは急速に萎えた。これではふたりを辱めるどころか、逆に自分が辱めを受けているようなものだ。タナカは糸のような精液を垂らしながら、慌ててペニスをしまい込んだ。転びそうになりながらトイレを出た。ふたりの甲高い笑い声が追いかけてくる。タナカは夢中で走って逃げた。家に持ち帰ったふたりのパンティで、宏美のときのようにオナニーをしてみたが、満足感は得られない。そのうえ、どっちがどっちだか分からなくなってしまった。ふたりとも似たような白のパンティを着けていたのだ。結局、タナカはふたりから奪ったパンティを捨ててしまった。得られたものはみじめな敗北感だけであった。
ところで、タナカには愛実という妹がいる。この妹とは8つ年が離れている。そして、妹の父親はタナカとは血のつながりのないまったくの赤の他人である。タナカが妹と初めて出会ったのは彼が中学生の時、妹がまだ5歳のときである。その時のことをタナカは今でもよく覚えている。妹は初対面の兄に向かって、「お兄ちゃん!」と言って抱きついてきた。その時のうれしさをタナカは忘れたことがない。
タナカの両親は一時期、別居していた。事実上の離婚状態であった。別居中、信子は売れないオカマの歌手のプロデューサーのようなことをしていた。その歌手、中本よしみが愛実の父親なのである。
和男は別居中も信子としばしば連絡を取っていたが、信子が中本と深い仲になっていることを知らなかった。信子の妊娠を知ったのは信子自身が和男に打ち明けたときである。「父親は誰なんだ?」「中本よ」「中本?あのオカマが?」「いいえ、彼にも妻子はいるの」「何だって?」「彼はオカマでも両刀使いのオカマなのよ」「つまり、男も女も好きだってことか?」「ええ」「参ったな・・・」「あたし、生むわ」「なに?」「お腹の子を生みます」「なにバカなことを言ってんだ!おろせ!」「嫌です!絶対生みます!ダメなら、その時は死にます!」「お前、自分が何言ってるか分かってるのか!?よりによって妻子持ちのオカマとできやがって・・・」和男は悩んだ。信子はすでに43歳。高齢出産であることに加え、実の父親は不倫相手。生まれてくる娘に災いをもたらすことにならないだろうか?だが、結局は生みたいと強く願う信子に押し切られた。和男は信子が二度と中本と接触しないことを条件に出産を認めた。こうして、愛実はタナカ家の長女になった。
再び、東京でのタナカ家の暮らしが始まった。今度は妹も含めて4人での生活である。愛実は何も知らずに和男が自分の父親だと信じて育った。「愛実ちゃんはお母さん似なのね。お父さんには似てないわね」と言われるたびに、「え?ああ、はぁ、まあ、母さんに似て美人なんですよ、ハハハ・・・」と苦笑する和男だった。信子は専業主婦に戻っていたし、中本のことなどすっかり忘れているようだった。タナカ家の平穏な日常が続いた。
その日は突然やってきた。2005年の夏、信子は家族の前で何ら臆することなくガンであることを告白した。寝耳に水、青天の霹靂とはまさにこのことだ。あまり丈夫ではないのに寝込むこともせず、家庭と運送業の仕事のふたつを切り盛りしてきた信子が、末期ガンに冒されていることを打ち明けたのである。ガンはすでに直腸、肝臓、肺に転移し、もはや手の施しようのない状態であった。仕事一筋だった和男は衝撃を受け、誰よりもうろたえ、そして家族の前で初めて涙を見せた。「信子、お前、なんで今までそんな大事なことを隠していたんだよ?どうして教えてくれなかったんだよ?」「ごめんなさいね。あなたを心配させたくなかったの」「バカ。どれだけ心配すると思ってるんだ。バカ」「これも運命ね。あきらめてちょうだい」
信子がガンを発病したのは、その2年前のことだった。それは、ある人物の死がきっかけだったと言えないこともないのである。2003年夏、あるニュースが新聞記事に載った。
アミン元大統領死去ウガンダ独裁、30万人虐殺
【ナイロビ16日共同】AP通信によると、1970年代にアフリカ東部のウガンダの大統領を務め、軍事独裁による弾圧、粛清で30万人を虐殺したとされるイディ・アミン氏が16日、腎不全などのため、亡命先のサウジアラビア・ジッダの病院で死去した。80歳だった。25年生まれとの説もある。7月にこん睡状態に陥っていた。アフリカの英連隊兵士の後、62年のウガンダ独立で大尉になり、参謀総長を務めていた71年にクーデターで大統領に就任。反政府勢力を徹底的に弾圧するなど恐怖政治を敷き「アフリカの暴君」とも呼ばれた。「人間の肉は何度か食った」と発言したとも伝えられる。79年、亡命ウガンダ人部隊を支援するタンザニア軍の進攻を招き、反対派のクーデターで失脚。国外追放され、リビアを経てサウジアラビアに亡命した。大統領当時、英国に国賓として迎えられた経歴を持つが、英国紙は大量殺人の責任を負うべき人物と指摘していた。
日本から遠く離れた聞き慣れない国のニュースである。新聞の片隅で報じられただけの小さなニュースであった。これを読んだ信子は急に泣き出した。人前では決して涙を見せたことのない信子が、である。訝しく思った和男が問いただした。「どうしたんだ?」「死んだのよ」「誰がだ?」「アミンさんが死んだの」「アミンって誰だ?」「忘れたの?ウガンダの大統領よ!」「ウガンダ?・・・ああ、そうか。思い出したぞ。あの人が・・・」和男は30年近く前の記憶を蘇らせた。
1976年のことである。当時、タナカ家の近くに川島良平という自民党の代議士が住んでいた。もう死んだが、かつては外務省の政務次官まで務めた人だ。その川島が、「日本・ウガンダ友好連盟」という組織の理事長に選ばれたのである。川島は夫人を伴ってウガンダを訪問する予定だった。ところが直前になって、夫人がヘルニアで入院してしまった。夫人の代役はいない。川島は困った。その時、「タナカさんの奥さんなら、間違いなくやってくれる」ということで、信子に白羽の矢が立った。なぜ信子が代役に選ばれたのかというと、和男が運送業のかたわら、川島家へよく出入りし、碁の好きな川島の相手をよくつとめていたからだ。川島の故郷は和男と同じ千葉県で、実家も近い。そんないきさつがあって、タナカ家と川島家は親交が深かったのである。当時の信子は顔の傷跡を気にして、あまり外へ出たがらず、人付き合いもしないほうだったから、「なんで私が?・・・」信子も驚くより困惑するばかりだった。しかも信子にとっては初めての海外旅行である。おまけにウガンダなどという国は見たことも聞いたこともない。「そんな・・・私なんかが・・・そんな・・・無理です・・・」信子は何度も断ったが、川島は許さない。和男も信子に行くよう重ねて説得した。結局、押し切られる形で信子は川島夫人の代役をつとめることになった。
イギリスの植民地だったウガンダは、「黒い大陸の真珠」と呼ばれた風光明媚な美しい土地である。首都カンパラはビクトリア湖を見下ろす7つの丘からなる緑の多い美しい街だ。川島一行はエンテベの空港でアミン大統領の歓迎を受けた。「わがウガンダへようこそ!」信子はアミンと会って驚いた。アミンは身長200センチを超す巨漢で、「まるでプロレスラーのような・・・」というのが第一印象であった。事実、アミンはアフリカのボクシングヘビー級チャンピオンになったこともある。あのアントニオ猪木との異種格闘技戦の話が出たこともある。結局、この話はアミンがクーデターで追われて実現しなかったのだが・・・。
一行はカンパラの大統領宮殿へ招待された。すぐに食事会が開かれた。テーブルにはフライドチキンと紅茶が出される。これがウガンダ流のもてなしなのである。信子が遠慮していると、アミンはムシャムシャとフライドチキンを食べ始めた。さらにバリバリと骨まで噛み砕く。信子は呆気に取られた。アミンは独裁者という怖いイメージだったのだが、「そんなに怖いという感じではないわね・・・」信子は正直、アミンという人物に親しみさえ覚えた。
歓迎式典は和やかな雰囲気の中で行なわれた。信子は緊張してほとんど何もしゃべらなかった。すると、アミンの方から信子に語りかけてきた。通訳を介して、「あなたは美しい人だ」というアミン。信子はこの時、頭から薄いスカーフをかぶっていた。ウガンダはイスラム教の国だし、アミンは熱烈なムスリムである。しかし、スカーフで顔を隠すもっと大きな理由は、「顔の傷跡を見られたくない」というものだ。信子はあの事件以降、人と会うときはいつもうつむいていた。自分の顔にまったく自信を持てなくなっていた。かつては美人だったという自負があるだけに、「自分の顔を人目にさらしたくない」という気持ちが信子を縛り付けていたのである。アミンが寄ってきたとき、信子は反射的に顔を伏せた。「こんな醜い顔を見られたくない」と思っていた。アミンが寄ってきたのも、「自分の醜い顔に興味を持ったのだ」と思っていた。「こんな自分を誰も好きになるわけがない」と思っていたのである。和男と結婚するまでに何度も見合いをした信子だが、どの男も、「かわいそうに、気の毒な・・・」という目で見る一方、「なんて醜い顔なんだ・・・」という嫌悪の感情を隠そうとしなかった。だから、信子は自分が嫌いだったし、自分に寄ってくる男も、「みんな嫌いだ」と思っていたのである。渋々ながら、ウガンダまで来た信子だったが、「こんなところに来るんじゃなかった」と一瞬、後悔した。「あなたは美しい人だ」とアミンに言われても、「下手なお世辞だ」と思った。その時、アミンが言った。「人間の美しさは顔ではない。心だ」信子は思わず顔を上げた。アミンの人懐こい笑顔が目の前にあった。「あなたの心は美しい。あなたは心の美しい人だ」「え?・・・」信子はアミンの言おうとしていることが分からなかった。アミンが訊ねた。「あなたはどの宗教を信じていますか?」「え?あ、ああ、私はクリスチャンです」キリスト教を信じている、と言ってから信子は後悔した。アミンはムスリムなのだ。キリスト教徒のくせに、スカーフをかぶっていると思われたら、「何をされるか分からない」と思った。相手は独裁者だ。下手をすれば投獄され、このまま二度と日本に帰れないかもしれない、と思った。信子は恐怖で身がすくんだ。すると、意外にもアミンがニッコリと微笑み、「あなたは私がムスリムだということを知っていましたか?」と訊いてきた。「は、はい・・・」信子が恐る恐る答えると、「あなたは私がムスリムだと知って、そのようにスカーフをかぶっておいでになられた。あなたはクリスチャンだが、ムスリムに対しても思いやりがある。やはり、あなたは心の美しい人なのです」とアミンが言った。アミンは続けた。「私には分かる。あなたの心の美しさが。顔が美しい人間でも、心の汚れた人間はいる。人間の美しさは顔ではない。心なのです」そう言って、アミンは軍服を着た自分の大きな胸をポンポンと叩いた。信子は心の中に一筋の光が差し込んだような気持ちになった。今まで誰からもこんなことを言われたことはない。「心の美しい人」この言葉に信子は救われたような気がした。
一行には日本のメディアも同行していた。当時、アミンの独裁ぶりは世界的に有名なもので、「ビクトリア湖が血で真っ赤に染まるくらい人を殺した」だの、「人肉が大好物で、処刑した囚人の肉をうまそうに食っている」だのという噂が、アミンの政敵によって言いふらされていたのである。アミンは大統領宮で取材陣の質問に答えた。「もし、私が本当にそれだけ人を殺しているとしたら、私はとっくに殺された人々の遺族に報復されているだろう」そう語ったアミンは、さらにこう付け加えた。「我が国は安全そのものだ。私が大量虐殺をしていると思うのであれば、どうかあなた方自身の目で国中を見ていってほしい。国民は平和に暮らしているということが分かるだろう」
信子は一行とともにウガンダ国内を見て回った。ウガンダ国民はアミン独裁下で苦しんでいるというような様子はなく、「アミン大統領は本当はいい人なのではないだろうか?」という思いが強くなっていくのを感じた。アミンが息子の運転するオープン・カーで走り回っているのも見た。国民に憎まれている独裁者なら、そんな無謀なことはしないだろう。常に暗殺者の影におびえ、護衛に囲まれて暮らしているはずだ。アミンがただ単に大胆不敵なのか。いや、それだけではないと思った。あんな気のきいたことを言える人が、「国民に憎まれる独裁者であるはずがない」と思った。
ついに帰国の日が訪れた。短い滞在だったが、信子は、「ウガンダに来て本当によかった」と思っていた。アミンとの出会いは一生忘れないだろう。「心の美しい人」という言葉は信子にとって何物にも代えがたい宝物となった。アミンは空港まで見送った。別れ際、アミンは信子の手を握って言った。「またウガンダにいらしてください」「ええ。またお会いできることを祈っています」アミンの手は大きくて温かかった。「大統領とお会いできて本当に良かったです。日本に帰ったら、大統領がいい人だということをみんなに教えてあげたいと思います」「ぜひ、そうしてください」アミンは大声で笑った。
これが信子とアミンの最初で最後の出会いとなった。
帰国後、信子はアミンが巷で言われているような暴君ではなく、「心やさしい独裁者」なのだということを説いて回った。しかし、日本の多くの人々にとっては、「アミンが暴君であろうがなかろうが、そんなのどうでもいいこと」だったようだ。ほとんどの人はウガンダという国さえ知らない。そんな日本から遠く離れたアフリカの小さな国のことなど、「どうでもいい」のである。「日本人って本当に心の狭い人種なのね・・・」信子は残念に思った。
それからまもなくして、ウガンダである事件が起こった。1976年6月27日、ギリシャのアテネ発パリ行きのエールフランス航空139便がハイジャックされた。犯人は8人のパレスチナ・ゲリラとバーダー・マインホフ(ドイツの極左テロ集団)の混成チームであった。彼らはアラブ寄りのウガンダ大統領アミンの支援を受けていた。139便はリビアのベンガジを経由してウガンダのエンテベ国際空港に着陸した。犯人グループの要求は、「イスラエルで服役中のテロリスト40人の釈放」であった。256人の乗客はイスラエル人とユダヤ人だけ残して解放された。残りの人質は空港の旧ターミナル・ビルに監禁された。アミンはウガンダ兵を犯人たちの護衛に当たらせた。犯人側は7月1日までに要求が通らなければ、「人質を処刑する」とイスラエル政府に警告した。その後、犯人は人質の処刑を4日まで延期すると通告した。イスラエルの熱心な説得を受け、アミンが犯人側の態度を和らげることに成功したためである。一方、イスラエルは特殊部隊を乗せた4機の軍用機をひそかにウガンダへ向かわせた。3日夜から4日未明にかけ、特殊部隊はエンテベ空港を奇襲。犯人7人とウガンダ兵45人を射殺し、人質102人の奪還に成功した。この作戦で特殊部隊を率いたヨナタン・ネタニヤフ中佐が戦死。ちなみにヨナタンはのちのイスラエル首相ベンヤミン・ネタニヤフの実兄である。
この事件でイスラエルは世界中から絶賛された。反面、ウガンダは、「テロリストを支援している」という非難を浴びせられた。アミンのイメージはさらに悪くなるばかりだった。78年、アミンは隣国タンザニアに軍を侵攻させた。が、逆にタンザニア軍にカンパラまで攻め込まれ、翌年1月、タンザニアの支援する反アミン派によって追放されてしまう。アミンはサウジに亡命し、ついに死ぬまでウガンダに戻ることはなかった。
アミン死亡のニュースは信子にショックを与えた。二度と会えなかったということよりも、「アミンさんが本当はいい人だってことを誰にも信じてもらえなかった」ことが信子の心を痛めたのである。アミンは、「国民を虐殺した独裁者」というイメージを変えることなく死んでいった。27年前の約束をとうとう果たせなかったのだ。信子は泣いた。たとえアミンが独裁者であり、テロを擁護した人物であろうと、「自分に生涯の宝物をくれた人」であることに変わりはない。アミンとの出会いが信子のその後の人生を変えた。信子は明るい性格になったし、特に他人には親切にするようになった。赤の他人から受けた親切はいつまでたっても忘れられないものだ。しかし、信子はアミンから受けた恩を返すことはできなかった。別に信子が責任を感じることではないのだが、「私はアミンさんを助けられなかった」という自責の念が信子を苦しめることになった。信子がガンを発病したのはこの頃である。
信子はすぐさま入院した。医師は、「ガン細胞が肥大して直腸をふさいでいる。このままではいずれ腸捻転を起こすだろうから、手術して直腸を切除し、人工肛門を取り付けるしかない」と説明した。信子は、「神からもらった体に傷をつけるのは許されない」とこの期に及んで駄々をこねたが、医者と家族の懸命な説得により、手術に同意した。
手術は入院から2週間後に行なわれた。医者は成功だったと語った。信子は順調に回復し、「これなら退院して普通の生活に戻れるのではないか」と誰もが期待した。だが、この時すでにガンは信子の体中のあちこちを蝕んでいた。手術や抗ガン剤や放射線治療を行なったとしても、そのすべてを取り除くことは無理だった。
死を覚悟した信子は、ある日、病室に家族を集めた。そして、愛実に真実を打ち明けたのである。実は、信子が入院するわずか1ヵ月前、中本がガンで他界していたのだ。信子には、アミン以上の相当なショックだったに違いない。そして、自分も病に倒れ、先が長くないと知った時点で、信子は決意したのである。「愛実、落ち着いて聞いてほしいの。あなたの実の父親は、もうこの世にはいないの」「え?何言ってるの?」「いいから聞いて。あなたの本当のお父さんは、ここにいるお父さんじゃないのよ」「信子、黙ってろ!」和男が叱りつけた。しかし、信子は続けた。「私はもう長くないの。もうすぐ死ぬの。だって、あの世から中本さんが私を呼ぶんですもの。こっちに来てくれ。淋しいって」「何言ってるんだ!しっかりしろ!」「今までずっと隠してきたけど、やっぱりウソをついたまま神様の元へ行けないわ。愛実、そういうことなの。あなたは中本さんと私の娘なのよ」一瞬、すべてが凍り付いたような錯覚にとらわれた。何もかも信じられなかった。いや、信じたくなかったと言ったほうが正しいかもしれない。「ウソよ!そんなのウソよ!なんでそんなウソをつくの?」「ウソじゃないわ。今までがウソだったのよ」「ひどい!なんでそんな大事なことを隠していたの?ママ、ひどすぎるよ!鬼だよ!」愛実はワッと泣き伏した。和男は下唇を噛んで震えていた。
同じ頃、宮本宏美が札幌の病院で死んだ。やはりガンである。宏美はすでに30を過ぎていたが、まだ独身だった。タナカと結婚するという約束を頑なに信じていたものか。タナカはとっくに宏美のことなど忘れていた。タナカは宏美の死を知らない。
それからまもなく、信子の容態は急変した。血圧が低下し、こん睡状態に陥った。家族が呼ばれた。医者は、「もう長くはないだろう」と言った。愛実は泣きながら信子の手を握った。「お母さん、なんでこんなことを打ち明けたの?なんで?なんで私たちを不幸にさせるようなことを言ったの?お願いだから、返事をして!」しかし、家族の願いもむなしく、入院から35日目の朝、まだ夜も明けきらないうちに信子は息を引き取った。9月30日、金曜日。享年59。その最期を看取ったのは3人の家族だけだった。
信子は本人の遺志に従って密葬された。多くの謎を残したまま信子は死んだ。信子の死後、遺書が見つかった。おそらく入院前にひそかに書き残していったものだろう。それには信子の真意は記されていなかったが、信子もまた自分の母親を憎んでいたことをうかがわせるような記述があった。それによると、信子の母親が死んだとき、母親は信子と同じように自分の知られざる過去を打ち明けたという。満州から日本へ帰国する途中、ソ連兵に犯され身ごもった子が信子だったということ。それまで隠し通してきた事実を母親は死の間際に信子に語ったのだ。
信子が死んだ今となっては憶測に頼るしかない。だが、信子は母親を憎み、そして同じことを自分の娘にした。自分の親にされた仕打ちを我が子に対してすることで、不幸な自分の人生に復讐したつもりだったのだろうか?真実は知る由もない。「ひどいよ。お母さん本当にひどいよ・・・」虐待された子どもは親になったとき、我が子も同じように虐待するという。負の連鎖はどこまで行っても断ち切れないのだろうか。悲嘆に暮れる妹を見ながら、タナカは思った。「親なんてバカだ。犯罪者だ。子どもを不幸にするだけだ。オレは絶対に親なんかにならないぞ・・・」
信子の死。それはタナカの生活にも重大な影響を及ぼした。タナカは大学を中退している。あの松尾礼子を救えなかったトラウマが原因だった。その後は極度の人嫌いになり、自宅に引きこもった。昼夜逆転の生活を送るようになり、何ヵ月も外に出ないで過ごすようになった。そんなタナカに和男も信子も働けとは言わなかった。
信子が死んだことで、タナカは一気に責任を負わされる立場に立たされることになった。(有)明星自動車は社員約30人の運送会社である。会社の経営は社長である和男と信子の夫妻によって行なわれてきたが、現場の指揮は和男、経理関係は信子が仕切っていた。タナカは25歳の若さで、会社の経理という責任重大な仕事を任されることになったのである。
すでに引きこもり生活は6年目に突入していた。生活に何の心配もなく、親の庇護を受けつつ、安穏と暮らしていたタナカが、いきなり苛酷な競争社会に放り出されたのだ。タナカはこれまで常に受け身だった。何から何まですべて親が決め、与えてきたものだ。タナカは自分の食べるものから着るものまで自分で調達したことなど一度もなかった。黙っていても親が買い与えてくれたからだ。それが普通であり当然だと思っていた。これほど自立心の乏しい男も珍しいだろう。タナカはいじめられても抵抗する術を知らなかった。誰も教えてくれなかった。そこでタナカは、「耐える」ことを学んだ。そして、「あきらめる」ことも学んだ。また、「精神的勝利法」も学んだ。そこに圧倒的に欠如していたものは、「自力で運命を切り開く」ことであった。何事にも耐え、あきらめてきたタナカにとって、自分で自分の問題を処理しようという発想は皆無に等しかったのである。
運送業というものは言わば社会の、「裏方」の仕事である。流通が途絶えれば、すぐに社会は崩壊する。社会を底辺で支える仕事なのに、報われることは少ない。電話が鳴ればクレームと決まっている。1年365日、朝から晩まで四六時中、神経を使う仕事だ。勤務時間は不規則で、肉体を酷使する仕事なので、そこに集まる人間は荒っぽくてがさつなタイプが多い。いわゆる、「ヤクザ」の人もいる。そうした人々をうまくとりまとめ、決してなめられずに使いこなしていくには、神経の太い人間でなければ到底、つとまるものではないのだ。
タナカが(有)明星自動車の二代目社長に就任したとき、社内では複雑な会社の主導権争いが起こっていた。和男の下で何年も働き、会社のことは一から十まで知り尽くしている役員は2人いた。部長の中井正美と所長の小野浩之だ。これに新参だが稼ぎ頭の松崎隆史。彼ら3人が、お互いに火花を散らし、虎視眈々と会社の実権を狙っていたのである。
中井は小太りの五十男で性格は温厚。和男の信頼が最も厚い部下だ。小野はまだ30代だが、妻の眞弓とともに勤めている。眞弓は信子と親しく信子が一番信頼を寄せていた部下だった。問題は松崎である。松崎は元暴力団組員で前科者。背中一面に龍の彫り物がある。普段は無口で大人しい男だが、カッとなると何をしでかすか分からない。実際、松崎は社員で一番収入が多いのに税金も一番多く取られることをぼやき、信子に頼んで、税金対策をさせていた。脱税である。和男がこれを問題にすると、松崎は逆上して怒鳴り込み、手がつけられないほど暴れた。こういう男だが、うまく使えば役に立つということで、信子にかわいがられていた。松崎も、「飼い殺しにしてくれりゃあ本望です」と神妙に答えていたが、その先に野望があったのは言うまでもない。
タナカはそんな会社の若き二代目社長に就いた。誰よりも神経がか細く、女の子にも力で負けてしまう、引きこもり歴6年の弱々しい社長の誕生である。最愛の妻に先立たれた傷心のうえに、この頼りない息子に会社と社員の運命を任せてしまうことに、和男は言い知れぬ不安を抱いていた。そこで和男は自分の妹夫婦をタナカの補佐役に任命したのである。
和男の妹・秋子は埼玉県で不動産業を営む島田庄助と結婚し、ふたりの子をもうけていた。すでに子は独立し、島田の仕事も安定している。生き馬の目を抜くような不動産業界の荒波に揉まれ、人を見る目があり人当たりもやわらかい島田なら、きっと、自分が倒れても、タナカを補佐し、タナカが立派な社長になるまで支えていってくれるだろうと考えた。
島田は実家が貧しく、しかも末っ子だったため、早くから世に出て苦労もしてきた。裸一貫から始めて一国一城の主になった男だ。島田は和男からタナカの補佐役を任されると、「お任せください。私が必ず、カズヒコ君を一人前にしてみせます」と頼もしい返事をした。島田はさっそく、会社の経営状態を調べ、すぐに中井部長の不正を摘発した。中井は和男の下で会社の金を横領していたのである。和男は激怒し、中井を呼びつけた。
和男に、「クビだ!」と怒鳴りつけられ、すっかり青ざめた中井は、その太った体を震わせ、泣きながら、「それだけは勘弁してください」と哀願した。和男の怒りはおさまらない。「俺はお前を100%、いや、120%信頼してきた。それをお前は裏切った。本当なら警察に訴えているところだ。クビにするのはせめてもの情けだ。すぐに荷物をまとめて出て行け!」中井は涙に満面を濡らし、声を震わせながら弁明する。「魔が差したんです。本当に申し訳ない。腹を切って詫びなきゃいけないところだ。でも、こんな私にも家族がいる。今、私がクビになったら家族は路頭に放り出されてしまう。もう二度とこんなことはしません。次やったらクビでいい。だから、今度ばかりは許してください・・・」大の男が泣き崩れて詫びるのだ。和男は人情もろいところがある。こんな男でも何だか哀れになってきた。結局、二度と不正はしないと誓わせて、その場はおさまったのである。
この一件で、中井は面目丸つぶれとなった。これをチャンスとばかりに小野が夫婦で出しゃばってきた。小野夫妻にはふたりの娘がいる。ふたりとも眞弓の連れ子で、長女・香奈枝は大学生、次女・智恵美は高校生だ。眞弓の練った、「明星自動車乗っ取り作戦」は次女の智恵美をタナカと結婚させ、会社を丸ごと自分のものにしてしまおうというものだ。タナカは何度も小野夫婦に食事に招かれた。智恵美をタナカに近付けようという作戦だ。だが、この作戦はどうやら失敗だったようである。眞弓はタナカの女性恐怖症までは見抜けなかったらしい。タナカは目も合わせようとせず、そそくさと食事を終えて帰っていった。
タナカは超多忙であった。毎月10日、20日、月末ごとに支払いがある。その前後はネコの手も借りたいくらいの忙しさとなる。給料作成、給料台帳作成、源泉所得税と市民税の支払い、請求書の作成と帳簿の記帳、入金の確認、銀行残高の確認、現金の引き出し、金銭出納簿の記帳、等々の事務をこなしつつ社員の指揮監督、取引先との折衝など、ありとあらゆる仕事を手順よくこなしていかねばならない。こうしたことも以前は信子がやっていたのだから、タナカには初めてやるのと何ら変わらなかった。「社長の息子だから、黙っていても会社を継げて楽だな」と陰口をたたくのもいた。「冗談じゃない」とタナカは思った。この仕事はあまりにもやるべきことが多く、少しでもサボっていると後が大変になる。25歳で母を失ったタナカは、30人を超える社員とその家族の生活という、途方もなく大きな責任を背負わされることになったのである。
慌ただしさの中で年が明けた。2006年になった。和男は以前から患っていた糖尿病と心臓病、肺気腫のうえに長年の労働で痛めた足腰が急速に悪化していた。会社の経営も思わしくなかった。原油高の影響をもろに受ける商売である。燃費が前年比の倍になり、2千万円を超す赤字を記録した。おまけに東京都の環境規制強化だ。都内の営業所ではとてもやっていけない。和男は島田に頼んで、規制のない山梨県に会社の本拠地を移転する計画を進めた。
同じ頃、中井が体調を崩して入院した。診断の結果は、「肺ガン」である。信子と同じだ。これも何かの因縁なのだろうか。ガンは脳と全身の骨にまで転移しているという。タナカは和男とともに中井を見舞った。中井は抗ガン剤治療を受けている最中だった。あのでっぷりと太っていた中井の面影はなく、副作用でほとんど食事も受け付けず、げっそりと痩せ細った初老の男がそこにいた。中井は保険にも入っておらず、これといった貯えもない。もし和男があの時、クビにしていたら、アパートの家賃も払えず、それこそ野垂れ死にしていただろう。中井は涙ながらに、「社長の恩が身にしみました」と言った。「ま、今はとにかく治療に専念して、一日も早く会社に戻ってくれ。君がいないと配車に困る」
和男が心配していたのは、配車のプロである中井が欠けたことで、代わりに小野夫妻に配車を任さねばならないということだった。これは、とりもなおさず会社の実権が小野夫婦に渡ってしまうことを意味する。それはともかく、問題なのは小野が配車に専念することで、車から降りてしまうことだった。小野が車を降りれば、その分が遊んでしまうことになる。この厳しい時期にトラック一台を遊ばせておくのは大変なロスだ。しかも、小野は自分が配車をやるから車を降りるが、給料は下げないで欲しいと無理な要求を突き付けてきた。会社が火の車なのを知っていて、そんなことを言っているのだ。
和男は苦虫を噛みつぶしたような顔で言った。「小野の奴、もし自分の要求が通らなければ会社を辞めると言ってるそうだ。あんな奴でも、今はいてくれないと困ることを知ってるんだ」「でも、配車は小野でなくてもできるはずだと思うけど?」「もちろんだ。俺も配車は中井とか小野とか、特定の社員に任せるのではなく、何人かの社員に交代でやらせてみてはどうかと思ったんだ。ひとりにだけやらせてしまうと、不正の温床になるからな」「で、小野はなんて言ってるの?」「そんなことはできないと抜かしやがった。やる前からできないと言ってる。つまり、ハナからやる気がないんだ。自分たちの思い通りにならないからな」問題はそれだけではない。「小野が車から降りて配車に専念するようになったら、池澤や大澤や矢島は会社を辞めると言ってる。小野の下では働けないと言ってる。みんな、小野夫婦の独断専行を嫌ってるんだ。そうなれば当然、松崎だって黙っちゃいないだろう・・・」池澤邦夫、大澤和士、矢島宏は松崎と並んで会社の稼ぎ頭である。主力となる社員が一斉に辞めてしまったら、もう会社は動かなくなる。いくら、小野夫婦が頑張ってみてもダメだ。組織は人が動かす。人が動かなければ組織も動かないのだ。 小野は、「腰が痛い」と言って車から降りてしまった。持病の腰痛がかなり悪化していたものらしい。小野夫婦が会社の営業所にいつもいるようになった。和男の命令でタナカは小野の給料を中井と同じレベルに下げた。小野のそれまでの給料は月平均40万前後だったが、配車係に降りたことで中井と同程度の30万強になった。案の定、眞弓が文句を言ってきた。眞弓の月給は10万強である。夫婦で十分暮らしていけるはずなのだが、眞弓は、「これでは生活できない」という。眞弓はもともと会社に勤めていたわけではない。事務係として入ってきたのは3年前のことだ。小野はすでに十数年も勤めている。夫婦はずっと小野の稼ぎだけで暮らしてきたのだ。それが今になって、「生活できない」とはどういうことか。
そんな中、松崎が、「世話になった社長の奥さんに線香をあげたい」と言ってタナカ家を訪ねた。松崎は神妙に信子の位牌の前で合掌してから、タナカにこう言った。「おふくろさんから、二代目のことを頼むと言われました。これからは何かあったら、何でもあっしに相談しておくんなせぇ」「はぁ・・・」そして、松崎は、「小野夫婦が会社を辞めると言っている」という話をした。小野夫婦は給料を上げないと辞めるという脅しを使ってくるはずだから、気を付けろというのだ。もっとも、会社の後釜を狙っているのは小野夫婦だけではない。松崎だって同じだろう。松崎にとってはむしろ、小野夫婦が辞めてくれたほうが好都合なのだ。
数日後、和男とタナカは中井、小野夫婦と会って話をすることになった。中井は退院はしたが、抗ガン剤治療を続けている。体重は15キロも減ったという。「具合はどうだ?」「よくありませんや。吐き気で何も食べたくないし、日増しにどんどん悪くなってるようです」「それはいかんな」「このアパートも出ていこうと思ってるんです。治療費がバカになりません。もっと安いとこに入ろうかと」「ふうん」「それで、その、治療費がかさんで、もう逆さに振っても鼻血も出ません。こんな体でも生きるには働かなきゃいかんし、もう死ぬまで働くつもりです」「死ぬまで働くったって、その体じゃ・・・」「社長。できるだけ働きます。これでもまだ、配車くらいはできる。だから、また働かしてください」「その体では無理だな」和男が突き放すように言うと、中井は泣き出した。今の中井は無収入である。どこも雇ってくれるところはない。だからまた元の給料で使って欲しいというのだ。中井は自分から不祥事の責任をとって、「給料を減らしてほしい」と言ってきたくせに、今度は、「元に戻してくれ」だ。こうなったのもすべては中井の自業自得である。しまいには中井が和男の態度を、「冷たい」と非難し、金をくれて当然というような言い方をしたので、和男は激怒した。「お前、ふざけるんじゃない!お前が不正をしたのに、お前を訴えるどころかクビにもせず、会社に置いてやったのはどこの誰だ?会社の恩を仇で返したのは、一体、どこの誰なんだ?」その言葉に中井の妻・静江が驚いて声をあげた。「あんた、不正って何のことなのさ?」「お前は黙ってろ」中井は自分が不正をして、会社をクビになりかけたことを静江に隠していたのだ。
夫婦喧嘩が始まったので、タナカと和男は逃げるように中井宅を辞した。タナカの心は重かった。中井の一言が重く心にのしかかっていた。「奥さんは本当にいい人だった。社長に一番足りないところを補っていた。社長には思いやりが足りないんだ・・・」
信子が死んでから、タナカ家の家事は主に高校生の愛実がやっていた。学校から帰ると夕食の仕度をし、洗濯をし、買い物もしなくてはならない。本当は一番遊びたい年頃だ。兄とは違い、明るく素直な性格だから友達も多い。勉強もしなければならないし、友達とも遊びたいはずなのに、家がこんなことになってしまったから、我慢して、一家を支えなければならないのだ。
和男は家では無口だった。信子が死んで一層口数が減った。愛実が作った料理を食べても何も言わない。不機嫌そうな顔をして、黙って酒を飲んでいる。そのくせ、細かいことに口うるさい。「おい、表を掃除しておけと言ったろ!全然掃除してないじゃないか!家の掃除もできなきゃ、結婚して主婦になる資格なんてないな」「おい、風呂が沸いてないぞ!水じゃないか!バカもん!」和男のそういう性格は前々からのものだから、タナカも愛実もある程度は我慢することができた。だが、信子がいなくなってから、明らかに和男は怒りっぽく、落ち着きがなくなってきたようである。
中井と会った日、タナカと和男は小野夫婦とも会った。松崎の話があるので、もしかしたら辞めると言い出すかもしれないと思っていた。事前にタナカは和男と打ち合わせをし、給料を上げることはできないから、辞めるのであれば辞めてもらって結構だと強い態度に出ることにしていた。押しの強いハッタリをかまして、引くに引けなくなるのは小野夫婦の方なのだ。しかし、予想に反して小野夫婦は、「辞める」と言わない。どうでもいい話ばかりしている。そこへ突然、松崎が現われた。「いや、気にしないでください。あっしは二代目のボディガードですから。ハハハ・・・」笑ってはいるが、松崎の目は笑っていない。元ヤクザだから、こういうときの凄みは小野夫婦の比ではない。小野夫婦も黙ってしまった。松崎は何を考えているのか。単に小野夫婦を威嚇しに来ただけとは思えない。小野夫婦が辞めれば松崎が有利なのだ。松崎は小野夫婦が辞めるのを今か今かと待ち望んでいたのだろうか。
タナカは複雑な人間関係にすっかり参ってしまった。こういうときに頼りになりそうな人物の顔がひとつも浮かんでこない。補佐役の島田も自分の仕事があるから、いつも来れるわけではないし、この島田だって野心家だ。中井の不正摘発も、小野夫婦や松崎と同じく後釜を狙って、邪魔なライバルを消すために行なったかもしれないのだ。和男は病気持ちだし、年齢的にもそう長くは生きられない。愛実は高校を出たら家を出ると言っているし、いったん家を出たら、もう寄り付かなくなるだろう。
ある晩、愛実が「家を出る」と言い出した。「家を出るったってお前、まだ早いだろ。高校を出てからにするんじゃなかったのか?」タナカはまなみの身に何かあったと直感した。まなみはこらえていたものを一気に吐き出すように言った。「もう嫌!何もかも嫌!こんな生活耐えられない!このままじゃ私がダメになっちゃう!押し潰される前に家を出たいの!」「何があったんだ?」「お父さんは私が嫌いなのよ。実の娘じゃない私を嫌ってるの。だから私が何をしても返事もしないし、嫌味ばかり言ってくるんだわ。私もお父さんのこと嫌いになった。血のつながりのない父娘がひとつ屋根の下で暮らしていても、所詮は赤の他人と同じよ。他人のために私が人生を犠牲にして、食事を作ったり、洗濯をしたり、掃除をしたりする意味なんてないじゃん。それが仕事なら割り切れるけどね。もう私、赤の他人に嫌味を言われながら、一緒に生活するのが嫌になったの。止めないで。私が決めたことだから」愛実も成長したなとタナカは思った。以前は妹がこんなに強く自己主張をするとは思ってもみなかったものだ。
「家を出ても、行くあてはあるのか?」「しばらくは友達の家に泊めてもらう」「学校はどうするんだ?」「ちゃんと行く。大学にも行く」「学費はどうするんだよ?」「自分で働いて稼ぐよ。バイトしながら学校へ通って資格を取って、自立した女になりたいの。メソメソ泣いてばかりの弱い人間にはなりたくないの」「口で言うのは簡単だけどさ、働きながら学校行って自活するなんて、たぶん体が保たないぞ。オレだって、今は会社の仕事に追われて疲れているし、お前がいなくなったら、今度は炊事洗濯も全部俺たちでやらなきゃいけない。頑張ろうって気になっても、いずれ力尽きてへたばるだろうな」「私はね、とにかく自立したいの。どんなことがあってもへこたれない強い女になりたいの。お母さんみたいに強く強く生き抜いていきたいの」
兄が何を言っても自分の考えは絶対に曲げない妹である。愛実はその夜のうちに荷物をまとめた。「本当に出ていくのか?」「私はこれでも、お父さんとお兄ちゃんにできるだけのことはしてきたつもりだし、一緒にいて楽しかったよ。この家のことは一生忘れないよ」「たまには連絡しろよ」「お兄ちゃんも家を出たら?もうお母さんが死んで半年過ぎたんだし、お兄ちゃんの人生もまだまだこれからだよ。どうせ一生苦労するなら、好きなことして苦労したほうがいいじゃん」「好きなことなんてないな。別にやりたいこともないし」「お兄ちゃん、小説家になればいいじゃん。小説みたいなの書いてたでしょ」「あんなもの、誰が金払って読むんだよ。小説で食っていけるほど世の中甘くはないだろ」「じゃあ、今のままでいいの?このまま明星自動車の社長を続けて、それで後悔しないの?会社が潰れたらどうするの?社長でいたって食っていける保障なんてどこにもないじゃん」「まあな」「まあなって、他人事みたいに言うなよ。自分の人生だろ?たった一度きりの人生をどうしてもっと前向きに生きようとしないのさ?」
翌日から愛実は消えた。タナカ家は和男とタナカの2人だけになった。和男は何も言わなかった。タナカからも何も言わなかった。和男はやはり実の娘ではない愛実を愛してはいなかったのだろうか。毎日、朝と夕、信子の遺影に水と飯を供える和男の姿を見ていると、一見、家を出ていった娘のことなど胸中にないようだが、横顔が涙に濡れて光っているのを見れば、その胸中は複雑なものに違いないと思うのだった。
愛実が消えてから、タナカは自分の人生について深く考えるようになった。26にもなってからでは、いささか遅すぎるような気もするが・・・。この世の中は決して自分のためにあるのではない。だから、不幸になるのはすべて自分の問題なのだと思った。弱い人間はすぐに、「社会が悪い」という。自分の不幸の原因を世の中のせいにする。それは間違いだ。万人が幸せになれる世の中など存在しない。幸せになりたいと思ったら、自分が世の中に合わせるか、自分に合うような世の中を作っていくしかない。そして、それができない以上、世の中のせいにしてみても何も変わらないのだ。
自分の存在意義とは何か?生きる意味とは何か?そんなことを考えてみても無意味だと思った。生きる意味なんてないのだ。生まれてきたら死ぬ。ただそれだけのことだ。意味なんて求めてもしょうがないと思った。
果たして自分に価値はあるのだろうか?客観的に見ても自分に価値はないと思った。自分で自分の人生を切り開いていく力もないし、ましてや生きづらいこの世の中を変えていく力などない。どう考えても、「自分がこの世に生きる価値」なんてものはないと思った。
人間は孤独だ。誰も自分を理解してくれるものはいない。この世の中にひとりとして自分を理解できる人間は存在しないのだ。たとえ肉親であっても相手の心の中までは分からない。何を考え、何を思い、何をしようとしているのか。本当に自分を理解できるのは自分しかいない。人間は誰しも孤独なのだ。

結論はひとつ。「オレはいつ死んでもいい」ということである。「いつ死んでもいい」というのは自殺願望とは違う、とタナカは考えていた。自殺者は人生に絶望して自ら死を選ぶものである。自分は何に対してもこだわりのない人間になろうということだ。川に流れる木の葉のように、運命に流されるままに生きようということだ。金もいらない。愛もいらない。夢もいらない。そう思うと気が楽になった。どうあがいてみても結果は同じなのだから、飄々と生きて死ねばいいと考えた。
春になった。さわやかな季節である。であるが、タナカ家には相変わらず重苦しい雰囲気が漂っていた。中井はガンの治療を続けている。経過はかんばしくないようだ。会社に出てきたり、休んだりを繰り返している。「これじゃあ、中井の復帰は絶望的だな」ということになった。かといって、このまま小野夫婦に任せておくわけにはいかない。一日でも早く小野には車に乗ってもらわなければ困るのだ。
ある夜。和男がビールをすすりながら言った。「なあ、明日にでもハローワークへ行ってみないか?」「ハロワ?何のために?」「求人募集を出そうと思うんだ。中井の代わりに配車ができるやつを」「ああ、それか」「このままじゃ埒が明かないし、一度、ハロワで募集をかけてみたらどうだ?」「うん」和男はタナカに社長職を譲ってから、一応、会長ということになっている。だから、会社のことはタナカに相談してから決めようとしている。といっても会社の実権はまだ和男が握っているのだから、「おれにイチイチ相談しなくたっていいのに」とタナカは思っていた。「とりあえず、明日、ハロワへ行って求人募集をかけよう」ということになった。
翌日。タナカは和男とともに府中市のハローワークへ赴いた。景気がよくなってきたのか、それほど混んではいない。タナカは書類に必要事項を書き込んで提出した。こうしたことはすべてタナカがやっている。和男は目が悪くなっているから、書きものはほとんどできないのだ。「年齢55~65、月給20~25万円」という条件で配車係を募集した。「果たして来るだろうか?」と思っていたら、さっそく翌日になって、電話がかかってきたのである。相手は青山幸男と名乗った。「こっちはいつでもいいんですが、できるだけ早く会いたいので・・・」というので、JR府中駅前で待ち合わせをすることにした。青山は色黒の初老の男だった。年を訊くとまだ55だという。3人は駅前の喫茶店に入った。青山は熊本県の出身で、実家が運送業を営んでいると言った。実家が店をたたんだので、東京に出てきたが、先月、勤めていた会社がつぶれたので、暇を持て余していると語った。今は夫婦で調布市に住んでいるという。娘が1人いると言った。タナカはふと、宏美のことを思い出した。思わず勃起してしまった。タナカは宏美の死を知らない。「そういうわけで、こっちはいろんな経験があります」「そういう人がほしかったんですよ」「私もいつまでも遊んでいるわけにはいかないんでね、ハロワに行ったら、ちょうどお宅の募集を見たんで、さっそく電話させてもらいました」「じゃあ、あの条件でいいんですね?」「ええ。じつは私、経理の仕事もやっていたんです。配車だけでなく、事務的なことなら何でも任してください」青山はよくしゃべる男だった。自分のことはあまり話さず、タナカの家のことを訊いてくる。「それじゃあ、奥さんはガンで亡くなられたわけですか?」「ええ。去年の9月です。家のことは全部女房がやっていたもんで、いまだにてんてこ舞いですよ」と和男が渋りきった顔で言うと、「私も母をガンで亡くしましたよ。これも何かの縁でしょうかねえ。一度、奥さんに線香をあげなきゃな。お宅はどこです?」青山は何かつながりを見つけて、タナカ家に入り込みたがっている。タナカはあまりいい気はしなかった。初対面のくせに、やけに馴れ馴れしい感じがする。「じゃあ、息子さんが経理をやってるわけですか?」「ええ、まあ・・・」「経理なら私に任せてくださいよ。ひとりで大変でしょう?」「いや、計理士がいますから・・・」「計理士を雇うと金がかかるでしょ?月にいくらで雇ってます?」「月5万ですね」「すると年に60万ですか。それだけ払うなら、私にやらせてくれた方が安く付くと思いますけどね」「はあ・・・」タナカは警戒した。「こいつ、家の経理をやろうって、何をするつもりなのか?・・・」和男は青山を雇い入れることにした。
和男がトイレへ行くと、タナカは青山とふたりきりになった。待っていたように青山が訊いてくる。「給料台帳とかは家にあるの?」「え?ああ、はい・・・」「家は近いのかな?」「はい。駅の近くのマンションです」「ふうん・・・」青山は無遠慮にタバコを吸い始めた。「こいつ、どういうつもりだ?ちょっと調子が良すぎるな・・・」青山はどういう経歴を持つ人物なのか?履歴書も持ってきていない。それなのに和男は雇うと決めてしまった。性急すぎやしないだろうか?早く中井の代わりになる配車係を入れたいという気持ちは分かる。だが、焦って変なのを入れてしまっては、それこそ、「取り返しのつかないことになる」とも限らないのだ。タナカは不安だった。
翌日。青山は待ち合わせの昭島駅に現われた。営業所は昭島からバスで行くのが一番近いのである。タナカと和男が待っていると、「やあ、参りましたよ・・・」無理に作ったような笑みを浮かべて寄ってきて、「じつは電車の中で、財布をすられましてね」という。「私の不注意です。乗ったときから何かおかしいとは思ってたんですが・・・警察に届けたら、あんたの不注意だって言われましてね、ハハハ・・・」「で、帰りの電車賃は?」和男が訊くと、青山は待っていたように、「すいませんねえ。ちょっと貸していただけないでしょうか?」と言ってきた。「怪しい?・・・」とタナカは思っていた。青山は財布を盗まれたと言ってるくせに、自分の昼食らしいコンビニの弁当を入れた袋を持っている。その弁当は財布を盗まれる前に買ったのだろうか?タナカが思い切って訊こうとすると、「いやぁ、じつは今日、知り合いの通夜がありましてね、横浜まで行かなきゃならないんですよ」という青山。「断るわけにもいかないんですよ。お世話になった人でして・・・」結局、和男は青山に交通費として3万円も貸してしまった。「オヤジもバカだ。なんであんな奴に3万も貸すんだ?」と思ったが、黙っていた。とにかく、青山は油断ならないと思った。
青山を八王子の営業所に連れてくると、案の定、小野夫婦は警戒の色を隠さなかった。青山が自己紹介しても、小野夫婦は軽く会釈をするだけだ。「邪魔者が来やがった」と思っているのが露骨に態度や表情に出ている。その日は中井も来ていた。中井は抗ガン剤の副作用で頭が薄くなっている。パーマをかけていた頭は丸刈りにしていた。中井は言った。「青山さんとか言いましたね。この仕事は経験しているようだから、私からプロのあなたに言うことはありません。ただ、あなたは配車係。配車のプロなんだから、配車のことだけやってもらえばいい。それ以外のことは、小野君もいることだし、私もいる。明星自動車はお堅い会社だから、余計なことに気を遣ったり、しなくてもいいことをしたり、妙な気を起こしたりしてもらっちゃ困りますよ。ま、あなたはプロだから、私がクドクド言うこともないと思うが・・・あなたは新入社員だから、実力はプロでも1年生のつもりでやってもらわないとね。そこら辺のことを注意してやってもらえれば結構です」言葉の端々に、この新参者に対する軽蔑の意味が込められている。青山は神妙に受け答えしていた。「今、中井君が言ったとおり、青山さんは新入社員だ。何事も初心忘れるべからず、だ。小僧のつもりで頑張ってくれ。分からないことは何でも聞いて、中井君も小野君も先輩なんだから、協力して頑張ってもらいたい。小野君、頼んだよ」和男が言うと、小野は軽くうなずいた。
その夜。「どう思う?」食事をしながら、和男が訊いてきた。「何が?」「青山だよ」「怪しいな」「やっぱり、そう思うか?」「当たり前だよ。財布を盗まれたなんてウソに決まってる」「警察に届けたと言ってたが・・・」「そんなの分かるもんか。オヤジから3万も取ったろ、あのオヤジ」「悪いことにならねばいいが・・・」「あいつ、八王子まで毎日、電車とバスで通うの?」「本人は苦にならないと言ってるが」「車は?持ってないの?」「いや、乗ってるという話をしてた」「じゃあ、なんで車で来ないんだよ?おかしいだろ?あいつ、本当は車持ってないんじゃねえの?」「まさか・・・」「それとも、交通費を取りたいから、車で来ないのかな?」「毎回、財布を盗まれたと言って、金をもらいに来るかな?」和男が自分で言って笑った。さびしげな、自嘲的な笑いだった。「冗談じゃねえよ。あんな奴に騙されてたまるかよ。オヤジもしっかりしてくれよな」「なあに、年は食っても、まだまだあんな若造にやられるほど鈍っちゃいないさ。おれの目の黒いうちは、誰にも好きにはさせんさ・・・」和男は強がって言ったが、食べ物はポロポロこぼすし、酔いの回りも早くなってきたようである。頼りないな、と思った。
数日後。松崎から和男に電話があった。「社長、じつは・・・」青山は車の免許を持っていないのだ、という。「お前、それを誰から聞いたんだ?」「本人からですよ」「青山が免許を持ってないって言ったのか?」「ええ。どうして車で来ないんだって聞いたら、あの野郎、サラッと言ってのけましたよ」「なんで持ってないんだ?免停か?最初から持ってないのか?」「さあ、そこまでは聞いてないんすけどね。それとなく探りを入れてみましょうか?」「いや、それはおれが聞こう。お前は何も言うな。分かったな?」タナカの予感が的中した。青山はウソをついていた。なぜ、車を持っているとウソをついたのか?和男は一昨年の苦い出来事を思い出した。
さらに数日後。今度は中井から電話があった。「和田君が今日、出てきたそうです。さっき電話がありまして」「和田が?」「会長にお会いしたいって言ってるんですが」「会いたい?おいおい、家に来るつもりじゃないだろうな?こっちは会いたくないんだ。あいさつなんて結構だ。そんなものはいらんから、もう二度とおれの目の前に現われないでくれって言ってやれ」和男は苦虫を噛み潰したような顔で言った。「和田の奴、まさか、金城へ乗り込むつもりじゃないだろうな・・・」和男は不安になった。
2年前の秋のことだ。当時、和田孝行というドライバーがいた。仕事ぶりは真面目そのもの。酒もタバコも一切やらない。安全運転で事故もなかった。そんな和田が大事故を引き起こしたのである。
群馬の高崎の先で、和田は10トントラックを運転していた。その時、後ろを走っていたトラックがクラクションを鳴らした。トラックは和田のトラックの真後ろにぴったりとくっついている。和田は、「危ないな」と思い、ウインカーを点滅させて、後続車に道を譲ろうとした。若い頃は無茶もした和田だったが、50を過ぎて、もう無茶をする気もなくなっていた。余計な揉め事は好まなかった。しかし、トラックは和田の後方にピタッとはりついたままだ。さらにクラクションを鳴らしてくる。和田は仕方なく窓を開け、右手で合図を送った。「先に行け」という意味だ。それでもトラックは動こうとしない。和田の後方にへばりついたまま執拗にクラクションを鳴らし続ける。明らかな嫌がらせだった。「この野郎・・・」と思い、和田は腹が立ってきた。和田は元ヤクザである。何度も刑務所に入ったし、人を殺したこともある。今でこそ堅気だが、ヤクザの血は今も和田の体内を流れている。カッとなると自分でも何をしでかすか分からない。ただ、若い頃とは違い、分別がつくようになっていたし、孫も生まれた。もう無茶なことはできない、と自分に言い聞かせていた。「おれもムショで死にたくはないからなあ・・・」と思っていた。和田は怒りをぐっとこらえた。ところが、和田が挑発に応じないと見るや、相手はさらに挑発してきた。クラクションを鳴らし続け、ライトを点滅させる。和田は耐えた。無視した。トラックはいつまでも和田の後についてくる。深夜の一般道である。和田はどこかで引き離そうと考えた。ちょうどその時、前方の信号が黄色に変わった。和田は一気にアクセルを踏み込んだ。和田のトラックはぐんぐん加速していく。信号が赤に変わった。サイドミラーに目をやると、負けじと後続車も追いついてくる。「この野郎!」和田の堪忍袋の緒が切れた。そして、無意識のうちに和田はブレーキを踏み込んだのである。当然、後続車は和田のトラックの後部に激突した。加速していたからたまらない。衝撃で和田は強く頭を打った。その時、思わずハンドルを左に切った。和田のトラックは道路の路肩に乗り上げた。ガードレールを突き破り、電柱にぶつかって停まった。「やっちまった・・・」和田はすべての努力が水の泡になったことを直感した。フロントガラスはメチャメチャに割れている。何とかドアを開けてトラックから降りた。荷台の後部はぺしゃんこに押し潰されている。後続のトラックも前方がメチャメチャだ。和田も頭と足にけがをしていたが、トラックの運転手は全身打撲で意識不明の重体。和田は駆けつけた警察に業務上過失致傷の現行犯で逮捕された。
取り調べに対し和田は、「後続のトラックに執拗に挑発された」と主張し、「急ブレーキをかけたのは自分が悪いが、挑発した相手側も悪い」と言い張った。状況は圧倒的に和田に不利だった。まず、和田が無免許運転をしていたことが分かった。明星自動車に雇われた際、「免許は持っている」と話し、平気で10トントラックを乗り回していたのだが、前の職場でも事故をやらかし、免停になっていたのである。和田は叩けば叩くほど埃が出てくる男だった。元ヤクザということは和男も知っていたが、「いや、ああいう人ほど、改心して堅気になると真面目に働くんですよ」という中井の考えで、和田のような男を雇ってしまったことに、「今さら悔やんでも仕方ない」とは思うものの、和田は警察の調べでも強硬に、「最初に挑発した相手方が100%悪い」と言い張るばかりだったから、ますます警察・検察の心証を害してしまった。相手の運転手は全治8ヵ月の重傷である。しかも脊椎を損傷し、半身不随になってしまった。
すぐに中井が相手方へ謝りに行った。相手の会社は、「(株)金城商会」という名古屋に本社のある運送会社だった。そこの川村次郎という営業部長は、「お宅の社員教育はどうなってるんですか?」と中井にトゲトゲしい口調で言った。「うちには他社のドライバーを挑発するような馬鹿な従業員はいません」「でも、和田君はお宅のドライバーに挑発されたって・・・」「その和田という人、無免許だったそうじゃないですか」「はあ・・・」「おまけにヤーさんだって?そんな危ない人を雇うなんて、お宅の会社はどうかしてるんじゃないですか?」「いや、和田君は改心して、真面目に働いていたんです。無事故・無違反で・・・」「無免許は立派な違反ですよ?おまけにうちのドライバーに大けがまでさせて」「普段は大人しいんです。酒もタバコもやらず・・・」「とにかく、警察はお宅に100%過失があると判断してます」「そんな・・・」「こっちは損害賠償の民事訴訟も検討しています」「でも、和田君を挑発したお宅のドライバーだって・・・」「まだそんなこと言ってるんですか?警察はどっちの言い分を信用するでしょうかね?前科持ちの無免許のヤーさんの言うことなんて、警察がまともに取り上げるわけないでしょ。私も和田という人の言うことは全く信用できませんね」
結局、和田が全面的に悪いということになってしまった。和田は起訴された。裁判官も和田の主張を退け、「被告人を懲役1年6ヵ月の実刑に処す」という判決を下したのである。
和田は拘置所の中から和男に手紙を送った。その中で和田は、「社長からの恩を仇で返してしまい、まことに申し訳ありません・・・」と詫び、「警察も検察も裁判所も、前科者の私の言うことなど全く取り上げてくれず、今、こうして判決が確定し、刑に服する段階になっても、まだはらわたの煮えくり返るような思いです・・・」と判決への怒りをぶちまけた。「最高裁まで争うことも考えましたが、これ以上、闘ってみても結果は同じだという諦めが先に来てしまいます。社長や中井部長にこれ以上のご迷惑をおかけするわけにもまいりません。私は控訴を取り下げましたが、決して裁判の判決を承服したわけではありません。必ずやこの無念を晴らし、社長のご恩に報いるために、今は一日でも早く刑に服し、娑婆に出たいと考えています・・・」きれいな字で丁寧に書かれていたが、文面からは和田の激しい怒りと復讐の念が読み取れた。「合法闘争が無理である以上、私は最後の手段に訴えるまでです。あの金城という会社は骨まで憎い。私の言い分をまったく取り上げなかった警察、検察、裁判所も憎い。私は今の生活を失いたくない一心で頑張って働きました。人間、何かを失いたくないというのは強みです。しかし、何も失うものがないということほど強いものはないのです。すべてを失った今、私にはもう命しか失うものはありません。私からすべてを奪っていった金城、警察、検察、裁判所の連中に私は復讐をしなければなりません。すべてを奪われた男の意地です。虫けらにも五分の魂があるということを見せつけてやる。奪われたものの怒り、悲しみ、苦しみがいかほどに大きいものか、奴らに思い知らせなくてはならない。私は復讐の鬼になる・・・」などということを便箋いっぱいに書き連ねている。よく拘置所の検閲に引っかからなかったと思うくらいのことを書いているのだ。そして最後に和田は、「私がしたことは死んでも償えるものではありませんが、ここを出たら必ず、社長のご恩に報いたいと思っています。では御体にお気をつけてお過ごしください・・・」と結んでいる。和田は出たら何をするつもりなのか。「まさか、本当に金城へ乗り込んで暴れるつもりじゃないだろうな?・・・」和男は心配で不安でたまらなかった。
その和田が娑婆に戻ってきたのだ。服役態度は良かったので、早く出られたらしい。あの事件後、明星自動車は大赤字だった。トラックは大破し、ガードレールと電柱まで壊してしまった。相手方への慰謝料、さらに損害賠償で2千万円もの大金を失っていた。この赤字を埋めるのに四苦八苦していた和男なのだ。会社が苦しいというのに、中井はダウンしてしまうし、小野夫婦は自分勝手な要求ばかりするし、その上、今度は青山という得体の知れない男が入ってきた。そこに和田の出所である。「まったく・・・おれってやつは、どこまでついてないんだ・・・」和男は自分の人生を呪った。これも先祖の因果なのだろうか。カンボジアで殺されたであろうチェンの恨みなのだろうか。果たして、あの世にいるであろう信子は何と思っているのだろうか。考えてみたが、分からなかった。「そんなわけで、青山の素性を調べてもらいたいんですよ」和男は電話で興信所の調査員と話をしていた。「ええ。うちに来たのは、つい先月です。熊本の出で、実家が運送屋をやっていたから経験があるって言うもんだから、こっちはその気になって、彼に配車をやってもらおうとしてたんです。ところが、いつまでたっても自分ひとりで配車をやろうとしない。もう1ヵ月になるというのに、全然埒が明かないんですよ。それで、こいつは何かあるんじゃなかろうかと思いましてね。それと、車の免許も持ってないみたいなんです。面接したときは、ちゃんと免許を持ってるという話だったんですがね・・・」青山が入社して1ヵ月。この間、青山はほとんど配車をやっていない。「配車の経験がある」と言っていたくせに、10日経っても、20日経っても、「まだ自分ひとりではできない」と言って、中井や小野夫婦に任せっきりなのだ。「これは怪しい・・・」と和男も疑い始めた。「青山は実家が運送屋だと言ってたが、本当はウソなんじゃないか?・・・」車の免許を持っていないということも疑いを深めた。あの後、松崎がそれとなく理由を聞き出そうとしても、言葉を濁しているらしい。「あいつ、乗っ取り屋か何かじゃないすかね?」と松崎が言う。「ヤバイことして世渡りしてきた奴ですよ、あいつは。同業者の匂いがするんです。奴がいくら隠したって、こっちは全部お見通しだ」「ふうむ・・・」「今のうちに首を切っておいたほうがいいんじゃないすか?また和田さんみたいなことになりかねませんよ」「しかし、辞めさせるにしても理由がいる」「理由なら、いくらでもあるじゃないすか。免許を持ってないだけで十分ですよ」「それだけでは心もとないな。訴えられでもしたら面倒だ。もっと確かな証拠が必要だ」「あっしが調べましょうか?信用のおける手下が今もいますから、そいつらを使って青山の素性を洗ってみましょうか?」「いやいや、そんなことはしなくていい。それはこっちで調べるから、お前は何にもするな」「興信所を使うんですかい?そんなの雇うより、あっしのほうが安くつくと思いますけどね・・・」和男はタナカに命じてインターネットで近場の興信所を調べさせ、電話をかけたのだ。興信所は5万円で青山の調査を引き受けるという。しかし、個人情報保護法が施行されたので、もっと深く調べるには15万から20万かかるという。「とりあえず、青山がどこで何をしているのか、それだけでも調べてください。お願いします・・・」和男はとにかく精神の安定を得たかった。青山が何者なのか分からないことには、日増しに膨らんでいく不安に押しつぶされてしまいそうだった。
もう季節は夏である。会社の営業所は八王子から山梨県の塩山市へ移転することになった。土地関係の手続きは不動産屋の島田がやってくれた。タナカも和男や島田とともに現地を視察した。車で行ったのだが、とんでもない田舎である。ブドウ畑とワイン工場しかない。俳優の三浦友和の出身地ということだが、「なんだか辺境の地に追放されたような気分だな・・・」とタナカは思った。もっとも、営業所を移すといっても、それは東京都の規制を逃れるためだから、トラックのナンバーを山梨に移すというだけで、実際の業務は八王子の営業所でやっていくということになった。
7月になった。いつまでも梅雨が明けず、だらだらと雨が降り続いている。興信所の調査結果が出た。青山はちゃんと調布に住んでいて、妻子もいるという。特に不審な点は見当たらない、ということだった。「じゃあ、実家が運送屋というのも本当だったのかな?」と思ったが、相変わらず、青山は配車をやろうとしない。中井や小野夫婦が非協力的なのもあるのだろうが、「経理をやりたい。会社の経理をやらせてくれ」などとしつこく言ってくる。「経理じゃない。配車をやれと言ってるんだ」と和男が言っても、青山は浮かない顔をしている。やはり、青山は会社の経理をやることで、会社を乗っ取ろうと考えているのか。車の免許がない理由も言おうとしない。
そんな中、松崎が情報を持ち込んできた。「会長、あの青山って奴は大変な野郎ですよ・・・」「どういうことだ?」「いや、実はね、あっしの手下がムショで奴を見たって言うんですよ」「なに?」「奴の顔を見たら、野郎、ぶっ飛んで驚いてましたよ。間違いない、こいつは青山って奴で、自分と同じムショに入ってた奴だって・・・」「なんだ、お前、青山をそいつに会わせたのか?」「それとなく、青山を飲みに誘ったんです。あっしの手下も連れてってね。しこたま飲ませたら、あの野郎、ワルに似合わずペラペラとしゃべりましたよ」「何をしゃべったんだ?」「実家は熊本だが、運送屋なんてのは真っ赤なウソ。親父はガキの頃蒸発し、女手ひとつで育てられたが、手癖が悪くって、何度もムショと娑婆を行き来した。運送屋に勤めたこともあるが、事故を起こして免停。それっきり車には乗ってない。去年までムショに入ってて、久しぶりに娑婆の空気を吸ったところだって、ぬけぬけと抜かしやがった」「本当なのか?」「奴が言ったんだから、本当でしょうよ。てめえに都合の悪い話を好んでする馬鹿はいねえ」「で、青山は何をして刑務所に入ってたんだ?」「それも質のよくねえ罪だ。つまるところ、奴は勤めてた会社で詐欺をして、お縄になったんですよ。窃盗と詐欺の常習犯ですね、あの野郎は」「・・・・・・」松崎の話が本当なら、とんでもない男を入れてしまったものだ。和男の表情が曇った。「会長、どうします?早く青山をクビにしたほうがいいんじゃないすかね?」「お前の話が本当ならな」「それを言っちゃあおしめえよ。会長、あっしを信用してもらわないと。あっしは奥さんから会社を託されたんですからねえ・・・」松崎は今は亡き信子を持ち出して、「会社をおれによこせ」と言わんばかりの態度だ。これを機に一気に天下を取るつもりでいるのだろうか。「とにかく、まだ青山から直接聞いたわけじゃないから、今は何とも言えん。一度、みんなを集めてじっくりと話し合うことにしよう。結論を出すのはそれからだ・・・」和男はそれだけ言うのがやっとだった。
7月28日、金曜日。名古屋に和田の姿を見ることができる。和田は守山区の「金城商会」営業所ビルへ向かっていた。作業着姿の和田は重たい台車を押している。台車には18リットル入りのポリタンクが10個も積まれていた。中身はすべてガソリンで満たされている。近くのガソリンスタンドで、「機械の洗浄に使う」と言って購入したものだ。暑い日だった。和田は首に巻いたタオルで顔の汗を拭いながら進んだ。「金城商会」の事務所は5階建て雑居ビルの4階フロアにあった。和田はエレベーターで4階へ昇った。そのまま台車を押して事務所へ入る。事務所では40人あまりの社員が働いていた。和田は台車のポリタンクを蹴倒した。ガソリンが床にぶちまけられる。強烈なガソリン臭が室内に広がった。「おい、何をするんだ!」若い男子社員が和田につかみかかろうとした。「邪魔するな!」和田が顔を紅潮させて社員の腕に切りつけた。和田は出刃包丁を持っていたのだ。女の悲鳴が上がった。和田は仁王立ちになって叫んだ。「全員動くな!動いたら火をつけるぞ!」右手に包丁、左手にライターを持っている。一瞬にして社員たちは凍りついた。
現場のビルは愛知県警によって完全に包囲された。和田はガソリンを撒いた部屋に37人の社員を人質にして立てこもったのだ。包囲した警官隊もうかつに手を出せない。もし和田が火をつければ大変なことになる。警察の対策本部は5階に設けられた。愛知県警の捜査員が電話やドア越しに説得を試みた。しかし和田は、「警官の姿が1人でも見えたら火をつける」と脅して、まったく取り合わない。「君の要求は何だ?要求を言ってみてくれ」と捜査員が呼びかけると、「2千万円を明星自動車の銀行口座に振り込め」という。和田は2年前の事故で明星自動車がこうむった損害を、このような形で取り戻そうとしているのか。東京で事件を知った和男は、「まったくバカバカしい・・・」驚くよりも呆れ果てた。和田は本気だ。「午後3時までに要求が通らなければ火をつける」というのだ。この時、すでに正午。タイムリミットまであと3時間しかない。警察は強行突入も考えた。これが普通の立てこもり事件ならば、特殊部隊が屋上からロープで降下し、窓を破って閃光弾を投げ込む。大きな爆発音とまばゆい閃光で犯人の動きを封じてしまえばよい。しかし、この状況ではそれができないのだ。ガソリンを撒いた部屋に閃光弾を投げ込むことはできない。そんなことをすれば犯人も人質も全滅だ。現場には消防車も待機している。高圧放水で窓を破り、ガソリンを洗い流してしまえばよいのではないか。しかし、現場は4階の高さだ。ハシゴ車のハシゴを伸ばさないと届かない。ハシゴを伸ばし始めたら和田に気付かれてしまう恐れがある。しかも室内には気化したガスが充満している。ちょっとした衝撃で爆発してしまう危険性があった。そこで警察は、「和田を部屋の外へおびき寄せ、取り押さえる」という作戦を練った。とりあえず、和田の要求に従うふりをするのだ。説得に当たった愛知県警の吉江修信警部補は、「君の要求はのむ。その代わり、人質は解放してくれ」と和田に呼びかけた。和田はこれに応じた。
午後零時半、和田は営業部長の川村次郎を残して36人の人質を解放した。残されたのは川村だけである。川村は2年前の事故で、「和田が100%悪い」と主張して、明星自動車から大金を取った男だ。「あんたは、最後まで残ってもらう」と和田が言った。「馬鹿め。こんなことをして、ただで済むと思ってるのか?」川村がイスに縛り付けられたまま憎々しげに言った。「2千万を振り込めだと?ふん、そんなことをして何になる?」「けじめさ」「けじめ?」「これがおれのけじめさ」「世話になった会社への恩返しってわけか?」「まあな」「ふん、馬鹿か」川村がせせら笑った。「そんなことをしても無駄だ。事件が終われば、金はうちに戻る。あんた、本当に自分が勝ったとでも思ってるのか?」「どうせ、おれの言うことなど誰も聞いちゃくれない。こうするしかなかったのさ」「あんたは馬鹿だ。大馬鹿野郎だ。そんなに刑務所へ戻りたいのか?」「いや、ムショには戻らない」「なんだと?」「あんたを道連れに死ぬのさ」
同じ頃。和男のもとに電話があった。和田が現場からかけてきたのだ。「社長、短い間でしたが、お世話になりました。前科者の私を雇ってくれて、その恩に報いようと一生懸命働いたのに、こんなことになっちまって・・・本当に申し訳ない」和男はイライラしてきた。「申し訳ないだと?だったら、なんでこんなことをしでかした?こっちはいい迷惑だ。まるで、うちがお前とグルで、金城から金を取ろうとしたみたいに思われるじゃないか!さっさと出てこい!」「社長のお怒りはごもっともです。しかし、これが私のけじめのつけ方なのです」「けじめだって?まったく、お前って奴はどこまで馬鹿なんだ!」「自分の罪は自分の命で償います。社長、いつまでもお元気で。奥様にも、よろしくお伝えください」「女房は死んだよ」「えっ?」「去年の9月、ガンで死んだ」「死んだ?・・・」「ああ、お前さんが事故を起こしてからというもの、まったくうちはろくなことがないんだよ!女房だって、お前さんが殺したようなものだ!お前のせいでストレス受けてガンになったんだ!」和男は感情をむき出しにして怒鳴った。「そうでしたか・・・そうなのか・・・知らなかった・・・奥さんが・・・」さすがに和田もこたえたようである。和田は信子の親切が忘れられなかったらしい。「これ以上、馬鹿な真似はやめろ!」和男が怒鳴りつけると、「分かりました。もうやめにします。これから出ていきます」和田は急に心変わりした。熱しやすいだけに冷めるのも早い。ドア越しに室内の様子をうかがっていた吉江も、「しめた!」と思った。「和田が出てくる!」と手で合図を送ると、後方で待機していた巡査部長の菊地幸一が駆け寄った。和田が出てくるのを待って、一気に突入する。もしもの事態に備え、菊地は消火器を持っていた。和田がドアを開けたら、消火剤を吹きかけるのだ。その時、川村が後ろ手の縛めを切った。和田にガムテープで縛られる前、ひそかにズボンの中にペーパーナイフを隠していたのだ。これを使って、和田が電話に気を取られている間、少しずつ切っていった。和田が電話の受話器を置いた。その瞬間、川村がパッと跳ね起きた。「うわああああっ!」叫びながら必死で和田に襲いかかる。振り向いた和田の肩にナイフが深々と突き刺さった。和田の顔が歪んだ。激痛とともに怒りが湧き上がった。「この野郎!」「うわああああっ!」和田がライターを点火した。「ボンッ・・・」鈍い爆発音が轟いた。一瞬、室内がオレンジ色に包まれた。すさまじい爆風で窓ガラスが粉々に飛び散った。現場を取り巻く警官隊と報道陣に破片の雨が降り注ぐ。爆風でドアも吹き飛ばされ、廊下にいた吉江と菊地も床になぎ倒された。「ああっ・・・目が、目が見えない!・・・」飛び散ったガラス片が目に入り、吉江と菊地は床を這いずり回った。割れた窓から黒煙が吹き出す。川村が身を乗り出して叫ぶ。「た、助けてくれえ!・・・」背後から真っ赤な炎が襲いかかった。折からの強風にあおられて勢いよく火の手が広がった。現場は騒然となった。テレビ局のリポーターが興奮して叫ぶ。「爆発です!爆発しました!男が立てこもっている、4階の事務所が、たった今、爆発しました!こ、これを見てください!飛び散った破片で、腕にけがをしました!」カメラマンがリポーターの負傷した腕にカメラを向ける。すぐに消火作業が始まった。鎮火したのは1時間半後である。
無残な焼け跡から4人の死体が見つかった。犯人の和田、人質の川村、説得に当たっていた吉江と菊地の4人である。負傷者は43人にのぼった。和田と川村の死体は真っ黒に焼け焦げていたが、吉江と菊地の死体は目立った外傷はなかった。破片で目をやられ、逃げ遅れたところに有毒な煙を吸い込んだのである。マスコミはこのショッキングな事件をこぞって報道した。明星自動車の営業所にもマスコミが押し寄せた。ちょうど山梨への移転を進めていたところだったので、何かと忙しいところにこの事件である。和田が刑務所を出た直後に起こした事件だっただけに、警察の事情聴取もあった。和男は疲れ果てていたので、「何もお話しすることはございません」と繰り返すだけだった。
和男の説得で、和田は人質を解放し、投降すると思った矢先の爆発であった。事件は平和的に解決されると思ったのも束の間、最悪の結末を迎えてしまったのである。テレビのニュースは爆発の瞬間の映像を繰り返し流している。その後の報道で、「人質に抵抗され、火をつけてしまったらしい」ということが分かった。「和田さんは死にたかったのかな?」とタナカが言うと、「どうせ、ああいう男のことだ。刑務所を出たって、どこにも行くあてがない。だから、何か事件を起こして、また刑務所に戻りたかったんだ。刑務所にいれば、食うに困らないからな・・・」和男は苦々しげにそう言った。「でも、それならガソリンを撒いて火をつけることはないはずだよ。包丁だけ持っていけば済む話じゃん」「ガソリンを撒いたのは脅しのつもりだったんだろう」「それが脅しじゃなくなった?」「ガソリンは危ないんだ。奴だってドライバーなんだから、そのくらいのことは分かってたはずだ」「じゃあ、なおさらガソリンなんか持っていかなかったんじゃないの?」「あるいは死ぬつもりだったのかもしれん。それは本人に聞かなきゃ分からんが、奴は死んだんだ。今さら何も聞けない。とにかく、こっちは奴のせいで大迷惑だ。死んで楽になれるなら、こっちが死にたいくらいだ・・・」と和男は言った。
タナカは考えた。和田はあの日、あそこで、死ななければならない運命だったのだろうか?川村も吉江も菊地も、和田と一緒に死ぬ運命だったのか?それが運命だとしたら、「因果応報ってやつかな?」と思った。和田は罪を犯した。どこの誰を殺したのかは知らないが、和田は殺人の罪で服役していたと聞く。服役後、和田は真面目に働き始めた。本人は改心したつもりだったのだろう。一生懸命働いて、人生をやり直すつもりだったのだろう。しかし、運命はそれを許さなかった。和田は再び、つまらぬことから罪を犯し、刑務所に戻った。刑務所の中で和田は、自分を冷たく拒んだ社会への憎悪と復讐心だけを募らせていたに違いない。そして出所後、金城へ乗り込み、ガソリンを撒いて自爆した。すべて和田にとって不利な状況に動いていったのは、「和田が犯した悪事への報い」であったと言えないこともない。和田がいくら罪を償い、改心したつもりであったとしても、「本当の意味で罪を償うということは、こういうことなのだ」と言っているようにも思えた。どんなことをしても、和田は不幸にしかなれない運命だったのか。そして、最期は生きながら焼かれる苦しみを味わわなければならない運命だったのか。そう考えると、一緒に死んだ川村や吉江や菊地も、それぞれに、「犯した悪事への報い」を受けたのかもしれないと思った。川村も吉江も菊地も、何らかの罪を背負っていて、あのような形で償うことになった。何の罪で?誰が犯した罪で?それは分からない。分からないが、親かも知れないし、先祖かも知れない。あるいは前世の自分が犯した罪かも知れない。人は生まれながらに罪を背負っている。人が不幸になるのは、「罪を償うため」なのかもしれないと思った。
そのように考えると、「おれが不幸なのも、罪を償うためなのか?」と思えてくる。ホモにレイプされ、女の子にいじめられ、親が死んで、会社を任され、苦労の連続なのも、「罪を償うため」なのか。「おれの罪って一体なんだ?」思い当たることは、「松尾礼子を救ってやれなかったこと」と、「原田佳代と林真由美に痴漢行為をしたこと」くらいしかない。自分は礼子を救えなかった罪で、「このような目に遭わなければならないのか?」と思った。たかが痴漢くらいで、これほどの罰を受けるとは思えない。
だが、そうなると、「では、礼子は何の罪で自殺しなければならなかったのか?」という疑問も出てくる。礼子自身の罪か、礼子の親の罪か、それとも前世で犯した罪か?そこまでは分からない。
その晩、タナカは夢を見た。神様のような老人が目の前にふわっと現われて言うのだ。「不幸な人間は、不幸になるために生まれてきたのではない。自分自身か、自分の親か、あるいは前世の自分が犯した罪を償うために、不幸になったのだ。だから、社会が悪いとか、他人のせいにしてはいけない。すべては自分が悪いのだ・・・」さらにこう言った。「不幸な人間は、思いっきり不幸になるがいい。不幸になることで罪を償い、悪事への報いを受けなければならない。すべての罪を償い、報いを受けたとき、人は初めて幸せになれるのだ・・・」タナカは目が覚めた。老人の言ったことが頭から離れない。老人の言ってることが正論のように思えた。自分は不幸になろうと思った。不幸になって、罪を償い、報いを受けようと思った。そうすることで、「幸せになれるのなら、文句はない」と思った。たとえ現世で幸せになれなくても、「罪を償いきって、生まれ変われば、来世ではきっと幸せになれる」と思った。
もう迷いはなかった。あれほど投げやりに考えていた、「人が生きる意味」「幸せの意味」が確かな答えとなって見えてきた。人は罪を償うために生きるのだ。罪を償うとは苦しむことである。幸せになろうと思ったら罪を償わなければならない。苦しんで苦しんで苦しみぬいた先に、「幸せな人生」が待っているのだ。タナカ家の不幸は自分の代で終わらせようと思った。家を出た愛実のことがふと脳裏をよぎった。「どうしてるのかな、あいつ?あいつだけは幸せになってもらいたいな・・・」
和田の事件後、会社の経営は一層厳しくなった。事件をきっかけに、「お宅との取り引きは今後やめさせてもらいます」という取引先が次々に出てきた。「あの会社のドライバーを怒らせたら、とんでもないことになる」と思われるのも無理はない。「この会社ではやっていけない」と辞めていくものもいる。中井も小野夫婦も松崎も青山も、「こんなことになるとは・・・」夢にも思わなかったことだろう。「こんなことになったのも、青山みたいな奴を入れるからですよ」と松崎が和男に言う。「会長、早いとこ、青山の奴をクビにしてくださいよ。このまま放っておいたら、会社がつぶれちまいますよ」と畳みかけるように言う。「青山は相当なワルです。渡り中間みてえに、あっちこっちの会社を回っては、そこの金をくすねて生きてきたダニみてえな野郎ですよ。あっしはヤクザもんだが、これでも分別はわきまえてます。人様のものに手は出さねえ。あんなカスと一緒にされちゃあ困りますぜ・・・」松崎は何とか青山を追い出したいようだ。何よりも会社が倒産し、路頭に放り出されるのを恐れているらしい。松崎のような身寄りもいない、ヤクザ崩れが職を失ったら、どうやって生きていくのか。誰よりも世の冷たさを味わっているだけに、松崎としては、何としてもこの職場を失いたくないのだ。和田の壮絶な最期を目の当たりにして、精神的にも追い詰められているようだ。「会長、何を迷うことがあるんです?青山は会長にウソをついていた。これだけでクビにするには十分じゃないすか。なんでクビにしないんすか?あっしは会長のそういう態度が気に喰わねえ」もちろん、和男だって青山をクビにしたいのは山々だ。しかし、青山のようなワルのことだ。「不当に解雇された」などと労働基準監督署に訴えたりしかねない。それだけならまだしも、ああいう男のことだから、恐喝めいたこともしてくるかもしれない。そうした事態を懸念して、なかなか青山をクビにできず悩んでいたのだが、「青山なんかに配車を任せるくらいなら、あっしは小野夫婦に配車を任せたほうがよっぽどいいと思いますがね・・・」などと松崎が言ってくる。ここで松崎と小野夫婦が、「反青山」で結束してしまえば、当然、彼らの影響力が強まる。小野夫婦と松崎の影響力が強まれば、小野夫婦をこころよく思っていない池澤、大澤、矢島のような古参の稼ぎ頭が辞めてしまうことになりかねない。そうなれば、いよいよ明星自動車は倒産である。このような危機的状況に陥っていながら、自分の利益しか考えず、不毛な権力争いを繰り広げる小野夫婦や松崎を見ていると、和男は、「この馬鹿どもが・・・」と情けない思いで一杯になるのだった。
この年の夏は冷夏だった。8月は涼しい曇りの日が続いた。「あれからもう1年になるんだな・・・」信子が家族の前でガンを告白し、あっという間に逝ってから1年。この1年は苦難の連続であった。まるで、タナカ家が背負ってきた罪を清算するために、神が与えた罰のようである。「この罰はいつまで続くんだろうか?・・・」そして、罰の先には何が待っているのだろうか。あれから夢に神は出てこない。夢を見たような気はするが、覚えていないのだ。そのくらい、肉体も精神も疲れ果てていたということだろうか。
9月になった。30日の信子の命日を前に、一周忌を行なうことが決まった。そこに愛実から連絡があった。タナカの携帯電話にかけてきたのである。久々に聞く妹の声は元気そうだ。タナカはホッと一安心した。「どうした?何かあったのか?」「ううん、別に」「ちゃんと学校は行ってるのか?」「もちろん。来年は受験だよ。大学に行くんだ」「お前、今、どこに住んでるんだ?友だちの家か?」「ちゃんとアパートに住んでるよ。生活費は自分でバイトして稼いでるんだ」「アパート?誰が保証人だ?」「お父さんだよ」「えっ?」意外だった。和男が愛実のためにアパートを借りたというのだ。和男はタナカに何も話していない。「じゃあ、オヤジはお前が大学へ行くことも認めたのか?」「うん。あれからお父さんの携帯に電話して謝ったんだ。黙って家を出ちゃってごめんなさいって。泣きながら謝った。お父さんが嫌いで出ていったんじゃないって。そしたら、お父さん、許してくれた。それから、お前の人生なんだから、しっかり頑張れって応援してくれたの。お前は家を出て自立しろって。自立するには住むところがなくちゃいけないから、アパートはおれが借りてやる。ただし、自分の生活費は自分で稼げって。まさか、ここまでしてくれるとは思わなかったから、あたし、感動しちゃって・・・」電話口で愛実は泣いているようだった。「そうか・・・オヤジが、お前に・・・」タナカは救われるような気がした。自分の実の娘ではない愛実に、和男は親としての愛情を持っていたのだ。あれほど口うるさく愛実をしつけたのも、「早く自立させたかったから」という理由が見出せる。タナカには自立しろ、などと一度も言ったことのない和男だ。自分の息子には甘かったということか。「いや、そうじゃない・・・」とタナカは思った。タナカを自立させることができなかった失敗を教訓として、だからこそ愛実には早く自立してもらいたいと願ったのだろう。これだけ冷静に客観的な見方ができるほど成長した自分に、タナカ自身は気付いていない。「で、お前、彼氏とかはいるのか?」「ふふん・・・」と照れくさそうに愛実が笑った。「いるのか?」「うん。バイト先の店長。大学生」「変な奴と付き合ってるんじゃないだろうな?」「何よ、急に兄貴ぶっちゃってさ」「心配なんだよ、マジで」「変な人じゃないよ。彼も苦労してるの。油絵を描いてて、すっごく魅力的な絵を描く人。将来は画家になりたいんだって」「彼とは結婚も考えてるのか?」「今はまだ、そこまでは考えてないよ。私も大学へ行きたいし、もっともっといろんな経験をしたいの」「まあ、とにかく変な男に気をつけろよ」「それはともかく、お母さんの一周忌、私も行くね。今日はその話をしたかったの」「ああ、もちろん来いよ。母さんだって、お前に会いたいはずだ」「あたし、お母さんのことも許せるような気がするんだ」「そうか」「今は許したいと思ってるの。お母さんを憎みたくないの。そんなことをすれば、私もお母さんも救われないと思ったの」「なるほどな・・・」愛実も成長したな、と思った。憎しみの連鎖を断ち切ることができれば、タナカ家の不幸も終わらせることができるだろう。それに期待するしかなかった。「じゃあ、一周忌の日に、またね・・・」そう言って、愛実は電話を切った。
数日後。松崎が青山を飲みに誘い出した。口のいやしい青山のことだから、「一杯おごる」と言われればホイホイついていくのである。「いやあ、今日はごちそうになっちゃって・・・」松崎の金でたらふく飲み食いした後、「家まで送りますよ」というので、青山は松崎の運転する車に乗り込んだ。車はどんどん人気のない方向へ走っていく。青山は居眠りしていて気付かなかったのだが、「さあ、着きましたよ」と言われて目を覚ますと、そこは真っ暗な多摩川の河川敷である。「うん・・・あれ?ここどこ?」車から降りて、冷たい川風に当たると、青山の酔いもいくぶん覚めてきた。「多摩川の河川敷だよ」「多摩川?あれ、間違えてない?」「いいや、おれは正気だよ」松崎は吸っていたタバコを投げ捨てると、「青山さん、あんたには悪いが、消えてもらうよ」そう言って、すかさず腰からピストルを取り出した。ロシア製のトカレフである。青山の顔が青ざめた。「ま、待て!待ってくれ!あ、あんた、そんなことして良いと思ってるのか?」青山は震えながら後ずさりした。松崎は片手でトカレフを向けたまま、「あんたみてえなダニにいてもらっちゃあ、こっちが迷惑なんだ。会社にとっても、プラスになることはないしな」「あ、あんた、ただの下っ端極道じゃねえな?」「おれかい?今は堅気だが、一時は日本最大の組織にゲソつけてたこともあるさ」「お、おれを殺すってのか?」「あんたが辞める気ゼロだからな。会長も一向にあんたをクビにする気配がないし」「辞めろというのなら辞めるよ!だから、おれを見逃してくれ!」「おれがチャカ持ってるのを見せちまった以上、あんたを生かして帰すわけにゃあいかねえな」「サツには何も言わないよ!約束する!」「さあ、どうだかな。おれは汚ねえ生き方してる奴の言うことは信用しねえんだ」「そんな・・・頼む!命だけは助けてくれ!」青山が両手をすり合わせて拝むように命乞いした。「あきらめな。あばよ」松崎は無造作に引き金を引いた。夜の河川敷に数発の銃声が響いた。青山は銃弾を浴びて草むらに倒れこんだ。死んだのを確かめてから、松崎は車に引き返した。トランクから大型の懐中電灯とスコップ、ゴム長靴を持ち出す。辺りを照らして薬きょうを拾い集める。長靴に履き替え、青山の死体を埋めるための穴を掘った。穴を掘り終えると、松崎は青山の死体を引きずってきて、穴に蹴落とした。上から土をかぶせ、踏み固める。そして、何事もなかったかのように車で現場を後にした。
信子の一周忌の法事は、9月中旬に行なわれた。愛実も喪服姿で出席した。約半年ぶりに再会した妹は大人びて見えた。都心の小さな寺の墓地の片隅に信子の墓がある。信子が生前、購入したものだ。周りはビル群に囲まれ、都会にあこがれて田舎から出てきた信子にはふさわしい場所であるような気がした。「ここ、お父さんも入るの?」と愛実が訊いた。和男は照れたように笑って、「馬鹿を言え。おれには実家の墓がある」と答えた。「でも、お母さんひとりじゃ淋しそうだよ。お父さんも入ってあげなよ」「馬鹿。まだ死んだわけじゃないぞ」「夫婦が別々のお墓に入ることなんてないでしょ。死んでからも別居したいの?」と愛実が皮肉っぽく言った。「言えてるな。オヤジ、入ってやんなよ」タナカが愛実の意見に同調した。「お兄ちゃんも入るんでしょ?」「おれが?」「私も死んだら、このお墓に入れてもらうよ。死んでも家族がバラバラなんて嫌じゃん」「まあ、お前の好きなようにしていいよ」とタナカは言った。順番から行けば、自分が妹より先に死ぬのだから、自分の死後のことは妹に任せるしかないと思った。「自分のことなんだから、ちゃんと自分で決めてよね。死んだ後も妹に世話を焼かせる気?」「分かった、分かった。おれもオヤジもここに入る。それでいいだろ?なあ、オヤジ?」和男の方を向くと、「ん?・・・うう、うん・・・」あいまいにうなずいてみせた。そんな和男を見て、愛実が微笑んだ。タナカは幸せな気持ちになれた。
青山が消息を絶って、数日が経過していた。突然、何の連絡もなしに消えたのである。会社を無断で休んでいると小野から報告があったので、和男が青山の自宅に電話をしてみると、「主人は先週から帰ってないんです」と青山の妻が心配そうに言う。「行き先に心当たりは?」「ありません。普段から無断で家を空けたことなんてないのに・・・」青山は意外と家庭的な男だったらしく、刑務所に入っている間も家族との面会は欠かさず、窃盗や詐欺で手にした金で家族にサービスしていたという。それだけに妻子の不安も大きい。「何か変な事件に巻き込まれたんじゃないかと思って、警察に捜索願も出したんですが・・・」「いなくなる前に誰かと会うというようなことは話していませんでしたか?」「会社の人と会って飲みに行くから、今夜は遅くなるということは言ってました」「飲みに行く?・・・」和男は嫌な予感がした。「まさか、松崎が青山に何かしたんじゃ・・・」とにかく、松崎を問いただしてみるしかない。青山の家族が騒ぎ出すと面倒なことになるので、その前に何とか解決したいと思っていた。
和男はさっそく、松崎の携帯電話にかけてみた。松崎は仕事で九州へ行っている。青山がいなくなっていることを伝えると、「ああ、そうすか」と他人事のような答えが返ってきた。「青山君は君と会って飲んでたんじゃないのかね?」和男が問いただすと、「さあ、覚えてないな」とはぐらかす。「青山君がどこへ行ったのか知ってるんじゃないのか?」「おれが?知りませんね」「青山君に何かしたんじゃないだろうな?」「会長、青山は自分からいられなくなって、どっか逃げたんじゃないすか?」「青山の居場所を知ってるのか?」「だから、知らないって言ってるじゃないすか」「青山の家族は警察に捜索願を出したそうだ」「じゃあ、警察に任せておけばいいでしょう」「そうじゃないんだ。青山の家族が騒ぎ出したらどうなるか、お前は分からないらしい」「へえ、どうなるって言うんです?」「もしも、だ。お前が青山に何かしてたら、ただ事じゃあ済まなくなるんだぞ」「おもしろい。会長はおれを疑っていなさるね?」松崎の薄笑いが聞こえた。和男は疑惑が確信に変わっていくのを感じた。「青山に何をしたんだ?」「あんな奴は生きるだけ無駄ですよ」「まさか、お前、青山を殺したんじゃないだろうな?」「遅かれ早かれ消えてもらうしかない」「お前が殺ったのか?」「おれが殺っていたら、どうします?」「・・・・・・」和男は息をのんだ。「会長、青山さえいなければ会社は安泰なんです」「馬鹿を言え。青山が何をしたって言うんだ?」「会長にウソをついていたでしょ」「それだけで殺す奴がいるかっ!」和男は小声で叱りつけた。「会長、危ない芽は早めに摘み取っておかないと、また和田の二の舞を踏むだけですよ。そのくらい、会長だって分かってるでしょう」「殺すのはやりすぎだっ!」「会長、小の虫を殺して大の虫を生かすって言葉があるでしょう?ああいう虫けらみてえな奴は、生かしておいたって何の足しにもなりませんよ」「だから殺したって言うのか?」「心配いりません。バレないようにやりました」「今に家族が警察に訴えるぞ!警察が動き出したらどうなるか、お前、分かってるのか?」「なに、証拠がなけりゃあ警察だって手出しできませんよ」「警察を甘く見ないほうがいいぞ!お前は前科者なんだからな!」「会長、うまくやりましょうよ。おれに任せてくれたら、会社はもっとうまくいきますよ。小野夫婦も辞めさせれば、すべてがうまくいく。池澤も大澤も矢島も、みんなおれが手なずけている。会社経営が円満にいくこと間違いなしですよ」「馬鹿か、お前は?!世の中、お前が考えてるほど甘くないぞ!」「会長もお年だ。早く息子さんを一人前にして、楽になりたいでしょ?おれに任せてくれりゃあ、明星自動車を世界一の会社にしてみせますよ」「もうダメだ・・・もう、何もかもおしまいだ・・・」和男は今までの努力がすべて水の泡となったことを直感した。警察が動けば、すべてが終わる。松崎が捕まり、すべてが明るみに出れば、会社は倒産する。今度こそ身の破滅である。松崎の犯行を知っていながら隠していたとなれば、和男も殺人の共犯で逮捕されてしまうだろう。この歳で刑務所に送られたら、もう生きて出ることはない。ひとりさびしく、冷たい塀の中で死んでいくのか。血のにじむような思いで、ここまでがんばってきたことが和男の唯一の心の支えだったが、それも今となっては、「すべてむなしい・・・」と思った。
その夜。「なあ、おれはもう疲れたよ・・・」そう言って、和男はため息をついた。「疲れた」というのは和男の口癖になっていたので、普段は別に気にしないタナカだったが、今日のは違った。本当に身も心も疲れきってしまったという感じだった。和男はめっきりと老け込んだ顔をさらに苦渋の色で満たし、「もう、会社を辞めようと思う」と言った。「えっ?」「もう疲れたよ。本当に疲れた。おれも70すぎて、普通なら、とっくに現役を引退して、余生を楽しんでるところだ。ずっと歯を食いしばってがんばってきたが、もう限界だ。もう会社はいらない。辞めたいんだ。本当に・・・」「会社を辞めるって・・・どうすんのさ?」タナカも困惑を隠せない。つい先日、信子の一周忌のときには、「おれと和彦とがんばっていくから、安らかに眠ってくれ」と信子の墓前で誓っていた和男なのである。その変貌ぶりにタナカも、「何かあったな」と直感したが、それが何なのかは分からない。まだ、松崎のことは知らされていない。「会社はさ、島田あたりに引き取ってもらおう。おれたちは第一線を退いて、会社の経営にも首を突っ込まない。ただ、給料だけ入れてもらえればいい。これまでの貯えもあるし、おれの年金もある。ふたりだけで暮らすなら、生活に何の心配もないさ。お前だって疲れただろう?社長なんてやりたくないだろ?お前も好きなことして暮らしたいだろ?」「う、ううん・・・まあ、そうだ・・・」和男の言葉にタナカの心も揺れた。本当は仕事などせず、外にも行かず、誰にも傷つけられる心配のない部屋の中で、ひとりで静かに過ごしたい。和男から言い出してきたことに、タナカは歓迎してよいのかどうか、迷った。「それで、その、会社を他人に譲るとして、その話は、もうみんなにしたの?」「まだだ。これからみんなを集めて、話をしようと思う」「そうか」「中井も小野も松崎も島田もみんな集めて、みんなの前で話をしようと思う」「そうか・・・うん、そうか・・・」タナカはなんだか無性にうれしくなってきた。心を覆う重たい雲の切れ間から、明るい太陽の光が差し込んできたような気分だった。「あさって、みんなを八王子に集めて、おれから話をしようと思う。お前も一緒に来い」「分かった。おれも行くよ」タナカは元気よく返事をした。和男の表情は暗く沈んだままだった。
翌日。八王子の営業所に青山の妻が現われた。彼女は明らかに憔悴しきった顔で言った。「あの、主人がいなくなったことで、何かご存じないでしょうか?」あれから何の手がかりもなく、警察に相談しても取り合ってくれないという。応対したのは小野の妻・眞弓である。眞弓は何気なく答えた。「私は知りませんけど、ああ、そう言えば、青山さん、松崎さんと一緒に飲みに行くなんて話をしてましたよ」「松崎さん?」「うちのドライバーですよ。なんか、仲良かったみたいですね」「その、松崎さんという方は今どこに?」「松崎さんは仕事で九州へ行ってますよ。帰ってくるのは明日になりますね」「主人のことで何か心当たりはないか訊きたいのですが・・・」「こっちから訊いてみますよ」「そうしていただけると幸いです」青山の妻が帰ってから、眞弓は夫の浩之と語り合った。「青山さん、女でも作って逃げたんじゃないの?」と浩之が言えば、「まさか。でも、ああいうジジイって結構、小金を貯め込んでたりするのよね、意外と」と眞弓が豊富そうな経験をもとに言う。「青山さん、松崎さんと仲良かったのかな?」「飲みに誘ったってことは、ふたりで何かの相談でもしてたのかしらね?」「この会社を乗っ取る相談ってこと?松崎さんは青山さんを嫌ってたように見えたけど」「ふたりがグルってことはないか」「松崎さんは一匹狼だよ。誰かとつるむのが嫌いなタイプだよ。だからヤクザから足洗ったんでしょ」「まさかとは思うけど、松崎さんが青山さんを殺したってことは?」「青山さんが邪魔になって?」「松崎さん、カッとなると何するか分からないわよ。いつだったか、会長を殴って大騒ぎになったこともあるじゃない」「あったね。警察呼ぶって大変な騒ぎになった」「あの人ならやりかねないわよ。青山さんを誘い出して殺して、どこかに埋めてたりして」「だとしたら、大変だよ。警察沙汰になる」「チャンスじゃない」「何が?」「松崎さんを追い出すチャンスよ」「どうやって?」「松崎さんが青山さんを殺したという証拠をつかめば、こっちのもんよ。証拠をネタに脅せば、松崎さんはいられなくなる。警察に訴えられたくなかったら会社を辞めろって言えばイチコロよ」眞弓の野心が大きく膨らみ始めた。このチャンスを逃がしてはならない、と思った。松崎の殺人の証拠が手に入れば、いよいよ会社は自分たちのものになるのだ。「でも、どうやって証拠を集める?」「青山さんを殺して、死体を処分したとすれば、絶対、車を使ってるはずよ」「松崎さんの車を調べてみる?」松崎は町田市の自宅から八王子まで車で通っていた。松崎の愛車は営業所の片隅に停まっている。小野夫婦は松崎の車のスペア・キーを取り出し、松崎が留守にしている間に車を開けて調べてみることにした。車のスペア・キーは松崎が会社に預けてあるものだ。営業所の駐車スペースは限られているので、留守中に何かあって車を動かさねばならないときなどに必要だ。小野夫婦は車内を丹念に調べた。浩之がトランクを開けると、中から大型の懐中電灯やスコップ、ゴム長靴が出てきた。スコップと長靴は使ったことを示すように泥が付着している。眞弓は座席の下やダッシュボードを調べた。すると、運転席の下から金属製の筒状のものを見つけた。「これ何だろう?もしかして、ピストルの弾?」トカレフの薬きょうである。すでに発射されたものだ。浩之は鼻を近付けてみて、「火薬の臭いがする」と言った。「間違いない。松崎は青山を殺している・・・」ふたりの疑惑は確信に変わった。
その夜。和男は電話でかなり長い間、小野夫婦と話をしていた。眞弓から電話をかけてきて、「松崎は殺人を犯したに違いない」というのだ。眞弓は根拠として、松崎の車から見つかった薬きょうの話をした。そして、こう言うのである。「会長、いい考えがあるんです。今、ここで事件を公にしてしまえば、警察も黙っていないし、マスコミだって大騒ぎすると思うんです。そうなったら和田さんの事件もあるし、会社がつぶれちゃうと思うんです。だから、ここはうまく松崎さんを説得して、会社を辞めさせた方がいいと思うんです。こんなことが明るみに出たら、本当に大変なことになると思うんですよ。だから、会長も誰にも言わないで黙っていた方がいいと思うんです・・・」和男は眞弓の魂胆が読めていた。松崎を辞めさせ、会社の実権を握り、さらには和男の弱みをも握って、完全に自分の思い通りにしてしまおうということだ。和男は努めて冷静に言った。「いいか、もし松崎が本当に青山を殺していたとしよう。それを知っていながら、我々が隠していたとしよう。それがバレたらどうなると思う?我々だって、殺人の共犯で捕まってしまうんだぞ」「もちろん、そうです。だから、ここはバレないように慎重にやるべきだと思うんですよ」「こんなことがバレないと思ってるのか?青山の家族が騒ぎ出したら、警察も本格的に動き出すだろう。松崎に警察の疑いの目が向くのは時間の問題だ。どう隠したって、隠しきれるもんじゃない」和男はすでに会社を手放す覚悟だから、松崎の犯行を隠すつもりなどない。松崎が捕まっても、それはもう自分には関係のないことだ。小野夫婦とグルになって、犯罪の片棒を担ぐようなマネはしたくないし、するつもりもない。「いいか、この際、はっきり言っておく。うちは運送会社だ。ヤクザではないしマフィアでもない。法に触れるようなマネはしないのだ。ずっと法令順守でやってきたんだからな。今さら、それを変えるつもりなんてないのだ」すると、眞弓が挑戦的に言った。「会長、本当にそれでいいんですか?本当に明星自動車は不正も違反も何もしてないって胸を張って言えます?」「何のことだ?」「知ってるんですよ、私。会長が松崎さんの脱税に協力してきたってこと」「・・・・・・」「それは不正じゃないんですか?立派な犯罪でしょう?訴えれば捕まりますよ、会長も」「そ、それは、松崎が・・・」「松崎さんに脅されて、仕方なくやったんですよね?でも、仕方ないで通りますかね?」「う、うむ・・・」「会長、うちは今、生きるか死ぬかの瀬戸際なんです。もしここで松崎さんが警察に捕まったら、私も会長もみんな破滅ですよ。松崎さんが全部警察にしゃべったら、何もかも終わりなんです。分かってますよね、会長も・・・」和男は何も言えなかった。結局、どうあがいたところで、破滅からは免れないのだ。松崎が捕まれば、和男も脱税の罪で捕まるかもしれない。会社は間違いなく倒産し、小野夫婦も他の社員もみんな失業する。和男は自分を取り巻く状況が、どうしようもなく絶望的なものであることを突きつけられたような気持ちだった。「会長、よーく考えてみてください。今、どうすべきなのか。何がベストなのか。私は会社のためを思って言ってるんですよ。会社を乗っ取ろうだとか、そんな大げさなことを考えてるんじゃありません。会長は私をどう思ってるのか知りませんけど。でも、これだけは信じてほしいんです。私だってずっとこの会社にいたい。この会社で働いていきたい。だから、社員として会社のことを思うのは当たり前です。会社のためを思って言ってるんです。それだけは信じてください。お願いします・・・」和男は迷った。誰の言うことを信じればよいのか。松崎と手を組むべきなのか、それとも小野夫婦か。会社を投げ出してしまえば確かに気楽だ。だが、破滅から逃れることはできそうにない。どうやっても、自分はこの地獄から脱け出すことはできないのか。「因果応報ってやつだよ・・・」和男はその言葉を思い出した。自分は先祖の犯した罪で一生苦しまねばならないのだろうか。
布団に入っても眠れない。和男は信子の遺影を抱きしめた。「信子、答えてくれ。おれはどうやっても救われない運命なのか?・・・」涙があふれてきた。声を殺して泣いた。「信子、おれもそっちへ行く。もうすぐ行く。待っててくれ。もうすぐだからな・・・」和男は信子の遺影を抱いたまま、いつしか眠りの中に吸い込まれていった。
翌日。池澤、大澤、矢島の3人が府中のタナカ宅を訪れた。何の連絡もなしに急に現われた3人を訝しげに見ながら、「おや、どうしたんだ?」と和男が言った。「会長、だいぶ、お疲れのようですね」と池澤。「顔がむくんでますよ。仕事のしすぎですね。ゆっくり休んだらどうです?」「休んでる暇なんかないよ」和男は苦笑しながら言った。「今日は大事な話があって来ました」「何の話だ?これから税務署へ行ったり忙しいんだ」「すぐ終わりますよ。30分だけ時間をください」そう言われては、部屋に上げないわけにもいかない。3人を代表して池澤が言った。「会長、松崎を辞めさせてください」「なんでだ?」「おれたちはずっと会長の下で働いてきた。明星自動車という会社を愛してます。でも、松崎の下で働くのはゴメンだ」「松崎が何かしたのか?」「あいつはよくない奴ですよ。態度は横柄だし、短気で人遣いが荒い。堅気になってもヤクザな性格までは治らないんでしょうよ」「でも、今までずっとそれでやってきたわけだろ?今になって何が問題なんだ?」「小野が会社を辞めたいって話、松崎が流したデマなんですよ」「なんだって?」以前、小野夫婦が給料を上げなければ会社を辞めるという話が出てきた。それは松崎が小野夫婦から聞いた話ということになっていたが、池澤が言うには松崎のデタラメなのだという。「小野は会社を辞める気なんて、これぽっちもありませんよ」「小野に訊いて確かめたのか?」「あいつもおれたちと一緒に十余年も勤めてきたんだ。こんなにいい職場はないって、いつも話してますよ。給料を上げなきゃ辞めるのどうのなんて話は、あいつの口から出てくるわけがないんです」和男は信子が亡くなる前は、ほとんど八王子の営業所に泊まり込み、従業員の動きをつぶさに見ていたので、小野やドライバーたちの考えは理解していた。信子の死後は府中の自宅にいることが多くなり、どうしても従業員の動きに気を配っている余裕がない。だから、松崎のような男の話を鵜呑みにしてしまっていたのだ。「じゃあ、松崎は小野を辞めさせるために、そんなウソをついていたのか?」「考えてくださいよ。給料が下がったくらいで会社を辞めたら、困るのは小野なんですよ。いくら小野でも、そこまで馬鹿じゃない。小野が辞めて得をするのは誰なのか、もう一度考えてみてください」そう言われてみれば、あの時、小野が最後まで「辞める」と口にしなかったのも気になるし、小野の前に松崎が突然やってきたのも、「松崎は小野に辞めるよう、それとなく圧力をかけていたのだ」という解釈も成り立つ。池澤が言った。「会長、おれたちはずっとこの会社でやっていきたいんです。これからもずっとです。でも、松崎みたいな腹黒い男の下で働くのは嫌だ。あんな奴に会社を渡すつもりなら、おれたちは辞めさせてもらいます」「会長は松崎のことをどう思ってるんですか?」と大澤が身を乗り出せば、矢島も、「まさか、本当に松崎を副社長にするんじゃないっすよね?」と訊いてくる。「松崎を副社長に?誰がそんなことを言ったんだ?」「松崎ですよ。今度、副社長になるから名刺を作ってもらうんだって・・・」「馬鹿な!」「松崎の奴、どんどんつけあがってますよ。このまま放っておいたら、本当に会社を乗っ取られてしまいますよ」「会長、松崎をクビにしてください。奴を辞めさせられるのは会長だけなんです」「会長が松崎をクビにしないのなら、おれたちも考えさせてもらいます」池澤も大澤も矢島も「反松崎」で結束しているようだ。このまま松崎を放置しておけば、本当に3人とも辞めてしまうだろう。稼ぎ頭の3人が辞めれば、他のドライバーたちもそれに続く可能性が高い。和男は腕組みをして考えた。「いよいよ、ここいらが潮時か・・・」会社を手放すにしても、長年、和男を慕って働いてきた池澤たちの身が立つようにしてやりたい。それには松崎をうまく排除し、災いの元を断ち切ってから、会社の再建を島田あたりに任せるしかない。いったんは会社経営に失敗し、絶望のどん底から血のにじむような思いで這い上がり、30人あまりの社員を抱える会社にまで成長させてきただけに、これを手放すのは惜しい気もする。だが、松崎のような男に乗っ取られ、すべてを台無しにしてしまうよりかは、やれるだけのことはやって、信頼できる人物に会社と社員の運命を託した方がよっぽどマシだと思った。「よし、分かった。数日中に結論を出す。松崎をどうするか、それまでに決めておく」「会長、頼みますよ。これからも一緒にがんばっていきましょうよ」「まだまだ、がんばればいくらでも伸びますよ。松崎みたいなのさえいなけりゃ」「松崎さえいなけりゃ、おれたちは死ぬまでこの会社でがんばっていくつもりです」池澤、大澤、矢島に激励され、和男は久しぶりに生きる気力が湧いてくるのを感じた。「よーし、おれもまだまだ死ねんぞ。会社の行く先を見届けてやんなくちゃな。信子、もう少し待ってくれ。会社のゴタゴタを片付けてから、おれもそっちへ行くよ。おれにとっちゃ、これが人生最後の大仕事だ。信子、天国から応援してくれ。あと、もうひとふんばりだ・・・」和男は信子の遺影の前で、ひとり、そうつぶやいた。だが、実際、この問題をどうやって解決するのか、いい考えは浮かんでこなかった。
その頃。神奈川県警は県内の指定暴力団住吉会系組員宅を家宅捜索し、その際、数人の組員を逮捕した。銃刀法違反容疑で逮捕された組員は、取り調べの際、「トカレフを知り合いに売った」と自供した。組員は捜査員に追及されると、売った相手の名前も口にした。その相手が松崎だったのである。松崎は、この組員からトカレフを譲ってもらい、青山を誘い出し、射殺して死体を多摩川の河川敷に埋めたのだ。
9月28日、木曜日。松崎は町田市原町田の自宅マンション「メゾン町田」204号室の寝室で寝ていた。前日、九州から東京に戻ったばかりで、池澤たちがタナカ宅へ赴き、自分を辞めさせるよう和男を説得していたことは知らない。また、自分にトカレフを売った組員が警察に捕まり、ゲロってしまったことも知らない。この頃の松崎は家に帰ってくると酒を飲み、すぐに寝てしまう。以前は飲んでも飲まれることなどなかったのだが、さすがに57歳にもなると、無理が体に出てくるようになった。アパートには43歳になる内縁の妻・福田麻里子とともに暮らしている。麻里子は飲み屋で知り合った未亡人で、数年前から松崎と同棲していた。午前9時45分、玄関ドアのチャイムが鳴った。すでに起床して仕事へ行く準備を始めていた麻里子が応対に出た。「神奈川県警の者です。ご主人はいますか?」ドアの隙間から背広姿の捜査員が捜索令状を見せて言った。「あの、うちの人が何かしたんでしょうか?」「銃刀法違反容疑で家宅捜索します。ドアを開けなさい」ドアにはチェーンがかけられたままだ。「あんた、起きてちょうだいよ。今、警察の人が表に・・・」寝室へ飛び込んだ麻里子が、まだ寝ている松崎を揺さぶった。「神奈川県警です!ドアを開けなさい!」玄関から捜査員の声が響いてくる。松崎がハッとなって飛び起きた。「ねえ、あんた、一体どうしちゃったのよ?何があったって言うのよ?・・・」うろたえる麻里子には構わず、松崎は寝室のタンスの奥に隠しておいたトカレフを取り出した。実弾の詰まった弾倉を装填し、そっと寝室の窓のカーテンを開けた。ベランダから逃げようと思ったのだが、すでにベランダにもよじ登ってきた捜査員の姿があった。「神奈川県警の者だ!窓を開けろ!」捜査員が窓越しに松崎に呼びかけた。その瞬間、松崎が銃口を向けた。「危ない!伏せろっ!」捜査員が瞬時に身をかわさなかったら、間違いなく松崎の放った凶弾に倒れていただろう。乾いた銃声が数発、立て続けに響いた。松崎が2発、窓越しに発砲し、捜査員が応戦して7発を撃ち返した。窓ガラスの破片が飛び散り、松崎は左腕と左足に捜査員の銃弾を浴びた。松崎はこの時、ガラス片で顔にも切り傷をつくった。麻里子は突然始まった銃撃戦に腰を抜かしている。「松崎!出てこい!ドアを開けろっ!」捜査員が怒号を発し、ドアを開けようとしてチェーンめがけ2発を発射した。しかし、予期せぬ事態に手が震え、弾はチェーンに当たらない。「あ、あんた、一体なんなのさ?」おびえる麻里子に、「奥へ行ってろ!」と怒鳴りつけ、松崎はドアを内側からロックしてしまった。
現場一帯は騒然となった。次々にパトカーが駆けつけ、騒ぎを聞いた野次馬も集まってくる。ヘルメットと防弾チョッキを着用し、ジュラルミンの盾をかざした警官が忙しく動き回っている。閑静な住宅街はピリピリした空気に包まれた。テレビの昼のニュースが事件の一報を伝える。「今日午前9時45分ごろ、東京・町田市のマンションで、銃刀法違反容疑で家宅捜索に入ろうとした神奈川県警の捜査員に、この部屋に住む男が拳銃を発砲し、捜査員も応戦して銃撃戦になりました。男は現在も室内に立てこもっています。現場から中継です。現場の須藤さん」「はい、こちら現場です。拳銃を発砲した男は、あちらに見えます14階建てマンションの2階に立てこもっています。神奈川県警によりますと、男は元暴力団組員でトラック運転手の松崎隆史容疑者(57)とみられ・・・」ニュースで事件を知った和男は愕然となった。つい2ヵ月前に和田が名古屋で「金城商会」にガソリンを撒いて立てこもり、人質と警官を道連れに自爆したばかりだ。「あの馬鹿、一体何やってんだ?・・・」松崎が立てこもったマンションの正面には、町田第二小学校がある。「拳銃を持った男が立てこもった」というニュースはすぐに小学校にも伝わり、校舎の窓から小学生たちが面白がってマンションの方を見ている。学校側はあわてて児童を体育館に避難させた。そこへ若い警官が飛び込んできて、「チャイムの音を止めてください!犯人を説得している声が聞こえなくなってしまう!」と叫ぶと、教員たちは顔をこわばらせながら対応に追われた。警察はマンションと付近の住民を避難させた上で道路の通行も封鎖した。現場から半径1キロは立ち入り禁止になり、商店は開店休業状態。機動隊員や私服、制服の警官、見物人も続々と集まり、黒山の人だかりができていった。午後には第二小は休校となり、体育館に集まっていた児童らが保護者に付き添われて帰っていった。タナカはテレビのニュースを見ながら、「たかが拳銃を撃ったくらいでこの騒ぎかよ。日本って本当に平和ボケだな・・・」と思い、苦笑した。
その頃。松崎は苦痛にうめきながら、自分で傷の手当てをしていた。捜査員に撃たれた左腕の傷は銃弾がかすっただけだったが、左足は太ももに銃弾が当たってとどまっている。松崎は麻里子に命じて、治療に必要なものを持ってこさせた。まず、傷口にウイスキーを垂らして消毒し、カッターナイフの刃をライターの火であぶる。それを無造作に傷口に突っ込んで切開し、弾丸を摘出しようというのだ。松崎は額に脂汗を浮かべ、激痛に顔をしかめながら、指でほじくり出した弾をカーペットの床に落とした。麻里子は言葉を失っている。「た、タオルだ・・・タオルを取ってくれ・・・」松崎は傷口を手で押さえながら言った。止血に使ったタオルは見る見るうちに血で真っ赤に染まった。松崎はそれを洗面器の上で搾っている。「あ、あなた、病院に行かなきゃ・・・」麻里子の声は震えている。「馬鹿野郎!このくらいのけがで病院に行く奴がいるか、アホ!」と松崎が叱りつけた。「だって、あんた、血が止まらないじゃない・・・そのままじゃ・・・」「へん、おれはな、指つめたときだって、自分で手当てしたぜ。イッピの世話にはならねえよ」松崎は痛々しい笑顔を浮かべて言った。
電話が鳴った。松崎が出た。「警察だ。中にけが人はいるのかね?」「ああ、女が1人いて、撃たれてけがをした」「女?」「おれの女房だよ」「早く解放しなさい」「解放しろ?冗談じゃねえ。おれの女をどうしようが、おれの勝手じゃねえか」「どこをけがしているんだ?」「腕と足だ。お前さんから先に撃ってきたんだ。よくも女房にけがさせてくれたな。どう落とし前をつけてくれるんでえ?」松崎は麻里子が撃たれて負傷した、とウソをつくことで、無関係な一般市民を警察が傷つけたということにし、警察の面子を潰そうとしているのだ。そうでもしなければ、怒りが収まらなかった。「とにかく、けが人がいるんだったら、早く病院に連れて行かなければならない。けが人を出しなさい」「心配すんな。おれが手当てしてやった」「君もけがをしてるんじゃないのか?」捜査員は電話の松崎の声から、松崎が負傷していることを読み取ったようだ。「どうでもいいやな」松崎は弱々しく虚勢を張った。「けがをしているなら、早く出てきなさい。他に銃は持ってるのか?」「ああ、サブマシンガンと手榴弾を持ってる」と松崎はウソを言った。ウソをつくのが癖というか、もう習慣のようになってしまっているようだ。自分を強く見せるためにウソで塗り固めてきた人生だ。「サブマシンガン?」「イングラムだ。手榴弾が4発、それにダイナマイトを25本持ってる」「どこで手に入れたんだ?」「どうでもいいやな。あんたらに言っとく。無理に強行突破すれば、死人が出るだけだぞ。おれは相手の急所を狙って確実に仕留めるだけの腕を持ってるんだ。弾もいっぱいある。警官隊が突っ込んできたら、ひとり残らず眉間をブチ抜いてやるから覚悟しとけ・・・」それだけ言うと、松崎は電話を切ってしまった。
夕方になった。テレビ局はこぞって松崎の事件を取り上げている。ヘリの中継映像が流れた。マンション前の通りは警察の車両で埋め尽くされていて、車体を灰色に塗った装甲車が何台も並んでいる。まるで戦場のようである。リポーターが興奮しながら現場の状況を伝える。「私の後ろに警察の車両が見えます。あっ、ドアが開きました。特殊部隊の隊員とみられる警察官が降りてきます。あっ、中に銃があります!ライフル銃のようなものが見えました!」テレビを見ながらタナカは思った。「こんな大げさに騒いだら、松崎もビビって出てこれないじゃないか・・・」警察はバカバカしいと思えるくらいの包囲網を敷いた。相手はたったひとりのチンピラオヤジである。「取り囲んで、兵糧攻めにするつもりか?」マンションの部屋には食糧もあるだろう。たとえ水と電気を止めたとしても、ストックがあれば2,3日は持ちこたえられるはずだ。水と食糧が尽きたとき、松崎はどう出るのだろうか。自暴自棄になって、トカレフを乱射しながら外へ飛び出してくるかもしれない。警察はマンションの周囲に狙撃手を配置したはずだ。タナカは松崎が警官隊に射殺される光景を想像した。
翌日。タナカは目が覚めると、さっそくテレビをつけてみた。ニュースでは、松崎は半日以上経過してもまだ立てこもりを続けているという。和男も昨夜はほとんど眠れなかったらしい。警察から「説得してほしい」と頼まれ、電話で松崎を説得してみたが、「まったく埒が明かない」のだという。「松崎さんは何を要求してるの?」とタナカが訊くと、和男は忌々しげに、「先に銃を撃ってきたのは警察だと言ってる。だから、警察が謝らないと出ていかないと言うんだ」と言った。朝刊を読んでみると、「松崎容疑者が発砲してきたため、捜査員もやむなく撃ち返した」とある。神奈川県警の担当者も、「先に撃ってきたのは松崎で、拳銃の使用は適正だった」と発表している。「松崎が言うには、窓のカーテンを開けたらいきなり警察が窓越しに撃ってきた、中に女房がいて撃たれてけがをしたから、正当防衛でこっちも撃ち返したのだそうだ」「警察がいきなり撃ってくるなんてことあるのかな?アメリカとかならともかく、日本の警察が」「どうせ松崎のウソに決まってる。警察も松崎がいきなり撃ってきたから、正当防衛で反撃しただけだと言ってる」「奥さんがけがをしたってのは本当なの?」「これもウソだ。撃たれたのは松崎らしい」「本当に撃たれたの?」「自分で手当てしたと言ってる。これもウソだろうな」もう松崎が何を言っても、和男の耳にはウソとしか入らないようだ。「松崎さんはなんでピストルなんか持ってたの?」「それがな、笑わせるんだ」和男が苦笑した。「あいつが言うには、武士が刀を差したように、ヤクザにとってピストルは魂のようなものだから、片時も手放せないというんだ」「ハハハ・・・そう言えば松崎さん、いつだったか、おれのボディガードみたいなことを言ってたね」「松崎の奴、それで青山を殺したんじゃないかと思うんだ」「えっ?でも、青山さんはまだ見つからないんでしょ?」「殺して、どっかに隠したんだろうよ。松崎はそれがバレるのを恐れて、警察に捕まりたくないんだろう」「でも、遅かれ早かれ、いずれは警察に捕まるでしょ」「さあ、そこだ。松崎が生きて捕まって、警察にペラペラしゃべったら、うちはいよいよおしまいだぞ・・・」それを聞いて、タナカの心は重くなった。「警察はさっさと松崎を撃ち殺せばいいのに・・・」と思った。
その頃。松崎は傷の痛みを忘れるため、ウイスキーをラッパ飲みしていた。自分で止血したものの、出血は止まらない。麻里子に支えてもらわないと、自分では立ち上がることもできなくなっていた。それでも麻里子に手伝わせて、玄関やベランダにタンスや机でバリケードを築いた。捜査員は玄関のドア越しや電話で説得を続けているが、松崎はまったく応じようとしない。壁にもたれかかり、ウイスキーを浴びるように飲みながら、「入ってきたら撃つぞ!」と怒鳴りつけるのみだ。「あんた、もう、お酒はよしなさいよ・・・」と麻里子が忠告しても、「うるさい!お前は黙ってろ!」「けがをしてるのに、お酒なんか飲んでたら、ますます血が止まらなくなるじゃない」「黙れ!」松崎は苦痛を振り払うように叫んだ。顔は青ざめ、手は震えている。もしかしたら、傷が悪化して、感染症になっているのかもしれない。麻里子は松崎のそばに正座して言った。「あんた、これからどうするつもりなのさ?」「お前には関係ない。こいつはおれの問題だ」「あたしをどうしようって言うのさ?」「警察が詫びを入れたら、ここから出してやるよ」「それまで私を人質にしておくつもり?」「お前は自分の意思でここに残った。人質なんかじゃない」「何よ、それ?あんたには責任がないの?」「おれは、お前に残ってくれなんて言った覚えはないぜ」「それは・・・」「おれがハジキを持ってるから、怖くて出て行けなかったって言うのかい?」松崎はせせら笑った。「警察はお前が人質だと思ってる以上、うかつに手を出せない。おれは奴らの弱みを知ってるんだ」「警察を相手に戦うつもり?たったひとりで戦って勝てるわけないじゃない」「これは戦争なんだ。やるか、やられるかだ。おれはこの戦いに命を懸けてる。奴らの面子をとことん潰してからじゃなきゃあ、死んでも死にきれんわ」「ホント、男ってバカバカしいことに命がけになるのね」と麻里子もせせら笑った。「殺すぞ!」松崎にトカレフを向けられ、麻里子の顔が引きつった。
事件は膠着状態に陥っていた。現場には警視庁の特殊部隊(SIT)も待機していた。警察は29日未明、いったんは強行突入の方針を固めたものの、「福田麻里子が人質の可能性もある」として、突入決行を見送った。警察上層部は、「もし人質が犠牲になれば、7月の和田事件に続いて、2度も失点を重ねることになる」ということを危惧していたのだ。そのため、慎重にならざるを得なかった。松崎が立てこもっている室内の様子を探るため、集音マイクや特殊カメラが使われた。捜査員は麻里子にも出てくるよう促していたが、「いいか、警察が何を言っても、ここに残ると言え」と松崎に脅され、電話に出ても、「けがをしているから放っておけません」とか、「私もこの人と一緒にがんばりたい」などと言わされていた。それは麻里子の本心ではなかったのだが、そのうち警察側も、「福田麻里子は人質ではなく、松崎の共犯者の可能性もある」と考えるようになっていった。そうなると、状況は一変する。たとえ、突入で麻里子が犠牲になっても、「犯人の仲間だから仕方ない」ということで処理することができる。つまり、麻里子は「哀れな人質」などではなく、「憎むべき共犯者」というレッテルを貼られることになるのだ。
その夜。松崎は死を覚悟していた。自分の57年の人生を振り返ってみても、「ろくなことがなかった・・・」と思う。極貧の家庭に生まれ、どん底から這い上がろうともがき続けたが、どこへ行っても世間の風は冷たかった。一般社会になじめず、極道の世界に入ったものの、うだつは上がらず、いつまでたっても下っ端としてこき使われるだけだった。兄貴と慕った男のために刑務所に入ったり、ほれた女のために一肌脱いだりしたが、結局、いいように利用されただけだ。ほとほと嫌気が差し、足を洗って堅気になったが、真面目に生きようと誓ったのも束の間、欲をかいたばかりにすべてを失う羽目になってしまった。「おれは、こんなところで、虫けらみてえに死んでいくのか・・・」と思うと、悔しくて仕方なかった。「おれが死ねば、よろこぶのは老いぼれの会長と小野夫婦か・・・」脱税のことも、青山のことも、闇から闇へ葬られていくのだ。松崎は電話の受話器をつかんだ。和男の自宅へかける。「会長、まだ寝てませんでしたか?」「それどころじゃない。お前のせいで、こっちは一睡もできないでいるんだ」「おれが捕まって、余計なことをベラベラしゃべるんじゃねえかと気を揉んでるわけですか」「お前がやったことで捕まるんなら、こっちは一向に構わん。だが、会社に関わることとなれば、話は別だ」「そりゃそうだ。やぶへびってことになりかねませんな。ふふふ・・・」松崎は不敵な笑い声を上げた。「ちょうど1年前の今頃は、信子が生きて助かってくれることを祈りつつ病院で夜を明かした。1年後の今は、松崎が生きて捕まらずに死んでくれることを願いつつ夜を明かそうとしているとはな・・・」と思うと、和男も自嘲的に笑った。「お前の目的は何だ?何をしたいんだ?いつまでそこにいるつもりだ?」「さあね。夜が明けたら警察が突っ込んでくるでしょうよ」「そうやって人の気持ちをもてあそんで楽しんでるわけか」「やっぱり怖いですかね?おれが捕まるのは」「ああ、できることなら生きて捕まらずに死んでほしいね」和男は思い切って言ってやった。「ふふふ・・・本音を言ったね、会長さん」松崎はさも愉快そうに笑った。「気をつけたほうがいいですよ。この電話も警察に傍受されてるだろうからね。録音もしてるでしょう。おれが死んでも、記録は残りますよ」「チンピラのウソつきの言うことなど、誰が信じるもんか」と和男がせせら笑って言うと、「口は災いの元って言いますよ。会長さん、自分の発言にはくれぐれも注意するんですな・・・」と松崎が言った。
「ねえ、あんた、私と一緒に生きてここから出ようよ」麻里子が言った。「何もこんなとこで死ぬことないじゃないの。あんたはまだ誰も殺してないんだからさ、今出て行けば、きっと罪も軽くて済むよ」麻里子は必死だった。松崎のために必死なのではない。「こんなキチガイ男と一緒に心中するなんて絶対に嫌だ」と思えばこそ、松崎を説得して、何とか生きてここから出る道を模索していたのだ。松崎は答えない。麻里子は松崎がすでに殺人を犯していることを知らない。生きて警察に捕まれば、当然、警察は青山失踪の件でも松崎を厳しく追及するだろう。前科がたくさんあり、警官に発砲して立てこもり、そのうえ殺人まで犯していたとなれば、極刑は免れない。「どうせ、生きて出たところで同じだ・・・」なのである。警察に投降し、洗いざらいすべてをぶちまけて、和男を地獄の道連れにするという手もある。しかし、今は亡き信子から親切にされた恩を思えば、その恩を仇で返すような真似はできないと思った。松崎にも少しだけ人間的な良心があったというよりも、どこまでも自分の体裁を気にしているだけだ。
30日午前5時15分、警察は最後の説得を試みた。「松崎、返事をしろ!」捜査員の怒号が響く。松崎は昨夜から電話にも出なくなり、捜査員の呼びかけにもまったく応じなくなった。「あと5分以内に返事をしろ!銃を捨てて出てこい!」警察の対策本部は、「福田麻里子は人質ではない」と判断し、特殊部隊に突入のゴーサインを出した。松崎からの応答がなくなったため、5時26分、捜査員が玄関ドアの破壊作業を開始。同時に1階で待機していた特殊部隊が動き出した。全身黒ずくめの隊員が松崎の立てこもる2階の出窓にハシゴをかけた。ハシゴで窓を叩き割り、2名の隊員がよじ登る。そして、割れた窓から室内に閃光弾を投げ込もうとした。が、閃光弾はうまく入らず、隊員の手元で爆発した。まばゆい閃光とともに大きな爆発音が響き渡る。火花が飛び散り、白煙が広がる。「突入です!突入です!警官隊が突入しました!あっ、大きな爆発音が響きました!あっ、また爆発です!」ずっと膠着状態が続き、退屈していたであろうリポーターが興奮して絶叫する。2発、3発と閃光弾が爆発するが、どれもうまく部屋に入らない。4発目は隊員の目の前で爆発し、危うくハシゴから落ちそうになるのをかろうじて踏みとどまった。5発目がようやく室内に飛び込み、爆発して窓ガラスを吹き飛ばした。隊員の頭上に火花とガラス片が降り注ぐ。隊員が閃光弾で松崎の注意を引きつけておいて、捜査員が玄関を壊し、一気に踏み込む作戦だったのだが、内側に築かれたバリケードを撤去するのに10分もかかった。
特殊部隊の突入が始まると、松崎は麻里子の肩を借りて、6畳和室へと逃げ込んだ。「松崎!開けろ!」捜査員の怒号とドアをガンガン叩く音、それに閃光弾の爆発音が響く中、「あんた、お願い!馬鹿なことはよして!お願いだから、一緒に出ましょうよ!」麻里子は懸命に松崎を説得しようとした。「お前、おれが捕まってムショに入っても、ずっと面会に来てくれるか?」と松崎が麻里子に訊いた。「おれが死んだら、泣いてくれるか?約束できるか?」絶体絶命の状況に追い込まれて、松崎は急に心細くなったのだろう。「どうだ?約束できないか?」「え?いや、その、あの・・・」麻里子は、こんな男と一緒にいるつもりはない。さっさと縁を切りたくてしょうがないのだ。ためらったが、ここから生きて出るには、約束したふりをするしかないと思った。「や、約束するから、早く、ここから・・・」麻里子が腰を浮かせると、松崎が自嘲的に笑った。「女はウソがうまいって言うが、お前は下手くそだな」松崎が麻里子に銃口を向けた。「や、やめて!何するの!」麻里子の顔が恐怖で引きつった。「心配すんな。すぐ楽になるさ・・・」銃声が轟いた。
やっと室内に突入したとき、捜査員が発見したのは、トカレフで頭を撃ち抜いて倒れている松崎と麻里子の姿だった。ふたりは布団の上に並んで倒れており、すぐに救急車で病院に運ばれたが、まもなく死亡が確認された。こうして、44時間にも及んだ発砲立てこもり事件は終結した。
午前8時半、警察は記者会見を開き、「このような結果に終わったのは残念だが、仕方のない結末だったと思う」と結論付けた。記者から次々に質問が飛ぶ。「容疑者は内縁の妻を道連れに拳銃で自殺したということですか?」「そのように判断しております」「内縁の妻は容疑者の人質だったという可能性もありますよね?」「そうした状況も想定して、慎重に説得を続けてきたわけですが、内縁の妻が容疑者をかばうような言動もあったことから、最終的に人質ではないと判断し、強行突入に踏み切りました」「内縁の妻は人質ではなく、共犯者だったということですか?」「その線も視野に捜査を続ける方針です」「容疑者は警察の突入を知って自殺したわけですか?」「突入直前に銃声が聞こえました。おそらく、内縁の妻を殺したのち、自分も拳銃で頭を撃って自殺を図ったのでしょう」「警察が追い詰めたから自殺したんじゃないですか?内縁の妻の死にも、警察は責任があるんじゃないですか?」「最悪の事態を回避するため、あらゆる手段を尽くしてきたわけです。しかし、発生からすでに2日近く経過し、周辺住民への影響や、容疑者の体力、内縁の妻の安全等を考慮して、突入はやむを得ない決断だったと思っております」警察はあくまでも麻里子が人質ではなく、松崎の共犯だったということにして、この事件の幕引きを図りたいようだった。
松崎の死。それはタナカと和男に束の間の安堵を与えた。松崎が生きて捕まり、警察に余計なことをしゃべる恐れはなくなったのだ。警察としても、この事件をあまりマスコミに追及されたくなかったのだろう。何らかの圧力がかかったものか、不思議とメディアは松崎の事件を大きく扱わなかった。しかし、警察は青山失踪の件で、自殺した松崎に疑いの目を向けたようだ。あくる日にはさっそく、数人の刑事がタナカ宅にやってきた。和男は「何も知らない」で通したが、すでに小野夫婦も事情聴取を受けたらしい。夫婦は別々に尋問され、うかつにも眞弓が松崎の車から薬きょうを見つけたことを話してしまった。「小野さんの奥さんは、松崎が青山さんを殺したんじゃないかって言ってましてね」「たとえ、そうであったとしても、松崎がやったことと私らは何の関係もありませんよ」「青山さんが邪魔になって、松崎に始末を依頼したということも考えられますのでね」「冗談じゃない。うちはただの運送屋です。青山を殺す理由なんてありませんよ」ここであらぬ疑いをかけられては大変だと思い、和男は頑強に松崎との関係を否定した。
一方、警察は松崎の車のトランクから押収したスコップや長靴に付着した泥を採取し、その土が多摩川の河川敷のものであることを突き止めた。また、聞き込みの結果、松崎が青山を車に乗せたことも分かり、警察は松崎が青山を殺害して死体を埋めたものと判断し、多摩川の河川敷で大規模な捜索を開始した。青山の射殺死体は、河川敷の土中から発見された。死体は腐乱していたが、歯形やDNAから青山本人のものと確認された。青山の生存を信じていた家族は、その死に悲嘆した。松崎は被疑者死亡のまま書類送検された。
事件後、和男は会社を手放すことを決意した。7月の和田事件以降、売り上げは激減していたし、「いつかはこうなる運命だったんだな・・・」と思えば、ようやく肩の荷が下りたようなホッとした気持ちになれた。「結局、すべての黒幕は松崎だったんだな・・・」複雑怪奇な主導権争いが終わってみると、和男は、これまで小野夫婦が一番の元凶だと思っていたのだが、そうではなくて、松崎が和男の小野夫婦へ向ける疑いの心を巧みに利用し、小野夫婦を追い出して、会社の実権を掌握しようと企んでいたのだと分かった。もっと早く気付いていれば、あるいは違う結果になったかもしれない。だが、こうして振り返ってみると、中井も小野夫婦も松崎も青山も、「みんな欲をかきすぎたんだ。みんな身から出た錆だ。自業自得だ」と思う。会社の実権を握ろうと無益な争いを繰り返した挙げ句、結局はすべてを失う羽目になってしまったのだ。
和男とタナカは八王子の営業所へ出向いた。社員一同を集めた前で、和男が全員解雇を申し渡した。中井も小野夫婦も池澤も大澤も矢島も失業したのである。「社員を全員クビにするのは、これで二度目だよ・・・」和男がさびしげに笑って言った。「やり直すつもりはないんですか?」と眞弓。こうなることは覚悟していたようで、意外に落ち着いている。「ない。私もこんな年だし、もういい加減に疲れたよ。息子とふたりで食べていくには困らないだけの貯えもある」「今後はどうなさるおつもりですか?」「さあね。しばらくはブラブラして過ごすよ」「旅行とか行かれたらどうですか?」「女房が生きていれば、一緒にどこか温泉にでも行ったかもしれんが、今さらどこへも行く気がせんな。女房との思い出に浸りながら、ゆっくりと余生を過ごしたいもんだ・・・」「再婚されたらどうです?今は熟年離婚の時代ですよ。同年代のパートナーを探してみたらいかがです?きっと老後の生活が明るくなりますよ」「いや、私には信子しかおらんよ」「奥さんを愛されているんですね」「あいつは、信子は、私がこの世で唯一愛した女性だよ」和男は目にうっすらと涙を浮かべていた。信子は和男と別居し、中本と愛し合い、子どもまでつくってしまった。それでも和男は、そんな信子しか愛せなかった。誰からも愛されたことのない和男が、生涯でただひとり愛した相手なのである。「君たち夫婦はまだ若い。これからの人生だ。愛し合って、がんばって働いて、精一杯生きなさい」和男は小野夫婦の手をかたく握りしめて言った。
その帰り、和男はタナカが運転する車の中で言った。「これで、何もかも片付いたな」「もう会社のことで、あれこれ悩む必要はなくなったってわけだね」「もっと早く中井の不正に気付いて、松崎のような男を辞めさせていたら、と思うと、残念でならないな・・・」和男が大きなため息をついた。「まあ、それは結果論だよ。おれたちだって、やれるだけのことはやったわけだし」「これも運命なら仕方ないな・・・」和男は助手席に深くもたれかかった。「運命か・・・これでおれもやっと楽になれたが、人生、一寸先は闇って言うからな。何が起こるか分からない。でも、それだからこそ、人生は楽しいのかもしれないな・・・」そんなことをぼんやりと考えつつ、タナカは車を走らせていた。「おい、赤だぞ!赤!」和男が叫んで、ふと我に返ったとき、タナカは赤信号の交差点に突入していた。あわててブレーキを踏んだが、横から大型のトレーラーが猛スピードで突っ込んできて激突した。すさまじい衝撃を受け、車体が破壊される音を聞いたが、すぐに意識が遠のいた。
気がつくと、目の前に神様のような老人が立っている。「ここは?・・・」周りは白一色で何も見当たらない。「お前は死んだのだ。お前の父親も死んだ。お前たち親子は報いを受けねばならなかったのだ」と老人が言った。「死んだ?あの交通事故で?たった26年の生涯かよ?やっと楽になれたと思ったのに・・・」タナカは26年の人生を振り返ってみた。つらかったことしか思い浮かばない。ホモに犯されたり、女の子によってたかっていじめられたり、初めて手に入れた彼女の父親が自分を犯したホモだったり、自殺少女を救えなかったり・・・。そうした苦い記憶が走馬灯のように目の前を駆け巡った。一体、自分の人生とはなんだったのか。苦しみに耐え続け、ようやく行く手に一筋の光が見えてきたと思ったら、交通事故であっけなく他界してしまうとは。すると、老人が言った。 「それがお前の運命だったのだ。お前はお前の祖父が犯した罪を償わなければならなかった。 お前の祖父は戦争中、たくさんの日本人を殺し、強姦した。その報いでお前は日本のホモにレイプされ、日本の女の子にいじめられる運命だったのだ」 「そんな・・・」 「だが、お前は女の子にいじめられることによろこびを感じるようになってしまった。それでは罪を償ったことにはならない。 ゆえに、お前は彼女の自殺に凹んで引きこもり、母を失い、会社の揉め事に巻き込まれ、自動車事故で死ぬことになったのだ」 「彼女は、松尾礼子はなぜ、自殺しなければならなかったんです?」 「松尾礼子は先祖の罪だ。先祖が多くの農民を苦しめた罪で自殺したのだ」 「やっぱり・・・」 因果応報は本当なのだな、と思った。 松尾礼子の先祖は、農民から過酷な年貢の取り立てを行なった松尾肥前守だという。 「じゃあ、オヤジは?」 「先祖の犯した罪の償いだ。一生苦労し続けたのはそのせいだ」 仲間を裏切り、領主の松尾家から土地をもらったのがタナカの先祖・伝助である。 まことに不思議な因縁だといわざるを得ない。 「母さんも?でも、なんで関係のないおれたちが?その祖父には他に子どもはいなかったんですか?」 「いた。その子も報いを受けた。父の犯した罪の報いで死んでいったのだ・・・」 そう言うと、タナカの目の前に見たこともない光景が浮かんできた。 話は23年前の旧ソ連に飛ぶ。
1983年10月。 ソ連海軍北方艦隊のアンドレイ・ボロトニコフ大佐はモスクワの自宅を出た。「マーサ、行ってくるよ」「あなたの無事を祈ってるわ」ボロトニコフは妻のマーサと別れのキスを交わし、「アンナ、お父さんが帰ってくるまでいい子でいるんだよ」と9歳の娘アンナを抱きしめて言った。「パパ、早く帰ってきてね」「ああ、年末は家族みんなで過ごせるさ」彼はまだ、我が身を待ち受ける過酷な運命を知る由もなかった。
ボロトニコフは海軍のエリートだった。愛する家族がいて、出世も約束されている。彼の父親は第二次大戦中、ナチスと戦い、日本の関東軍とも戦って、かなりの手柄を立てた。軍服の胸に勲章をいっぱいぶら下げていた陸軍出身の父は、「ソ連をファシストから救った英雄」と讃えられ、その息子であるボロトニコフは周囲の期待を一身に背負って育った。優秀なボロトニコフは、海軍に配属され、順調に出世の道を歩んだ。そして今回も、原子力潜水艦の艦長として、厳しい訓練を指揮することになったのである。
コラ半島ガジィエヴォ海軍基地。ここの埠頭にボロトニコフが乗ることになる「K-427」という原潜が係留されていた。1968年3月に就航した(艦番号512、プロジェクト667A-ヤンキーⅠ級)。ちなみに「ヤンキー級」という呼び名は西側が勝手につけたもので、ソ連では「ナヴァガ級」あるいは「ナリム級」と呼ばれていた。16発の核ミサイルを搭載し、水中から発射することが可能だ。今回、ボロトニコフに与えられた任務は、「核ミサイルを常に発射可能な状態に保ちつつ、アメリカ東海岸をパトロールすること」であった。要するに、アメリカとの核戦争を想定した訓練である。だが、出航前にK-427の状態を点検したボロトニコフは、「とても出航できる状態ではない」と判断し、モスクワの海軍司令部に出航延期を申し出た。就航年数15年を迎えたK-427は、あちこちボロボロだったのである。2基ある原子炉のひとつは、燃料棒の交換に失敗して破損し、すでに閉鎖されていた。残る1基の原子炉も冷却水パイプに亀裂が生じ、水漏れの危険があったが、海軍上層部はボロトニコフの報告を無視し、強引に出航命令を出した。
10月3日、K-427は128名の乗組員を乗せ、カジィエヴォ基地を出発した。副長はミハイル・ブハーリン中佐である。K-427はグリーンランド沖の北大西洋に出ると、様々なテスト運転を行なった。そのひとつに「急速潜航と緊急浮上の訓練」があった。一気に水深300メートルまで潜り、そこから一気に海面に浮上するのである。ボロボロの老朽艦がどこまで耐えられるかを試すのは、「乗組員の命を危険にさらすこと」でもあったが、訓練を予定通りにこなさなければ、「乗組員全体の評価が下がってしまう」ことにもなる。
「潜航角度4、潜航速度20、最大深度まで潜航」ボロトニコフの命令をブハーリンが復唱する。命令はただちに乗組員に伝達され、艦体は大きなうなりを上げて傾いた。ほとんど沈没に近いスピードでK-427は潜航していった。水深計の針がぐんぐん下がっていく。「まもなく危険水域に入ります」とブハーリンが報告した。水深230メートルを超えると、すさまじい水圧で艦体が不気味なきしみ音を立て始めた。「240・・・250・・・260・・・270・・・」針が280メートルを示したとき、恐れていたことが起こった。艦体の一部が水圧で凹んだのだ。水圧は頑丈な耐圧隔壁に亀裂を生じさせ、そこからドッと海水があふれ出した。「第7区画で浸水!」怒号が飛び、乗組員たちがずぶ濡れになりながら、浸水を食い止めようと躍起になった。「緊急浮上しろ!」バラストタンクにありったけの圧縮空気が吹き込まれ、K-427は荒涼たる北大西洋の海上に躍り出た。
10月28日、出航から26日目。K-427はカナダ・ノバスコシア半島セーブル岬の沖600マイルのところにいた。3日前の25日には、アメリカ軍がカリブ海の小国グレナダに侵攻した。ソ連とキューバが支援するグレナダの反米政権を倒すためである。当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンは強硬な保守派で、「冷戦を終わらせるには、アメリカが徹底的に軍拡して、ソ連をへたばらせるしかない」という戦略を持っていたから、米ソ関係は一触即発の状態だったのである。
その日の夜、ボロトニコフはアレクセイ・クラフチェンコ機関長から報告を受けた。「原子炉の炉心温度が上昇しています。冷却水が漏れていると思われます」調べた結果、蒸気をタービンに送るパイプの接合部分が破損し、そこから冷却水が漏れていることが分かった。出航前の点検で危険とされた箇所だが、艦体に負担をかけすぎたため、亀裂が広がってしまったのだろう。「このままでは数時間で冷却水が失われ、メルトダウン(炉心熔解)の危険があります」ボロトニコフの表情が曇った。冷却水がなくなれば、原子炉は空だき状態になり、やがて核燃料がドロドロに融け出し、原子炉の耐圧隔壁を破って海水と接触、すさまじい水蒸気爆発を引き起こしてしまうだろう。それだけではない。爆発の衝撃で機械が誤作動し、搭載されている16発のRSM-25核ミサイルが発射されてしまうことも考えられる。ミサイルの照準はニューヨーク、ワシントンなど、アメリカの各主要都市に合わせられている。もし、ミサイルが発射されれば、わずか10分足らずでアメリカ東海岸一帯は火の海と化すだろう。米ソ関係は最悪の時期だ。レーガンはただちにソ連に核報復攻撃に出る。そうなれば、あっという間に米ソの全面戦争に発展し、世界は破滅する。
ボロトニコフはブハーリンとクラフチェンコを司令室に集め、対策を練った。「ここのパイプを切断し、タンクの真水を原子炉に入れましょう」クラフチェンコが原子炉の設計図を示しながら言った。高温状態の原子炉を冷やすため、応急の冷却措置として、原子炉にパイプをつなぎ合わせ、水を送り込むのだ。「原子炉につなぐパイプはどうする?」「魚雷を分解しましょう。あれをパイプ代わりにするのです」「よし、それでいこう」
ブハーリンはクラフチェンコとともに原子炉区画へ急いだ。だが、防護服が保管されているロッカーの扉を開けてみて、ブハーリンの顔色が変わった。荒っぽく扉を開け閉めし、薄っぺらの防護服をクラフチェンコに叩きつけて怒鳴った。「放射能防護服が一着もないとは一体どういうことだ?」クラフチェンコは禿げ上がった頭に脂汗を浮かべた。「よく見ろ。これは化学防護服だ!」「き、気がつきませんでした」「出航前にちゃんと確認したのか?」「いえ、確認しませんでした」クラフチェンコは顔面蒼白で苦しい言い訳に終始した。「乗組員は経験不足の者が多いので、間違いに気付かなかったのかもしれません」「そんなことはどうでもいい。問題は、この服では放射能は防げないということだ・・・」ブハーリンは左手で顔を覆い、大きなため息をついた。
ただちに技術士官と下士官の8人の乗組員が集められた。「2人一組で原子炉に入れ。10分たったら交替しろ」まだあどけなさの残る2人が、防護服を着て、ガスマスクをかぶり、手袋をはめた。彼らには防護服が何の意味もなさないことは伝えなかった。ブハーリンは2人の肩をつかみ、2人の顔を交互に見据えて言った。「いいか、中に入ったら、何も考えるな。いいな?」2人は黙ってうなずいた。「よし、ハッチを開けろ」原子炉室のハッチが重々しい音を立てて開いた。途端に放射線量計の針が跳ね上がる。2人の作業員は青白い核の炎が燃える原子炉へゆっくりと近付いた。ガスバーナーに点火し、1人が保護板を顔に当てた。原子炉のパイプの一部を切断すると、放射能を含んだ水がドッとあふれ出した。
10分たった。ハッチが開くと、2人の作業員は這うようにして出てきて、その場に倒れた。「おい、しっかりしろ!」「みんな手を貸せ!」乗組員たちがマスクを外してやると、2人とも苦しそうに咳き込み、嘔吐した。「よし、医務室へ連れていけ!」2人は顔にひどい火傷を負い、抱えられるようにして運ばれていく。それを見ていたレオニドという機関兵が恐怖に震えだした。「おい、次はお前の番だぞ!早くしろ!」と言われると、耐え切れなくなったのか、急に大声でわめいて逃げ出した。「うわああああっ!嫌だあっ!こんなとこで死にたくなあいっ!」「おいっ!待てっ!どこへ行くんだ!戻れ!」「レオニド!戻ってこい!」あわてて同僚たちが追ったが、レオニドは狭い通路を突っ走り、ハシゴをよじ登り、脱出用のハッチを開けた。「よせ!レオニド!何をするんだ!正気か!」仲間が止めるのも聞かず、レオニドはハッチを閉めてしまった。「レオニド!戻れ!」「おい、よせ!ハッチを開けるな!」「放してくれえっ!レオニドを見捨てられるかあっ!」同僚が狂ったように叫ぶのを上官が必死に止める。潜航中のK-427の後部ハッチが開き、レオニドは水中に飛び出した。月明かりに照らされた水面を目指してもがいたが、途中で力尽き、口から泡を吐いて動かなくなった。レオニドの水死体は暗い海の闇に吸い込まれていった。
原子炉室では決死の作業が続いていた。作業員たちは大量の放射能を浴びながら黙々と作業を続けた。破損したパイプは溶接され、パイプ代わりの魚雷が原子炉に接合された。作業員がハンドルを回すと、タンクから大量の冷却水が原子炉に注入された。クラフチェンコが司令室に報告する。「炉心温度が下がり始めました。900・・・880・・・850・・・メルトダウンは回避されました!」
ボロトニコフは医務室のベッドに寝ている乗組員たちを見舞った。原子炉から戻ってきたばかりの作業員の服を脱がせ、軍医がシャツをハサミで切り裂く。彼は震えながら耐えていたが、背中といい、腕といい、胸といい、もはや手当ての余地もないくらいの火傷を負っている。皮膚はケロイド状に爛れ、包帯を巻くと、すぐに血と体液がにじみ出した。「よくやった。すぐに治る。ゆっくり休みたまえ」と乗組員たちを元気付けてやってから、ボロトニコフはそっと軍医に訊ねた。「数値は?」軍医は青ざめた顔で言った。「線量計の針が振り切れるほどです。長くは保たんでしょう」「飲料水と食糧が汚染されていないか調べろ」と軍医に命じてから、ブハーリンを呼んだ。「乗組員をできるだけ放射能から遠ざけろ。それから、乗組員にアルコールを与えろ」「ウオトカですか?」「アルコールは放射能に効くそうだ。任務に支障が出ない程度に飲ませろ」「分かりました」
余談だが、アルコールが放射能に対して有効なのは事実である。放射能を浴びると、人間の体内には「フリーラジカル」という物質が発生し、これが細胞を破壊する。アルコールにはフリーラジカルを分解する働きがあり、したがって被ばく前にアルコールを摂取すると、放射能の害をある程度防ぐことができるのだ。ちなみに成人男性がアルコールで放射能を防ぐには、日本酒で二升、度数50%のウオトカなら1リットルは飲まなければならない。いくら大酒のみでも一度にこんなに飲んだら、たとえ放射能は防げても、血ヘドを吐いて死んでしまうだろう。ま、酒に強いロシア人なら飲めそうなものだが・・・。この時、ボロトニコフが乗組員に与えたアルコールの量は不明だが、「任務に支障が出ない程度」なのだから、気休め程度の効果しかなかっただろう。ちなみに言うと、ロシアでは「ウォッカ」は「ウオトカ」と発音する。10月29日、出航から27日目。クラフチェンコから司令室に緊急の連絡が入った。「配管が破断しました!炉心温度が上昇中!」修理した冷却水パイプだが、溶接が不十分だったとみえ、再び水漏れが始まったのだ。すぐにコズロフという機関兵が、何の役にも立たない防護服を着け、原子炉に入った。コズロフは顔に保護板を当て、壊れた配管に近寄り、アーク溶接を始めた。放射能を含む蒸気を浴びながら作業を続けるうち、全身が震え、溶接棒を握る手もガタガタと震えだした。やむなく、コズロフは左手に持っていた保護板を捨て、両手で溶接棒を握りしめて作業を続けた。
ボロトニコフは原子炉区画へ急いだ。原子炉をのぞく小窓から中の様子をうかがったが、コズロフの姿は見えない。原子炉に通じるハッチの前にはクラフチェンコが立っていた。「遅いぞ。何分入っているんだ?」クラフチェンコは時計を見て答えた。「17分です」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、ボロトニコフはハッチを開けていた。「艦長、危険です!」クラフチェンコが止めるのも聞かず、ボロトニコフは防護服も着けずに原子炉に飛び込んだ。床一面に冷却水が溜まっていて、その中に座り込むようにしてコズロフが倒れているのを見つけた。ガスマスクまで外し、苦しくなって吐いたのか、口の周りを吐しゃ物で汚している。「しっかりしろ!今、助けてやる」ボロトニコフは水しぶきを上げて、コズロフを抱き起こしたが、苦しそうにあえいでいる。彼の命も長くはないことは見て取れた。コズロフを後ろから抱き上げるようにして、ハッチまで引きずっていった。片手でハッチを叩くと、クラフチェンコが顔をのぞかせ、慌ててコズロフを外に運び出した。「艦長、戻ってください!」ボロトニコフが再び、原子炉へ向かうのを見て、クラフチェンコが叫んだが、「ハッチを閉めろ」と命じた。まだ水漏れは止まっていないのだ。ボロトニコフは蒸気が噴き出しているパイプに近付き、溶接棒を拾い上げた。
そこは放射能と有毒ガスが渦巻く、摂氏80℃の地獄である。込み上げてくる吐き気や全身の倦怠感と闘いつつ、ボロトニコフは溶接を始めた。おびただしい量の放射線が体中の細胞を容赦なく破壊していく。ボロトニコフの脳裏に妻マーサと一人娘アンナの笑顔が浮かんだ。水漏れを止められず、原子炉が爆発し、核ミサイルが発射されたら、米ソの核戦争が始まるだろう。愛する妻子の住むモスクワにも、西側から核ミサイルが撃ち込まれ、妻子の笑顔も灰と消えてしまうのだ。「死なせん・・・死なせんぞ・・・お前たちだけは死なせんぞ・・・」ボロトニコフの頭の中には、もはや愛すべき祖国や軍部、共産党のことなどなかった。ただ、自分の家族と部下を救ってやりたい。その一念だけが彼を突き動かしていたのである。
「艦長!」ブハーリンとクラフチェンコが防護服を着けずに飛び込んできた。ボロトニコフは溶接の強烈な光線で目をやられ、疲れ果てて原子炉にもたれかかるようにしていた。「艦長、しっかりしてください!」ふたりに抱き起こされ、ブハーリンがボロトニコフの耳元に口を寄せて、大声で言った。「艦長、炉心温度が下がり始めました!我々は助かったのです!」その声をどこか遠くで聞いたように思ったが、ボロトニコフは、「も、もう大丈夫だ・・・」とマーサやアンナに言い聞かせるようにつぶやいた。その後。K-427はガジィエヴォ海軍基地に帰還した。原子炉に入った乗組員は、放射能の大量被ばくにより全員死亡した。なお、核戦争の危機からソ連を救って死んだボロトニコフに対しては、「実戦での犠牲者ではない」ことを理由に、何の恩賞も与えられることはなかった。
長い物語だった。物語が終わる頃には、タナカもボロトニコフが信子の母を強姦したソ連兵の息子だったということに気付いていた。「じゃあ、ボロトニコフは父が犯した罪を償うため、核戦争から世界を救って死んだってわけですか?」「そうだ。そして、お前の母とお前も罪を背負い、報いを受けて、死んだのだ」「それで罪は償えたんですか?」「お前の祖父の犯した罪は大きいからな。孫の代まで罪が及んだのだ」「妹は?愛実は?愛実も罪を背負って不幸な人生を送るのですか?」タナカはこの世に残していくたったひとりの妹の人生を思いやった。愛実だけは幸せになってもらいたい。実の父と母を失い、育ての父と兄まで亡くしてしまったのだ。愛実はこれからひとりぼっちで生きていかねばならない。「お前の妹は、父と兄を亡くしたことで悲しむことになるが、それで終わりだ」「終わりってことは、妹は幸せに生きていけるってことですか?」「うむ。お前の父と母も、来世で再会を果たし、幸福な人生を送れるだろう。お前もな・・・」「よかった・・・これで償いは終わったんだ・・・よかった・・・本当によかった・・・」タナカは白い光に包まれていった。これから来世に生まれ変わるのだ。この次はどのような人生が待っているのだろうか。タナカは来世の自分を想像してみた。「できることなら、ブラジルあたりの大金持ちに生まれたいな。日本の小金持ちなんかに生まれても、一生苦労して、税金を取られるだけだ。ブラジルの途方もない大金持ちに生まれれば、一生苦労することもないし、遊んで暮らせる。いや・・・」そこで思い直した。「そんなデカイ幸せよりも、普通に遊んで、恋愛して、結婚して、家庭を持って、普通に暮らしていける普通の人生がいいな。普通すぎる、当たり前すぎるくらいの幸せがほしいな・・・」次の人生は平凡に生きたい。もう、誰かにいじめられることもなければ、誰かをいじめることもない。これといった才能もないかわりに、これといった欠点もない。普通に生きて、普通に死んでいくのだ。タナカ・ガブリエル・カズヒコは罪を償った。すべては清算された。たった26年の人生だったが、「おれは幸せだった」と心から思えるのである。「次の人生は、もっともっと長生きして、もっともっと幸せになってやる・・・」そんなことを考えているうちに、タナカの意識は遠のいていった。
終わり