ガブリエルの一生
タナカ・ガブリエル・カズヒコが中学の頃の話。
ある日、タナカが学校の授業を終えて帰宅する途中、赤いマ○ダの軽が走ってきて、タナカの横で停まった。運転していたのは、メガネをかけた、中年のデブ男だった。「これから駅へ行きたいんだけど、どうしたらいい?」「駅ですか?この道をまっすぐに行って、右に曲がって・・・」「ちょっと分からないな。近くまで乗って教えてくれないかな」タナカは男の求めに応じた。タナカが助手席に座ると、車は走り出した。ところが、男は車をどんどん人気のない方向へ走らせていった。怖くなったタナカは男に言った。「すいません。降ろしてください」その瞬間、男の態度が豹変した。タナカはいきなり顔を殴られた。「な、なにするんですか!?」男はさらにタナカの顔を殴った。そして、こう言った。「静かにしろ。静かにしてないと、お前を殺すぞ」
男は車を人気のない空き地に停めた。そして、おびえているタナカのズボンとパンツを引きはがした。男はフェラチオを始めたのだ。しかし、タナカのそれは恐怖で勃起しなかった。すると、男は怒り、タナカの顔を拳で殴った。タナカは目がくらんだ。あたたかいものがポタポタと流れ落ちた。鼻血だった。「しょうがねえな。おい、外に出ろ」男はタナカを車から引きずり出した。車のボンネットに手をつかせておいて、アナル・セックスを始めた。男のいきり立ったそれが、タナカの肛門から直腸に押し入ってきた。「あっ、あっ、い、痛いっ・・・」「黙れ!静かにしてろ!」
タナカは痛みのあまり、思わず尻をすぼめた。「あっ、あっ・・・」男のそれが反り返った。それと一緒にタナカのそれも立ち上がった。タナカはあわてて股間を手で押さえた。男が射精した。悪夢のような時間だった。男は言った。「誰かにチクッてみろ。今度は生かして帰さねえからな」呆然としているタナカを残して、男は車で走り去っていった。タナカはトボトボと歩いて帰宅した。泣きたかった。誰かの慰めが必要だった。家には母親がいて、テレビを見ていた。「ただいま・・・」母親の信子はタナカが帰ってきても無反応だった。「ママ、ぼく、いじめられたんだ。変な男の人に・・・」すると、信子が言った。「そうね。誰だって、アンタみたいなバカを見てると、いじめたくなってくるわね」タナカは自分の部屋へ入り、ひとりで泣いた。
ホモにレイプされ、心に傷を負ったタナカは、その傷を隠して高校に進学した。誰もタナカの過去を知るものはいなかった。いや、いないはずだった。
タナカは恋をすることになった。相手はカワイイ女子高生だった。木村雪菜という。雪のように色の白い娘だった。ふたりは交際を始めた。付き合って数ヵ月もすると、タナカは雪菜と本気で将来の結婚をも考えるようになった。その位、雪菜は優しくて、明るい性格の女の子だった。
ある日、タナカは付き合って初めて、雪菜の家へ招かれることになった。タナカは雪菜の両親と会って、「雪菜さんを僕のお嫁さんにください」と打ち明けるつもりでいた。その位、タナカは雪菜を愛していたのだ。
やがて、木村邸の前に到着した。タナカは希望と期待に胸を膨らませていた。その時、ふと、気になることがあった。家の前に停められている車だ。おそらく、雪菜の親の車だろう。赤いマ○ダの軽だった。タナカは不吉な予感がした。「そんな、まさか・・・気のせいだ」タナカは勇気を振り絞って、玄関のチャイムを鳴らした。
ドアが開いた。タナカは彼女に快く迎えられた。「初めまして。タナカと申します」タナカはリビングに通され、雪菜の両親と対面した。「よく来たね。なかなかの好青年じゃないか」雪菜の父親が、いかにも人の好さそうな顔をニコニコさせて言った。タナカは一礼して、顔を上げた。その時であった。「あっ・・・」目の前にいたのは、メガネをかけた、中年のデブ男だったのだ。タナカの脳裏に数年前の忌まわしい記憶が鮮明に蘇った。「どうしたのかね?顔色が悪いようだが・・・」相手はタナカのことなど覚えていないようだった。タナカは恐怖で体が小刻みに震えだした。「す、すいません。ちょっと、トイレを・・・」逃げるようにタナカはトイレに駆け込んだ。
タナカはトイレで吐いた。「まさか・・・雪菜のお父さんが・・・そんな馬鹿な・・・」次第に落ち着いてくると、考えも変わった。「俺の勘違いだ。絶対にそうだ。そんな馬鹿なことがあるはずない・・・」タナカは気を取り直して、トイレを出た。楽しい語らいが続いた。夕食もにぎやかなものになった。タナカはすっかり自分の勘違いを恥じていた。「お父さんもいい人だ。こんないい人がレイプなんてするわけがない。ホント、俺はどうかしてたよ・・・」夜も更けて、タナカは帰ることになった。「お邪魔しました。今日は楽しかったです」その時、雪菜の父親が言った。「タナカ君、ちょっと話があるんだ。いいかな?」タナカは書斎のような部屋に連れ込まれた。暗くて陰気な部屋だった。タナカは急に怖くなった。「あの、話ってなんですか?」次の瞬間、タナカは強い衝撃を受けて倒れた。顔を殴られたのだ。「痛い・・・どうしたんですか?急に・・・」すると、雪菜の父親が、メガネの奥の目を怪しく光らせて言った。「お前、まさか、あのことをチクッっていないだろうな?」「え?・・・」タナカは全身の血が凍り付いていくような感覚にとらわれた。「すっとぼけるな!お前のカマを掘ってやったのは俺だ」「そんな・・・」「お前がノコノコと家に来やがったんで、こっちも心臓が飛び出るくらい驚いたぜ」優しい雪菜の父親が、自分をレイプしたホモの変態だったなんて・・・。タナカはこの世のものすべてが信じられなくなった。「どういうつもりだ?俺の娘をたぶらかして、俺をゆするつもりか?」「ち、違うんです。本当に知らなかったんです」「嘘をつけ。あのことを娘にチクッたのか?」「誰にも言ってません。本当です」「ふん、どうだかな。それより、二度と俺の前にあらわれるな。今後、一切、娘にも近付くな」「そんな・・・彼女は関係ないんですよ」「馬鹿野郎。お前みたいな女の腐ったナヨナヨした奴に、うちの大事な娘をやれるかってんだ。お前には俺のマラで十分だわな」そう言って、雪菜の父親はゲラゲラ笑いだした。
タナカは木村邸を後にした。雨が降ってきた。ずぶ濡れになりながら、タナカはすべてが終わったと思っていた。「もう、俺は、誰も好きにならないぞ・・・一生、ひとりぼっちで生きてやる・・・」
その後、雪菜も寄り付かなくなった。父親から何を言われたものか、道ですれ違っても、タナカには目も合わせなかった。この後、タナカは結婚まで考えた元彼女から、予想もしない仕打ちを受けることになるのだが・・・。それはまた後で述べるとしよう。
誰も愛さないことを心の中で誓い、孤独な人生をまっとうすることを覚悟したタナカは、その後、大学へ進学した。タナカは大学でコンピューター・プログラマーの資格を取り、将来は、コンピューター関連の仕事に就こうと考えていた。機械が相手の仕事なら、人と接触することも少ないし、人に傷つけられ、裏切られたりすることもない。機械は人間に従順で、決して人を傷つけたり、裏切ったりしないからだ。タナカは大学ではサークルにも入らず、誰とも親しく付き合わなかった。彼女もいなければ、友達らしい友達もいなかった。孤独ではあったが、誰からも傷つけられることはないし、裏切られることもない。タナカは大学生活に満足していた。
そんなある日のこと、タナカはインターネットの掲示板で、自殺をほのめかしている少女と出会った。少女は、「アホ」というハンドル・ネームで、次のような書き込みをしていた。「私は17歳の高校生です。学校には行ってません。いじめられるからです。今は引きこもりです。私、死にたいんだけど、苦しんで死ぬのは嫌だな。道を歩いていて、変な人にいきなりナイフでグサッとやられて即死ってなら良いと思う・・・」タナカはこの「アホ」という少女に興味を持った。
タナカはアホに対して、次のような返事を送った。「僕も君と同じだ。死にたいと思ったことは何度もある。だが、今はこうして生きている。生きていても別に良かったとは思わないけど、死んでいても同じだったと思う。生きていれば、それなりに良いこともあるだろうし、人間、黙っていてもいずれは死ぬんだから、そう死に急ぐこともないと思うけどね・・・」しばらくして、アホから返事が来た。「ありがとう。そうだね。もうちょっと頑張ってみる」タナカはアホが自殺を思いとどまり、前向きに生きてくれることを願った。
それからもたびたび、タナカとアホのやり取りは続いた。タナカは誰にも打ち明けなかった自分の過去をアホに打ち明け、こんな自分でも生きているのだから、自殺などは考えない方がいい、とアホを励ました。アホは次第に生きる力を取り戻していった。タナカは自分の言葉で、アホを死の淵から救ったのだと思うと、自分に初めて自信が持てたような気がした。
タナカとアホのネット上での交際は数ヵ月続いた。アホは徐々に心を開くようになり、タナカに近況や悩み事を打ち明け、タナカもそれに対して、アドバイスをするようになっていた。そんなことが続いたのち、アホの方からタナカに会いたいと切り出してきた。タナカは返事に困った。「アホと会うべきか?アホと会ったことで、また、裏切られるようなことになりはしないだろうか?」
タナカは数日悩んだ。最初は人に傷つけられ、裏切られることを恐れていたが、アホとのやり取りで、だいぶ自信もつけていただけに、一度、アホと会ってみようという気になった。
数日後、タナカはアホと落ち合う約束をし、約束の場所に赴いた。「タナカさんですね?」アホの方から声をかけられた。相手は思っていたよりも美人だった。色白で、どこか幸薄そうな感じだが、清楚な美人であることに違いはない。タナカは一安心した。アホは松尾礼子という本名を名乗った。実際に会って話をしてみると、礼子は、それほど人生を悲観しているようには見えなかった。タナカは礼子と再会を約束し、その後も交際は続いた。
そんな中、礼子からメールが届いた。内容は、次のようなものだった。「両親が自分を精神病院に入れようとしている。自分は病気ではない。しかし、両親は自分を完全に異常者扱いしている。このままでは病院に入れられてしまう。助けて欲しい」タナカは面倒なことになったと思った。だが、一応、命を助けてやったわけだから、ここで礼子を放り捨てることはできないと思った。タナカは一度、礼子の両親と会おうと思った。
タナカは松尾家へ赴いた。礼子の両親を説得しようとしたが、両親の返事はこういうものだった。「あの子はうちの大事な一人娘だ。あなたは赤の他人。家のことには口を出さないでほしい」そう言われては、タナカも引き下がるしかなかった。礼子は家を出たいので、自分を連れていってほしいと言った。しかし、タナカは拒否した。これ以上、面倒なことに巻き込まれるのは嫌だったし、何よりも、自分は孤独に生きると決めていたからだ。
タナカはトラウマを引きずったままだった。人に傷つけられ、裏切られることを恐れるあまり、どうしても自己保身に傾いてしまうのだった。タナカは礼子を助けたことを後悔した。「俺は、こういう人間だから、君を助けることはできない。たとえ、君と一緒になったとしても、俺は不器用だから、君を幸せにすることはできない。だから、俺のことは忘れてくれ」残酷だとは思ったが、タナカは、礼子との縁を切ることにした。
その後、礼子からの連絡は途絶えた。精神病院に入れられたとの噂は聞いていた。しかし、それほど重症だとは思いもしなかった。実際、礼子はタナカの説得で、一度は自殺をあきらめたのだ。
数ヵ月後、タナカは気になって、松尾家を訪ねてみた。あれから何の音沙汰もなかったからである。自宅には、礼子の両親がいた。暗く、沈んだ表情だった。「礼子は死にましたよ」「死んだ?」「病院で自殺未遂をやらかしたんです。個室に閉じ込めておいたら、今度は看護婦が目を離したすきに、ソックスで首を吊ったんです」「まさか・・・」タナカは我が耳を疑った。しかし、礼子の遺影と位牌を目にして、それが紛れもない真実だと知った。
タナカは自責の念に苛まれた。あの時、あんな冷たい言葉を吐かなければ、礼子は自殺しなかったかも知れない。いや、そもそも、自分が礼子に救いの手を差し伸べさえしなければ、こんなことにはならなかったのだ。
結局、タナカは人に傷つけられ、裏切られることを恐れたあまり、今度は逆に、人を傷つけ、裏切ることになってしまった。タナカは思った。「俺は一生、誰からも愛されない、誰も愛しちゃいけない存在なんだ」一生、誰とも付き合わない。そう心に刻みつけたのである。
タナカの父親の実家は千葉県の北部にある。タナカ家は数代にわたる悲惨な歴史を背負ってきた。
江戸時代中期の天明年間、その地方で百姓一揆があった。天明年間というと、浅間山が噴火し、全国で大飢饉が起こり、数百万人が餓死した時代だ。領主・松尾肥前守は江戸の旗本である。現在の千葉県北部に3千石の領地を持っていた。江戸時代もこの頃になると、物価が上がり、武士の生活も困窮を極めている。松尾家も例外ではなく、領地の農民に課す年貢だけが唯一の財源だ。飢饉であろうが何であろうが、年貢を取り立てるしかないのが実情だった。そして、松尾家は数年にわたる凶作に苦しむ領内の農民に対し、「再来年の分まで年貢を納めよ」と無茶な要求を押し付けたのである。これは松尾家の家老・平山外記が領主と相談して出した結論であった。それほどまでに松尾家の財政は逼迫していたのだ。これでは領民もたまったものではない。すぐに領内の名主たちが集まって緊急会議を行なった結果、「これは領主に訴え出て撤回させるしかない」ということになった。まず、名主たちは役所へ赴き、平身低頭して年貢の減免を訴えたが、「百姓の分際にて、お上に楯突くとは不届き千万」と罵られ、門前払いを喰ってしまった。「かくなるうえは、江戸表に直訴するより他はない」ということになり、代表者8名が江戸へ出て、領主に直接、訴えることになった。選ばれたのは、四郎兵衛、太兵衛、伝助、五平、七郎左衛門、九兵衛、五郎太、仁兵衛の8名。彼らはひそかに村を出て、江戸へ向かった。捕まえれば死罪も覚悟だから、命がけの直訴である。
天明5年(1785年)の暮れ。江戸入りした8名は、日本橋の馬喰町に宿を取り、直訴の計画を練った。万一、直訴が失敗した場合に備え、4名が残ることになった。松尾家の屋敷に訴え出た場合、松尾家が代表者をひそかに抹殺してしまうことも考えられる。そこでまず4名が訴えて失敗したら、残る4名が幕府の老中か将軍に直接、訴えることにしたのである。将軍や老中の耳に入れば、松尾家も黙っているわけにはいかない。必ずや農民たちの必死の要求が受け入れられることだろう。
ところが、直訴決行の前夜になって、脱落者が出た。伝助がただひとり、宿を出て、そのまま本所の松尾屋敷へ駆け込んだのである。「申し上げます。四郎兵衛ら7名が直訴を企てております」「なに?」「直訴が失敗した場合、将軍様かご老中へ直訴する手はずにて・・・」伝助は勝ち目のない闘いだと見切りをつけたのだろうか。なまじ命を捨てるよりも、領主側に寝返って、うまく立ち回ろうと考えたものか。それはともかく、伝助の密告により、四郎兵衛たち7名は、その夜のうちに捕らえられた。7名は松尾屋敷へ連行され、ろくな取り調べも裁判もないまま、首を斬られてしまった。
7名の名主の家は断絶となった。7名の親子親類まで残らず首をはねられ、彼らの土地は伝助のものになった。言うまでもなく、密告に対する報酬として与えられたものである。村人たちは7名の義民を讃え、ひそかに義民塚をつくって供養することを忘れなかった。一方、村の大地主となった伝助は「田中」の姓を与えられた。これがタナカ家の祖先となったわけである。しかし、義民たちの祟りなのか、伝助はその後まもなく、発狂して死んでしまったという。
その後、タナカ家は多くの土地を持つ豊かな地主として知られたが、明治時代になり、タナカ家の当主・五郎兵衛が散財のかぎりを尽くし、一家は破産した。
五郎兵衛はカツオの塩辛が大好物の大酒のみで、千葉、埼玉、東京、神奈川などの賭場を荒らしまわり、「田中五郎兵衛」という名前は関東一円の渡世人の間で知らないものはいないくらいに広まった。官憲に追われる身となったが、久々に実家に戻ってきて、風呂に入っていたところ、数名の討っ手に襲われた。「五郎兵衛!てめえ、よくも伊右衛門親分がかわいがってた源八を殺しやがったな!」「覚悟しろ!死ねっ!」五郎兵衛は湯舟から飛び出したが、あいにく、得物がない。それでも素っ裸で立ち向かい、討っ手のひとりから刀を奪い、額を割った。「この野郎!」「ぎゃあああっ!」「畜生!死にやがれ!」五郎兵衛の裸体に右と左から一斉に刀が突き込まれた。五郎兵衛のすさまじい悲鳴が上がった。それでもなかなか死ななかったので、刺客たちはよってたかって斬りつけ、ようやく死んだことを確かめた。
刺客を差し向けたのは、宇都宮の賭場で五郎兵衛が刃傷沙汰を起こした際、弟分を殺された土地の親分で、小栗伊右衛門という侠客だという。五郎兵衛には正妻の「きね」に生ませた子が5人いた。長男の九左衛門は、父の死後、冷酷な金貸しとして恐れられる存在となった。九左衛門は、なりふり構わぬ取り立てで他人の田畑を手に入れ、再び、タナカ家は地元でも裕福な名士となった。
だが、それも太平洋戦争までだった。戦後、GHQの農地解放政策で、タナカ家は土地を失ってしまった。一夜にして、地主から、「ただの田舎者」に成り下がってしまったのである。
タナカ家の次男・和男は小学校を出るとすぐ、働きに出された。和男は働いて稼ぎ、いつの日か、「土地を取り戻して、昔のタナカ家に戻る」ことを夢見ていた。和男は東京に出て、あらゆる職場で一生懸命に働いた。
時代は高度成長期。働けば働くほど稼げた時代だった。どこの職場でも人手が不足していた。和男はよりよい職場を求めて渡り歩き、寝る間も惜しんで働きぬいた。
やがて、和男は三菱重工の子会社に雇われることになった。日本中が東京オリンピックに湧いていた。仕事はいくらでもあった。和男は方々の建設現場で額に汗して働いた。すべては、「昔のタナカ家に戻る」という目標のためだった。
和男は結婚した。だが、相変わらず仕事は忙しく、家庭を顧みる余裕などなかった。和男は身を粉にして働いた。せっせと実家に仕送りをし、タナカ家は再び、地元でも裕福な農家のひとつになった。
1974年8月30日、和男は丸の内の三菱重工本社ビルにいた。何の前触れもなくそれは起こった。爆弾テロである。「東アジア反日武装戦線」を名乗る極左テロ集団の犯行だった。死者8人、重軽傷者376人を出したこの事件で、和男は片耳の聴力のほとんどを失った。
事件後、和男は退職した。再びテロに遭うかも知れないという恐怖と、大企業に使い捨てられることの虚しさが和男を襲った。和男は運送業を始めた。
商売は順調に軌道に乗った。その頃、世界は大きく動き出していた。ベトナムではアメリカが負け、カンボジアでも革命政権が誕生した。ポル・ポト(本名サロト・サル)率いるクメール・ルージュ(赤いクメール)は75年4月、首都プノンペンを制圧。親米派のロン・ノル政権を倒すと、ただちに世界でも例のない共産主義革命を実行に移した。プノンペンの全住民は農村へ強制疎開を命じられ、町から人の姿が消えた。彼らを待っていたのは農村での終わりなき強制労働であった。ポル・ポト政権は通貨制度を廃止し、全国民に農業で生きていくことを強制したのである。反抗するものは情け容赦なく殺された。知識人というだけで敵とみなされ、根こそぎ殺されていった。彼らの死体は畑の肥料として埋められた。カンボジア国民は「サハコー」と呼ばれる強制収容所に押し込まれ、一切の人権もプライバシーも許されない、徹底的な監視社会の中で、恐怖と飢えと重労働に耐えていくしかなかったのである。
同じ頃、和男は「チェン」というカンボジアの留学生を雇った。チェンはカンボジアのために勉強したいと語っていた。和男はチェンのよき理解者であった。
ある日、チェンはカンボジアに帰国することになった。ポル・ポト政権が海外にいる留学生に、「国のために協力を」と呼び掛けたのである。
和男は羽田空港までチェンを見送った。チェンの表情は心なしか暗かった。チェンはカンボジアに帰れば殺されるだろう、と言った。本国の共産政権は知識人を粛清している。帰れば自分も「階級の敵」とみなされ、処刑されるだろう、と。和男は笑った。「国に帰ったら、手紙を送ってくれ」
チェンが帰国して数年が過ぎた。チェンからの便りはなかった。79年1月、ベトナム軍の侵攻でポル・ポトは政権を追われた。そして、カンボジアの地獄が明るみに出た。和男は青くなった。
20年後。1999年の春、和男はタイとカンボジアを旅行した。カンボジアでは世界的な仏教遺跡、アンコール・ワットを見物した。プノンペンにあったトゥールスレン強制収容所も見学した。ここでは毎日、反革命派とみなされた人々が処刑されていたという。敷地内には名もない犠牲者の人骨が山のように積まれていた。収容所の壁には犠牲者の無数の顔写真が貼られていた。和男は目を凝らしてチェンの写真がないか探した。和男はチェンと撮った一枚の写真を持参していた。その写真を行く先々で見せては、チェンの消息をたどろうとした。しかし、何の手がかりも得られなかった。
カンボジアでは国民の6人に1人が殺されたという。チェンもほぼ間違いなく殺されただろう。20年の歳月を経て、和男はチェンの生存をあきらめる気になった。「あの時、無理にでもチェンを引き留めておけば・・・」チェンは助かったのだと思うと、自責の念は膨らむばかりだった。チェンは自分に恨みを残して死んだのだろうか。今となっては、それすらも知る由はない。
和男の体は病魔に蝕まれていた。風邪でもないのに咳が止まらない。診断の結果、肺気腫と分かった。若い頃、職場でマスクも付けず、アスベストを扱っていたことを思い出した。和男は苦しい治療を続けた。この苦しみも、チェンが受けた苦しみに比べれば大したことはない、と思うことにした。「おれが病気で苦しむのも、すべては報いだ。先祖のしたことと、おれのしたことが報いとなって返ってきたのだ。だから、悪いことはできないんだよ」と息子や社員を諭すのが、和男の日課のようになっていった。
タナカの母親の実家は岩手県である。タナカの母方の姓は「太田」という。そして、このオオタ家もタナカ家同様、悲惨な歴史を背負ってきた。
江戸時代初期の寛文年間、太田作右衛門は岩手藩・南部家の上級藩士であった。作右衛門の娘「はつ」は藩中随一の美女といわれ、「南部小町」の名で知られていた。悲劇はここから始まったのである。
寛文4年(1664年)の早春。作右衛門に藩主の南部重直から命令が下された。「娘を側妾にほしい」というのだ。作右衛門は苦慮した。この時、すでにはつには婚約者がいたのである。だが、主君の命令となれば、これを拒否するわけにはいかない。作右衛門は娘の婚約者の山根千代之助を説得し、さらにははつも説得した。はつも渋々ながら、これを承諾した。ところが、明日には城へ上り、主君のものになるという夜、はつは自害してしまった。懐剣で乳房の下を突いたのだ。婚約者である山根千代之助への貞操を貫いたのである。
作右衛門は主君に申し訳が立たないとして、屋敷で切腹して果てた。これで、太田家は主君に忠誠を尽くしたことになる。いや、なるはずだった。
作右衛門の息子・庄四郎は家督相続を願い出た。だが、重直は許さなかった。重直は日頃から悪評が絶えず、気性が激しく、短気で、独裁者であった。それを諫めるものがいても、逆にその家来の家禄を没収するという横暴ぶり。歴史書にも、「無法非儀の御方」と記されている。はつを我がものにできなかった怒りと悔しさを、ここぞとばかりに太田家にぶつけたのである。
太田一族はこれに抗議し、屋敷に籠城した。家を継ぐことが許されないのであれば、屋敷を枕に討ち死にする覚悟であった。まだ戦国時代の荒々しい気風が残っていた時代である。たとえ主君といえども、この非道に黙っているわけにはいかない。むしろ主君と戦って死ぬくらいの意地がなければ、「何のために武士は刀を差しておるのだ、と笑いものになりましょう」と庄四郎は若いに似合わず、説得しようとする藩士に言い放った。時に庄四郎は18歳である。
数日後、太田家の門を叩くものがあった。「上意であるぞ。庄四郎、門を開けよ」との声。庄四郎は重直が跡目相続を許したものと思い、門を開いた。が、飛び込んできたのは朗報ではなく、重直が放った上意討ちの討っ手だった。「上意である。覚悟せよ」庄四郎は抜刀して、果敢に立ち向かった。叔父の利兵衛や弟の虎次郎も槍や刀を手に応戦する。すさまじい斬りあいの音と男たちの怒号、女たちの悲鳴が沸きあがった。庄四郎が討っ手のひとりを斬り倒した。頭を割られた敵が悲鳴を上げて庭に転げ落ちる。庭の雪がたちまち血で赤く染まった。激しい戦闘は夜明けまで続いた。庄四郎以下、男たちは全員討たれ、女子どもも一人残らず斬殺された。「ひとり残らず斬って捨てよ」という重直の厳命である。こうして、太田家は無残にも一家全滅させられた。生き残った親類も城下から追放された。太田家の悲劇は歴史の闇に葬られたのである。
寛文4年(1664年)9月、南部藩28代藩主・南部重直が病死。重直には子がいなかった。藩主が跡継ぎのないまま死んだ場合、家名断絶・領地没収が当時の慣例である。ここに至って南部藩は存亡の危機に直面した。
同年12月。重直の弟・重信と親類の中里家の当主・直房に対し、幕府は本来なら領地没収となるところ、岩手藩10万石を8万石に減らし、重信に家督相続を認め、直房には2万石を与えて新たに創設した八戸藩の藩主になることを命じた。
しかし、不幸は続く。寛文6年(1666年)5月26日、初めて自分の領地に入った八戸藩主・直房は、わずか2年後の寛文8年6月、家来によって暗殺されてしまった。
ふたりの藩主の相次ぐ死。人々は、「太田一族の祟りだ」と恐れ、この悲劇を長く語り継いだという。 その後、太田家の末裔は岩手の寒村に細々と暮らしていた。生活は苦しく、北海道へ出稼ぎなどをしていた。第二次大戦前、仕事を求めて中国大陸へ移住。満州で苦労の末、かなりの土地と財産を手にした。が、終戦直前のソ連軍の侵攻で命からがら逃げ出す。その途中でソ連兵に強姦されたのがタナカの母方の祖母・キヨである。
キヨは身ごもってしまった。夫の安次郎はソ連兵に捕まり、シベリアへ送られてしまった。厳しい労働と飢えと寒さで、安次郎は2年後に死んだ。日本に帰国したキヨは、直後に子を産んだ。タナカの母・信子である。ロシア人とのハーフである信子は美しい娘に成長した。そして、この美しさがまた、悲劇の始まりとなった。
高校を卒業後、信子は東京へ出てモデルになろうと決心した。ハーフとしていじめられて育った少女時代、信子は何とかこの逆境から抜け出そうともがいていた。モデルになって自分を蔑んできた連中を見返してやろうと思った。
信子は東京でモデルの勉強を始めた。トップになろうとするあまり、周囲とはいざこざが絶えなかった。チャンスをつかむために何でもした。妻子持ちの男や米軍の軍人と寝たこともあった。
だが、信子のなりふり構わぬやり方は、同僚の深い憎しみを買った。あるショーの最中、信子は舞台裏で何者かに塩酸をかけられた。酸は信子の顔を焼き、醜い痕を残した。信子はモデルの道を断念した。
その後、信子は保険会社に就職したが、顔半分に残る火傷の痕は信子から、ことごとくチャンスを奪っていった。見合いも何度もしたが、すべて相手から断ってきた。信子が田中和男と結婚したのは、高校の同級生のほとんどが結婚した後のことだった。
結婚後、信子は子をもうけ家庭を築いた。血を吐くような努力の結果が、こんな平凡すぎる家庭の主婦だったのかと思うと、信子は運命を呪い、怪しげな宗教に傾き、精神を病んでいった。
1980年、タナカはタナカ家の長男として東京郊外の小金井市に生まれた。父・和男は運送業の仕事が忙しく、母・信子はその頃、精神的に不安定でキリスト教を妄信していた。和男は普通の病院で生むことを望んだが、信子は小金井市のキリスト系の病院で生んだ。生後まもなく、タナカは洗礼を受けたので、タナカは「ガブリエル」という洗礼名を持っている。
タナカは6歳まで東京の武蔵野で暮らした。両親は喧嘩が絶えず、和男は家のことを信子に一任していた。信子はノイローゼ気味でタナカを折檻した。タナカはよくおねしょをしたので、信子はタナカのペニスを糸で縛ってしまった。タナカが指しゃぶりを止めないので、両手を縛ってしまうこともあった。信子は厳格なルター派教徒だったため、「性は汚れたもの」と教え込み、異性との接触を禁じた。タナカは誰とも遊ばない、内気で大人しい子になった。
タナカが幼稚園のとき、一家を立て続けに悲劇が襲った。和男が仕事中、フォークリフトに足を踏み潰されて重傷を負った。和男が入院したため、信子は育児と仕事の両面に追われた。さらにキヨが死んだ。直腸ガンである。信子はキヨの仏壇を家にもうけることに反対だったが、和男は、「死んだ人は供養した方がいい」と言って家に仏壇を置いた。そのロウソクの火が倒れて燃え移り、自宅は全焼してしまった。その上、従業員が居眠り運転で大事故をやらかした。タナカ家は一気に膨大な借金を背負い込み、和男はやむなく店をたたんだ。
信子は離婚を申し出た。和男は何とかやり直したいと思っていたので承知しなかった。信子はタナカを引き取りたいと言った。和男は精神を病んでいる信子にタナカを預けるのは不適だと思い、タナカを連れて千葉の実家へ戻った。
タナカは地元の小学校に入学した。タナカはすぐにイジメの標的に選ばれた。学校の近くに印旛沼という大きな沼があった。そこから流れる川は子どもたちの遊び場だった。ある時、タナカは同級生と川に遊びに行った。川には古いコンクリートの橋がかかっていた。子どもたちはここから数メートル下の川へ飛び込んだ。これができて初めて「一人前」と認められるのである。タナカは足がすくんだ。「早くやれよ!」背中を押されてタナカは頭からダイブした。川面に勢いよく叩きつけられ、タナカは意識を失った。気がついたとき、タナカは鼻血を流して川岸に横たわっていた。
和男は実家の農業の手伝いをしながら、「会社再建」を夢見ていた。再建には資金がいる。その資金を兄・昭男から借りようと何度も頭を下げた。しかし、昭男は承知しない。和男はつい感情的になって言った。「兄貴、東京に出て苦労して、田中の家をここまでにしたのは、おれなんだぜ。兄貴が困ったときには、いくらでも力を貸してきた。もちろん、金も貸した。そのおれが困っていて、兄貴は楽々と暮らしているのに、実の弟にはビタ一文貸せないってのか?そいつはあんまり冷たすぎるぜ」すると、昭男が忌々しげに言った。「お前が戻ってきて、近所の連中は何と思ってるか分かるか?あの成り上がり野郎が落ちぶれて戻ってきやがった、ざまあみろと思ってるんだ。お前は田中家の恥さらしだよ。とっとと荷物をまとめて出ていってくれ」「・・・・・・」和男は悔しかったが、ぐっと怒りをこらえた。それでも悔しくて、夜になると便所の中で、声を殺して泣いた。
世間の目は冷たかった。成り上がりの成り下がりほどみじめなものはない。タナカにはひとりも友だちがいなかった。親たちが、「あそこの子とは遊んじゃいけない」と言っていたのだ。タナカは本を読み、ひとりで過ごした。千葉の夏は暑く、いつまでも続いた。タナカは田んぼの先に広がる新興住宅地を眺めながら、「早く東京へ帰りたいな・・・」と思っていた。そして夜になると、和男と同じように、布団の中で声を殺して泣いた。
小学5年生のとき、タナカは和男とともに北海道へ移住した。札幌に宮本信夫という和男の恩人がいた。宮本は和男がかつて勤めていた三菱重工の子会社の上司である。退職後、宮本は実家の運送業を手伝っていた。そこへ和男はタナカを連れて、「何とか金を貸してくれないか」と頼みに行ったのである。宮本はすぐには返事をせず、「しばらくここで働いてみたらどうだ?」と言ってきた。「息子さんもまだ小さいことだし、母親がいないというのは不憫だ。うちには娘がいるから、何かと面倒を見てやれるだろう。それに私も妻に先立たれて、最近はいささか淋しい思いをしていてね・・・」「えっ、それじゃあ、お宅にお邪魔しても構わないんですか?」「ああ。いつまでいてくれても構わんよ」
こうして、和男とタナカは宮本家に居候することになった。宮本の長女はすでに結婚していた。当時、高校を出たばかりの次女・宏美がひとり家にいて、「お母さん代わりになるかどうか分からないけど、何でも遠慮せずに言ってね」タナカの面倒をよく見てくれた。タナカもつい、「今日は湯豆腐が食べたいな」などと甘えてしまう。和男は昼間は営業所へ出向いて、配車などの事務の仕事を任されていた。ずっと現場で培ってきたノウハウがあるのだから、お手のものだ。北海道の冬は厳しく長い。タナカはひとりで雪だるまを作りながら和男の帰りを待った。誰もいない夜道でひとり雪を転がしながら、「いつになったら東京へ帰れるのかな・・・」いつも思うのはそのことだった。
ある夜。「お風呂が沸いてるから入りなさい」宏美に言われ、タナカは服を脱いで浴室に入った。浴槽に浸かっていると、そこに宏美が入ってきた。宏美は身に何も着けていない。タナカは慌てた。「恥ずかしがることなんてないのよ」宏美が言った。「変なことをするわけじゃないんだから・・・」浴槽に入ってきた宏美は、タナカのペニスをつかんだ。「あっ・・・」「大丈夫。何もしないから」「で、でも・・・」「おちんちんが大きくなってきたね」「うっ・・・」タナカは初めて勃起した。手で隠そうとすると、「みんな経験することなの。おかしいことじゃないわ」宏美がそう言って、ペニスをしごき始めた。「あ、ああっ・・・」「うふふ・・・くすぐったい?」「あ、なんか・・・」「気持ちいい?」「あ、うう・・・」タナカは初めて性的興奮を覚えた。
それ以降、宏美は夜になるとタナカを自分の寝室へ呼ぶようになった。「お父さんには内緒よ。これはふたりだけの秘密。分かったね?」「う、うん・・・」タナカは悪いことをしているという気持ちはなかったが、どこか後ろめたいものを感じていた。宏美は裸になって、足を広げる。体毛に覆われた部分をタナカに見せて、「そこに指を入れて」とか、「そこを舐めて」などと指示をする。タナカはこわごわやってみた。正直、女の陰部はグロテスクなもので、決して美しいとは思わなかったが、「あぁん・・・」とか、「うふぅん・・・」などと宏美が甘い声を漏らして興奮してくると、得体の知れない衝動が体の奥底から湧き上がってくるのを感じた。
宏美によってタナカはオナニーを覚えた。学校へ行っても、家で勉強をしていても、無性にオナニーをしたくなってきた。まだ小学5年生だというのに、毎日オナニーをしないとイライラするようになった。勃起はするが、まだ射精はしない。信子によって、「性は汚れたもの」と教え込まれていただけに、「オナニーは悪いことだ」と思っていた。当然、隠れてオナニーをした。自分の部屋でオナニーをしていると、宏美がやってきて、「大丈夫。恥ずかしがることなんてないのよ。悪いことじゃないんだから・・・」と言って、オナニーを手伝う。さらに自分もオナニーをする。それをタナカに手伝わせる。信子の言うことが正しいのか、それとも宏美が正しいのか。何も分からないうちにタナカはオナニーにふけることだけを覚えていった。
1年後。和男はタナカを連れて東京へ戻ることになった。宮本が和男に会社の再建資金を貸したのである。和男の真面目な仕事ぶりが認められたのだ。和男はよろこび勇んで東京行きの航空券を買ってきた。「よろこべ。やっと東京へ戻れるんだぞ」「うん・・・」「母さんと一緒にやり直すことになった。また家族で暮らすんだ」「・・・・・・」「どうした?うれしくないのか?」「別に・・・」タナカは宏美と別れて東京へ戻り、またあの厳格な信子の下で暮らすのかと思うと、正直、このまま残りたいという気持ちのほうが強かった。
別れの日。「じゃあ、元気でね。また北海道にも来てね」「うん」「帰ったら電話ちょうだい。手紙も送って」「分かった」「それと、淋しくなったら、これで私のことを思い出して・・・」そう言って、宏美はタナカの目の前でスカートをめくり、パンティを脱ぐと、タナカに手渡した。「これは私の気持ちよ。あなたが東京でも淋しくないように・・・」タナカは宏美の白いパンティを顔にこすりつけた。甘い宏美の体臭がしみ込んでいる。思わず勃起した。「私、絶対にあなたのことを忘れないから。あなたが大きくなったら、私をお嫁さんにしてくれる?」「う、うん」「本当に?約束してくれる?」「約束する」「待ってるわ。絶対に忘れないでね」「さよなら」「さようなら」宏美は空港まで見送りにきた。いつまでも手を振っている。タナカは宏美のパンティをズボンのポケットにしまい込み、東京へ戻った。
その後。和男は宮本から借りた金で会社を再興した。信子も戻ってきた。一家は再び東京の府中市で暮らし始めた。和男は会社の営業所を八王子に設けた。府中の自宅から八王子まで毎日通う生活である。タナカは宏美のことが忘れられず、毎日、宏美のパンティの匂いを嗅ぎながらオナニーにふけった。
そんなある日のこと。信子がタナカの部屋を掃除していて、偶然、宏美のパンティを見つけた。信子は半狂乱になってタナカを問い詰めた。タナカは死んでも宏美との関係を白状しないつもりだったが、信子に折檻され、すべてを白状に及んだ。信子の怒りは収まらない。すぐに信子は北海道の宮本宅へ電話をかけた。そして口汚く宏美を罵った。宮本は困惑するばかりだった。以後、タナカ家と宮本家の親交は途絶えた。タナカは宏美と連絡を取ることを禁じられ、宏美のパンティも処分された。
タナカは中学に入った。勉強はできたが、孤独だった。親しい友だちはひとりもいなかった。勉強をしているか、宏美のことを思い出してオナニーをしているかだった。射精するようになってから、オナニーに伴う快感も鋭くなってきて、自然と回数は増えた。そんなある日、タナカは校舎の裏でオナニーしていたところを、たまたま女子生徒に目撃されてしまった。
翌日。放課後、タナカは廊下で数人の女子に詰問された。「タナカ君、昨日オナニーしてたでしょ」「してないよ」「ウソ。見てたのよ」タナカは女子に拘束された。解放の条件は、「オナニーしてみせて」というものだった。タナカは拒否した。逃走を試みたが、失敗した。タナカは手足を押さえつけられ、ズボンとパンツをはぎ取られた。「よせよお!やめろよお!」女子の手がタナカの小さなペニスに群がる。まだ皮をかぶったまましょんぼりとうなだれているそれをいじくり回す。「わあ、すごい。なんか立ってきたよ」「皮はむいたほうがいいんだよね?」女子がみかんの皮をむくようにタナカのペニスの皮をむいた。ピンク色の亀頭がぷるんとむき出しになった。「やめろよ!オマエら、女のくせに何やってんだよ!」タナカが抗議しても、返ってくるのは女子のクスクスという笑い声だけである。「この皮、どこまでむけばいいのかな?」「むけるとこまでむいていいんじゃない?」そんなやり取りにタナカはゾッとした。女子の手が無理やり皮をむいていく。赤くなった亀頭がピクピクと震えだした。亀頭が完全に露出した。ペニスは青筋を立ててビクビクと小刻みに震えている。「オレのチンコはオマエらのオモチャじゃないぞ!」
タナカはかろうじて抗議の声を挙げたが、それが精一杯の抵抗だった。手足は女子にギッチリと押さえつけられ、体を起こすことも、動かすこともできない。今やタナカは女子に何をされても耐えるしかないのだ。「これ、どんどん大きくなってきたね」「かたい」「こすってたら精液が出てくるのかな」「ここをこすると痛いみたいね」「タナカ君、大人しくなってきたね」「あんなに抵抗してたのにね」「あきらめたみたいだね」「最初から大人しくしてればいいのにね」「こ、こらー!オレはオマエらのオモチャじゃないんだぞ!」と叫びたかったが、すでにタナカの意識は女子の手で荒っぽく扱われる下半身に集中していた。このまま女子の目の前で射精してしまうのか。それだけは避けたいと思っていた。宏美との甘美な思い出を破壊されたくなかったからだ。だが、この状況でどうすればよいのか。タナカは女子の中でひとりだけ、タナカのペニスに手をつけていない子に必死に救いを求めた。
「頼むよ!みんなを止めてくれよ!頼む!」その子は哀れそうな目でタナカを見ていたが、「苦しいの?痛いの?それとも気持ちいいの?」と聞いてきた。「い、いいから、止めさせてくれよお・・・」「おちんちんをこすられると気持ちいいの?ねえ、気持ちいいんでしょ?なんで気持ちいいのに止めてほしいの?」「な、なに言ってるんだ、こいつは・・・」もう限界だった。女の子に男の体の構造をいちいち説明している余裕はない。男女の性差(ジェンダー)がもたらした悲劇だ。チンコのない女に男の気持ちなど理解できるはずもない。カワイイ顔してやることは残酷。それが女という生き物なのか。「これ、かわいいね」誰かが睾丸をつまんで袋の中の玉をクリクリ動かした。その瞬間、タナカは逝った。「すごい量の精液!」「まだ出てるよ!」「やだ、手が汚れちゃった」「こんなに出したのにまだ立ってるよ」「まだ出るのかな」「どのくらい出るの?」「もっとこすってみる?」「出なくなるまで出してみよう」タナカはゾッとした。精液が出なくなるまでこすられるのか。オレには自分の意思でオナニーする自由すらないのか。「お、オレは、一体、なんのために学校に来て、女どもに精液を搾り取られてなきゃいけないんだ?・・・」
放課後の校舎の片隅の廊下は薄暗く、ひんやりとしたカビ臭い空気が漂っていた。そこに強い精液の臭いが加わった。女子の手でタナカのペニスは容赦なくしごかれ、何度も射精した。しまいには水のような精液しか出てこなくなった。「もう出てこないのかな?」「おちんちんも立たなくなってきたね」「引っ張ってみたら?」「こうかな」ペニスを引っ張られ、指で弾かれても、すでに精液を出し尽くしたタナカのそれは立たなかった。そうなると女子の関心は急速に薄れていったようである。「なーんだ、つまんない。帰ろ、帰ろ」「こ、こらー!人のチンコをさんざんいじくっといて、な、なにがつまんないだ!」ようやく解放されたとき、タナカは起き上がる気力すら失っていた。
その日。皮をむかれたタナカは背中を丸めて帰宅した。歩くたびに亀頭がパンツにこすれて痛むのである。家に帰って自分の部屋に入っても落ち着かない。タナカはトイレに入った。「この皮を元に戻さないと、痛くて勉強もできないぞ・・・」タナカは悩んだ。悩んだ末に、「包茎に戻す方法」を思いついた。皮でペニスの先端を包み込むようにして放尿するのである。尿は皮の中にたまってパンパンに膨れ上がる。そこで手を放すと勢いよく尿がほとばしり、皮が元通りになるという寸法だ。タナカは便器の周りに尿を飛び散らせながら、苦心の末、また包茎に戻ることに成功した。タナカはホッとした。その夜は安眠を得ることができたのである。
翌日。放課後、タナカは再び、女子に拘束された。「タナカ君、あれからオナニーはしたの?」「な、なんでそんなこと聞くんだよ」「また学校でオナニーするつもり?」「ど、どこで何しようがオレの勝手だろ」「タナカ君のエロチンチンにはみんな困ってるのよ」「なにが困ることあるんだよ」「タナカ君みたいなエロガキがオナニーなんかしてたら、女子が安心して勉強できないじゃない」「か、関係ねーだろ」「いいから、脱がしちゃえ、脱がしちゃえ!」タナカは手足を押さえつけられ、ズボンとパンツを引き下げられた。ペニスをつかまれる。「あれ?また皮かぶってない?」「あ、よせ!やめろ!」「これ元に戻したの?」「やめろって!」「皮をむかないと病気になるよ。チンカスいっぱいたまってバイキンだらけになってオシッコできなくなるんだよ」勝手なことばかり言いやがって。オレが包茎であろうとなんであろうとオマエたちに何の関係があるというのだ?「皮むくからね」タナカはゾッとした。恐怖の表情を浮かべた。「大丈夫だよ」女子は笑いながらタナカの皮を無造作に引きはがすようにしてむいた。「ああっ・・・」とたんにアンモニア臭がぷーんと広がった。皮の中に残った尿の腐ったような臭いだ。女子が顔をしかめた。「うわっ、臭い!」「不潔!」「性病!」「バイキン!」「タナカ臭い!」一斉に心を踏みつけるような言葉を浴びせられ、タナカのペニスは急速に萎えていった。
数日後。放課後、タナカは誰もいない昇降口で靴を履き替えようとしていて、ひとりの女子に呼び止められた。「話があるんだけど・・・」「なに?」「いいからこっち来て」相手はタナカの強制オナニーの際、ただひとりだけ、タナカのペニスに触れなかった子である。哀れむようなまなざしでタナカをじっと見つめていた。その子の名は石井理香という。
ふたりは校舎の裏庭のベンチに並んで座った。数日前、タナカがひとりでオナニーをしたのもここだ。その時は気付かなかったが、ちょうど斜めにある校舎の窓からここが丸見えになっている。タナカのオナニーは完全に丸見えになっていたのだ。「タナカ君、もうオナニーなんてやめたほうがいいよ」と理香が切り出した。「タナカ君のこと、みんな噂になってるよ。このままだと学校にいられなくなるかもしれないよ。だからやめたほうがいいよ」タナカは何も言えずうつむいて黙っていた。「それと、なぜいじめられるか分かる?」リカちゃんがタナカの顔をのぞき込むように言った。「なんでだか分かる?タナカ君がおちんちん大きくするからだよ。だから、おちんちんを大きくしなければいじめられないんだよ」無茶苦茶だ、とタナカは思った。最初にチンチンをいじってきたのはどっちだ?誰だって、チンチンをいじられたら大きくなる。それが男というものだ。 宏美だって言った。「大丈夫。恥ずかしがることじゃないのよ。これが普通なんだから・・・」
理香は続けた。「タナカ君がおちんちんいじられても大きくしなければ、みんなつまんないからタナカ君のことをいじめなくなるよ。だから、どんなことがあっても絶対におちんちんを大きくしないようにすればいいんだよ。分かるでしょ?」そりゃ、無理だよと言おうとすると、理香が必死なまなざしで言ってきた。「私はタナカ君がかわいそうだから言ってるんだよ。タナカ君がこれ以上、いじめられるのを見ていられないから言ってるの」タナカは思わず息をのんだ。もしかしてこれが初恋?こういう形で告白されるとは。いや、自分には宏美がいる。いつの日か必ず、北海道へ戻って宏美と結婚するという妄想を、タナカはまだ捨てていなかった。次の瞬間、理香の手がタナカの下半身に伸びた。「あっ、なにしてんの?」「おちんちんをいじられても大きくしないように」理香はズボンのファスナーを下ろし、そこに指を入れて、タナカのペニスを引っぱり出した。ペニスはみるみるうちに大きくなっていく。「ダメ!大きくしちゃダメだって!だからいじめられるのに」「そ、そんなこと言われても・・・」「ダメだって言ってるでしょ!なんで分からないの?タナカ君って日本語分かる?言ってる意味分かるよね?おちんちん大きくしちゃダメだって言ってるのに何で分からないの?」「ひいぃ・・・」 「これ大きくしちゃダメだって言ってるでしょ!」理香の手がタナカの首に伸びた。「うぐぅ・・・」タナカの首を絞めながら、「なんで小さくなんないの?なんで?ねえ?なんで?」「く、苦しい・・・」窒息状態でタナカのペニスは異常なほど勃起した。こういうことはよくあるらしい。タナカは本で読んだ話を思い出した。絞首刑になった死刑囚は勃起して大量の精液を漏らすという。これは人間の体が生きようとする生存本能で無意識のうちに起きる現象だ。子孫を残そうとして、ありったけの精子を出そうとするのだという。それと同じことがタナカの身にも起こっていた。「あ、もう、ダメだ・・・」理香に首を絞められつつタナカは射精した。「あ、ダメ!出しちゃダメ・・・」理香が親指で栓をした。行き場がなくなった精液があふれ出す。タナカのペニスと理香の手をベトベトにしながら。
「もう、タナカ君って最低ね」タナカには辛い言葉だったが、この時、タナカは、「窒息状態での射精ほど気持ちいいものはない」ということを学んだ。タナカはタオルで自分の首を絞めながらオナニーすることを覚えた。
中学を卒業するまでタナカは女子に精液を搾取され、人体実験のモルモットにされ続けた。
ある時、タナカは生物部の女子に拘束された。「顕微鏡で精子を見てみたいの」すでにタナカの強制オナニーを知らない女子はいないくらい、校内では有名になっていたのである。「分かった、分かった」タナカは自分からペニスを引っぱり出してしごき始めた。どうせ抵抗したところで多勢に無勢、手足を押さえつけられてパンツまではぎ取られ、大勢の目の前で射精するまでこすられるのだ。射精するしか自由になる道はないのなら、男のプライドなど捨ててしまって構わないと思った。いや、すでにプライドなんてないのだ。ホモにもレイプされたんだし。「タナカ君、素直になったね」「いい子になったよ」「もう逃げたり反抗したりしないんだね」「女の子の言うことはなんでも聞くんだもんね」「いい子になってよかったね」「タナカ君はいい子になったんだよ」 女子に完全に包囲され、もはやオナニーする以外に絶対に自由の身にはなれないことを自覚したタナカは、飼い慣らされたペットのように従順だった。が、大勢の女子が見守る中で、タナカのペニスはいくらしごいても勃起しない。意識を集中させ、心を込めてしごく。それでもペニスは死んだ毛虫のようにヘナヘナと力なく横たわったままだ。「コラ!立てよ!立て!早く!何やってんだよ!」タナカは自分のペニスに呼び掛けるが、ペニスは主人の意向を無視して立たない。まるでオナニーに酷使されたことに対する無言の抗議でもあるかのように。「はやくー」「はやくやってよー」「タナカ君、はやくー」「まだあ?」「精子出してよ、精子」女子にせかされればせかされるほどタナカは焦ってペニスをしごくがなかなか勃起しない。この時、タナカは緊張すると勃起しないものだということを学んだ。
タナカが最も困ったのは授業中である。突然、何の前触れもなしにいきなり勃起してしまうことがしばしばあった。みんな何事もなかったように教科書を読んだりノートを取ったりしているが、この教室の中のほぼ半数は自分のペニスをオモチャにした女子なのだ、と思うと、タナカのそれは際限なく膨らみ、いきり立つのだった。
タナカは知った。女子に自由を奪われ、何をされても絶対に抵抗できない状況下でなければ、いくら勃起しても射精しても、「逝った」という気分になれないということを。こんな自分を宏美は受け入れてくれるだろうか?やさしく、気立てのよかった宏美が今の自分を見たら、何と思うだろうか?「ダメだ・・・おれはもう宏美さんと結婚なんてできない・・・」
タナカは、「強い男」になろうと思った。何があっても宏美を守ってやれるだけの男になりたいと思った。そこで近所の空手道場へ通い始めた。しかし瓦割りをやらせてみても手をくじいて瓦は一枚も割れない。ちょっと足をひねっただけで立てなくなってしまう。空手着一枚の薄着で外に出ただけで風邪を引いてしまう。まったく何をやってもダメなのだ。
タナカは気分だけでも、「強い男」になろうと考えた。女子に手足を押さえつけられ、ペニスをもてあそばれているとき、タナカは努めて、「戦争」をイメージすることにした。シルベスター・スタローンやアーノルド・シュワルツェネッガーのアクション映画を観て想像力を膨らませ、女子の手が自分のペニスをいじくり回しているときは機関銃やバズーカ砲をぶっ放している自分を想像し、女子のいやらしい笑い声を銃声や爆音でかき消そうとした。それでも最後は、「逝く」ことに変わりはなく、また、「逝く」ことに人生の無上の喜びを見出していたのだが。
タナカは本を読みあさり、「これだ!」と思う書に巡り会った。中国の偉大なる作家・魯迅の不朽の名作『阿Q正伝』である。主人公の阿Qは弱いくせに強がる卑屈な人間である。タナカそっくりである。阿Qはどんなに負けても、「オレが勝たせてやったんだ」と言ってはばからない。これを、「精神的勝利法」という。タナカもこれを真似することにした。女子にいじめられても、「性教育の実習をさせてやったのだ」と思えばいいのだ。女子に皮をむかれたのも、「タダで包茎手術ができた」と思えばいいのだ。タナカは精神的に成長したような気がした。「そうだ。オレはいつも相手に勝たせてやったんだ。オレは負けたんじゃないんだ。オレは本当はすごく強い人間なんだ」と思った。この「精神的勝利法」は最高だった。どんなにいじめられても、心ない言葉を浴びせられても、タナカはいつも精神の安定を失わずに済むことを得たのである。
「精神的勝利法」によって、「強い男」になれたと思ったタナカは、以降、積極的になった。高校に入ったとき、タナカは以前のタナカではなくなっていた。明るく前向きで、「切れた」状態であった。本当に何かが吹っ切れたような気がした。自分をつなぐ見えない鎖が断ち切れたと思った。タナカはよくしゃべり、友達もたくさんできた。
しかし、運命とは皮肉なものである。宏美の次に手にした、「彼女」の父親が中学時代にタナカをレイプしたホモだったとは。タナカは「精神的勝利法」によっても乗り越えられない壁にぶち当たった。
それはタナカの恋が思いがけない形で破綻した直後のことだ。放課後の教室でタナカは女子に拘束された。タナカを拘束した女子グループのリーダーは、あのホモの娘、つまりタナカの「元カノ」である雪菜だった。なぜ拘束されなければならないのか?訳が分からずにいると、雪菜が言った。「アンタ、痴漢なんだってね」「はぁ?」「はぁじゃねーよ。うちのパパが言ってたんだよ。アンタが電車の中で痴漢してるのを見たって」「なにぃ?」濡れ衣とはまさにこのことだ。あのホモ野郎は、自分の娘とタナカの縁を切らせるためにそんなウソを吹き込んだのか。
タナカの「処刑」が始まった。それは中学時代のものとは比較にもならないほど凄惨なものだった。タナカは身ぐるみはがされ全裸にされた。すでにタナカの周りには十数人の女子が群がっていた。絶対に逃走も抵抗も不可能である。タナカは緊張のあまり勃起しなかった。ペニスは無惨なほど小さくしぼんで垂れている。「わー、ちっちぇー!」「子犬のシッポみたい」誰かが言った。「前立腺をやれば一発だよ」
タナカは机に押し付けられ、無理やり肛門に異物を挿入された。教室に活けてあったカーネーションを茎から差し込まれたのだ。「入った?」「まだ入ってないよ」「もっと広げて」「こう?」「あ、入った」「もっと入れないと」タナカはホモにレイプされたときのことを思い出していた。肛門から直腸に異物が押し入ってきた瞬間、反射的に勃起した。「あぁっ・・・」
3人の女子がフェラチオを始めた。2人が両側から金玉を、1人が竿を舐めた。まるで餌に群がる鯉のように。女子のあたたかい吐息とヌルヌルした舌先と唾液が容赦なくタナカのペニスをなぶっていく。雪菜がタナカの乳首をつねる。周りに詰め寄った女子が甲高い笑い声を上げながらタナカの股間に視線を集中させる。フェラをしている1人がタナカの袋を舐めながらじっとタナカの目を見つめた。タナカは目をそらした。そいつの目は明らかにこう言っていた。「オマエ、女に大事なものを舐められながら何にもできないのか?」タナカは耐えた。「戦争」をイメージした。それでも体の自然な反応を抑えることはできなかった。
悪夢のような時間が去った。タナカは、「タダで風俗に行けたと思えばいいんだ」と自分に言い聞かせた。しかし、大勢の女子の前で辱めを受けたことはタナカの心に癒しがたい傷を残した。タナカはそれ以降、女と目を合わせることができなくなった。
タナカは何とかして、「女に仕返しをしたい」と思った。いつもやられっ放しではたまったものではない。かといって、自分をいじめた同級生に仕返しをすることなど、「とても勇気がなくてできない」タナカなのである。そこでタナカは卑怯なやり方で女に仕返しをしようとした。
ある晩秋の夕方。タナカは早めに自宅に戻り、目立たない私服に着替えた。人相が分からぬようキャップを目深にかぶり、マスクもした。黒いジャンパーのポケットにはカッターナイフを忍ばせてある。タナカは閑静な住宅地の公園で獲物を待った。公園の前は近くの公立中学校の通学路になっている。すでに日は落ち、街灯が道を照らし出していた。暗がりに身を潜めていたタナカは、「来た!・・・」道の向こうから並んで歩いてくる2人の女子中学生に狙いを定めた。ふたりが近付いてくると、タナカは無言で道に走り出た。ポケットからカッターを取り出して刃を滑らせ、「騒ぐな!騒ぐと顔を切るぞ!」と脅した。ふたりの女子中学生は一瞬、表情が凍りついた。タナカは2人の顔に刃を近付け、「いいか、騒ぐなよ!逃げたら殺すぞ!こっちに来い!」ふたりの肩を押して、公園の隅の公衆便所へ連れ込んだ。ふたりを個室に押し込み、タナカも入って戸を閉めた。「まず、生徒手帳を出せ」と命じた。ふたりは恐る恐る学校の生徒手帳を差し出した。ふたりの氏名と住所をすばやく頭に入れておいた。原田佳代と林真由美という中学3年生の少女だった。原田は髪を両肩でお下げにしている。林は耳の下までの長さに切りそろえたショートヘアだ。原田が林より少し背が高かった。「お前らの名前と住所、覚えたからな!もし警察に訴えたりしたら、お礼参りに行くからな!」と脅しておいて、生徒手帳を返した。「よし、じゃあ、パンツを脱げ!」タナカが命じると、原田も林もキョトンとしている。「何してる!早くしないと顔切るぞ!」押し殺した声で脅して、2人の顔にカッターの刃を近付ける。女には、「殺すぞ!」という脅し文句よりも、「顔を切るぞ!」と言ったほうが効果があると思ってのことだ。原田が困った顔をして林に、「どうする?」と聞く。「脱ごうか?」と林。うなずいて、原田が先に脱ぎ始めた。ふたりとも狭い便所の個室の中で、制服のスカートを持ち上げ、白いパンティを引き下げる。脱ぐときは靴が邪魔なので、履いている革靴を脱ぎ、片足を持ち上げてパンティを脱ぐ。タナカは興奮してきた。チノパンのチャックを下げて、すでに勃起しているペニスを左手で引っ張り出す。それを握りしめてこすりながら、「そ、それをよこせ!」と促すと、原田が脱いだパンティをタナカの持つカッターに引っかけた。林も同じようにした。「よ、よし。それじゃあ、本当にパンツを脱いだかどうか、スカートをめくって見せてみろ!」さすがに原田も林もためらった。タナカは片手でペニスをしごきながら、「早くしろ!マジで顔を切るぞ!」とカッターを向けて脅す。こうして女の子を辱めることで、女に仕返しをした気分に浸りたいのだ。そのくせ、力ずくで女の子を犯すつもりはない。せいぜい、この子たちに自分の精液を引っかけて、「ざまあみやがれ!」と歪んだ征服感を満たすのが関の山だ。再度、脅すと、渋々ながら、2人ともスカートをめくり上げた。「何してんだ!もっと上げろ!そう、あそこの毛を見せて・・・あっ・・・」ふたりがスカートを腰までめくり上げる前にタナカは射精していた。大量の精液がほとばしった。「なんか、すごい量出たね」と原田が言えば、「まだ出てるよ」と林が言う。ふたりともスカートをめくり、何も着けていない下半身を露出したまま、興味深そうにタナカのペニスをじっと見つめている。原田の陰毛はY字型にかなり濃く、林はI字型に薄く生えている。お互いに陰部を見つめていたが、原田と林はタナカのそれを見ながら笑い出した。「この人のかなり大きいね」「もっと有意義なことに使えばいいのにね」「使いたくても使えないんだろうね」「使わせてくれる人がいないんだろうね」「さびしい人だね」「かわいそうだね」などと女子中学生とは思えぬ冗談を言い合いながら、ケラケラと笑っている。タナカのペニスは急速に萎えた。これではふたりを辱めるどころか、逆に自分が辱めを受けているようなものだ。タナカは糸のような精液を垂らしながら、慌ててペニスをしまい込んだ。転びそうになりながらトイレを出た。ふたりの甲高い笑い声が追いかけてくる。タナカは夢中で走って逃げた。家に持ち帰ったふたりのパンティで、宏美のときのようにオナニーをしてみたが、満足感は得られない。そのうえ、どっちがどっちだか分からなくなってしまった。ふたりとも似たような白のパンティを着けていたのだ。結局、タナカはふたりから奪ったパンティを捨ててしまった。得られたものはみじめな敗北感だけであった。
ところで、タナカには愛実という妹がいる。この妹とは8つ年が離れている。そして、妹の父親はタナカとは血のつながりのないまったくの赤の他人である。タナカが妹と初めて出会ったのは彼が中学生の時、妹がまだ5歳のときである。その時のことをタナカは今でもよく覚えている。妹は初対面の兄に向かって、「お兄ちゃん!」と言って抱きついてきた。その時のうれしさをタナカは忘れたことがない。
タナカの両親は一時期、別居していた。事実上の離婚状態であった。別居中、信子は売れないオカマの歌手のプロデューサーのようなことをしていた。その歌手、中本よしみが愛実の父親なのである。
和男は別居中も信子としばしば連絡を取っていたが、信子が中本と深い仲になっていることを知らなかった。信子の妊娠を知ったのは信子自身が和男に打ち明けたときである。「父親は誰なんだ?」「中本よ」「中本?あのオカマが?」「いいえ、彼にも妻子はいるの」「何だって?」「彼はオカマでも両刀使いのオカマなのよ」「つまり、男も女も好きだってことか?」「ええ」「参ったな・・・」「あたし、生むわ」「なに?」「お腹の子を生みます」「なにバカなことを言ってんだ!おろせ!」「嫌です!絶対生みます!ダメなら、その時は死にます!」「お前、自分が何言ってるか分かってるのか!?よりによって妻子持ちのオカマとできやがって・・・」和男は悩んだ。信子はすでに43歳。高齢出産であることに加え、実の父親は不倫相手。生まれてくる娘に災いをもたらすことにならないだろうか?だが、結局は生みたいと強く願う信子に押し切られた。和男は信子が二度と中本と接触しないことを条件に出産を認めた。こうして、愛実はタナカ家の長女になった。
再び、東京でのタナカ家の暮らしが始まった。今度は妹も含めて4人での生活である。愛実は何も知らずに和男が自分の父親だと信じて育った。「愛実ちゃんはお母さん似なのね。お父さんには似てないわね」と言われるたびに、「え?ああ、はぁ、まあ、母さんに似て美人なんですよ、ハハハ・・・」と苦笑する和男だった。信子は専業主婦に戻っていたし、中本のことなどすっかり忘れているようだった。タナカ家の平穏な日常が続いた。
その日は突然やってきた。2005年の夏、信子は家族の前で何ら臆することなくガンであることを告白した。寝耳に水、青天の霹靂とはまさにこのことだ。あまり丈夫ではないのに寝込むこともせず、家庭と運送業の仕事のふたつを切り盛りしてきた信子が、末期ガンに冒されていることを打ち明けたのである。ガンはすでに直腸、肝臓、肺に転移し、もはや手の施しようのない状態であった。仕事一筋だった和男は衝撃を受け、誰よりもうろたえ、そして家族の前で初めて涙を見せた。「信子、お前、なんで今までそんな大事なことを隠していたんだよ?どうして教えてくれなかったんだよ?」「ごめんなさいね。あなたを心配させたくなかったの」「バカ。どれだけ心配すると思ってるんだ。バカ」「これも運命ね。あきらめてちょうだい」
信子がガンを発病したのは、その2年前のことだった。それは、ある人物の死がきっかけだったと言えないこともないのである。2003年夏、あるニュースが新聞記事に載った。
アミン元大統領死去ウガンダ独裁、30万人虐殺
【ナイロビ16日共同】AP通信によると、1970年代にアフリカ東部のウガンダの大統領を務め、軍事独裁による弾圧、粛清で30万人を虐殺したとされるイディ・アミン氏が16日、腎不全などのため、亡命先のサウジアラビア・ジッダの病院で死去した。80歳だった。25年生まれとの説もある。7月にこん睡状態に陥っていた。アフリカの英連隊兵士の後、62年のウガンダ独立で大尉になり、参謀総長を務めていた71年にクーデターで大統領に就任。反政府勢力を徹底的に弾圧するなど恐怖政治を敷き「アフリカの暴君」とも呼ばれた。「人間の肉は何度か食った」と発言したとも伝えられる。79年、亡命ウガンダ人部隊を支援するタンザニア軍の進攻を招き、反対派のクーデターで失脚。国外追放され、リビアを経てサウジアラビアに亡命した。大統領当時、英国に国賓として迎えられた経歴を持つが、英国紙は大量殺人の責任を負うべき人物と指摘していた。
日本から遠く離れた聞き慣れない国のニュースである。新聞の片隅で報じられただけの小さなニュースであった。これを読んだ信子は急に泣き出した。人前では決して涙を見せたことのない信子が、である。訝しく思った和男が問いただした。「どうしたんだ?」「死んだのよ」「誰がだ?」「アミンさんが死んだの」「アミンって誰だ?」「忘れたの?ウガンダの大統領よ!」「ウガンダ?・・・ああ、そうか。思い出したぞ。あの人が・・・」和男は30年近く前の記憶を蘇らせた。
1976年のことである。当時、タナカ家の近くに川島良平という自民党の代議士が住んでいた。もう死んだが、かつては外務省の政務次官まで務めた人だ。その川島が、「日本・ウガンダ友好連盟」という組織の理事長に選ばれたのである。川島は夫人を伴ってウガンダを訪問する予定だった。ところが直前になって、夫人がヘルニアで入院してしまった。夫人の代役はいない。川島は困った。その時、「タナカさんの奥さんなら、間違いなくやってくれる」ということで、信子に白羽の矢が立った。なぜ信子が代役に選ばれたのかというと、和男が運送業のかたわら、川島家へよく出入りし、碁の好きな川島の相手をよくつとめていたからだ。川島の故郷は和男と同じ千葉県で、実家も近い。そんないきさつがあって、タナカ家と川島家は親交が深かったのである。当時の信子は顔の傷跡を気にして、あまり外へ出たがらず、人付き合いもしないほうだったから、「なんで私が?・・・」信子も驚くより困惑するばかりだった。しかも信子にとっては初めての海外旅行である。おまけにウガンダなどという国は見たことも聞いたこともない。「そんな・・・私なんかが・・・そんな・・・無理です・・・」信子は何度も断ったが、川島は許さない。和男も信子に行くよう重ねて説得した。結局、押し切られる形で信子は川島夫人の代役をつとめることになった。
イギリスの植民地だったウガンダは、「黒い大陸の真珠」と呼ばれた風光明媚な美しい土地である。首都カンパラはビクトリア湖を見下ろす7つの丘からなる緑の多い美しい街だ。川島一行はエンテベの空港でアミン大統領の歓迎を受けた。「わがウガンダへようこそ!」信子はアミンと会って驚いた。アミンは身長200センチを超す巨漢で、「まるでプロレスラーのような・・・」というのが第一印象であった。事実、アミンはアフリカのボクシングヘビー級チャンピオンになったこともある。あのアントニオ猪木との異種格闘技戦の話が出たこともある。結局、この話はアミンがクーデターで追われて実現しなかったのだが・・・。
一行はカンパラの大統領宮殿へ招待された。すぐに食事会が開かれた。テーブルにはフライドチキンと紅茶が出される。これがウガンダ流のもてなしなのである。信子が遠慮していると、アミンはムシャムシャとフライドチキンを食べ始めた。さらにバリバリと骨まで噛み砕く。信子は呆気に取られた。アミンは独裁者という怖いイメージだったのだが、「そんなに怖いという感じではないわね・・・」信子は正直、アミンという人物に親しみさえ覚えた。
歓迎式典は和やかな雰囲気の中で行なわれた。信子は緊張してほとんど何もしゃべらなかった。すると、アミンの方から信子に語りかけてきた。通訳を介して、「あなたは美しい人だ」というアミン。信子はこの時、頭から薄いスカーフをかぶっていた。ウガンダはイスラム教の国だし、アミンは熱烈なムスリムである。しかし、スカーフで顔を隠すもっと大きな理由は、「顔の傷跡を見られたくない」というものだ。信子はあの事件以降、人と会うときはいつもうつむいていた。自分の顔にまったく自信を持てなくなっていた。かつては美人だったという自負があるだけに、「自分の顔を人目にさらしたくない」という気持ちが信子を縛り付けていたのである。アミンが寄ってきたとき、信子は反射的に顔を伏せた。「こんな醜い顔を見られたくない」と思っていた。アミンが寄ってきたのも、「自分の醜い顔に興味を持ったのだ」と思っていた。「こんな自分を誰も好きになるわけがない」と思っていたのである。和男と結婚するまでに何度も見合いをした信子だが、どの男も、「かわいそうに、気の毒な・・・」という目で見る一方、「なんて醜い顔なんだ・・・」という嫌悪の感情を隠そうとしなかった。だから、信子は自分が嫌いだったし、自分に寄ってくる男も、「みんな嫌いだ」と思っていたのである。渋々ながら、ウガンダまで来た信子だったが、「こんなところに来るんじゃなかった」と一瞬、後悔した。「あなたは美しい人だ」とアミンに言われても、「下手なお世辞だ」と思った。その時、アミンが言った。「人間の美しさは顔ではない。心だ」信子は思わず顔を上げた。アミンの人懐こい笑顔が目の前にあった。「あなたの心は美しい。あなたは心の美しい人だ」「え?・・・」信子はアミンの言おうとしていることが分からなかった。アミンが訊ねた。「あなたはどの宗教を信じていますか?」「え?あ、ああ、私はクリスチャンです」キリスト教を信じている、と言ってから信子は後悔した。アミンはムスリムなのだ。キリスト教徒のくせに、スカーフをかぶっていると思われたら、「何をされるか分からない」と思った。相手は独裁者だ。下手をすれば投獄され、このまま二度と日本に帰れないかもしれない、と思った。信子は恐怖で身がすくんだ。すると、意外にもアミンがニッコリと微笑み、「あなたは私がムスリムだということを知っていましたか?」と訊いてきた。「は、はい・・・」信子が恐る恐る答えると、「あなたは私がムスリムだと知って、そのようにスカーフをかぶっておいでになられた。あなたはクリスチャンだが、ムスリムに対しても思いやりがある。やはり、あなたは心の美しい人なのです」とアミンが言った。アミンは続けた。「私には分かる。あなたの心の美しさが。顔が美しい人間でも、心の汚れた人間はいる。人間の美しさは顔ではない。心なのです」そう言って、アミンは軍服を着た自分の大きな胸をポンポンと叩いた。信子は心の中に一筋の光が差し込んだような気持ちになった。今まで誰からもこんなことを言われたことはない。「心の美しい人」この言葉に信子は救われたような気がした。
一行には日本のメディアも同行していた。当時、アミンの独裁ぶりは世界的に有名なもので、「ビクトリア湖が血で真っ赤に染まるくらい人を殺した」だの、「人肉が大好物で、処刑した囚人の肉をうまそうに食っている」だのという噂が、アミンの政敵によって言いふらされていたのである。アミンは大統領宮で取材陣の質問に答えた。「もし、私が本当にそれだけ人を殺しているとしたら、私はとっくに殺された人々の遺族に報復されているだろう」そう語ったアミンは、さらにこう付け加えた。「我が国は安全そのものだ。私が大量虐殺をしていると思うのであれば、どうかあなた方自身の目で国中を見ていってほしい。国民は平和に暮らしているということが分かるだろう」
信子は一行とともにウガンダ国内を見て回った。ウガンダ国民はアミン独裁下で苦しんでいるというような様子はなく、「アミン大統領は本当はいい人なのではないだろうか?」という思いが強くなっていくのを感じた。アミンが息子の運転するオープン・カーで走り回っているのも見た。国民に憎まれている独裁者なら、そんな無謀なことはしないだろう。常に暗殺者の影におびえ、護衛に囲まれて暮らしているはずだ。アミンがただ単に大胆不敵なのか。いや、それだけではないと思った。あんな気のきいたことを言える人が、「国民に憎まれる独裁者であるはずがない」と思った。
ついに帰国の日が訪れた。短い滞在だったが、信子は、「ウガンダに来て本当によかった」と思っていた。アミンとの出会いは一生忘れないだろう。「心の美しい人」という言葉は信子にとって何物にも代えがたい宝物となった。アミンは空港まで見送った。別れ際、アミンは信子の手を握って言った。「またウガンダにいらしてください」「ええ。またお会いできることを祈っています」アミンの手は大きくて温かかった。「大統領とお会いできて本当に良かったです。日本に帰ったら、大統領がいい人だということをみんなに教えてあげたいと思います」「ぜひ、そうしてください」アミンは大声で笑った。
これが信子とアミンの最初で最後の出会いとなった。
帰国後、信子はアミンが巷で言われているような暴君ではなく、「心やさしい独裁者」なのだということを説いて回った。しかし、日本の多くの人々にとっては、「アミンが暴君であろうがなかろうが、そんなのどうでもいいこと」だったようだ。ほとんどの人はウガンダという国さえ知らない。そんな日本から遠く離れたアフリカの小さな国のことなど、「どうでもいい」のである。「日本人って本当に心の狭い人種なのね・・・」信子は残念に思った。
それからまもなくして、ウガンダである事件が起こった。1976年6月27日、ギリシャのアテネ発パリ行きのエールフランス航空139便がハイジャックされた。犯人は8人のパレスチナ・ゲリラとバーダー・マインホフ(ドイツの極左テロ集団)の混成チームであった。彼らはアラブ寄りのウガンダ大統領アミンの支援を受けていた。139便はリビアのベンガジを経由してウガンダのエンテベ国際空港に着陸した。犯人グループの要求は、「イスラエルで服役中のテロリスト40人の釈放」であった。256人の乗客はイスラエル人とユダヤ人だけ残して解放された。残りの人質は空港の旧ターミナル・ビルに監禁された。アミンはウガンダ兵を犯人たちの護衛に当たらせた。犯人側は7月1日までに要求が通らなければ、「人質を処刑する」とイスラエル政府に警告した。その後、犯人は人質の処刑を4日まで延期すると通告した。イスラエルの熱心な説得を受け、アミンが犯人側の態度を和らげることに成功したためである。一方、イスラエルは特殊部隊を乗せた4機の軍用機をひそかにウガンダへ向かわせた。3日夜から4日未明にかけ、特殊部隊はエンテベ空港を奇襲。犯人7人とウガンダ兵45人を射殺し、人質102人の奪還に成功した。この作戦で特殊部隊を率いたヨナタン・ネタニヤフ中佐が戦死。ちなみにヨナタンはのちのイスラエル首相ベンヤミン・ネタニヤフの実兄である。
この事件でイスラエルは世界中から絶賛された。反面、ウガンダは、「テロリストを支援している」という非難を浴びせられた。アミンのイメージはさらに悪くなるばかりだった。78年、アミンは隣国タンザニアに軍を侵攻させた。が、逆にタンザニア軍にカンパラまで攻め込まれ、翌年1月、タンザニアの支援する反アミン派によって追放されてしまう。アミンはサウジに亡命し、ついに死ぬまでウガンダに戻ることはなかった。
アミン死亡のニュースは信子にショックを与えた。二度と会えなかったということよりも、「アミンさんが本当はいい人だってことを誰にも信じてもらえなかった」ことが信子の心を痛めたのである。アミンは、「国民を虐殺した独裁者」というイメージを変えることなく死んでいった。27年前の約束をとうとう果たせなかったのだ。信子は泣いた。たとえアミンが独裁者であり、テロを擁護した人物であろうと、「自分に生涯の宝物をくれた人」であることに変わりはない。アミンとの出会いが信子のその後の人生を変えた。信子は明るい性格になったし、特に他人には親切にするようになった。赤の他人から受けた親切はいつまでたっても忘れられないものだ。しかし、信子はアミンから受けた恩を返すことはできなかった。別に信子が責任を感じることではないのだが、「私はアミンさんを助けられなかった」という自責の念が信子を苦しめることになった。信子がガンを発病したのはこの頃である。
信子はすぐさま入院した。医師は、「ガン細胞が肥大して直腸をふさいでいる。このままではいずれ腸捻転を起こすだろうから、手術して直腸を切除し、人工肛門を取り付けるしかない」と説明した。信子は、「神からもらった体に傷をつけるのは許されない」とこの期に及んで駄々をこねたが、医者と家族の懸命な説得により、手術に同意した。
手術は入院から2週間後に行なわれた。医者は成功だったと語った。信子は順調に回復し、「これなら退院して普通の生活に戻れるのではないか」と誰もが期待した。だが、この時すでにガンは信子の体中のあちこちを蝕んでいた。手術や抗ガン剤や放射線治療を行なったとしても、そのすべてを取り除くことは無理だった。
死を覚悟した信子は、ある日、病室に家族を集めた。そして、愛実に真実を打ち明けたのである。実は、信子が入院するわずか1ヵ月前、中本がガンで他界していたのだ。信子には、アミン以上の相当なショックだったに違いない。そして、自分も病に倒れ、先が長くないと知った時点で、信子は決意したのである。「愛実、落ち着いて聞いてほしいの。あなたの実の父親は、もうこの世にはいないの」「え?何言ってるの?」「いいから聞いて。あなたの本当のお父さんは、ここにいるお父さんじゃないのよ」「信子、黙ってろ!」和男が叱りつけた。しかし、信子は続けた。「私はもう長くないの。もうすぐ死ぬの。だって、あの世から中本さんが私を呼ぶんですもの。こっちに来てくれ。淋しいって」「何言ってるんだ!しっかりしろ!」「今までずっと隠してきたけど、やっぱりウソをついたまま神様の元へ行けないわ。愛実、そういうことなの。あなたは中本さんと私の娘なのよ」一瞬、すべてが凍り付いたような錯覚にとらわれた。何もかも信じられなかった。いや、信じたくなかったと言ったほうが正しいかもしれない。「ウソよ!そんなのウソよ!なんでそんなウソをつくの?」「ウソじゃないわ。今までがウソだったのよ」「ひどい!なんでそんな大事なことを隠していたの?ママ、ひどすぎるよ!鬼だよ!」愛実はワッと泣き伏した。和男は下唇を噛んで震えていた。
同じ頃、宮本宏美が札幌の病院で死んだ。やはりガンである。宏美はすでに30を過ぎていたが、まだ独身だった。タナカと結婚するという約束を頑なに信じていたものか。タナカはとっくに宏美のことなど忘れていた。タナカは宏美の死を知らない。
それからまもなく、信子の容態は急変した。血圧が低下し、こん睡状態に陥った。家族が呼ばれた。医者は、「もう長くはないだろう」と言った。愛実は泣きながら信子の手を握った。「お母さん、なんでこんなことを打ち明けたの?なんで?なんで私たちを不幸にさせるようなことを言ったの?お願いだから、返事をして!」しかし、家族の願いもむなしく、入院から35日目の朝、まだ夜も明けきらないうちに信子は息を引き取った。9月30日、金曜日。享年59。その最期を看取ったのは3人の家族だけだった。
信子は本人の遺志に従って密葬された。多くの謎を残したまま信子は死んだ。信子の死後、遺書が見つかった。おそらく入院前にひそかに書き残していったものだろう。それには信子の真意は記されていなかったが、信子もまた自分の母親を憎んでいたことをうかがわせるような記述があった。それによると、信子の母親が死んだとき、母親は信子と同じように自分の知られざる過去を打ち明けたという。満州から日本へ帰国する途中、ソ連兵に犯され身ごもった子が信子だったということ。それまで隠し通してきた事実を母親は死の間際に信子に語ったのだ。
信子が死んだ今となっては憶測に頼るしかない。だが、信子は母親を憎み、そして同じことを自分の娘にした。自分の親にされた仕打ちを我が子に対してすることで、不幸な自分の人生に復讐したつもりだったのだろうか?真実は知る由もない。「ひどいよ。お母さん本当にひどいよ・・・」虐待された子どもは親になったとき、我が子も同じように虐待するという。負の連鎖はどこまで行っても断ち切れないのだろうか。悲嘆に暮れる妹を見ながら、タナカは思った。「親なんてバカだ。犯罪者だ。子どもを不幸にするだけだ。オレは絶対に親なんかにならないぞ・・・」
信子の死。それはタナカの生活にも重大な影響を及ぼした。タナカは大学を中退している。あの松尾礼子を救えなかったトラウマが原因だった。その後は極度の人嫌いになり、自宅に引きこもった。昼夜逆転の生活を送るようになり、何ヵ月も外に出ないで過ごすようになった。そんなタナカに和男も信子も働けとは言わなかった。
信子が死んだことで、タナカは一気に責任を負わされる立場に立たされることになった。(有)明星自動車は社員約30人の運送会社である。会社の経営は社長である和男と信子の夫妻によって行なわれてきたが、現場の指揮は和男、経理関係は信子が仕切っていた。タナカは25歳の若さで、会社の経理という責任重大な仕事を任されることになったのである。
すでに引きこもり生活は6年目に突入していた。生活に何の心配もなく、親の庇護を受けつつ、安穏と暮らしていたタナカが、いきなり苛酷な競争社会に放り出されたのだ。タナカはこれまで常に受け身だった。何から何まですべて親が決め、与えてきたものだ。タナカは自分の食べるものから着るものまで自分で調達したことなど一度もなかった。黙っていても親が買い与えてくれたからだ。それが普通であり当然だと思っていた。これほど自立心の乏しい男も珍しいだろう。タナカはいじめられても抵抗する術を知らなかった。誰も教えてくれなかった。そこでタナカは、「耐える」ことを学んだ。そして、「あきらめる」ことも学んだ。また、「精神的勝利法」も学んだ。そこに圧倒的に欠如していたものは、「自力で運命を切り開く」ことであった。何事にも耐え、あきらめてきたタナカにとって、自分で自分の問題を処理しようという発想は皆無に等しかったのである。
運送業というものは言わば社会の、「裏方」の仕事である。流通が途絶えれば、すぐに社会は崩壊する。社会を底辺で支える仕事なのに、報われることは少ない。電話が鳴ればクレームと決まっている。1年365日、朝から晩まで四六時中、神経を使う仕事だ。勤務時間は不規則で、肉体を酷使する仕事なので、そこに集まる人間は荒っぽくてがさつなタイプが多い。いわゆる、「ヤクザ」の人もいる。そうした人々をうまくとりまとめ、決してなめられずに使いこなしていくには、神経の太い人間でなければ到底、つとまるものではないのだ。
タナカが(有)明星自動車の二代目社長に就任したとき、社内では複雑な会社の主導権争いが起こっていた。和男の下で何年も働き、会社のことは一から十まで知り尽くしている役員は2人いた。部長の中井正美と所長の小野浩之だ。これに新参だが稼ぎ頭の松崎隆史。彼ら3人が、お互いに火花を散らし、虎視眈々と会社の実権を狙っていたのである。
中井は小太りの五十男で性格は温厚。和男の信頼が最も厚い部下だ。小野はまだ30代だが、妻の眞弓とともに勤めている。眞弓は信子と親しく信子が一番信頼を寄せていた部下だった。問題は松崎である。松崎は元暴力団組員で前科者。背中一面に龍の彫り物がある。普段は無口で大人しい男だが、カッとなると何をしでかすか分からない。実際、松崎は社員で一番収入が多いのに税金も一番多く取られることをぼやき、信子に頼んで、税金対策をさせていた。脱税である。和男がこれを問題にすると、松崎は逆上して怒鳴り込み、手がつけられないほど暴れた。こういう男だが、うまく使えば役に立つということで、信子にかわいがられていた。松崎も、「飼い殺しにしてくれりゃあ本望です」と神妙に答えていたが、その先に野望があったのは言うまでもない。
タナカはそんな会社の若き二代目社長に就いた。誰よりも神経がか細く、女の子にも力で負けてしまう、引きこもり歴6年の弱々しい社長の誕生である。最愛の妻に先立たれた傷心のうえに、この頼りない息子に会社と社員の運命を任せてしまうことに、和男は言い知れぬ不安を抱いていた。そこで和男は自分の妹夫婦をタナカの補佐役に任命したのである。
和男の妹・秋子は埼玉県で不動産業を営む島田庄助と結婚し、ふたりの子をもうけていた。すでに子は独立し、島田の仕事も安定している。生き馬の目を抜くような不動産業界の荒波に揉まれ、人を見る目があり人当たりもやわらかい島田なら、きっと、自分が倒れても、タナカを補佐し、タナカが立派な社長になるまで支えていってくれるだろうと考えた。
島田は実家が貧しく、しかも末っ子だったため、早くから世に出て苦労もしてきた。裸一貫から始めて一国一城の主になった男だ。島田は和男からタナカの補佐役を任されると、「お任せください。私が必ず、カズヒコ君を一人前にしてみせます」と頼もしい返事をした。島田はさっそく、会社の経営状態を調べ、すぐに中井部長の不正を摘発した。中井は和男の下で会社の金を横領していたのである。和男は激怒し、中井を呼びつけた。
和男に、「クビだ!」と怒鳴りつけられ、すっかり青ざめた中井は、その太った体を震わせ、泣きながら、「それだけは勘弁してください」と哀願した。和男の怒りはおさまらない。「俺はお前を100%、いや、120%信頼してきた。それをお前は裏切った。本当なら警察に訴えているところだ。クビにするのはせめてもの情けだ。すぐに荷物をまとめて出て行け!」中井は涙に満面を濡らし、声を震わせながら弁明する。「魔が差したんです。本当に申し訳ない。腹を切って詫びなきゃいけないところだ。でも、こんな私にも家族がいる。今、私がクビになったら家族は路頭に放り出されてしまう。もう二度とこんなことはしません。次やったらクビでいい。だから、今度ばかりは許してください・・・」大の男が泣き崩れて詫びるのだ。和男は人情もろいところがある。こんな男でも何だか哀れになってきた。結局、二度と不正はしないと誓わせて、その場はおさまったのである。
この一件で、中井は面目丸つぶれとなった。これをチャンスとばかりに小野が夫婦で出しゃばってきた。小野夫妻にはふたりの娘がいる。ふたりとも眞弓の連れ子で、長女・香奈枝は大学生、次女・智恵美は高校生だ。眞弓の練った、「明星自動車乗っ取り作戦」は次女の智恵美をタナカと結婚させ、会社を丸ごと自分のものにしてしまおうというものだ。タナカは何度も小野夫婦に食事に招かれた。智恵美をタナカに近付けようという作戦だ。だが、この作戦はどうやら失敗だったようである。眞弓はタナカの女性恐怖症までは見抜けなかったらしい。タナカは目も合わせようとせず、そそくさと食事を終えて帰っていった。
タナカは超多忙であった。毎月10日、20日、月末ごとに支払いがある。その前後はネコの手も借りたいくらいの忙しさとなる。給料作成、給料台帳作成、源泉所得税と市民税の支払い、請求書の作成と帳簿の記帳、入金の確認、銀行残高の確認、現金の引き出し、金銭出納簿の記帳、等々の事務をこなしつつ社員の指揮監督、取引先との折衝など、ありとあらゆる仕事を手順よくこなしていかねばならない。こうしたことも以前は信子がやっていたのだから、タナカには初めてやるのと何ら変わらなかった。「社長の息子だから、黙っていても会社を継げて楽だな」と陰口をたたくのもいた。「冗談じゃない」とタナカは思った。この仕事はあまりにもやるべきことが多く、少しでもサボっていると後が大変になる。25歳で母を失ったタナカは、30人を超える社員とその家族の生活という、途方もなく大きな責任を背負わされることになったのである。
慌ただしさの中で年が明けた。2006年になった。和男は以前から患っていた糖尿病と心臓病、肺気腫のうえに長年の労働で痛めた足腰が急速に悪化していた。会社の経営も思わしくなかった。原油高の影響をもろに受ける商売である。燃費が前年比の倍になり、2千万円を超す赤字を記録した。おまけに東京都の環境規制強化だ。都内の営業所ではとてもやっていけない。和男は島田に頼んで、規制のない山梨県に会社の本拠地を移転する計画を進めた。
同じ頃、中井が体調を崩して入院した。診断の結果は、「肺ガン」である。信子と同じだ。これも何かの因縁なのだろうか。ガンは脳と全身の骨にまで転移しているという。タナカは和男とともに中井を見舞った。中井は抗ガン剤治療を受けている最中だった。あのでっぷりと太っていた中井の面影はなく、副作用でほとんど食事も受け付けず、げっそりと痩せ細った初老の男がそこにいた。中井は保険にも入っておらず、これといった貯えもない。もし和男があの時、クビにしていたら、アパートの家賃も払えず、それこそ野垂れ死にしていただろう。中井は涙ながらに、「社長の恩が身にしみました」と言った。「ま、今はとにかく治療に専念して、一日も早く会社に戻ってくれ。君がいないと配車に困る」
和男が心配していたのは、配車のプロである中井が欠けたことで、代わりに小野夫妻に配車を任さねばならないということだった。これは、とりもなおさず会社の実権が小野夫婦に渡ってしまうことを意味する。それはともかく、問題なのは小野が配車に専念することで、車から降りてしまうことだった。小野が車を降りれば、その分が遊んでしまうことになる。この厳しい時期にトラック一台を遊ばせておくのは大変なロスだ。しかも、小野は自分が配車をやるから車を降りるが、給料は下げないで欲しいと無理な要求を突き付けてきた。会社が火の車なのを知っていて、そんなことを言っているのだ。
和男は苦虫を噛みつぶしたような顔で言った。「小野の奴、もし自分の要求が通らなければ会社を辞めると言ってるそうだ。あんな奴でも、今はいてくれないと困ることを知ってるんだ」「でも、配車は小野でなくてもできるはずだと思うけど?」「もちろんだ。俺も配車は中井とか小野とか、特定の社員に任せるのではなく、何人かの社員に交代でやらせてみてはどうかと思ったんだ。ひとりにだけやらせてしまうと、不正の温床になるからな」「で、小野はなんて言ってるの?」「そんなことはできないと抜かしやがった。やる前からできないと言ってる。つまり、ハナからやる気がないんだ。自分たちの思い通りにならないからな」問題はそれだけではない。「小野が車から降りて配車に専念するようになったら、池澤や大澤や矢島は会社を辞めると言ってる。小野の下では働けないと言ってる。みんな、小野夫婦の独断専行を嫌ってるんだ。そうなれば当然、松崎だって黙っちゃいないだろう・・・」池澤邦夫、大澤和士、矢島宏は松崎と並んで会社の稼ぎ頭である。主力となる社員が一斉に辞めてしまったら、もう会社は動かなくなる。いくら、小野夫婦が頑張ってみてもダメだ。組織は人が動かす。人が動かなければ組織も動かないのだ。 小野は、「腰が痛い」と言って車から降りてしまった。持病の腰痛がかなり悪化していたものらしい。小野夫婦が会社の営業所にいつもいるようになった。和男の命令でタナカは小野の給料を中井と同じレベルに下げた。小野のそれまでの給料は月平均40万前後だったが、配車係に降りたことで中井と同程度の30万強になった。案の定、眞弓が文句を言ってきた。眞弓の月給は10万強である。夫婦で十分暮らしていけるはずなのだが、眞弓は、「これでは生活できない」という。眞弓はもともと会社に勤めていたわけではない。事務係として入ってきたのは3年前のことだ。小野はすでに十数年も勤めている。夫婦はずっと小野の稼ぎだけで暮らしてきたのだ。それが今になって、「生活できない」とはどういうことか。
そんな中、松崎が、「世話になった社長の奥さんに線香をあげたい」と言ってタナカ家を訪ねた。松崎は神妙に信子の位牌の前で合掌してから、タナカにこう言った。「おふくろさんから、二代目のことを頼むと言われました。これからは何かあったら、何でもあっしに相談しておくんなせぇ」「はぁ・・・」そして、松崎は、「小野夫婦が会社を辞めると言っている」という話をした。小野夫婦は給料を上げないと辞めるという脅しを使ってくるはずだから、気を付けろというのだ。もっとも、会社の後釜を狙っているのは小野夫婦だけではない。松崎だって同じだろう。松崎にとってはむしろ、小野夫婦が辞めてくれたほうが好都合なのだ。
数日後、和男とタナカは中井、小野夫婦と会って話をすることになった。中井は退院はしたが、抗ガン剤治療を続けている。体重は15キロも減ったという。「具合はどうだ?」「よくありませんや。吐き気で何も食べたくないし、日増しにどんどん悪くなってるようです」「それはいかんな」「このアパートも出ていこうと思ってるんです。治療費がバカになりません。もっと安いとこに入ろうかと」「ふうん」「それで、その、治療費がかさんで、もう逆さに振っても鼻血も出ません。こんな体でも生きるには働かなきゃいかんし、もう死ぬまで働くつもりです」「死ぬまで働くったって、その体じゃ・・・」「社長。できるだけ働きます。これでもまだ、配車くらいはできる。だから、また働かしてください」「その体では無理だな」和男が突き放すように言うと、中井は泣き出した。今の中井は無収入である。どこも雇ってくれるところはない。だからまた元の給料で使って欲しいというのだ。中井は自分から不祥事の責任をとって、「給料を減らしてほしい」と言ってきたくせに、今度は、「元に戻してくれ」だ。こうなったのもすべては中井の自業自得である。しまいには中井が和男の態度を、「冷たい」と非難し、金をくれて当然というような言い方をしたので、和男は激怒した。「お前、ふざけるんじゃない!お前が不正をしたのに、お前を訴えるどころかクビにもせず、会社に置いてやったのはどこの誰だ?会社の恩を仇で返したのは、一体、どこの誰なんだ?」その言葉に中井の妻・静江が驚いて声をあげた。「あんた、不正って何のことなのさ?」「お前は黙ってろ」中井は自分が不正をして、会社をクビになりかけたことを静江に隠していたのだ。
夫婦喧嘩が始まったので、タナカと和男は逃げるように中井宅を辞した。タナカの心は重かった。中井の一言が重く心にのしかかっていた。「奥さんは本当にいい人だった。社長に一番足りないところを補っていた。社長には思いやりが足りないんだ・・・」
信子が死んでから、タナカ家の家事は主に高校生の愛実がやっていた。学校から帰ると夕食の仕度をし、洗濯をし、買い物もしなくてはならない。本当は一番遊びたい年頃だ。兄とは違い、明るく素直な性格だから友達も多い。勉強もしなければならないし、友達とも遊びたいはずなのに、家がこんなことになってしまったから、我慢して、一家を支えなければならないのだ。
和男は家では無口だった。信子が死んで一層口数が減った。愛実が作った料理を食べても何も言わない。不機嫌そうな顔をして、黙って酒を飲んでいる。そのくせ、細かいことに口うるさい。「おい、表を掃除しておけと言ったろ!全然掃除してないじゃないか!家の掃除もできなきゃ、結婚して主婦になる資格なんてないな」「おい、風呂が沸いてないぞ!水じゃないか!バカもん!」和男のそういう性格は前々からのものだから、タナカも愛実もある程度は我慢することができた。だが、信子がいなくなってから、明らかに和男は怒りっぽく、落ち着きがなくなってきたようである。
中井と会った日、タナカと和男は小野夫婦とも会った。松崎の話があるので、もしかしたら辞めると言い出すかもしれないと思っていた。事前にタナカは和男と打ち合わせをし、給料を上げることはできないから、辞めるのであれば辞めてもらって結構だと強い態度に出ることにしていた。押しの強いハッタリをかまして、引くに引けなくなるのは小野夫婦の方なのだ。しかし、予想に反して小野夫婦は、「辞める」と言わない。どうでもいい話ばかりしている。そこへ突然、松崎が現われた。「いや、気にしないでください。あっしは二代目のボディガードですから。ハハハ・・・」笑ってはいるが、松崎の目は笑っていない。元ヤクザだから、こういうときの凄みは小野夫婦の比ではない。小野夫婦も黙ってしまった。松崎は何を考えているのか。単に小野夫婦を威嚇しに来ただけとは思えない。小野夫婦が辞めれば松崎が有利なのだ。松崎は小野夫婦が辞めるのを今か今かと待ち望んでいたのだろうか。
タナカは複雑な人間関係にすっかり参ってしまった。こういうときに頼りになりそうな人物の顔がひとつも浮かんでこない。補佐役の島田も自分の仕事があるから、いつも来れるわけではないし、この島田だって野心家だ。中井の不正摘発も、小野夫婦や松崎と同じく後釜を狙って、邪魔なライバルを消すために行なったかもしれないのだ。和男は病気持ちだし、年齢的にもそう長くは生きられない。愛実は高校を出たら家を出ると言っているし、いったん家を出たら、もう寄り付かなくなるだろう。
ある晩、愛実が「家を出る」と言い出した。「家を出るったってお前、まだ早いだろ。高校を出てからにするんじゃなかったのか?」タナカはまなみの身に何かあったと直感した。まなみはこらえていたものを一気に吐き出すように言った。「もう嫌!何もかも嫌!こんな生活耐えられない!このままじゃ私がダメになっちゃう!押し潰される前に家を出たいの!」「何があったんだ?」「お父さんは私が嫌いなのよ。実の娘じゃない私を嫌ってるの。だから私が何をしても返事もしないし、嫌味ばかり言ってくるんだわ。私もお父さんのこと嫌いになった。血のつながりのない父娘がひとつ屋根の下で暮らしていても、所詮は赤の他人と同じよ。他人のために私が人生を犠牲にして、食事を作ったり、洗濯をしたり、掃除をしたりする意味なんてないじゃん。それが仕事なら割り切れるけどね。もう私、赤の他人に嫌味を言われながら、一緒に生活するのが嫌になったの。止めないで。私が決めたことだから」愛実も成長したなとタナカは思った。以前は妹がこんなに強く自己主張をするとは思ってもみなかったものだ。
「家を出ても、行くあてはあるのか?」「しばらくは友達の家に泊めてもらう」「学校はどうするんだ?」「ちゃんと行く。大学にも行く」「学費はどうするんだよ?」「自分で働いて稼ぐよ。バイトしながら学校へ通って資格を取って、自立した女になりたいの。メソメソ泣いてばかりの弱い人間にはなりたくないの」「口で言うのは簡単だけどさ、働きながら学校行って自活するなんて、たぶん体が保たないぞ。オレだって、今は会社の仕事に追われて疲れているし、お前がいなくなったら、今度は炊事洗濯も全部俺たちでやらなきゃいけない。頑張ろうって気になっても、いずれ力尽きてへたばるだろうな」「私はね、とにかく自立したいの。どんなことがあってもへこたれない強い女になりたいの。お母さんみたいに強く強く生き抜いていきたいの」
兄が何を言っても自分の考えは絶対に曲げない妹である。愛実はその夜のうちに荷物をまとめた。「本当に出ていくのか?」「私はこれでも、お父さんとお兄ちゃんにできるだけのことはしてきたつもりだし、一緒にいて楽しかったよ。この家のことは一生忘れないよ」「たまには連絡しろよ」「お兄ちゃんも家を出たら?もうお母さんが死んで半年過ぎたんだし、お兄ちゃんの人生もまだまだこれからだよ。どうせ一生苦労するなら、好きなことして苦労したほうがいいじゃん」「好きなことなんてないな。別にやりたいこともないし」「お兄ちゃん、小説家になればいいじゃん。小説みたいなの書いてたでしょ」「あんなもの、誰が金払って読むんだよ。小説で食っていけるほど世の中甘くはないだろ」「じゃあ、今のままでいいの?このまま明星自動車の社長を続けて、それで後悔しないの?会社が潰れたらどうするの?社長でいたって食っていける保障なんてどこにもないじゃん」「まあな」「まあなって、他人事みたいに言うなよ。自分の人生だろ?たった一度きりの人生をどうしてもっと前向きに生きようとしないのさ?」
翌日から愛実は消えた。タナカ家は和男とタナカの2人だけになった。和男は何も言わなかった。タナカからも何も言わなかった。和男はやはり実の娘ではない愛実を愛してはいなかったのだろうか。毎日、朝と夕、信子の遺影に水と飯を供える和男の姿を見ていると、一見、家を出ていった娘のことなど胸中にないようだが、横顔が涙に濡れて光っているのを見れば、その胸中は複雑なものに違いないと思うのだった。
愛実が消えてから、タナカは自分の人生について深く考えるようになった。26にもなってからでは、いささか遅すぎるような気もするが・・・。この世の中は決して自分のためにあるのではない。だから、不幸になるのはすべて自分の問題なのだと思った。弱い人間はすぐに、「社会が悪い」という。自分の不幸の原因を世の中のせいにする。それは間違いだ。万人が幸せになれる世の中など存在しない。幸せになりたいと思ったら、自分が世の中に合わせるか、自分に合うような世の中を作っていくしかない。そして、それができない以上、世の中のせいにしてみても何も変わらないのだ。
自分の存在意義とは何か?生きる意味とは何か?そんなことを考えてみても無意味だと思った。生きる意味なんてないのだ。生まれてきたら死ぬ。ただそれだけのことだ。意味なんて求めてもしょうがないと思った。
果たして自分に価値はあるのだろうか?客観的に見ても自分に価値はないと思った。自分で自分の人生を切り開いていく力もないし、ましてや生きづらいこの世の中を変えていく力などない。どう考えても、「自分がこの世に生きる価値」なんてものはないと思った。
人間は孤独だ。誰も自分を理解してくれるものはいない。この世の中にひとりとして自分を理解できる人間は存在しないのだ。たとえ肉親であっても相手の心の中までは分からない。何を考え、何を思い、何をしようとしているのか。本当に自分を理解できるのは自分しかいない。人間は誰しも孤独なのだ。
結論はひとつ。「オレはいつ死んでもいい」ということである。「いつ死んでもいい」というのは自殺願望とは違う、とタナカは考えていた。自殺者は人生に絶望して自ら死を選ぶものである。自分は何に対してもこだわりのない人間になろうということだ。川に流れる木の葉のように、運命に流されるままに生きようということだ。金もいらない。愛もいらない。夢もいらない。そう思うと気が楽になった。どうあがいてみても結果は同じなのだから、飄々と生きて死ねばいいと考えた。
春になった。さわやかな季節である。であるが、タナカ家には相変わらず重苦しい雰囲気が漂っていた。中井はガンの治療を続けている。経過はかんばしくないようだ。会社に出てきたり、休んだりを繰り返している。「これじゃあ、中井の復帰は絶望的だな」ということになった。かといって、このまま小野夫婦に任せておくわけにはいかない。一日でも早く小野には車に乗ってもらわなければ困るのだ。
ある夜。和男がビールをすすりながら言った。「なあ、明日にでもハローワークへ行ってみないか?」「ハロワ?何のために?」「求人募集を出そうと思うんだ。中井の代わりに配車ができるやつを」「ああ、それか」「このままじゃ埒が明かないし、一度、ハロワで募集をかけてみたらどうだ?」「うん」和男はタナカに社長職を譲ってから、一応、会長ということになっている。だから、会社のことはタナカに相談してから決めようとしている。といっても会社の実権はまだ和男が握っているのだから、「おれにイチイチ相談しなくたっていいのに」とタナカは思っていた。「とりあえず、明日、ハロワへ行って求人募集をかけよう」ということになった。
翌日。タナカは和男とともに府中市のハローワークへ赴いた。景気がよくなってきたのか、それほど混んではいない。タナカは書類に必要事項を書き込んで提出した。こうしたことはすべてタナカがやっている。和男は目が悪くなっているから、書きものはほとんどできないのだ。「年齢55~65、月給20~25万円」という条件で配車係を募集した。「果たして来るだろうか?」と思っていたら、さっそく翌日になって、電話がかかってきたのである。相手は青山幸男と名乗った。「こっちはいつでもいいんですが、できるだけ早く会いたいので・・・」というので、JR府中駅前で待ち合わせをすることにした。青山は色黒の初老の男だった。年を訊くとまだ55だという。3人は駅前の喫茶店に入った。青山は熊本県の出身で、実家が運送業を営んでいると言った。実家が店をたたんだので、東京に出てきたが、先月、勤めていた会社がつぶれたので、暇を持て余していると語った。今は夫婦で調布市に住んでいるという。娘が1人いると言った。タナカはふと、宏美のことを思い出した。思わず勃起してしまった。タナカは宏美の死を知らない。「そういうわけで、こっちはいろんな経験があります」「そういう人がほしかったんですよ」「私もいつまでも遊んでいるわけにはいかないんでね、ハロワに行ったら、ちょうどお宅の募集を見たんで、さっそく電話させてもらいました」「じゃあ、あの条件でいいんですね?」「ええ。じつは私、経理の仕事もやっていたんです。配車だけでなく、事務的なことなら何でも任してください」青山はよくしゃべる男だった。自分のことはあまり話さず、タナカの家のことを訊いてくる。「それじゃあ、奥さんはガンで亡くなられたわけですか?」「ええ。去年の9月です。家のことは全部女房がやっていたもんで、いまだにてんてこ舞いですよ」と和男が渋りきった顔で言うと、「私も母をガンで亡くしましたよ。これも何かの縁でしょうかねえ。一度、奥さんに線香をあげなきゃな。お宅はどこです?」青山は何かつながりを見つけて、タナカ家に入り込みたがっている。タナカはあまりいい気はしなかった。初対面のくせに、やけに馴れ馴れしい感じがする。「じゃあ、息子さんが経理をやってるわけですか?」「ええ、まあ・・・」「経理なら私に任せてくださいよ。ひとりで大変でしょう?」「いや、計理士がいますから・・・」「計理士を雇うと金がかかるでしょ?月にいくらで雇ってます?」「月5万ですね」「すると年に60万ですか。それだけ払うなら、私にやらせてくれた方が安く付くと思いますけどね」「はあ・・・」タナカは警戒した。「こいつ、家の経理をやろうって、何をするつもりなのか?・・・」和男は青山を雇い入れることにした。
和男がトイレへ行くと、タナカは青山とふたりきりになった。待っていたように青山が訊いてくる。「給料台帳とかは家にあるの?」「え?ああ、はい・・・」「家は近いのかな?」「はい。駅の近くのマンションです」「ふうん・・・」青山は無遠慮にタバコを吸い始めた。「こいつ、どういうつもりだ?ちょっと調子が良すぎるな・・・」青山はどういう経歴を持つ人物なのか?履歴書も持ってきていない。それなのに和男は雇うと決めてしまった。性急すぎやしないだろうか?早く中井の代わりになる配車係を入れたいという気持ちは分かる。だが、焦って変なのを入れてしまっては、それこそ、「取り返しのつかないことになる」とも限らないのだ。タナカは不安だった。
翌日。青山は待ち合わせの昭島駅に現われた。営業所は昭島からバスで行くのが一番近いのである。タナカと和男が待っていると、「やあ、参りましたよ・・・」無理に作ったような笑みを浮かべて寄ってきて、「じつは電車の中で、財布をすられましてね」という。「私の不注意です。乗ったときから何かおかしいとは思ってたんですが・・・警察に届けたら、あんたの不注意だって言われましてね、ハハハ・・・」「で、帰りの電車賃は?」和男が訊くと、青山は待っていたように、「すいませんねえ。ちょっと貸していただけないでしょうか?」と言ってきた。「怪しい?・・・」とタナカは思っていた。青山は財布を盗まれたと言ってるくせに、自分の昼食らしいコンビニの弁当を入れた袋を持っている。その弁当は財布を盗まれる前に買ったのだろうか?タナカが思い切って訊こうとすると、「いやぁ、じつは今日、知り合いの通夜がありましてね、横浜まで行かなきゃならないんですよ」という青山。「断るわけにもいかないんですよ。お世話になった人でして・・・」結局、和男は青山に交通費として3万円も貸してしまった。「オヤジもバカだ。なんであんな奴に3万も貸すんだ?」と思ったが、黙っていた。とにかく、青山は油断ならないと思った。
青山を八王子の営業所に連れてくると、案の定、小野夫婦は警戒の色を隠さなかった。青山が自己紹介しても、小野夫婦は軽く会釈をするだけだ。「邪魔者が来やがった」と思っているのが露骨に態度や表情に出ている。その日は中井も来ていた。中井は抗ガン剤の副作用で頭が薄くなっている。パーマをかけていた頭は丸刈りにしていた。中井は言った。「青山さんとか言いましたね。この仕事は経験しているようだから、私からプロのあなたに言うことはありません。ただ、あなたは配車係。配車のプロなんだから、配車のことだけやってもらえばいい。それ以外のことは、小野君もいることだし、私もいる。明星自動車はお堅い会社だから、余計なことに気を遣ったり、しなくてもいいことをしたり、妙な気を起こしたりしてもらっちゃ困りますよ。ま、あなたはプロだから、私がクドクド言うこともないと思うが・・・あなたは新入社員だから、実力はプロでも1年生のつもりでやってもらわないとね。そこら辺のことを注意してやってもらえれば結構です」言葉の端々に、この新参者に対する軽蔑の意味が込められている。青山は神妙に受け答えしていた。「今、中井君が言ったとおり、青山さんは新入社員だ。何事も初心忘れるべからず、だ。小僧のつもりで頑張ってくれ。分からないことは何でも聞いて、中井君も小野君も先輩なんだから、協力して頑張ってもらいたい。小野君、頼んだよ」和男が言うと、小野は軽くうなずいた。
その夜。「どう思う?」食事をしながら、和男が訊いてきた。「何が?」「青山だよ」「怪しいな」「やっぱり、そう思うか?」「当たり前だよ。財布を盗まれたなんてウソに決まってる」「警察に届けたと言ってたが・・・」「そんなの分かるもんか。オヤジから3万も取ったろ、あのオヤジ」「悪いことにならねばいいが・・・」「あいつ、八王子まで毎日、電車とバスで通うの?」「本人は苦にならないと言ってるが」「車は?持ってないの?」「いや、乗ってるという話をしてた」「じゃあ、なんで車で来ないんだよ?おかしいだろ?あいつ、本当は車持ってないんじゃねえの?」「まさか・・・」「それとも、交通費を取りたいから、車で来ないのかな?」「毎回、財布を盗まれたと言って、金をもらいに来るかな?」和男が自分で言って笑った。さびしげな、自嘲的な笑いだった。「冗談じゃねえよ。あんな奴に騙されてたまるかよ。オヤジもしっかりしてくれよな」「なあに、年は食っても、まだまだあんな若造にやられるほど鈍っちゃいないさ。おれの目の黒いうちは、誰にも好きにはさせんさ・・・」和男は強がって言ったが、食べ物はポロポロこぼすし、酔いの回りも早くなってきたようである。頼りないな、と思った。
数日後。松崎から和男に電話があった。「社長、じつは・・・」青山は車の免許を持っていないのだ、という。「お前、それを誰から聞いたんだ?」「本人からですよ」「青山が免許を持ってないって言ったのか?」「ええ。どうして車で来ないんだって聞いたら、あの野郎、サラッと言ってのけましたよ」「なんで持ってないんだ?免停か?最初から持ってないのか?」「さあ、そこまでは聞いてないんすけどね。それとなく探りを入れてみましょうか?」「いや、それはおれが聞こう。お前は何も言うな。分かったな?」タナカの予感が的中した。青山はウソをついていた。なぜ、車を持っているとウソをついたのか?和男は一昨年の苦い出来事を思い出した。
さらに数日後。今度は中井から電話があった。「和田君が今日、出てきたそうです。さっき電話がありまして」「和田が?」「会長にお会いしたいって言ってるんですが」「会いたい?おいおい、家に来るつもりじゃないだろうな?こっちは会いたくないんだ。あいさつなんて結構だ。そんなものはいらんから、もう二度とおれの目の前に現われないでくれって言ってやれ」和男は苦虫を噛み潰したような顔で言った。「和田の奴、まさか、金城へ乗り込むつもりじゃないだろうな・・・」和男は不安になった。
2年前の秋のことだ。当時、和田孝行というドライバーがいた。仕事ぶりは真面目そのもの。酒もタバコも一切やらない。安全運転で事故もなかった。そんな和田が大事故を引き起こしたのである。
群馬の高崎の先で、和田は10トントラックを運転していた。その時、後ろを走っていたトラックがクラクションを鳴らした。トラックは和田のトラックの真後ろにぴったりとくっついている。和田は、「危ないな」と思い、ウインカーを点滅させて、後続車に道を譲ろうとした。若い頃は無茶もした和田だったが、50を過ぎて、もう無茶をする気もなくなっていた。余計な揉め事は好まなかった。しかし、トラックは和田の後方にピタッとはりついたままだ。さらにクラクションを鳴らしてくる。和田は仕方なく窓を開け、右手で合図を送った。「先に行け」という意味だ。それでもトラックは動こうとしない。和田の後方にへばりついたまま執拗にクラクションを鳴らし続ける。明らかな嫌がらせだった。「この野郎・・・」と思い、和田は腹が立ってきた。和田は元ヤクザである。何度も刑務所に入ったし、人を殺したこともある。今でこそ堅気だが、ヤクザの血は今も和田の体内を流れている。カッとなると自分でも何をしでかすか分からない。ただ、若い頃とは違い、分別がつくようになっていたし、孫も生まれた。もう無茶なことはできない、と自分に言い聞かせていた。「おれもムショで死にたくはないからなあ・・・」と思っていた。和田は怒りをぐっとこらえた。ところが、和田が挑発に応じないと見るや、相手はさらに挑発してきた。クラクションを鳴らし続け、ライトを点滅させる。和田は耐えた。無視した。トラックはいつまでも和田の後についてくる。深夜の一般道である。和田はどこかで引き離そうと考えた。ちょうどその時、前方の信号が黄色に変わった。和田は一気にアクセルを踏み込んだ。和田のトラックはぐんぐん加速していく。信号が赤に変わった。サイドミラーに目をやると、負けじと後続車も追いついてくる。「この野郎!」和田の堪忍袋の緒が切れた。そして、無意識のうちに和田はブレーキを踏み込んだのである。当然、後続車は和田のトラックの後部に激突した。加速していたからたまらない。衝撃で和田は強く頭を打った。その時、思わずハンドルを左に切った。和田のトラックは道路の路肩に乗り上げた。ガードレールを突き破り、電柱にぶつかって停まった。「やっちまった・・・」和田はすべての努力が水の泡になったことを直感した。フロントガラスはメチャメチャに割れている。何とかドアを開けてトラックから降りた。荷台の後部はぺしゃんこに押し潰されている。後続のトラックも前方がメチャメチャだ。和田も頭と足にけがをしていたが、トラックの運転手は全身打撲で意識不明の重体。和田は駆けつけた警察に業務上過失致傷の現行犯で逮捕された。
取り調べに対し和田は、「後続のトラックに執拗に挑発された」と主張し、「急ブレーキをかけたのは自分が悪いが、挑発した相手側も悪い」と言い張った。状況は圧倒的に和田に不利だった。まず、和田が無免許運転をしていたことが分かった。明星自動車に雇われた際、「免許は持っている」と話し、平気で10トントラックを乗り回していたのだが、前の職場でも事故をやらかし、免停になっていたのである。和田は叩けば叩くほど埃が出てくる男だった。元ヤクザということは和男も知っていたが、「いや、ああいう人ほど、改心して堅気になると真面目に働くんですよ」という中井の考えで、和田のような男を雇ってしまったことに、「今さら悔やんでも仕方ない」とは思うものの、和田は警察の調べでも強硬に、「最初に挑発した相手方が100%悪い」と言い張るばかりだったから、ますます警察・検察の心証を害してしまった。相手の運転手は全治8ヵ月の重傷である。しかも脊椎を損傷し、半身不随になってしまった。
すぐに中井が相手方へ謝りに行った。相手の会社は、「(株)金城商会」という名古屋に本社のある運送会社だった。そこの川村次郎という営業部長は、「お宅の社員教育はどうなってるんですか?」と中井にトゲトゲしい口調で言った。「うちには他社のドライバーを挑発するような馬鹿な従業員はいません」「でも、和田君はお宅のドライバーに挑発されたって・・・」「その和田という人、無免許だったそうじゃないですか」「はあ・・・」「おまけにヤーさんだって?そんな危ない人を雇うなんて、お宅の会社はどうかしてるんじゃないですか?」「いや、和田君は改心して、真面目に働いていたんです。無事故・無違反で・・・」「無免許は立派な違反ですよ?おまけにうちのドライバーに大けがまでさせて」「普段は大人しいんです。酒もタバコもやらず・・・」「とにかく、警察はお宅に100%過失があると判断してます」「そんな・・・」「こっちは損害賠償の民事訴訟も検討しています」「でも、和田君を挑発したお宅のドライバーだって・・・」「まだそんなこと言ってるんですか?警察はどっちの言い分を信用するでしょうかね?前科持ちの無免許のヤーさんの言うことなんて、警察がまともに取り上げるわけないでしょ。私も和田という人の言うことは全く信用できませんね」
結局、和田が全面的に悪いということになってしまった。和田は起訴された。裁判官も和田の主張を退け、「被告人を懲役1年6ヵ月の実刑に処す」という判決を下したのである。
和田は拘置所の中から和男に手紙を送った。その中で和田は、「社長からの恩を仇で返してしまい、まことに申し訳ありません・・・」と詫び、「警察も検察も裁判所も、前科者の私の言うことなど全く取り上げてくれず、今、こうして判決が確定し、刑に服する段階になっても、まだはらわたの煮えくり返るような思いです・・・」と判決への怒りをぶちまけた。「最高裁まで争うことも考えましたが、これ以上、闘ってみても結果は同じだという諦めが先に来てしまいます。社長や中井部長にこれ以上のご迷惑をおかけするわけにもまいりません。私は控訴を取り下げましたが、決して裁判の判決を承服したわけではありません。必ずやこの無念を晴らし、社長のご恩に報いるために、今は一日でも早く刑に服し、娑婆に出たいと考えています・・・」きれいな字で丁寧に書かれていたが、文面からは和田の激しい怒りと復讐の念が読み取れた。「合法闘争が無理である以上、私は最後の手段に訴えるまでです。あの金城という会社は骨まで憎い。私の言い分をまったく取り上げなかった警察、検察、裁判所も憎い。私は今の生活を失いたくない一心で頑張って働きました。人間、何かを失いたくないというのは強みです。しかし、何も失うものがないということほど強いものはないのです。すべてを失った今、私にはもう命しか失うものはありません。私からすべてを奪っていった金城、警察、検察、裁判所の連中に私は復讐をしなければなりません。すべてを奪われた男の意地です。虫けらにも五分の魂があるということを見せつけてやる。奪われたものの怒り、悲しみ、苦しみがいかほどに大きいものか、奴らに思い知らせなくてはならない。私は復讐の鬼になる・・・」などということを便箋いっぱいに書き連ねている。よく拘置所の検閲に引っかからなかったと思うくらいのことを書いているのだ。そして最後に和田は、「私がしたことは死んでも償えるものではありませんが、ここを出たら必ず、社長のご恩に報いたいと思っています。では御体にお気をつけてお過ごしください・・・」と結んでいる。和田は出たら何をするつもりなのか。「まさか、本当に金城へ乗り込んで暴れるつもりじゃないだろうな?・・・」和男は心配で不安でたまらなかった。
その和田が娑婆に戻ってきたのだ。服役態度は良かったので、早く出られたらしい。あの事件後、明星自動車は大赤字だった。トラックは大破し、ガードレールと電柱まで壊してしまった。相手方への慰謝料、さらに損害賠償で2千万円もの大金を失っていた。この赤字を埋めるのに四苦八苦していた和男なのだ。会社が苦しいというのに、中井はダウンしてしまうし、小野夫婦は自分勝手な要求ばかりするし、その上、今度は青山という得体の知れない男が入ってきた。そこに和田の出所である。「まったく・・・おれってやつは、どこまでついてないんだ・・・」和男は自分の人生を呪った。これも先祖の因果なのだろうか。カンボジアで殺されたであろうチェンの恨みなのだろうか。果たして、あの世にいるであろう信子は何と思っているのだろうか。考えてみたが、分からなかった。「そんなわけで、青山の素性を調べてもらいたいんですよ」和男は電話で興信所の調査員と話をしていた。「ええ。うちに来たのは、つい先月です。熊本の出で、実家が運送屋をやっていたから経験があるって言うもんだから、こっちはその気になって、彼に配車をやってもらおうとしてたんです。ところが、いつまでたっても自分ひとりで配車をやろうとしない。もう1ヵ月になるというのに、全然埒が明かないんですよ。それで、こいつは何かあるんじゃなかろうかと思いましてね。それと、車の免許も持ってないみたいなんです。面接したときは、ちゃんと免許を持ってるという話だったんですがね・・・」青山が入社して1ヵ月。この間、青山はほとんど配車をやっていない。「配車の経験がある」と言っていたくせに、10日経っても、20日経っても、「まだ自分ひとりではできない」と言って、中井や小野夫婦に任せっきりなのだ。「これは怪しい・・・」と和男も疑い始めた。「青山は実家が運送屋だと言ってたが、本当はウソなんじゃないか?・・・」車の免許を持っていないということも疑いを深めた。あの後、松崎がそれとなく理由を聞き出そうとしても、言葉を濁しているらしい。「あいつ、乗っ取り屋か何かじゃないすかね?」と松崎が言う。「ヤバイことして世渡りしてきた奴ですよ、あいつは。同業者の匂いがするんです。奴がいくら隠したって、こっちは全部お見通しだ」「ふうむ・・・」「今のうちに首を切っておいたほうがいいんじゃないすか?また和田さんみたいなことになりかねませんよ」「しかし、辞めさせるにしても理由がいる」「理由なら、いくらでもあるじゃないすか。免許を持ってないだけで十分ですよ」「それだけでは心もとないな。訴えられでもしたら面倒だ。もっと確かな証拠が必要だ」「あっしが調べましょうか?信用のおける手下が今もいますから、そいつらを使って青山の素性を洗ってみましょうか?」「いやいや、そんなことはしなくていい。それはこっちで調べるから、お前は何にもするな」「興信所を使うんですかい?そんなの雇うより、あっしのほうが安くつくと思いますけどね・・・」和男はタナカに命じてインターネットで近場の興信所を調べさせ、電話をかけたのだ。興信所は5万円で青山の調査を引き受けるという。しかし、個人情報保護法が施行されたので、もっと深く調べるには15万から20万かかるという。「とりあえず、青山がどこで何をしているのか、それだけでも調べてください。お願いします・・・」和男はとにかく精神の安定を得たかった。青山が何者なのか分からないことには、日増しに膨らんでいく不安に押しつぶされてしまいそうだった。
もう季節は夏である。会社の営業所は八王子から山梨県の塩山市へ移転することになった。土地関係の手続きは不動産屋の島田がやってくれた。タナカも和男や島田とともに現地を視察した。車で行ったのだが、とんでもない田舎である。ブドウ畑とワイン工場しかない。俳優の三浦友和の出身地ということだが、「なんだか辺境の地に追放されたような気分だな・・・」とタナカは思った。もっとも、営業所を移すといっても、それは東京都の規制を逃れるためだから、トラックのナンバーを山梨に移すというだけで、実際の業務は八王子の営業所でやっていくということになった。
7月になった。いつまでも梅雨が明けず、だらだらと雨が降り続いている。興信所の調査結果が出た。青山はちゃんと調布に住んでいて、妻子もいるという。特に不審な点は見当たらない、ということだった。「じゃあ、実家が運送屋というのも本当だったのかな?」と思ったが、相変わらず、青山は配車をやろうとしない。中井や小野夫婦が非協力的なのもあるのだろうが、「経理をやりたい。会社の経理をやらせてくれ」などとしつこく言ってくる。「経理じゃない。配車をやれと言ってるんだ」と和男が言っても、青山は浮かない顔をしている。やはり、青山は会社の経理をやることで、会社を乗っ取ろうと考えているのか。車の免許がない理由も言おうとしない。
そんな中、松崎が情報を持ち込んできた。「会長、あの青山って奴は大変な野郎ですよ・・・」「どういうことだ?」「いや、実はね、あっしの手下がムショで奴を見たって言うんですよ」「なに?」「奴の顔を見たら、野郎、ぶっ飛んで驚いてましたよ。間違いない、こいつは青山って奴で、自分と同じムショに入ってた奴だって・・・」「なんだ、お前、青山をそいつに会わせたのか?」「それとなく、青山を飲みに誘ったんです。あっしの手下も連れてってね。しこたま飲ませたら、あの野郎、ワルに似合わずペラペラとしゃべりましたよ」「何をしゃべったんだ?」「実家は熊本だが、運送屋なんてのは真っ赤なウソ。親父はガキの頃蒸発し、女手ひとつで育てられたが、手癖が悪くって、何度もムショと娑婆を行き来した。運送屋に勤めたこともあるが、事故を起こして免停。それっきり車には乗ってない。去年までムショに入ってて、久しぶりに娑婆の空気を吸ったところだって、ぬけぬけと抜かしやがった」「本当なのか?」「奴が言ったんだから、本当でしょうよ。てめえに都合の悪い話を好んでする馬鹿はいねえ」「で、青山は何をして刑務所に入ってたんだ?」「それも質のよくねえ罪だ。つまるところ、奴は勤めてた会社で詐欺をして、お縄になったんですよ。窃盗と詐欺の常習犯ですね、あの野郎は」「・・・・・・」松崎の話が本当なら、とんでもない男を入れてしまったものだ。和男の表情が曇った。「会長、どうします?早く青山をクビにしたほうがいいんじゃないすかね?」「お前の話が本当ならな」「それを言っちゃあおしめえよ。会長、あっしを信用してもらわないと。あっしは奥さんから会社を託されたんですからねえ・・・」松崎は今は亡き信子を持ち出して、「会社をおれによこせ」と言わんばかりの態度だ。これを機に一気に天下を取るつもりでいるのだろうか。「とにかく、まだ青山から直接聞いたわけじゃないから、今は何とも言えん。一度、みんなを集めてじっくりと話し合うことにしよう。結論を出すのはそれからだ・・・」和男はそれだけ言うのがやっとだった。
7月28日、金曜日。名古屋に和田の姿を見ることができる。和田は守山区の「金城商会」営業所ビルへ向かっていた。作業着姿の和田は重たい台車を押している。台車には18リットル入りのポリタンクが10個も積まれていた。中身はすべてガソリンで満たされている。近くのガソリンスタンドで、「機械の洗浄に使う」と言って購入したものだ。暑い日だった。和田は首に巻いたタオルで顔の汗を拭いながら進んだ。「金城商会」の事務所は5階建て雑居ビルの4階フロアにあった。和田はエレベーターで4階へ昇った。そのまま台車を押して事務所へ入る。事務所では40人あまりの社員が働いていた。和田は台車のポリタンクを蹴倒した。ガソリンが床にぶちまけられる。強烈なガソリン臭が室内に広がった。「おい、何をするんだ!」若い男子社員が和田につかみかかろうとした。「邪魔するな!」和田が顔を紅潮させて社員の腕に切りつけた。和田は出刃包丁を持っていたのだ。女の悲鳴が上がった。和田は仁王立ちになって叫んだ。「全員動くな!動いたら火をつけるぞ!」右手に包丁、左手にライターを持っている。一瞬にして社員たちは凍りついた。
現場のビルは愛知県警によって完全に包囲された。和田はガソリンを撒いた部屋に37人の社員を人質にして立てこもったのだ。包囲した警官隊もうかつに手を出せない。もし和田が火をつければ大変なことになる。警察の対策本部は5階に設けられた。愛知県警の捜査員が電話やドア越しに説得を試みた。しかし和田は、「警官の姿が1人でも見えたら火をつける」と脅して、まったく取り合わない。「君の要求は何だ?要求を言ってみてくれ」と捜査員が呼びかけると、「2千万円を明星自動車の銀行口座に振り込め」という。和田は2年前の事故で明星自動車がこうむった損害を、このような形で取り戻そうとしているのか。東京で事件を知った和男は、「まったくバカバカしい・・・」驚くよりも呆れ果てた。和田は本気だ。「午後3時までに要求が通らなければ火をつける」というのだ。この時、すでに正午。タイムリミットまであと3時間しかない。警察は強行突入も考えた。これが普通の立てこもり事件ならば、特殊部隊が屋上からロープで降下し、窓を破って閃光弾を投げ込む。大きな爆発音とまばゆい閃光で犯人の動きを封じてしまえばよい。しかし、この状況ではそれができないのだ。ガソリンを撒いた部屋に閃光弾を投げ込むことはできない。そんなことをすれば犯人も人質も全滅だ。現場には消防車も待機している。高圧放水で窓を破り、ガソリンを洗い流してしまえばよいのではないか。しかし、現場は4階の高さだ。ハシゴ車のハシゴを伸ばさないと届かない。ハシゴを伸ばし始めたら和田に気付かれてしまう恐れがある。しかも室内には気化したガスが充満している。ちょっとした衝撃で爆発してしまう危険性があった。そこで警察は、「和田を部屋の外へおびき寄せ、取り押さえる」という作戦を練った。とりあえず、和田の要求に従うふりをするのだ。説得に当たった愛知県警の吉江修信警部補は、「君の要求はのむ。その代わり、人質は解放してくれ」と和田に呼びかけた。和田はこれに応じた。
午後零時半、和田は営業部長の川村次郎を残して36人の人質を解放した。残されたのは川村だけである。川村は2年前の事故で、「和田が100%悪い」と主張して、明星自動車から大金を取った男だ。「あんたは、最後まで残ってもらう」と和田が言った。「馬鹿め。こんなことをして、ただで済むと思ってるのか?」川村がイスに縛り付けられたまま憎々しげに言った。「2千万を振り込めだと?ふん、そんなことをして何になる?」「けじめさ」「けじめ?」「これがおれのけじめさ」「世話になった会社への恩返しってわけか?」「まあな」「ふん、馬鹿か」川村がせせら笑った。「そんなことをしても無駄だ。事件が終われば、金はうちに戻る。あんた、本当に自分が勝ったとでも思ってるのか?」「どうせ、おれの言うことなど誰も聞いちゃくれない。こうするしかなかったのさ」「あんたは馬鹿だ。大馬鹿野郎だ。そんなに刑務所へ戻りたいのか?」「いや、ムショには戻らない」「なんだと?」「あんたを道連れに死ぬのさ」
同じ頃。和男のもとに電話があった。和田が現場からかけてきたのだ。「社長、短い間でしたが、お世話になりました。前科者の私を雇ってくれて、その恩に報いようと一生懸命働いたのに、こんなことになっちまって・・・本当に申し訳ない」和男はイライラしてきた。「申し訳ないだと?だったら、なんでこんなことをしでかした?こっちはいい迷惑だ。まるで、うちがお前とグルで、金城から金を取ろうとしたみたいに思われるじゃないか!さっさと出てこい!」「社長のお怒りはごもっともです。しかし、これが私のけじめのつけ方なのです」「けじめだって?まったく、お前って奴はどこまで馬鹿なんだ!」「自分の罪は自分の命で償います。社長、いつまでもお元気で。奥様にも、よろしくお伝えください」「女房は死んだよ」「えっ?」「去年の9月、ガンで死んだ」「死んだ?・・・」「ああ、お前さんが事故を起こしてからというもの、まったくうちはろくなことがないんだよ!女房だって、お前さんが殺したようなものだ!お前のせいでストレス受けてガンになったんだ!」和男は感情をむき出しにして怒鳴った。「そうでしたか・・・そうなのか・・・知らなかった・・・奥さんが・・・」さすがに和田もこたえたようである。和田は信子の親切が忘れられなかったらしい。「これ以上、馬鹿な真似はやめろ!」和男が怒鳴りつけると、「分かりました。もうやめにします。これから出ていきます」和田は急に心変わりした。熱しやすいだけに冷めるのも早い。ドア越しに室内の様子をうかがっていた吉江も、「しめた!」と思った。「和田が出てくる!」と手で合図を送ると、後方で待機していた巡査部長の菊地幸一が駆け寄った。和田が出てくるのを待って、一気に突入する。もしもの事態に備え、菊地は消火器を持っていた。和田がドアを開けたら、消火剤を吹きかけるのだ。その時、川村が後ろ手の縛めを切った。和田にガムテープで縛られる前、ひそかにズボンの中にペーパーナイフを隠していたのだ。これを使って、和田が電話に気を取られている間、少しずつ切っていった。和田が電話の受話器を置いた。その瞬間、川村がパッと跳ね起きた。「うわああああっ!」叫びながら必死で和田に襲いかかる。振り向いた和田の肩にナイフが深々と突き刺さった。和田の顔が歪んだ。激痛とともに怒りが湧き上がった。「この野郎!」「うわああああっ!」和田がライターを点火した。「ボンッ・・・」鈍い爆発音が轟いた。一瞬、室内がオレンジ色に包まれた。すさまじい爆風で窓ガラスが粉々に飛び散った。現場を取り巻く警官隊と報道陣に破片の雨が降り注ぐ。爆風でドアも吹き飛ばされ、廊下にいた吉江と菊地も床になぎ倒された。「ああっ・・・目が、目が見えない!・・・」飛び散ったガラス片が目に入り、吉江と菊地は床を這いずり回った。割れた窓から黒煙が吹き出す。川村が身を乗り出して叫ぶ。「た、助けてくれえ!・・・」背後から真っ赤な炎が襲いかかった。折からの強風にあおられて勢いよく火の手が広がった。現場は騒然となった。テレビ局のリポーターが興奮して叫ぶ。「爆発です!爆発しました!男が立てこもっている、4階の事務所が、たった今、爆発しました!こ、これを見てください!飛び散った破片で、腕にけがをしました!」カメラマンがリポーターの負傷した腕にカメラを向ける。すぐに消火作業が始まった。鎮火したのは1時間半後である。
無残な焼け跡から4人の死体が見つかった。犯人の和田、人質の川村、説得に当たっていた吉江と菊地の4人である。負傷者は43人にのぼった。和田と川村の死体は真っ黒に焼け焦げていたが、吉江と菊地の死体は目立った外傷はなかった。破片で目をやられ、逃げ遅れたところに有毒な煙を吸い込んだのである。マスコミはこのショッキングな事件をこぞって報道した。明星自動車の営業所にもマスコミが押し寄せた。ちょうど山梨への移転を進めていたところだったので、何かと忙しいところにこの事件である。和田が刑務所を出た直後に起こした事件だっただけに、警察の事情聴取もあった。和男は疲れ果てていたので、「何もお話しすることはございません」と繰り返すだけだった。
和男の説得で、和田は人質を解放し、投降すると思った矢先の爆発であった。事件は平和的に解決されると思ったのも束の間、最悪の結末を迎えてしまったのである。テレビのニュースは爆発の瞬間の映像を繰り返し流している。その後の報道で、「人質に抵抗され、火をつけてしまったらしい」ということが分かった。「和田さんは死にたかったのかな?」とタナカが言うと、「どうせ、ああいう男のことだ。刑務所を出たって、どこにも行くあてがない。だから、何か事件を起こして、また刑務所に戻りたかったんだ。刑務所にいれば、食うに困らないからな・・・」和男は苦々しげにそう言った。「でも、それならガソリンを撒いて火をつけることはないはずだよ。包丁だけ持っていけば済む話じゃん」「ガソリンを撒いたのは脅しのつもりだったんだろう」「それが脅しじゃなくなった?」「ガソリンは危ないんだ。奴だってドライバーなんだから、そのくらいのことは分かってたはずだ」「じゃあ、なおさらガソリンなんか持っていかなかったんじゃないの?」「あるいは死ぬつもりだったのかもしれん。それは本人に聞かなきゃ分からんが、奴は死んだんだ。今さら何も聞けない。とにかく、こっちは奴のせいで大迷惑だ。死んで楽になれるなら、こっちが死にたいくらいだ・・・」と和男は言った。
タナカは考えた。和田はあの日、あそこで、死ななければならない運命だったのだろうか?川村も吉江も菊地も、和田と一緒に死ぬ運命だったのか?それが運命だとしたら、「因果応報ってやつかな?」と思った。和田は罪を犯した。どこの誰を殺したのかは知らないが、和田は殺人の罪で服役していたと聞く。服役後、和田は真面目に働き始めた。本人は改心したつもりだったのだろう。一生懸命働いて、人生をやり直すつもりだったのだろう。しかし、運命はそれを許さなかった。和田は再び、つまらぬことから罪を犯し、刑務所に戻った。刑務所の中で和田は、自分を冷たく拒んだ社会への憎悪と復讐心だけを募らせていたに違いない。そして出所後、金城へ乗り込み、ガソリンを撒いて自爆した。すべて和田にとって不利な状況に動いていったのは、「和田が犯した悪事への報い」であったと言えないこともない。和田がいくら罪を償い、改心したつもりであったとしても、「本当の意味で罪を償うということは、こういうことなのだ」と言っているようにも思えた。どんなことをしても、和田は不幸にしかなれない運命だったのか。そして、最期は生きながら焼かれる苦しみを味わわなければならない運命だったのか。そう考えると、一緒に死んだ川村や吉江や菊地も、それぞれに、「犯した悪事への報い」を受けたのかもしれないと思った。川村も吉江も菊地も、何らかの罪を背負っていて、あのような形で償うことになった。何の罪で?誰が犯した罪で?それは分からない。分からないが、親かも知れないし、先祖かも知れない。あるいは前世の自分が犯した罪かも知れない。人は生まれながらに罪を背負っている。人が不幸になるのは、「罪を償うため」なのかもしれないと思った。
そのように考えると、「おれが不幸なのも、罪を償うためなのか?」と思えてくる。ホモにレイプされ、女の子にいじめられ、親が死んで、会社を任され、苦労の連続なのも、「罪を償うため」なのか。「おれの罪って一体なんだ?」思い当たることは、「松尾礼子を救ってやれなかったこと」と、「原田佳代と林真由美に痴漢行為をしたこと」くらいしかない。自分は礼子を救えなかった罪で、「このような目に遭わなければならないのか?」と思った。たかが痴漢くらいで、これほどの罰を受けるとは思えない。
だが、そうなると、「では、礼子は何の罪で自殺しなければならなかったのか?」という疑問も出てくる。礼子自身の罪か、礼子の親の罪か、それとも前世で犯した罪か?そこまでは分からない。
その晩、タナカは夢を見た。神様のような老人が目の前にふわっと現われて言うのだ。「不幸な人間は、不幸になるために生まれてきたのではない。自分自身か、自分の親か、あるいは前世の自分が犯した罪を償うために、不幸になったのだ。だから、社会が悪いとか、他人のせいにしてはいけない。すべては自分が悪いのだ・・・」さらにこう言った。「不幸な人間は、思いっきり不幸になるがいい。不幸になることで罪を償い、悪事への報いを受けなければならない。すべての罪を償い、報いを受けたとき、人は初めて幸せになれるのだ・・・」タナカは目が覚めた。老人の言ったことが頭から離れない。老人の言ってることが正論のように思えた。自分は不幸になろうと思った。不幸になって、罪を償い、報いを受けようと思った。そうすることで、「幸せになれるのなら、文句はない」と思った。たとえ現世で幸せになれなくても、「罪を償いきって、生まれ変われば、来世ではきっと幸せになれる」と思った。
もう迷いはなかった。あれほど投げやりに考えていた、「人が生きる意味」「幸せの意味」が確かな答えとなって見えてきた。人は罪を償うために生きるのだ。罪を償うとは苦しむことである。幸せになろうと思ったら罪を償わなければならない。苦しんで苦しんで苦しみぬいた先に、「幸せな人生」が待っているのだ。タナカ家の不幸は自分の代で終わらせようと思った。家を出た愛実のことがふと脳裏をよぎった。「どうしてるのかな、あいつ?あいつだけは幸せになってもらいたいな・・・」
和田の事件後、会社の経営は一層厳しくなった。事件をきっかけに、「お宅との取り引きは今後やめさせてもらいます」という取引先が次々に出てきた。「あの会社のドライバーを怒らせたら、とんでもないことになる」と思われるのも無理はない。「この会社ではやっていけない」と辞めていくものもいる。中井も小野夫婦も松崎も青山も、「こんなことになるとは・・・」夢にも思わなかったことだろう。「こんなことになったのも、青山みたいな奴を入れるからですよ」と松崎が和男に言う。「会長、早いとこ、青山の奴をクビにしてくださいよ。このまま放っておいたら、会社がつぶれちまいますよ」と畳みかけるように言う。「青山は相当なワルです。渡り中間みてえに、あっちこっちの会社を回っては、そこの金をくすねて生きてきたダニみてえな野郎ですよ。あっしはヤクザもんだが、これでも分別はわきまえてます。人様のものに手は出さねえ。あんなカスと一緒にされちゃあ困りますぜ・・・」松崎は何とか青山を追い出したいようだ。何よりも会社が倒産し、路頭に放り出されるのを恐れているらしい。松崎のような身寄りもいない、ヤクザ崩れが職を失ったら、どうやって生きていくのか。誰よりも世の冷たさを味わっているだけに、松崎としては、何としてもこの職場を失いたくないのだ。和田の壮絶な最期を目の当たりにして、精神的にも追い詰められているようだ。「会長、何を迷うことがあるんです?青山は会長にウソをついていた。これだけでクビにするには十分じゃないすか。なんでクビにしないんすか?あっしは会長のそういう態度が気に喰わねえ」もちろん、和男だって青山をクビにしたいのは山々だ。しかし、青山のようなワルのことだ。「不当に解雇された」などと労働基準監督署に訴えたりしかねない。それだけならまだしも、ああいう男のことだから、恐喝めいたこともしてくるかもしれない。そうした事態を懸念して、なかなか青山をクビにできず悩んでいたのだが、「青山なんかに配車を任せるくらいなら、あっしは小野夫婦に配車を任せたほうがよっぽどいいと思いますがね・・・」などと松崎が言ってくる。ここで松崎と小野夫婦が、「反青山」で結束してしまえば、当然、彼らの影響力が強まる。小野夫婦と松崎の影響力が強まれば、小野夫婦をこころよく思っていない池澤、大澤、矢島のような古参の稼ぎ頭が辞めてしまうことになりかねない。そうなれば、いよいよ明星自動車は倒産である。このような危機的状況に陥っていながら、自分の利益しか考えず、不毛な権力争いを繰り広げる小野夫婦や松崎を見ていると、和男は、「この馬鹿どもが・・・」と情けない思いで一杯になるのだった。
この年の夏は冷夏だった。8月は涼しい曇りの日が続いた。「あれからもう1年になるんだな・・・」信子が家族の前でガンを告白し、あっという間に逝ってから1年。この1年は苦難の連続であった。まるで、タナカ家が背負ってきた罪を清算するために、神が与えた罰のようである。「この罰はいつまで続くんだろうか?・・・」そして、罰の先には何が待っているのだろうか。あれから夢に神は出てこない。夢を見たような気はするが、覚えていないのだ。そのくらい、肉体も精神も疲れ果てていたということだろうか。
9月になった。30日の信子の命日を前に、一周忌を行なうことが決まった。そこに愛実から連絡があった。タナカの携帯電話にかけてきたのである。久々に聞く妹の声は元気そうだ。タナカはホッと一安心した。「どうした?何かあったのか?」「ううん、別に」「ちゃんと学校は行ってるのか?」「もちろん。来年は受験だよ。大学に行くんだ」「お前、今、どこに住んでるんだ?友だちの家か?」「ちゃんとアパートに住んでるよ。生活費は自分でバイトして稼いでるんだ」「アパート?誰が保証人だ?」「お父さんだよ」「えっ?」意外だった。和男が愛実のためにアパートを借りたというのだ。和男はタナカに何も話していない。「じゃあ、オヤジはお前が大学へ行くことも認めたのか?」「うん。あれからお父さんの携帯に電話して謝ったんだ。黙って家を出ちゃってごめんなさいって。泣きながら謝った。お父さんが嫌いで出ていったんじゃないって。そしたら、お父さん、許してくれた。それから、お前の人生なんだから、しっかり頑張れって応援してくれたの。お前は家を出て自立しろって。自立するには住むところがなくちゃいけないから、アパートはおれが借りてやる。ただし、自分の生活費は自分で稼げって。まさか、ここまでしてくれるとは思わなかったから、あたし、感動しちゃって・・・」電話口で愛実は泣いているようだった。「そうか・・・オヤジが、お前に・・・」タナカは救われるような気がした。自分の実の娘ではない愛実に、和男は親としての愛情を持っていたのだ。あれほど口うるさく愛実をしつけたのも、「早く自立させたかったから」という理由が見出せる。タナカには自立しろ、などと一度も言ったことのない和男だ。自分の息子には甘かったということか。「いや、そうじゃない・・・」とタナカは思った。タナカを自立させることができなかった失敗を教訓として、だからこそ愛実には早く自立してもらいたいと願ったのだろう。これだけ冷静に客観的な見方ができるほど成長した自分に、タナカ自身は気付いていない。「で、お前、彼氏とかはいるのか?」「ふふん・・・」と照れくさそうに愛実が笑った。「いるのか?」「うん。バイト先の店長。大学生」「変な奴と付き合ってるんじゃないだろうな?」「何よ、急に兄貴ぶっちゃってさ」「心配なんだよ、マジで」「変な人じゃないよ。彼も苦労してるの。油絵を描いてて、すっごく魅力的な絵を描く人。将来は画家になりたいんだって」「彼とは結婚も考えてるのか?」「今はまだ、そこまでは考えてないよ。私も大学へ行きたいし、もっともっといろんな経験をしたいの」「まあ、とにかく変な男に気をつけろよ」「それはともかく、お母さんの一周忌、私も行くね。今日はその話をしたかったの」「ああ、もちろん来いよ。母さんだって、お前に会いたいはずだ」「あたし、お母さんのことも許せるような気がするんだ」「そうか」「今は許したいと思ってるの。お母さんを憎みたくないの。そんなことをすれば、私もお母さんも救われないと思ったの」「なるほどな・・・」愛実も成長したな、と思った。憎しみの連鎖を断ち切ることができれば、タナカ家の不幸も終わらせることができるだろう。それに期待するしかなかった。「じゃあ、一周忌の日に、またね・・・」そう言って、愛実は電話を切った。
数日後。松崎が青山を飲みに誘い出した。口のいやしい青山のことだから、「一杯おごる」と言われればホイホイついていくのである。「いやあ、今日はごちそうになっちゃって・・・」松崎の金でたらふく飲み食いした後、「家まで送りますよ」というので、青山は松崎の運転する車に乗り込んだ。車はどんどん人気のない方向へ走っていく。青山は居眠りしていて気付かなかったのだが、「さあ、着きましたよ」と言われて目を覚ますと、そこは真っ暗な多摩川の河川敷である。「うん・・・あれ?ここどこ?」車から降りて、冷たい川風に当たると、青山の酔いもいくぶん覚めてきた。「多摩川の河川敷だよ」「多摩川?あれ、間違えてない?」「いいや、おれは正気だよ」松崎は吸っていたタバコを投げ捨てると、「青山さん、あんたには悪いが、消えてもらうよ」そう言って、すかさず腰からピストルを取り出した。ロシア製のトカレフである。青山の顔が青ざめた。「ま、待て!待ってくれ!あ、あんた、そんなことして良いと思ってるのか?」青山は震えながら後ずさりした。松崎は片手でトカレフを向けたまま、「あんたみてえなダニにいてもらっちゃあ、こっちが迷惑なんだ。会社にとっても、プラスになることはないしな」「あ、あんた、ただの下っ端極道じゃねえな?」「おれかい?今は堅気だが、一時は日本最大の組織にゲソつけてたこともあるさ」「お、おれを殺すってのか?」「あんたが辞める気ゼロだからな。会長も一向にあんたをクビにする気配がないし」「辞めろというのなら辞めるよ!だから、おれを見逃してくれ!」「おれがチャカ持ってるのを見せちまった以上、あんたを生かして帰すわけにゃあいかねえな」「サツには何も言わないよ!約束する!」「さあ、どうだかな。おれは汚ねえ生き方してる奴の言うことは信用しねえんだ」「そんな・・・頼む!命だけは助けてくれ!」青山が両手をすり合わせて拝むように命乞いした。「あきらめな。あばよ」松崎は無造作に引き金を引いた。夜の河川敷に数発の銃声が響いた。青山は銃弾を浴びて草むらに倒れこんだ。死んだのを確かめてから、松崎は車に引き返した。トランクから大型の懐中電灯とスコップ、ゴム長靴を持ち出す。辺りを照らして薬きょうを拾い集める。長靴に履き替え、青山の死体を埋めるための穴を掘った。穴を掘り終えると、松崎は青山の死体を引きずってきて、穴に蹴落とした。上から土をかぶせ、踏み固める。そして、何事もなかったかのように車で現場を後にした。
信子の一周忌の法事は、9月中旬に行なわれた。愛実も喪服姿で出席した。約半年ぶりに再会した妹は大人びて見えた。都心の小さな寺の墓地の片隅に信子の墓がある。信子が生前、購入したものだ。周りはビル群に囲まれ、都会にあこがれて田舎から出てきた信子にはふさわしい場所であるような気がした。「ここ、お父さんも入るの?」と愛実が訊いた。和男は照れたように笑って、「馬鹿を言え。おれには実家の墓がある」と答えた。「でも、お母さんひとりじゃ淋しそうだよ。お父さんも入ってあげなよ」「馬鹿。まだ死んだわけじゃないぞ」「夫婦が別々のお墓に入ることなんてないでしょ。死んでからも別居したいの?」と愛実が皮肉っぽく言った。「言えてるな。オヤジ、入ってやんなよ」タナカが愛実の意見に同調した。「お兄ちゃんも入るんでしょ?」「おれが?」「私も死んだら、このお墓に入れてもらうよ。死んでも家族がバラバラなんて嫌じゃん」「まあ、お前の好きなようにしていいよ」とタナカは言った。順番から行けば、自分が妹より先に死ぬのだから、自分の死後のことは妹に任せるしかないと思った。「自分のことなんだから、ちゃんと自分で決めてよね。死んだ後も妹に世話を焼かせる気?」「分かった、分かった。おれもオヤジもここに入る。それでいいだろ?なあ、オヤジ?」和男の方を向くと、「ん?・・・うう、うん・・・」あいまいにうなずいてみせた。そんな和男を見て、愛実が微笑んだ。タナカは幸せな気持ちになれた。
青山が消息を絶って、数日が経過していた。突然、何の連絡もなしに消えたのである。会社を無断で休んでいると小野から報告があったので、和男が青山の自宅に電話をしてみると、「主人は先週から帰ってないんです」と青山の妻が心配そうに言う。「行き先に心当たりは?」「ありません。普段から無断で家を空けたことなんてないのに・・・」青山は意外と家庭的な男だったらしく、刑務所に入っている間も家族との面会は欠かさず、窃盗や詐欺で手にした金で家族にサービスしていたという。それだけに妻子の不安も大きい。「何か変な事件に巻き込まれたんじゃないかと思って、警察に捜索願も出したんですが・・・」「いなくなる前に誰かと会うというようなことは話していませんでしたか?」「会社の人と会って飲みに行くから、今夜は遅くなるということは言ってました」「飲みに行く?・・・」和男は嫌な予感がした。「まさか、松崎が青山に何かしたんじゃ・・・」とにかく、松崎を問いただしてみるしかない。青山の家族が騒ぎ出すと面倒なことになるので、その前に何とか解決したいと思っていた。
和男はさっそく、松崎の携帯電話にかけてみた。松崎は仕事で九州へ行っている。青山がいなくなっていることを伝えると、「ああ、そうすか」と他人事のような答えが返ってきた。「青山君は君と会って飲んでたんじゃないのかね?」和男が問いただすと、「さあ、覚えてないな」とはぐらかす。「青山君がどこへ行ったのか知ってるんじゃないのか?」「おれが?知りませんね」「青山君に何かしたんじゃないだろうな?」「会長、青山は自分からいられなくなって、どっか逃げたんじゃないすか?」「青山の居場所を知ってるのか?」「だから、知らないって言ってるじゃないすか」「青山の家族は警察に捜索願を出したそうだ」「じゃあ、警察に任せておけばいいでしょう」「そうじゃないんだ。青山の家族が騒ぎ出したらどうなるか、お前は分からないらしい」「へえ、どうなるって言うんです?」「もしも、だ。お前が青山に何かしてたら、ただ事じゃあ済まなくなるんだぞ」「おもしろい。会長はおれを疑っていなさるね?」松崎の薄笑いが聞こえた。和男は疑惑が確信に変わっていくのを感じた。「青山に何をしたんだ?」「あんな奴は生きるだけ無駄ですよ」「まさか、お前、青山を殺したんじゃないだろうな?」「遅かれ早かれ消えてもらうしかない」「お前が殺ったのか?」「おれが殺っていたら、どうします?」「・・・・・・」和男は息をのんだ。「会長、青山さえいなければ会社は安泰なんです」「馬鹿を言え。青山が何をしたって言うんだ?」「会長にウソをついていたでしょ」「それだけで殺す奴がいるかっ!」和男は小声で叱りつけた。「会長、危ない芽は早めに摘み取っておかないと、また和田の二の舞を踏むだけですよ。そのくらい、会長だって分かってるでしょう」「殺すのはやりすぎだっ!」「会長、小の虫を殺して大の虫を生かすって言葉があるでしょう?ああいう虫けらみてえな奴は、生かしておいたって何の足しにもなりませんよ」「だから殺したって言うのか?」「心配いりません。バレないようにやりました」「今に家族が警察に訴えるぞ!警察が動き出したらどうなるか、お前、分かってるのか?」「なに、証拠がなけりゃあ警察だって手出しできませんよ」「警察を甘く見ないほうがいいぞ!お前は前科者なんだからな!」「会長、うまくやりましょうよ。おれに任せてくれたら、会社はもっとうまくいきますよ。小野夫婦も辞めさせれば、すべてがうまくいく。池澤も大澤も矢島も、みんなおれが手なずけている。会社経営が円満にいくこと間違いなしですよ」「馬鹿か、お前は?!世の中、お前が考えてるほど甘くないぞ!」「会長もお年だ。早く息子さんを一人前にして、楽になりたいでしょ?おれに任せてくれりゃあ、明星自動車を世界一の会社にしてみせますよ」「もうダメだ・・・もう、何もかもおしまいだ・・・」和男は今までの努力がすべて水の泡となったことを直感した。警察が動けば、すべてが終わる。松崎が捕まり、すべてが明るみに出れば、会社は倒産する。今度こそ身の破滅である。松崎の犯行を知っていながら隠していたとなれば、和男も殺人の共犯で逮捕されてしまうだろう。この歳で刑務所に送られたら、もう生きて出ることはない。ひとりさびしく、冷たい塀の中で死んでいくのか。血のにじむような思いで、ここまでがんばってきたことが和男の唯一の心の支えだったが、それも今となっては、「すべてむなしい・・・」と思った。
その夜。「なあ、おれはもう疲れたよ・・・」そう言って、和男はため息をついた。「疲れた」というのは和男の口癖になっていたので、普段は別に気にしないタナカだったが、今日のは違った。本当に身も心も疲れきってしまったという感じだった。和男はめっきりと老け込んだ顔をさらに苦渋の色で満たし、「もう、会社を辞めようと思う」と言った。「えっ?」「もう疲れたよ。本当に疲れた。おれも70すぎて、普通なら、とっくに現役を引退して、余生を楽しんでるところだ。ずっと歯を食いしばってがんばってきたが、もう限界だ。もう会社はいらない。辞めたいんだ。本当に・・・」「会社を辞めるって・・・どうすんのさ?」タナカも困惑を隠せない。つい先日、信子の一周忌のときには、「おれと和彦とがんばっていくから、安らかに眠ってくれ」と信子の墓前で誓っていた和男なのである。その変貌ぶりにタナカも、「何かあったな」と直感したが、それが何なのかは分からない。まだ、松崎のことは知らされていない。「会社はさ、島田あたりに引き取ってもらおう。おれたちは第一線を退いて、会社の経営にも首を突っ込まない。ただ、給料だけ入れてもらえればいい。これまでの貯えもあるし、おれの年金もある。ふたりだけで暮らすなら、生活に何の心配もないさ。お前だって疲れただろう?社長なんてやりたくないだろ?お前も好きなことして暮らしたいだろ?」「う、ううん・・・まあ、そうだ・・・」和男の言葉にタナカの心も揺れた。本当は仕事などせず、外にも行かず、誰にも傷つけられる心配のない部屋の中で、ひとりで静かに過ごしたい。和男から言い出してきたことに、タナカは歓迎してよいのかどうか、迷った。「それで、その、会社を他人に譲るとして、その話は、もうみんなにしたの?」「まだだ。これからみんなを集めて、話をしようと思う」「そうか」「中井も小野も松崎も島田もみんな集めて、みんなの前で話をしようと思う」「そうか・・・うん、そうか・・・」タナカはなんだか無性にうれしくなってきた。心を覆う重たい雲の切れ間から、明るい太陽の光が差し込んできたような気分だった。「あさって、みんなを八王子に集めて、おれから話をしようと思う。お前も一緒に来い」「分かった。おれも行くよ」タナカは元気よく返事をした。和男の表情は暗く沈んだままだった。
翌日。八王子の営業所に青山の妻が現われた。彼女は明らかに憔悴しきった顔で言った。「あの、主人がいなくなったことで、何かご存じないでしょうか?」あれから何の手がかりもなく、警察に相談しても取り合ってくれないという。応対したのは小野の妻・眞弓である。眞弓は何気なく答えた。「私は知りませんけど、ああ、そう言えば、青山さん、松崎さんと一緒に飲みに行くなんて話をしてましたよ」「松崎さん?」「うちのドライバーですよ。なんか、仲良かったみたいですね」「その、松崎さんという方は今どこに?」「松崎さんは仕事で九州へ行ってますよ。帰ってくるのは明日になりますね」「主人のことで何か心当たりはないか訊きたいのですが・・・」「こっちから訊いてみますよ」「そうしていただけると幸いです」青山の妻が帰ってから、眞弓は夫の浩之と語り合った。「青山さん、女でも作って逃げたんじゃないの?」と浩之が言えば、「まさか。でも、ああいうジジイって結構、小金を貯め込んでたりするのよね、意外と」と眞弓が豊富そうな経験をもとに言う。「青山さん、松崎さんと仲良かったのかな?」「飲みに誘ったってことは、ふたりで何かの相談でもしてたのかしらね?」「この会社を乗っ取る相談ってこと?松崎さんは青山さんを嫌ってたように見えたけど」「ふたりがグルってことはないか」「松崎さんは一匹狼だよ。誰かとつるむのが嫌いなタイプだよ。だからヤクザから足洗ったんでしょ」「まさかとは思うけど、松崎さんが青山さんを殺したってことは?」「青山さんが邪魔になって?」「松崎さん、カッとなると何するか分からないわよ。いつだったか、会長を殴って大騒ぎになったこともあるじゃない」「あったね。警察呼ぶって大変な騒ぎになった」「あの人ならやりかねないわよ。青山さんを誘い出して殺して、どこかに埋めてたりして」「だとしたら、大変だよ。警察沙汰になる」「チャンスじゃない」「何が?」「松崎さんを追い出すチャンスよ」「どうやって?」「松崎さんが青山さんを殺したという証拠をつかめば、こっちのもんよ。証拠をネタに脅せば、松崎さんはいられなくなる。警察に訴えられたくなかったら会社を辞めろって言えばイチコロよ」眞弓の野心が大きく膨らみ始めた。このチャンスを逃がしてはならない、と思った。松崎の殺人の証拠が手に入れば、いよいよ会社は自分たちのものになるのだ。「でも、どうやって証拠を集める?」「青山さんを殺して、死体を処分したとすれば、絶対、車を使ってるはずよ」「松崎さんの車を調べてみる?」松崎は町田市の自宅から八王子まで車で通っていた。松崎の愛車は営業所の片隅に停まっている。小野夫婦は松崎の車のスペア・キーを取り出し、松崎が留守にしている間に車を開けて調べてみることにした。車のスペア・キーは松崎が会社に預けてあるものだ。営業所の駐車スペースは限られているので、留守中に何かあって車を動かさねばならないときなどに必要だ。小野夫婦は車内を丹念に調べた。浩之がトランクを開けると、中から大型の懐中電灯やスコップ、ゴム長靴が出てきた。スコップと長靴は使ったことを示すように泥が付着している。眞弓は座席の下やダッシュボードを調べた。すると、運転席の下から金属製の筒状のものを見つけた。「これ何だろう?もしかして、ピストルの弾?」トカレフの薬きょうである。すでに発射されたものだ。浩之は鼻を近付けてみて、「火薬の臭いがする」と言った。「間違いない。松崎は青山を殺している・・・」ふたりの疑惑は確信に変わった。
その夜。和男は電話でかなり長い間、小野夫婦と話をしていた。眞弓から電話をかけてきて、「松崎は殺人を犯したに違いない」というのだ。眞弓は根拠として、松崎の車から見つかった薬きょうの話をした。そして、こう言うのである。「会長、いい考えがあるんです。今、ここで事件を公にしてしまえば、警察も黙っていないし、マスコミだって大騒ぎすると思うんです。そうなったら和田さんの事件もあるし、会社がつぶれちゃうと思うんです。だから、ここはうまく松崎さんを説得して、会社を辞めさせた方がいいと思うんです。こんなことが明るみに出たら、本当に大変なことになると思うんですよ。だから、会長も誰にも言わないで黙っていた方がいいと思うんです・・・」和男は眞弓の魂胆が読めていた。松崎を辞めさせ、会社の実権を握り、さらには和男の弱みをも握って、完全に自分の思い通りにしてしまおうということだ。和男は努めて冷静に言った。「いいか、もし松崎が本当に青山を殺していたとしよう。それを知っていながら、我々が隠していたとしよう。それがバレたらどうなると思う?我々だって、殺人の共犯で捕まってしまうんだぞ」「もちろん、そうです。だから、ここはバレないように慎重にやるべきだと思うんですよ」「こんなことがバレないと思ってるのか?青山の家族が騒ぎ出したら、警察も本格的に動き出すだろう。松崎に警察の疑いの目が向くのは時間の問題だ。どう隠したって、隠しきれるもんじゃない」和男はすでに会社を手放す覚悟だから、松崎の犯行を隠すつもりなどない。松崎が捕まっても、それはもう自分には関係のないことだ。小野夫婦とグルになって、犯罪の片棒を担ぐようなマネはしたくないし、するつもりもない。「いいか、この際、はっきり言っておく。うちは運送会社だ。ヤクザではないしマフィアでもない。法に触れるようなマネはしないのだ。ずっと法令順守でやってきたんだからな。今さら、それを変えるつもりなんてないのだ」すると、眞弓が挑戦的に言った。「会長、本当にそれでいいんですか?本当に明星自動車は不正も違反も何もしてないって胸を張って言えます?」「何のことだ?」「知ってるんですよ、私。会長が松崎さんの脱税に協力してきたってこと」「・・・・・・」「それは不正じゃないんですか?立派な犯罪でしょう?訴えれば捕まりますよ、会長も」「そ、それは、松崎が・・・」「松崎さんに脅されて、仕方なくやったんですよね?でも、仕方ないで通りますかね?」「う、うむ・・・」「会長、うちは今、生きるか死ぬかの瀬戸際なんです。もしここで松崎さんが警察に捕まったら、私も会長もみんな破滅ですよ。松崎さんが全部警察にしゃべったら、何もかも終わりなんです。分かってますよね、会長も・・・」和男は何も言えなかった。結局、どうあがいたところで、破滅からは免れないのだ。松崎が捕まれば、和男も脱税の罪で捕まるかもしれない。会社は間違いなく倒産し、小野夫婦も他の社員もみんな失業する。和男は自分を取り巻く状況が、どうしようもなく絶望的なものであることを突きつけられたような気持ちだった。「会長、よーく考えてみてください。今、どうすべきなのか。何がベストなのか。私は会社のためを思って言ってるんですよ。会社を乗っ取ろうだとか、そんな大げさなことを考えてるんじゃありません。会長は私をどう思ってるのか知りませんけど。でも、これだけは信じてほしいんです。私だってずっとこの会社にいたい。この会社で働いていきたい。だから、社員として会社のことを思うのは当たり前です。会社のためを思って言ってるんです。それだけは信じてください。お願いします・・・」和男は迷った。誰の言うことを信じればよいのか。松崎と手を組むべきなのか、それとも小野夫婦か。会社を投げ出してしまえば確かに気楽だ。だが、破滅から逃れることはできそうにない。どうやっても、自分はこの地獄から脱け出すことはできないのか。「因果応報ってやつだよ・・・」和男はその言葉を思い出した。自分は先祖の犯した罪で一生苦しまねばならないのだろうか。
布団に入っても眠れない。和男は信子の遺影を抱きしめた。「信子、答えてくれ。おれはどうやっても救われない運命なのか?・・・」涙があふれてきた。声を殺して泣いた。「信子、おれもそっちへ行く。もうすぐ行く。待っててくれ。もうすぐだからな・・・」和男は信子の遺影を抱いたまま、いつしか眠りの中に吸い込まれていった。
翌日。池澤、大澤、矢島の3人が府中のタナカ宅を訪れた。何の連絡もなしに急に現われた3人を訝しげに見ながら、「おや、どうしたんだ?」と和男が言った。「会長、だいぶ、お疲れのようですね」と池澤。「顔がむくんでますよ。仕事のしすぎですね。ゆっくり休んだらどうです?」「休んでる暇なんかないよ」和男は苦笑しながら言った。「今日は大事な話があって来ました」「何の話だ?これから税務署へ行ったり忙しいんだ」「すぐ終わりますよ。30分だけ時間をください」そう言われては、部屋に上げないわけにもいかない。3人を代表して池澤が言った。「会長、松崎を辞めさせてください」「なんでだ?」「おれたちはずっと会長の下で働いてきた。明星自動車という会社を愛してます。でも、松崎の下で働くのはゴメンだ」「松崎が何かしたのか?」「あいつはよくない奴ですよ。態度は横柄だし、短気で人遣いが荒い。堅気になってもヤクザな性格までは治らないんでしょうよ」「でも、今までずっとそれでやってきたわけだろ?今になって何が問題なんだ?」「小野が会社を辞めたいって話、松崎が流したデマなんですよ」「なんだって?」以前、小野夫婦が給料を上げなければ会社を辞めるという話が出てきた。それは松崎が小野夫婦から聞いた話ということになっていたが、池澤が言うには松崎のデタラメなのだという。「小野は会社を辞める気なんて、これぽっちもありませんよ」「小野に訊いて確かめたのか?」「あいつもおれたちと一緒に十余年も勤めてきたんだ。こんなにいい職場はないって、いつも話してますよ。給料を上げなきゃ辞めるのどうのなんて話は、あいつの口から出てくるわけがないんです」和男は信子が亡くなる前は、ほとんど八王子の営業所に泊まり込み、従業員の動きをつぶさに見ていたので、小野やドライバーたちの考えは理解していた。信子の死後は府中の自宅にいることが多くなり、どうしても従業員の動きに気を配っている余裕がない。だから、松崎のような男の話を鵜呑みにしてしまっていたのだ。「じゃあ、松崎は小野を辞めさせるために、そんなウソをついていたのか?」「考えてくださいよ。給料が下がったくらいで会社を辞めたら、困るのは小野なんですよ。いくら小野でも、そこまで馬鹿じゃない。小野が辞めて得をするのは誰なのか、もう一度考えてみてください」そう言われてみれば、あの時、小野が最後まで「辞める」と口にしなかったのも気になるし、小野の前に松崎が突然やってきたのも、「松崎は小野に辞めるよう、それとなく圧力をかけていたのだ」という解釈も成り立つ。池澤が言った。「会長、おれたちはずっとこの会社でやっていきたいんです。これからもずっとです。でも、松崎みたいな腹黒い男の下で働くのは嫌だ。あんな奴に会社を渡すつもりなら、おれたちは辞めさせてもらいます」「会長は松崎のことをどう思ってるんですか?」と大澤が身を乗り出せば、矢島も、「まさか、本当に松崎を副社長にするんじゃないっすよね?」と訊いてくる。「松崎を副社長に?誰がそんなことを言ったんだ?」「松崎ですよ。今度、副社長になるから名刺を作ってもらうんだって・・・」「馬鹿な!」「松崎の奴、どんどんつけあがってますよ。このまま放っておいたら、本当に会社を乗っ取られてしまいますよ」「会長、松崎をクビにしてください。奴を辞めさせられるのは会長だけなんです」「会長が松崎をクビにしないのなら、おれたちも考えさせてもらいます」池澤も大澤も矢島も「反松崎」で結束しているようだ。このまま松崎を放置しておけば、本当に3人とも辞めてしまうだろう。稼ぎ頭の3人が辞めれば、他のドライバーたちもそれに続く可能性が高い。和男は腕組みをして考えた。「いよいよ、ここいらが潮時か・・・」会社を手放すにしても、長年、和男を慕って働いてきた池澤たちの身が立つようにしてやりたい。それには松崎をうまく排除し、災いの元を断ち切ってから、会社の再建を島田あたりに任せるしかない。いったんは会社経営に失敗し、絶望のどん底から血のにじむような思いで這い上がり、30人あまりの社員を抱える会社にまで成長させてきただけに、これを手放すのは惜しい気もする。だが、松崎のような男に乗っ取られ、すべてを台無しにしてしまうよりかは、やれるだけのことはやって、信頼できる人物に会社と社員の運命を託した方がよっぽどマシだと思った。「よし、分かった。数日中に結論を出す。松崎をどうするか、それまでに決めておく」「会長、頼みますよ。これからも一緒にがんばっていきましょうよ」「まだまだ、がんばればいくらでも伸びますよ。松崎みたいなのさえいなけりゃ」「松崎さえいなけりゃ、おれたちは死ぬまでこの会社でがんばっていくつもりです」池澤、大澤、矢島に激励され、和男は久しぶりに生きる気力が湧いてくるのを感じた。「よーし、おれもまだまだ死ねんぞ。会社の行く先を見届けてやんなくちゃな。信子、もう少し待ってくれ。会社のゴタゴタを片付けてから、おれもそっちへ行くよ。おれにとっちゃ、これが人生最後の大仕事だ。信子、天国から応援してくれ。あと、もうひとふんばりだ・・・」和男は信子の遺影の前で、ひとり、そうつぶやいた。だが、実際、この問題をどうやって解決するのか、いい考えは浮かんでこなかった。
その頃。神奈川県警は県内の指定暴力団住吉会系組員宅を家宅捜索し、その際、数人の組員を逮捕した。銃刀法違反容疑で逮捕された組員は、取り調べの際、「トカレフを知り合いに売った」と自供した。組員は捜査員に追及されると、売った相手の名前も口にした。その相手が松崎だったのである。松崎は、この組員からトカレフを譲ってもらい、青山を誘い出し、射殺して死体を多摩川の河川敷に埋めたのだ。
9月28日、木曜日。松崎は町田市原町田の自宅マンション「メゾン町田」204号室の寝室で寝ていた。前日、九州から東京に戻ったばかりで、池澤たちがタナカ宅へ赴き、自分を辞めさせるよう和男を説得していたことは知らない。また、自分にトカレフを売った組員が警察に捕まり、ゲロってしまったことも知らない。この頃の松崎は家に帰ってくると酒を飲み、すぐに寝てしまう。以前は飲んでも飲まれることなどなかったのだが、さすがに57歳にもなると、無理が体に出てくるようになった。アパートには43歳になる内縁の妻・福田麻里子とともに暮らしている。麻里子は飲み屋で知り合った未亡人で、数年前から松崎と同棲していた。午前9時45分、玄関ドアのチャイムが鳴った。すでに起床して仕事へ行く準備を始めていた麻里子が応対に出た。「神奈川県警の者です。ご主人はいますか?」ドアの隙間から背広姿の捜査員が捜索令状を見せて言った。「あの、うちの人が何かしたんでしょうか?」「銃刀法違反容疑で家宅捜索します。ドアを開けなさい」ドアにはチェーンがかけられたままだ。「あんた、起きてちょうだいよ。今、警察の人が表に・・・」寝室へ飛び込んだ麻里子が、まだ寝ている松崎を揺さぶった。「神奈川県警です!ドアを開けなさい!」玄関から捜査員の声が響いてくる。松崎がハッとなって飛び起きた。「ねえ、あんた、一体どうしちゃったのよ?何があったって言うのよ?・・・」うろたえる麻里子には構わず、松崎は寝室のタンスの奥に隠しておいたトカレフを取り出した。実弾の詰まった弾倉を装填し、そっと寝室の窓のカーテンを開けた。ベランダから逃げようと思ったのだが、すでにベランダにもよじ登ってきた捜査員の姿があった。「神奈川県警の者だ!窓を開けろ!」捜査員が窓越しに松崎に呼びかけた。その瞬間、松崎が銃口を向けた。「危ない!伏せろっ!」捜査員が瞬時に身をかわさなかったら、間違いなく松崎の放った凶弾に倒れていただろう。乾いた銃声が数発、立て続けに響いた。松崎が2発、窓越しに発砲し、捜査員が応戦して7発を撃ち返した。窓ガラスの破片が飛び散り、松崎は左腕と左足に捜査員の銃弾を浴びた。松崎はこの時、ガラス片で顔にも切り傷をつくった。麻里子は突然始まった銃撃戦に腰を抜かしている。「松崎!出てこい!ドアを開けろっ!」捜査員が怒号を発し、ドアを開けようとしてチェーンめがけ2発を発射した。しかし、予期せぬ事態に手が震え、弾はチェーンに当たらない。「あ、あんた、一体なんなのさ?」おびえる麻里子に、「奥へ行ってろ!」と怒鳴りつけ、松崎はドアを内側からロックしてしまった。
現場一帯は騒然となった。次々にパトカーが駆けつけ、騒ぎを聞いた野次馬も集まってくる。ヘルメットと防弾チョッキを着用し、ジュラルミンの盾をかざした警官が忙しく動き回っている。閑静な住宅街はピリピリした空気に包まれた。テレビの昼のニュースが事件の一報を伝える。「今日午前9時45分ごろ、東京・町田市のマンションで、銃刀法違反容疑で家宅捜索に入ろうとした神奈川県警の捜査員に、この部屋に住む男が拳銃を発砲し、捜査員も応戦して銃撃戦になりました。男は現在も室内に立てこもっています。現場から中継です。現場の須藤さん」「はい、こちら現場です。拳銃を発砲した男は、あちらに見えます14階建てマンションの2階に立てこもっています。神奈川県警によりますと、男は元暴力団組員でトラック運転手の松崎隆史容疑者(57)とみられ・・・」ニュースで事件を知った和男は愕然となった。つい2ヵ月前に和田が名古屋で「金城商会」にガソリンを撒いて立てこもり、人質と警官を道連れに自爆したばかりだ。「あの馬鹿、一体何やってんだ?・・・」松崎が立てこもったマンションの正面には、町田第二小学校がある。「拳銃を持った男が立てこもった」というニュースはすぐに小学校にも伝わり、校舎の窓から小学生たちが面白がってマンションの方を見ている。学校側はあわてて児童を体育館に避難させた。そこへ若い警官が飛び込んできて、「チャイムの音を止めてください!犯人を説得している声が聞こえなくなってしまう!」と叫ぶと、教員たちは顔をこわばらせながら対応に追われた。警察はマンションと付近の住民を避難させた上で道路の通行も封鎖した。現場から半径1キロは立ち入り禁止になり、商店は開店休業状態。機動隊員や私服、制服の警官、見物人も続々と集まり、黒山の人だかりができていった。午後には第二小は休校となり、体育館に集まっていた児童らが保護者に付き添われて帰っていった。タナカはテレビのニュースを見ながら、「たかが拳銃を撃ったくらいでこの騒ぎかよ。日本って本当に平和ボケだな・・・」と思い、苦笑した。
その頃。松崎は苦痛にうめきながら、自分で傷の手当てをしていた。捜査員に撃たれた左腕の傷は銃弾がかすっただけだったが、左足は太ももに銃弾が当たってとどまっている。松崎は麻里子に命じて、治療に必要なものを持ってこさせた。まず、傷口にウイスキーを垂らして消毒し、カッターナイフの刃をライターの火であぶる。それを無造作に傷口に突っ込んで切開し、弾丸を摘出しようというのだ。松崎は額に脂汗を浮かべ、激痛に顔をしかめながら、指でほじくり出した弾をカーペットの床に落とした。麻里子は言葉を失っている。「た、タオルだ・・・タオルを取ってくれ・・・」松崎は傷口を手で押さえながら言った。止血に使ったタオルは見る見るうちに血で真っ赤に染まった。松崎はそれを洗面器の上で搾っている。「あ、あなた、病院に行かなきゃ・・・」麻里子の声は震えている。「馬鹿野郎!このくらいのけがで病院に行く奴がいるか、アホ!」と松崎が叱りつけた。「だって、あんた、血が止まらないじゃない・・・そのままじゃ・・・」「へん、おれはな、指つめたときだって、自分で手当てしたぜ。イッピの世話にはならねえよ」松崎は痛々しい笑顔を浮かべて言った。
電話が鳴った。松崎が出た。「警察だ。中にけが人はいるのかね?」「ああ、女が1人いて、撃たれてけがをした」「女?」「おれの女房だよ」「早く解放しなさい」「解放しろ?冗談じゃねえ。おれの女をどうしようが、おれの勝手じゃねえか」「どこをけがしているんだ?」「腕と足だ。お前さんから先に撃ってきたんだ。よくも女房にけがさせてくれたな。どう落とし前をつけてくれるんでえ?」松崎は麻里子が撃たれて負傷した、とウソをつくことで、無関係な一般市民を警察が傷つけたということにし、警察の面子を潰そうとしているのだ。そうでもしなければ、怒りが収まらなかった。「とにかく、けが人がいるんだったら、早く病院に連れて行かなければならない。けが人を出しなさい」「心配すんな。おれが手当てしてやった」「君もけがをしてるんじゃないのか?」捜査員は電話の松崎の声から、松崎が負傷していることを読み取ったようだ。「どうでもいいやな」松崎は弱々しく虚勢を張った。「けがをしているなら、早く出てきなさい。他に銃は持ってるのか?」「ああ、サブマシンガンと手榴弾を持ってる」と松崎はウソを言った。ウソをつくのが癖というか、もう習慣のようになってしまっているようだ。自分を強く見せるためにウソで塗り固めてきた人生だ。「サブマシンガン?」「イングラムだ。手榴弾が4発、それにダイナマイトを25本持ってる」「どこで手に入れたんだ?」「どうでもいいやな。あんたらに言っとく。無理に強行突破すれば、死人が出るだけだぞ。おれは相手の急所を狙って確実に仕留めるだけの腕を持ってるんだ。弾もいっぱいある。警官隊が突っ込んできたら、ひとり残らず眉間をブチ抜いてやるから覚悟しとけ・・・」それだけ言うと、松崎は電話を切ってしまった。
夕方になった。テレビ局はこぞって松崎の事件を取り上げている。ヘリの中継映像が流れた。マンション前の通りは警察の車両で埋め尽くされていて、車体を灰色に塗った装甲車が何台も並んでいる。まるで戦場のようである。リポーターが興奮しながら現場の状況を伝える。「私の後ろに警察の車両が見えます。あっ、ドアが開きました。特殊部隊の隊員とみられる警察官が降りてきます。あっ、中に銃があります!ライフル銃のようなものが見えました!」テレビを見ながらタナカは思った。「こんな大げさに騒いだら、松崎もビビって出てこれないじゃないか・・・」警察はバカバカしいと思えるくらいの包囲網を敷いた。相手はたったひとりのチンピラオヤジである。「取り囲んで、兵糧攻めにするつもりか?」マンションの部屋には食糧もあるだろう。たとえ水と電気を止めたとしても、ストックがあれば2,3日は持ちこたえられるはずだ。水と食糧が尽きたとき、松崎はどう出るのだろうか。自暴自棄になって、トカレフを乱射しながら外へ飛び出してくるかもしれない。警察はマンションの周囲に狙撃手を配置したはずだ。タナカは松崎が警官隊に射殺される光景を想像した。
翌日。タナカは目が覚めると、さっそくテレビをつけてみた。ニュースでは、松崎は半日以上経過してもまだ立てこもりを続けているという。和男も昨夜はほとんど眠れなかったらしい。警察から「説得してほしい」と頼まれ、電話で松崎を説得してみたが、「まったく埒が明かない」のだという。「松崎さんは何を要求してるの?」とタナカが訊くと、和男は忌々しげに、「先に銃を撃ってきたのは警察だと言ってる。だから、警察が謝らないと出ていかないと言うんだ」と言った。朝刊を読んでみると、「松崎容疑者が発砲してきたため、捜査員もやむなく撃ち返した」とある。神奈川県警の担当者も、「先に撃ってきたのは松崎で、拳銃の使用は適正だった」と発表している。「松崎が言うには、窓のカーテンを開けたらいきなり警察が窓越しに撃ってきた、中に女房がいて撃たれてけがをしたから、正当防衛でこっちも撃ち返したのだそうだ」「警察がいきなり撃ってくるなんてことあるのかな?アメリカとかならともかく、日本の警察が」「どうせ松崎のウソに決まってる。警察も松崎がいきなり撃ってきたから、正当防衛で反撃しただけだと言ってる」「奥さんがけがをしたってのは本当なの?」「これもウソだ。撃たれたのは松崎らしい」「本当に撃たれたの?」「自分で手当てしたと言ってる。これもウソだろうな」もう松崎が何を言っても、和男の耳にはウソとしか入らないようだ。「松崎さんはなんでピストルなんか持ってたの?」「それがな、笑わせるんだ」和男が苦笑した。「あいつが言うには、武士が刀を差したように、ヤクザにとってピストルは魂のようなものだから、片時も手放せないというんだ」「ハハハ・・・そう言えば松崎さん、いつだったか、おれのボディガードみたいなことを言ってたね」「松崎の奴、それで青山を殺したんじゃないかと思うんだ」「えっ?でも、青山さんはまだ見つからないんでしょ?」「殺して、どっかに隠したんだろうよ。松崎はそれがバレるのを恐れて、警察に捕まりたくないんだろう」「でも、遅かれ早かれ、いずれは警察に捕まるでしょ」「さあ、そこだ。松崎が生きて捕まって、警察にペラペラしゃべったら、うちはいよいよおしまいだぞ・・・」それを聞いて、タナカの心は重くなった。「警察はさっさと松崎を撃ち殺せばいいのに・・・」と思った。
その頃。松崎は傷の痛みを忘れるため、ウイスキーをラッパ飲みしていた。自分で止血したものの、出血は止まらない。麻里子に支えてもらわないと、自分では立ち上がることもできなくなっていた。それでも麻里子に手伝わせて、玄関やベランダにタンスや机でバリケードを築いた。捜査員は玄関のドア越しや電話で説得を続けているが、松崎はまったく応じようとしない。壁にもたれかかり、ウイスキーを浴びるように飲みながら、「入ってきたら撃つぞ!」と怒鳴りつけるのみだ。「あんた、もう、お酒はよしなさいよ・・・」と麻里子が忠告しても、「うるさい!お前は黙ってろ!」「けがをしてるのに、お酒なんか飲んでたら、ますます血が止まらなくなるじゃない」「黙れ!」松崎は苦痛を振り払うように叫んだ。顔は青ざめ、手は震えている。もしかしたら、傷が悪化して、感染症になっているのかもしれない。麻里子は松崎のそばに正座して言った。「あんた、これからどうするつもりなのさ?」「お前には関係ない。こいつはおれの問題だ」「あたしをどうしようって言うのさ?」「警察が詫びを入れたら、ここから出してやるよ」「それまで私を人質にしておくつもり?」「お前は自分の意思でここに残った。人質なんかじゃない」「何よ、それ?あんたには責任がないの?」「おれは、お前に残ってくれなんて言った覚えはないぜ」「それは・・・」「おれがハジキを持ってるから、怖くて出て行けなかったって言うのかい?」松崎はせせら笑った。「警察はお前が人質だと思ってる以上、うかつに手を出せない。おれは奴らの弱みを知ってるんだ」「警察を相手に戦うつもり?たったひとりで戦って勝てるわけないじゃない」「これは戦争なんだ。やるか、やられるかだ。おれはこの戦いに命を懸けてる。奴らの面子をとことん潰してからじゃなきゃあ、死んでも死にきれんわ」「ホント、男ってバカバカしいことに命がけになるのね」と麻里子もせせら笑った。「殺すぞ!」松崎にトカレフを向けられ、麻里子の顔が引きつった。
事件は膠着状態に陥っていた。現場には警視庁の特殊部隊(SIT)も待機していた。警察は29日未明、いったんは強行突入の方針を固めたものの、「福田麻里子が人質の可能性もある」として、突入決行を見送った。警察上層部は、「もし人質が犠牲になれば、7月の和田事件に続いて、2度も失点を重ねることになる」ということを危惧していたのだ。そのため、慎重にならざるを得なかった。松崎が立てこもっている室内の様子を探るため、集音マイクや特殊カメラが使われた。捜査員は麻里子にも出てくるよう促していたが、「いいか、警察が何を言っても、ここに残ると言え」と松崎に脅され、電話に出ても、「けがをしているから放っておけません」とか、「私もこの人と一緒にがんばりたい」などと言わされていた。それは麻里子の本心ではなかったのだが、そのうち警察側も、「福田麻里子は人質ではなく、松崎の共犯者の可能性もある」と考えるようになっていった。そうなると、状況は一変する。たとえ、突入で麻里子が犠牲になっても、「犯人の仲間だから仕方ない」ということで処理することができる。つまり、麻里子は「哀れな人質」などではなく、「憎むべき共犯者」というレッテルを貼られることになるのだ。
その夜。松崎は死を覚悟していた。自分の57年の人生を振り返ってみても、「ろくなことがなかった・・・」と思う。極貧の家庭に生まれ、どん底から這い上がろうともがき続けたが、どこへ行っても世間の風は冷たかった。一般社会になじめず、極道の世界に入ったものの、うだつは上がらず、いつまでたっても下っ端としてこき使われるだけだった。兄貴と慕った男のために刑務所に入ったり、ほれた女のために一肌脱いだりしたが、結局、いいように利用されただけだ。ほとほと嫌気が差し、足を洗って堅気になったが、真面目に生きようと誓ったのも束の間、欲をかいたばかりにすべてを失う羽目になってしまった。「おれは、こんなところで、虫けらみてえに死んでいくのか・・・」と思うと、悔しくて仕方なかった。「おれが死ねば、よろこぶのは老いぼれの会長と小野夫婦か・・・」脱税のことも、青山のことも、闇から闇へ葬られていくのだ。松崎は電話の受話器をつかんだ。和男の自宅へかける。「会長、まだ寝てませんでしたか?」「それどころじゃない。お前のせいで、こっちは一睡もできないでいるんだ」「おれが捕まって、余計なことをベラベラしゃべるんじゃねえかと気を揉んでるわけですか」「お前がやったことで捕まるんなら、こっちは一向に構わん。だが、会社に関わることとなれば、話は別だ」「そりゃそうだ。やぶへびってことになりかねませんな。ふふふ・・・」松崎は不敵な笑い声を上げた。「ちょうど1年前の今頃は、信子が生きて助かってくれることを祈りつつ病院で夜を明かした。1年後の今は、松崎が生きて捕まらずに死んでくれることを願いつつ夜を明かそうとしているとはな・・・」と思うと、和男も自嘲的に笑った。「お前の目的は何だ?何をしたいんだ?いつまでそこにいるつもりだ?」「さあね。夜が明けたら警察が突っ込んでくるでしょうよ」「そうやって人の気持ちをもてあそんで楽しんでるわけか」「やっぱり怖いですかね?おれが捕まるのは」「ああ、できることなら生きて捕まらずに死んでほしいね」和男は思い切って言ってやった。「ふふふ・・・本音を言ったね、会長さん」松崎はさも愉快そうに笑った。「気をつけたほうがいいですよ。この電話も警察に傍受されてるだろうからね。録音もしてるでしょう。おれが死んでも、記録は残りますよ」「チンピラのウソつきの言うことなど、誰が信じるもんか」と和男がせせら笑って言うと、「口は災いの元って言いますよ。会長さん、自分の発言にはくれぐれも注意するんですな・・・」と松崎が言った。
「ねえ、あんた、私と一緒に生きてここから出ようよ」麻里子が言った。「何もこんなとこで死ぬことないじゃないの。あんたはまだ誰も殺してないんだからさ、今出て行けば、きっと罪も軽くて済むよ」麻里子は必死だった。松崎のために必死なのではない。「こんなキチガイ男と一緒に心中するなんて絶対に嫌だ」と思えばこそ、松崎を説得して、何とか生きてここから出る道を模索していたのだ。松崎は答えない。麻里子は松崎がすでに殺人を犯していることを知らない。生きて警察に捕まれば、当然、警察は青山失踪の件でも松崎を厳しく追及するだろう。前科がたくさんあり、警官に発砲して立てこもり、そのうえ殺人まで犯していたとなれば、極刑は免れない。「どうせ、生きて出たところで同じだ・・・」なのである。警察に投降し、洗いざらいすべてをぶちまけて、和男を地獄の道連れにするという手もある。しかし、今は亡き信子から親切にされた恩を思えば、その恩を仇で返すような真似はできないと思った。松崎にも少しだけ人間的な良心があったというよりも、どこまでも自分の体裁を気にしているだけだ。
30日午前5時15分、警察は最後の説得を試みた。「松崎、返事をしろ!」捜査員の怒号が響く。松崎は昨夜から電話にも出なくなり、捜査員の呼びかけにもまったく応じなくなった。「あと5分以内に返事をしろ!銃を捨てて出てこい!」警察の対策本部は、「福田麻里子は人質ではない」と判断し、特殊部隊に突入のゴーサインを出した。松崎からの応答がなくなったため、5時26分、捜査員が玄関ドアの破壊作業を開始。同時に1階で待機していた特殊部隊が動き出した。全身黒ずくめの隊員が松崎の立てこもる2階の出窓にハシゴをかけた。ハシゴで窓を叩き割り、2名の隊員がよじ登る。そして、割れた窓から室内に閃光弾を投げ込もうとした。が、閃光弾はうまく入らず、隊員の手元で爆発した。まばゆい閃光とともに大きな爆発音が響き渡る。火花が飛び散り、白煙が広がる。「突入です!突入です!警官隊が突入しました!あっ、大きな爆発音が響きました!あっ、また爆発です!」ずっと膠着状態が続き、退屈していたであろうリポーターが興奮して絶叫する。2発、3発と閃光弾が爆発するが、どれもうまく部屋に入らない。4発目は隊員の目の前で爆発し、危うくハシゴから落ちそうになるのをかろうじて踏みとどまった。5発目がようやく室内に飛び込み、爆発して窓ガラスを吹き飛ばした。隊員の頭上に火花とガラス片が降り注ぐ。隊員が閃光弾で松崎の注意を引きつけておいて、捜査員が玄関を壊し、一気に踏み込む作戦だったのだが、内側に築かれたバリケードを撤去するのに10分もかかった。
特殊部隊の突入が始まると、松崎は麻里子の肩を借りて、6畳和室へと逃げ込んだ。「松崎!開けろ!」捜査員の怒号とドアをガンガン叩く音、それに閃光弾の爆発音が響く中、「あんた、お願い!馬鹿なことはよして!お願いだから、一緒に出ましょうよ!」麻里子は懸命に松崎を説得しようとした。「お前、おれが捕まってムショに入っても、ずっと面会に来てくれるか?」と松崎が麻里子に訊いた。「おれが死んだら、泣いてくれるか?約束できるか?」絶体絶命の状況に追い込まれて、松崎は急に心細くなったのだろう。「どうだ?約束できないか?」「え?いや、その、あの・・・」麻里子は、こんな男と一緒にいるつもりはない。さっさと縁を切りたくてしょうがないのだ。ためらったが、ここから生きて出るには、約束したふりをするしかないと思った。「や、約束するから、早く、ここから・・・」麻里子が腰を浮かせると、松崎が自嘲的に笑った。「女はウソがうまいって言うが、お前は下手くそだな」松崎が麻里子に銃口を向けた。「や、やめて!何するの!」麻里子の顔が恐怖で引きつった。「心配すんな。すぐ楽になるさ・・・」銃声が轟いた。
やっと室内に突入したとき、捜査員が発見したのは、トカレフで頭を撃ち抜いて倒れている松崎と麻里子の姿だった。ふたりは布団の上に並んで倒れており、すぐに救急車で病院に運ばれたが、まもなく死亡が確認された。こうして、44時間にも及んだ発砲立てこもり事件は終結した。
午前8時半、警察は記者会見を開き、「このような結果に終わったのは残念だが、仕方のない結末だったと思う」と結論付けた。記者から次々に質問が飛ぶ。「容疑者は内縁の妻を道連れに拳銃で自殺したということですか?」「そのように判断しております」「内縁の妻は容疑者の人質だったという可能性もありますよね?」「そうした状況も想定して、慎重に説得を続けてきたわけですが、内縁の妻が容疑者をかばうような言動もあったことから、最終的に人質ではないと判断し、強行突入に踏み切りました」「内縁の妻は人質ではなく、共犯者だったということですか?」「その線も視野に捜査を続ける方針です」「容疑者は警察の突入を知って自殺したわけですか?」「突入直前に銃声が聞こえました。おそらく、内縁の妻を殺したのち、自分も拳銃で頭を撃って自殺を図ったのでしょう」「警察が追い詰めたから自殺したんじゃないですか?内縁の妻の死にも、警察は責任があるんじゃないですか?」「最悪の事態を回避するため、あらゆる手段を尽くしてきたわけです。しかし、発生からすでに2日近く経過し、周辺住民への影響や、容疑者の体力、内縁の妻の安全等を考慮して、突入はやむを得ない決断だったと思っております」警察はあくまでも麻里子が人質ではなく、松崎の共犯だったということにして、この事件の幕引きを図りたいようだった。
松崎の死。それはタナカと和男に束の間の安堵を与えた。松崎が生きて捕まり、警察に余計なことをしゃべる恐れはなくなったのだ。警察としても、この事件をあまりマスコミに追及されたくなかったのだろう。何らかの圧力がかかったものか、不思議とメディアは松崎の事件を大きく扱わなかった。しかし、警察は青山失踪の件で、自殺した松崎に疑いの目を向けたようだ。あくる日にはさっそく、数人の刑事がタナカ宅にやってきた。和男は「何も知らない」で通したが、すでに小野夫婦も事情聴取を受けたらしい。夫婦は別々に尋問され、うかつにも眞弓が松崎の車から薬きょうを見つけたことを話してしまった。「小野さんの奥さんは、松崎が青山さんを殺したんじゃないかって言ってましてね」「たとえ、そうであったとしても、松崎がやったことと私らは何の関係もありませんよ」「青山さんが邪魔になって、松崎に始末を依頼したということも考えられますのでね」「冗談じゃない。うちはただの運送屋です。青山を殺す理由なんてありませんよ」ここであらぬ疑いをかけられては大変だと思い、和男は頑強に松崎との関係を否定した。
一方、警察は松崎の車のトランクから押収したスコップや長靴に付着した泥を採取し、その土が多摩川の河川敷のものであることを突き止めた。また、聞き込みの結果、松崎が青山を車に乗せたことも分かり、警察は松崎が青山を殺害して死体を埋めたものと判断し、多摩川の河川敷で大規模な捜索を開始した。青山の射殺死体は、河川敷の土中から発見された。死体は腐乱していたが、歯形やDNAから青山本人のものと確認された。青山の生存を信じていた家族は、その死に悲嘆した。松崎は被疑者死亡のまま書類送検された。
事件後、和男は会社を手放すことを決意した。7月の和田事件以降、売り上げは激減していたし、「いつかはこうなる運命だったんだな・・・」と思えば、ようやく肩の荷が下りたようなホッとした気持ちになれた。「結局、すべての黒幕は松崎だったんだな・・・」複雑怪奇な主導権争いが終わってみると、和男は、これまで小野夫婦が一番の元凶だと思っていたのだが、そうではなくて、松崎が和男の小野夫婦へ向ける疑いの心を巧みに利用し、小野夫婦を追い出して、会社の実権を掌握しようと企んでいたのだと分かった。もっと早く気付いていれば、あるいは違う結果になったかもしれない。だが、こうして振り返ってみると、中井も小野夫婦も松崎も青山も、「みんな欲をかきすぎたんだ。みんな身から出た錆だ。自業自得だ」と思う。会社の実権を握ろうと無益な争いを繰り返した挙げ句、結局はすべてを失う羽目になってしまったのだ。
和男とタナカは八王子の営業所へ出向いた。社員一同を集めた前で、和男が全員解雇を申し渡した。中井も小野夫婦も池澤も大澤も矢島も失業したのである。「社員を全員クビにするのは、これで二度目だよ・・・」和男がさびしげに笑って言った。「やり直すつもりはないんですか?」と眞弓。こうなることは覚悟していたようで、意外に落ち着いている。「ない。私もこんな年だし、もういい加減に疲れたよ。息子とふたりで食べていくには困らないだけの貯えもある」「今後はどうなさるおつもりですか?」「さあね。しばらくはブラブラして過ごすよ」「旅行とか行かれたらどうですか?」「女房が生きていれば、一緒にどこか温泉にでも行ったかもしれんが、今さらどこへも行く気がせんな。女房との思い出に浸りながら、ゆっくりと余生を過ごしたいもんだ・・・」「再婚されたらどうです?今は熟年離婚の時代ですよ。同年代のパートナーを探してみたらいかがです?きっと老後の生活が明るくなりますよ」「いや、私には信子しかおらんよ」「奥さんを愛されているんですね」「あいつは、信子は、私がこの世で唯一愛した女性だよ」和男は目にうっすらと涙を浮かべていた。信子は和男と別居し、中本と愛し合い、子どもまでつくってしまった。それでも和男は、そんな信子しか愛せなかった。誰からも愛されたことのない和男が、生涯でただひとり愛した相手なのである。「君たち夫婦はまだ若い。これからの人生だ。愛し合って、がんばって働いて、精一杯生きなさい」和男は小野夫婦の手をかたく握りしめて言った。
その帰り、和男はタナカが運転する車の中で言った。「これで、何もかも片付いたな」「もう会社のことで、あれこれ悩む必要はなくなったってわけだね」「もっと早く中井の不正に気付いて、松崎のような男を辞めさせていたら、と思うと、残念でならないな・・・」和男が大きなため息をついた。「まあ、それは結果論だよ。おれたちだって、やれるだけのことはやったわけだし」「これも運命なら仕方ないな・・・」和男は助手席に深くもたれかかった。「運命か・・・これでおれもやっと楽になれたが、人生、一寸先は闇って言うからな。何が起こるか分からない。でも、それだからこそ、人生は楽しいのかもしれないな・・・」そんなことをぼんやりと考えつつ、タナカは車を走らせていた。「おい、赤だぞ!赤!」和男が叫んで、ふと我に返ったとき、タナカは赤信号の交差点に突入していた。あわててブレーキを踏んだが、横から大型のトレーラーが猛スピードで突っ込んできて激突した。すさまじい衝撃を受け、車体が破壊される音を聞いたが、すぐに意識が遠のいた。
気がつくと、目の前に神様のような老人が立っている。「ここは?・・・」周りは白一色で何も見当たらない。「お前は死んだのだ。お前の父親も死んだ。お前たち親子は報いを受けねばならなかったのだ」と老人が言った。「死んだ?あの交通事故で?たった26年の生涯かよ?やっと楽になれたと思ったのに・・・」タナカは26年の人生を振り返ってみた。つらかったことしか思い浮かばない。ホモに犯されたり、女の子によってたかっていじめられたり、初めて手に入れた彼女の父親が自分を犯したホモだったり、自殺少女を救えなかったり・・・。そうした苦い記憶が走馬灯のように目の前を駆け巡った。一体、自分の人生とはなんだったのか。苦しみに耐え続け、ようやく行く手に一筋の光が見えてきたと思ったら、交通事故であっけなく他界してしまうとは。すると、老人が言った。 「それがお前の運命だったのだ。お前はお前の祖父が犯した罪を償わなければならなかった。 お前の祖父は戦争中、たくさんの日本人を殺し、強姦した。その報いでお前は日本のホモにレイプされ、日本の女の子にいじめられる運命だったのだ」 「そんな・・・」 「だが、お前は女の子にいじめられることによろこびを感じるようになってしまった。それでは罪を償ったことにはならない。 ゆえに、お前は彼女の自殺に凹んで引きこもり、母を失い、会社の揉め事に巻き込まれ、自動車事故で死ぬことになったのだ」 「彼女は、松尾礼子はなぜ、自殺しなければならなかったんです?」 「松尾礼子は先祖の罪だ。先祖が多くの農民を苦しめた罪で自殺したのだ」 「やっぱり・・・」 因果応報は本当なのだな、と思った。 松尾礼子の先祖は、農民から過酷な年貢の取り立てを行なった松尾肥前守だという。 「じゃあ、オヤジは?」 「先祖の犯した罪の償いだ。一生苦労し続けたのはそのせいだ」 仲間を裏切り、領主の松尾家から土地をもらったのがタナカの先祖・伝助である。 まことに不思議な因縁だといわざるを得ない。 「母さんも?でも、なんで関係のないおれたちが?その祖父には他に子どもはいなかったんですか?」 「いた。その子も報いを受けた。父の犯した罪の報いで死んでいったのだ・・・」 そう言うと、タナカの目の前に見たこともない光景が浮かんできた。 話は23年前の旧ソ連に飛ぶ。
1983年10月。 ソ連海軍北方艦隊のアンドレイ・ボロトニコフ大佐はモスクワの自宅を出た。「マーサ、行ってくるよ」「あなたの無事を祈ってるわ」ボロトニコフは妻のマーサと別れのキスを交わし、「アンナ、お父さんが帰ってくるまでいい子でいるんだよ」と9歳の娘アンナを抱きしめて言った。「パパ、早く帰ってきてね」「ああ、年末は家族みんなで過ごせるさ」彼はまだ、我が身を待ち受ける過酷な運命を知る由もなかった。
ボロトニコフは海軍のエリートだった。愛する家族がいて、出世も約束されている。彼の父親は第二次大戦中、ナチスと戦い、日本の関東軍とも戦って、かなりの手柄を立てた。軍服の胸に勲章をいっぱいぶら下げていた陸軍出身の父は、「ソ連をファシストから救った英雄」と讃えられ、その息子であるボロトニコフは周囲の期待を一身に背負って育った。優秀なボロトニコフは、海軍に配属され、順調に出世の道を歩んだ。そして今回も、原子力潜水艦の艦長として、厳しい訓練を指揮することになったのである。
コラ半島ガジィエヴォ海軍基地。ここの埠頭にボロトニコフが乗ることになる「K-427」という原潜が係留されていた。1968年3月に就航した(艦番号512、プロジェクト667A-ヤンキーⅠ級)。ちなみに「ヤンキー級」という呼び名は西側が勝手につけたもので、ソ連では「ナヴァガ級」あるいは「ナリム級」と呼ばれていた。16発の核ミサイルを搭載し、水中から発射することが可能だ。今回、ボロトニコフに与えられた任務は、「核ミサイルを常に発射可能な状態に保ちつつ、アメリカ東海岸をパトロールすること」であった。要するに、アメリカとの核戦争を想定した訓練である。だが、出航前にK-427の状態を点検したボロトニコフは、「とても出航できる状態ではない」と判断し、モスクワの海軍司令部に出航延期を申し出た。就航年数15年を迎えたK-427は、あちこちボロボロだったのである。2基ある原子炉のひとつは、燃料棒の交換に失敗して破損し、すでに閉鎖されていた。残る1基の原子炉も冷却水パイプに亀裂が生じ、水漏れの危険があったが、海軍上層部はボロトニコフの報告を無視し、強引に出航命令を出した。
10月3日、K-427は128名の乗組員を乗せ、カジィエヴォ基地を出発した。副長はミハイル・ブハーリン中佐である。K-427はグリーンランド沖の北大西洋に出ると、様々なテスト運転を行なった。そのひとつに「急速潜航と緊急浮上の訓練」があった。一気に水深300メートルまで潜り、そこから一気に海面に浮上するのである。ボロボロの老朽艦がどこまで耐えられるかを試すのは、「乗組員の命を危険にさらすこと」でもあったが、訓練を予定通りにこなさなければ、「乗組員全体の評価が下がってしまう」ことにもなる。
「潜航角度4、潜航速度20、最大深度まで潜航」ボロトニコフの命令をブハーリンが復唱する。命令はただちに乗組員に伝達され、艦体は大きなうなりを上げて傾いた。ほとんど沈没に近いスピードでK-427は潜航していった。水深計の針がぐんぐん下がっていく。「まもなく危険水域に入ります」とブハーリンが報告した。水深230メートルを超えると、すさまじい水圧で艦体が不気味なきしみ音を立て始めた。「240・・・250・・・260・・・270・・・」針が280メートルを示したとき、恐れていたことが起こった。艦体の一部が水圧で凹んだのだ。水圧は頑丈な耐圧隔壁に亀裂を生じさせ、そこからドッと海水があふれ出した。「第7区画で浸水!」怒号が飛び、乗組員たちがずぶ濡れになりながら、浸水を食い止めようと躍起になった。「緊急浮上しろ!」バラストタンクにありったけの圧縮空気が吹き込まれ、K-427は荒涼たる北大西洋の海上に躍り出た。
10月28日、出航から26日目。K-427はカナダ・ノバスコシア半島セーブル岬の沖600マイルのところにいた。3日前の25日には、アメリカ軍がカリブ海の小国グレナダに侵攻した。ソ連とキューバが支援するグレナダの反米政権を倒すためである。当時のアメリカ大統領ロナルド・レーガンは強硬な保守派で、「冷戦を終わらせるには、アメリカが徹底的に軍拡して、ソ連をへたばらせるしかない」という戦略を持っていたから、米ソ関係は一触即発の状態だったのである。
その日の夜、ボロトニコフはアレクセイ・クラフチェンコ機関長から報告を受けた。「原子炉の炉心温度が上昇しています。冷却水が漏れていると思われます」調べた結果、蒸気をタービンに送るパイプの接合部分が破損し、そこから冷却水が漏れていることが分かった。出航前の点検で危険とされた箇所だが、艦体に負担をかけすぎたため、亀裂が広がってしまったのだろう。「このままでは数時間で冷却水が失われ、メルトダウン(炉心熔解)の危険があります」ボロトニコフの表情が曇った。冷却水がなくなれば、原子炉は空だき状態になり、やがて核燃料がドロドロに融け出し、原子炉の耐圧隔壁を破って海水と接触、すさまじい水蒸気爆発を引き起こしてしまうだろう。それだけではない。爆発の衝撃で機械が誤作動し、搭載されている16発のRSM-25核ミサイルが発射されてしまうことも考えられる。ミサイルの照準はニューヨーク、ワシントンなど、アメリカの各主要都市に合わせられている。もし、ミサイルが発射されれば、わずか10分足らずでアメリカ東海岸一帯は火の海と化すだろう。米ソ関係は最悪の時期だ。レーガンはただちにソ連に核報復攻撃に出る。そうなれば、あっという間に米ソの全面戦争に発展し、世界は破滅する。
ボロトニコフはブハーリンとクラフチェンコを司令室に集め、対策を練った。「ここのパイプを切断し、タンクの真水を原子炉に入れましょう」クラフチェンコが原子炉の設計図を示しながら言った。高温状態の原子炉を冷やすため、応急の冷却措置として、原子炉にパイプをつなぎ合わせ、水を送り込むのだ。「原子炉につなぐパイプはどうする?」「魚雷を分解しましょう。あれをパイプ代わりにするのです」「よし、それでいこう」
ブハーリンはクラフチェンコとともに原子炉区画へ急いだ。だが、防護服が保管されているロッカーの扉を開けてみて、ブハーリンの顔色が変わった。荒っぽく扉を開け閉めし、薄っぺらの防護服をクラフチェンコに叩きつけて怒鳴った。「放射能防護服が一着もないとは一体どういうことだ?」クラフチェンコは禿げ上がった頭に脂汗を浮かべた。「よく見ろ。これは化学防護服だ!」「き、気がつきませんでした」「出航前にちゃんと確認したのか?」「いえ、確認しませんでした」クラフチェンコは顔面蒼白で苦しい言い訳に終始した。「乗組員は経験不足の者が多いので、間違いに気付かなかったのかもしれません」「そんなことはどうでもいい。問題は、この服では放射能は防げないということだ・・・」ブハーリンは左手で顔を覆い、大きなため息をついた。
ただちに技術士官と下士官の8人の乗組員が集められた。「2人一組で原子炉に入れ。10分たったら交替しろ」まだあどけなさの残る2人が、防護服を着て、ガスマスクをかぶり、手袋をはめた。彼らには防護服が何の意味もなさないことは伝えなかった。ブハーリンは2人の肩をつかみ、2人の顔を交互に見据えて言った。「いいか、中に入ったら、何も考えるな。いいな?」2人は黙ってうなずいた。「よし、ハッチを開けろ」原子炉室のハッチが重々しい音を立てて開いた。途端に放射線量計の針が跳ね上がる。2人の作業員は青白い核の炎が燃える原子炉へゆっくりと近付いた。ガスバーナーに点火し、1人が保護板を顔に当てた。原子炉のパイプの一部を切断すると、放射能を含んだ水がドッとあふれ出した。
10分たった。ハッチが開くと、2人の作業員は這うようにして出てきて、その場に倒れた。「おい、しっかりしろ!」「みんな手を貸せ!」乗組員たちがマスクを外してやると、2人とも苦しそうに咳き込み、嘔吐した。「よし、医務室へ連れていけ!」2人は顔にひどい火傷を負い、抱えられるようにして運ばれていく。それを見ていたレオニドという機関兵が恐怖に震えだした。「おい、次はお前の番だぞ!早くしろ!」と言われると、耐え切れなくなったのか、急に大声でわめいて逃げ出した。「うわああああっ!嫌だあっ!こんなとこで死にたくなあいっ!」「おいっ!待てっ!どこへ行くんだ!戻れ!」「レオニド!戻ってこい!」あわてて同僚たちが追ったが、レオニドは狭い通路を突っ走り、ハシゴをよじ登り、脱出用のハッチを開けた。「よせ!レオニド!何をするんだ!正気か!」仲間が止めるのも聞かず、レオニドはハッチを閉めてしまった。「レオニド!戻れ!」「おい、よせ!ハッチを開けるな!」「放してくれえっ!レオニドを見捨てられるかあっ!」同僚が狂ったように叫ぶのを上官が必死に止める。潜航中のK-427の後部ハッチが開き、レオニドは水中に飛び出した。月明かりに照らされた水面を目指してもがいたが、途中で力尽き、口から泡を吐いて動かなくなった。レオニドの水死体は暗い海の闇に吸い込まれていった。
原子炉室では決死の作業が続いていた。作業員たちは大量の放射能を浴びながら黙々と作業を続けた。破損したパイプは溶接され、パイプ代わりの魚雷が原子炉に接合された。作業員がハンドルを回すと、タンクから大量の冷却水が原子炉に注入された。クラフチェンコが司令室に報告する。「炉心温度が下がり始めました。900・・・880・・・850・・・メルトダウンは回避されました!」
ボロトニコフは医務室のベッドに寝ている乗組員たちを見舞った。原子炉から戻ってきたばかりの作業員の服を脱がせ、軍医がシャツをハサミで切り裂く。彼は震えながら耐えていたが、背中といい、腕といい、胸といい、もはや手当ての余地もないくらいの火傷を負っている。皮膚はケロイド状に爛れ、包帯を巻くと、すぐに血と体液がにじみ出した。「よくやった。すぐに治る。ゆっくり休みたまえ」と乗組員たちを元気付けてやってから、ボロトニコフはそっと軍医に訊ねた。「数値は?」軍医は青ざめた顔で言った。「線量計の針が振り切れるほどです。長くは保たんでしょう」「飲料水と食糧が汚染されていないか調べろ」と軍医に命じてから、ブハーリンを呼んだ。「乗組員をできるだけ放射能から遠ざけろ。それから、乗組員にアルコールを与えろ」「ウオトカですか?」「アルコールは放射能に効くそうだ。任務に支障が出ない程度に飲ませろ」「分かりました」
余談だが、アルコールが放射能に対して有効なのは事実である。放射能を浴びると、人間の体内には「フリーラジカル」という物質が発生し、これが細胞を破壊する。アルコールにはフリーラジカルを分解する働きがあり、したがって被ばく前にアルコールを摂取すると、放射能の害をある程度防ぐことができるのだ。ちなみに成人男性がアルコールで放射能を防ぐには、日本酒で二升、度数50%のウオトカなら1リットルは飲まなければならない。いくら大酒のみでも一度にこんなに飲んだら、たとえ放射能は防げても、血ヘドを吐いて死んでしまうだろう。ま、酒に強いロシア人なら飲めそうなものだが・・・。この時、ボロトニコフが乗組員に与えたアルコールの量は不明だが、「任務に支障が出ない程度」なのだから、気休め程度の効果しかなかっただろう。ちなみに言うと、ロシアでは「ウォッカ」は「ウオトカ」と発音する。10月29日、出航から27日目。クラフチェンコから司令室に緊急の連絡が入った。「配管が破断しました!炉心温度が上昇中!」修理した冷却水パイプだが、溶接が不十分だったとみえ、再び水漏れが始まったのだ。すぐにコズロフという機関兵が、何の役にも立たない防護服を着け、原子炉に入った。コズロフは顔に保護板を当て、壊れた配管に近寄り、アーク溶接を始めた。放射能を含む蒸気を浴びながら作業を続けるうち、全身が震え、溶接棒を握る手もガタガタと震えだした。やむなく、コズロフは左手に持っていた保護板を捨て、両手で溶接棒を握りしめて作業を続けた。
ボロトニコフは原子炉区画へ急いだ。原子炉をのぞく小窓から中の様子をうかがったが、コズロフの姿は見えない。原子炉に通じるハッチの前にはクラフチェンコが立っていた。「遅いぞ。何分入っているんだ?」クラフチェンコは時計を見て答えた。「17分です」その言葉が終わるか終わらないかのうちに、ボロトニコフはハッチを開けていた。「艦長、危険です!」クラフチェンコが止めるのも聞かず、ボロトニコフは防護服も着けずに原子炉に飛び込んだ。床一面に冷却水が溜まっていて、その中に座り込むようにしてコズロフが倒れているのを見つけた。ガスマスクまで外し、苦しくなって吐いたのか、口の周りを吐しゃ物で汚している。「しっかりしろ!今、助けてやる」ボロトニコフは水しぶきを上げて、コズロフを抱き起こしたが、苦しそうにあえいでいる。彼の命も長くはないことは見て取れた。コズロフを後ろから抱き上げるようにして、ハッチまで引きずっていった。片手でハッチを叩くと、クラフチェンコが顔をのぞかせ、慌ててコズロフを外に運び出した。「艦長、戻ってください!」ボロトニコフが再び、原子炉へ向かうのを見て、クラフチェンコが叫んだが、「ハッチを閉めろ」と命じた。まだ水漏れは止まっていないのだ。ボロトニコフは蒸気が噴き出しているパイプに近付き、溶接棒を拾い上げた。
そこは放射能と有毒ガスが渦巻く、摂氏80℃の地獄である。込み上げてくる吐き気や全身の倦怠感と闘いつつ、ボロトニコフは溶接を始めた。おびただしい量の放射線が体中の細胞を容赦なく破壊していく。ボロトニコフの脳裏に妻マーサと一人娘アンナの笑顔が浮かんだ。水漏れを止められず、原子炉が爆発し、核ミサイルが発射されたら、米ソの核戦争が始まるだろう。愛する妻子の住むモスクワにも、西側から核ミサイルが撃ち込まれ、妻子の笑顔も灰と消えてしまうのだ。「死なせん・・・死なせんぞ・・・お前たちだけは死なせんぞ・・・」ボロトニコフの頭の中には、もはや愛すべき祖国や軍部、共産党のことなどなかった。ただ、自分の家族と部下を救ってやりたい。その一念だけが彼を突き動かしていたのである。
「艦長!」ブハーリンとクラフチェンコが防護服を着けずに飛び込んできた。ボロトニコフは溶接の強烈な光線で目をやられ、疲れ果てて原子炉にもたれかかるようにしていた。「艦長、しっかりしてください!」ふたりに抱き起こされ、ブハーリンがボロトニコフの耳元に口を寄せて、大声で言った。「艦長、炉心温度が下がり始めました!我々は助かったのです!」その声をどこか遠くで聞いたように思ったが、ボロトニコフは、「も、もう大丈夫だ・・・」とマーサやアンナに言い聞かせるようにつぶやいた。その後。K-427はガジィエヴォ海軍基地に帰還した。原子炉に入った乗組員は、放射能の大量被ばくにより全員死亡した。なお、核戦争の危機からソ連を救って死んだボロトニコフに対しては、「実戦での犠牲者ではない」ことを理由に、何の恩賞も与えられることはなかった。
長い物語だった。物語が終わる頃には、タナカもボロトニコフが信子の母を強姦したソ連兵の息子だったということに気付いていた。「じゃあ、ボロトニコフは父が犯した罪を償うため、核戦争から世界を救って死んだってわけですか?」「そうだ。そして、お前の母とお前も罪を背負い、報いを受けて、死んだのだ」「それで罪は償えたんですか?」「お前の祖父の犯した罪は大きいからな。孫の代まで罪が及んだのだ」「妹は?愛実は?愛実も罪を背負って不幸な人生を送るのですか?」タナカはこの世に残していくたったひとりの妹の人生を思いやった。愛実だけは幸せになってもらいたい。実の父と母を失い、育ての父と兄まで亡くしてしまったのだ。愛実はこれからひとりぼっちで生きていかねばならない。「お前の妹は、父と兄を亡くしたことで悲しむことになるが、それで終わりだ」「終わりってことは、妹は幸せに生きていけるってことですか?」「うむ。お前の父と母も、来世で再会を果たし、幸福な人生を送れるだろう。お前もな・・・」「よかった・・・これで償いは終わったんだ・・・よかった・・・本当によかった・・・」タナカは白い光に包まれていった。これから来世に生まれ変わるのだ。この次はどのような人生が待っているのだろうか。タナカは来世の自分を想像してみた。「できることなら、ブラジルあたりの大金持ちに生まれたいな。日本の小金持ちなんかに生まれても、一生苦労して、税金を取られるだけだ。ブラジルの途方もない大金持ちに生まれれば、一生苦労することもないし、遊んで暮らせる。いや・・・」そこで思い直した。「そんなデカイ幸せよりも、普通に遊んで、恋愛して、結婚して、家庭を持って、普通に暮らしていける普通の人生がいいな。普通すぎる、当たり前すぎるくらいの幸せがほしいな・・・」次の人生は平凡に生きたい。もう、誰かにいじめられることもなければ、誰かをいじめることもない。これといった才能もないかわりに、これといった欠点もない。普通に生きて、普通に死んでいくのだ。タナカ・ガブリエル・カズヒコは罪を償った。すべては清算された。たった26年の人生だったが、「おれは幸せだった」と心から思えるのである。「次の人生は、もっともっと長生きして、もっともっと幸せになってやる・・・」そんなことを考えているうちに、タナカの意識は遠のいていった。
終わり