土曜日, 2月 17, 2007

誰も知らない

誰も知らない
1999年の夏、長沼寛人と山田陽介の二人は、大学の夏休みを利用して、南米大陸をヒッチハイクで縦断するという冒険旅行に出かけた。ふたりとも、高校の同級生で、大学は別々だったが、山田の方は大学でスペイン語を勉強していて、長沼は将来ジャーナリストになりたいという夢に向かって勉強していた。そんなふたりが今回、無謀ともいえる旅に両親の反対を押し切ってまで出発した理由は、「20世紀最後の夏を有意義なものにしたい!」ということと、数年前、某テレビ番組で無名のお笑い芸人コンビが同じ企画をやっていたのを見て、「おれたちもやってみたい!」と思ったことだった。「どうせ大学を卒業して社会に出たら、こんなことも経験できないんだ。今のうちにいろんなことを体験して、人生の幅を広げておきたいんだよ」と長沼は旅行計画に大反対の両親を説き伏せ、「帰ってきたら、バイトでも何でもして必ず返すからさあ・・・」と粘って、OLとして働いている姉から旅行資金を借りた。
「ヤマさんとこはどうだった?」成田からアメリカへ向かう飛行機の中で、山田に聞いてみると、「うちはオヤジが単身赴任で滅多に家に帰ってこないしね。オヤジが知ったら猛反対するだろうけど、うちはオカンが理解あってね。おかげでバイクも乗れたし、何でも好きにさせてくれるよ」「いいなあ、ヤマさんとこは理解があって・・・」長沼はうらやましそうに言った。「うちのヨースケちゃんはね、親思いの優しい子でね、お勉強も出来るし、バイトも頑張るし、小さい頃から全然手がかからなくって、本当にいい子なんですよお・・・」高校の頃、山田の家に遊びに行ったとき、山田の母親が誇らしげに自慢するのを聞いたことがある。「かわいい子には旅をさせよって、ね。旅行資金も出してくれたよ」山田は天然パーマの頭をゴシゴシこすりながら言った。「いいなあ、いいなあ、おれもヤマさんとこに生まれたかったなあ・・・」つくづく長沼はそう思った。
長沼と山田は、アメリカ経由でまず、出発地となる南米最南端のチリへ向かった。首都サンティアゴからさらに南のプエルトモントという町へ向かい、ここからヒッチハイクで南米を縦断しようというのだ。「いよいよだね、ヤマさん」「いよいよだね、ナガヌマちゃん」ふたりは段ボールの板にマジックで行き先を記して、道路脇に立った。
旅は順調に始まった。トラックや自家用車に乗せてもらい、夜は出来るだけ安い宿に泊まりながら、ふたりはチリからボリビア、ペルー、エクアドルと国境を越えた。ボリビアではアンデスの高地で酸素欠乏に苦しみ、ペルーのリマでは警官に「偽札を持ってるな」と絡まれ、危うく金を取られそうになったり、エクアドルではヒッチハイクした車の運ちゃんがキチガイで、スピードを出しすぎ、山道でカーブを曲がりそこね、車ごと引っ繰り返ったりと、アクシデントの連続だったが、スペイン語が話せる山田のおかげで、何とか切り抜けることが出来た。「ヤマさんのおかげだよ。ここまで来れたのも」「なんの。おれだってナガヌマちゃんがいなかったら、張り合いがなかったろうよ」「次はコロンビアか・・・いよいよ旅も終盤に近付いたね」「そうだね。もう一息だ。がんばろう」エクアドルで事故ったとき、長沼はひじとひざを思いっきりぶつけ、山田は首を痛めたのかしきりに首をさすっていた。「ヤマさん大丈夫?」「なんの。これくらい、どうってことないさ」あちこちに擦り傷をこしらえ、持ってきたバンドエイドは使い果たしていたが、山田は強気に言った。「この傷は、おれたちの勲章だよ。痛みも、いい思い出になるさ・・・」
「うおーっ!コロンビアだーっ!」エクアドルとコロンビアの国境を、長沼は走って飛び越えた。「コロンビアやばそうだね」「なーに、日本が平和すぎるだけだよ」「それもそうだね」
国境を越えてから、ふたりは、ヒッチハイクを始めた。トラックが走ってきたので、ふたりは夢中で追いかけ、停めさせた。「ボゴタまで行けるかい?」「ボゴタには行かないよ。メデジンまでなら乗せてやってもいいよ」「オーケー!」ふたりは喜んで、乗せてもらった。
「お前たち、どこへ行くんだい?」トラックの運転手は気さくに話しかけてきた。名前は「チコ」というらしい。「おれたち、日本から来たんだ。南米を縦断するんだよ、ヒッチハイクで」「そりゃあ大変だなあ」チコは笑った。長沼は、運転席の日よけに挟まれたエロ本を見つけた。「うおおおっ!こりゃすげえや!」長沼は興奮して叫んだ。「ヤマさん、これ見てみろよ!」「おいおい、よせよ、そんなの」山田は苦笑した。長沼が言った。「おれ、ずーっと抜いてないんだ。今夜はこれで抜くぞ!」「そんなこと言っちゃっていいのかよ?」「日本語分かんないだろ」「ゲラゲラ笑ってるところを見ると、分かってると思うぞ?」「分かってくれるさ!そのくらい!」
トラックはアンデスの緑美しい山道を走っていく。と、急に停まった。「検問だ!」チコが叫んだ。前方に車列が並び、軍の車両が何台も停まって検問をしているのが見えた。「やべっ!これ隠さなきゃ!」長沼は慌ててエロ本を元に戻した。「なーに、平気さ。見つかっても」山田は冷静だった。軍服姿の兵士が近寄ってきて、運転席をのぞき込んだ。「お前たちは何者だ?どこから来た?」「おれたちは日本人だよ。ヒッチハイクで南米を縦断するんだ」と山田が説明した。「旅行に来たのか?危険だぞ。ゲリラが獲物を狙ってるからな」「ゲリラ?」「ああ、お前たちのような外国人はゲリラに狙われる。高く売れると思ってるからな」そう言われるとちょっと不安になったが、「なーに、うちは金なんかないから大丈夫だよ」と言って、長沼が笑った。その瞬間、ズドーンというものすごい爆発音が腹に響いた。「ゲリラだ!」左側の山の斜面から草むらに隠れていたゲリラ部隊が襲いかかってきた。映画でしか見たことのない銃撃戦が目の前で本当に始まり、トラックのフロントガラスに弾が当たってクモの巣状のヒビが走った。「ひいいぃっ・・・」恐怖とはこのことか、と長沼は思った。体がすくんで何もできない。耳を押さえてうずくまっていると、「逃げろ!早くしないと殺されるぞ!」
チコに押されて長沼と山田はトラックから飛び降りて荷台の陰に隠れた。「お前たちは日本人だ!奴らに捕まったら、生きて帰れないぞ!」とチコが叫ぶ。「な、なんだって?なんで帰れないんだ?」「おれは金を持ってない!捕まれば殺される!逃げるなら今のうちだぞ!」「あっ、チコ!どこ行くんだ?危ないぞ!戻れ!」長沼が呼び戻そうとしたが、チコは銃弾をかいくぐって逃げ出そうと走り出した。次の瞬間、ゲリラ兵が逃げるチコに銃弾を浴びせた。「チコ!・・・」血しぶきを上げて道路に倒れたチコはもう動かない。「そ、そんな・・・死んだ・・・」人が殺されるのを見たのは生まれて初めてだ。言葉を失って震えていると、「こっちに来い!こっちだ!逃げたら撃つぞ!早くしろ!」ゲリラたちに引き立てられて、長沼と山田は他の車やバスの乗客とともにゲリラのトラックに押し込まれた。「撤収するぞ!」ゲリラ兵が軍のジープやトラックに手榴弾を投げ込んで爆破する。ほとんどの兵士がゲリラの襲撃で殺されてしまったようだ。道路のあちこちに死体が転がり、流れ出た血が生々しい。トラックが走り出した。まだ信じられなかった。自分たちがゲリラの大量誘拐に巻き込まれてしまったことを。「ああ・・・これから、おれたちはどうなるんだろう?」頭の中は不安で一杯だった。トラックは激しく揺れながら山の奥へ奥へと進んでいく。
どのくらい走っただろうか。ようやく、ゲリラのキャンプらしいところにたどり着いたとき、ほとんど日が暮れていた。「こっちだ!こっちに来い!もたもたするな!」ゲリラに怒鳴りつけられ、長沼と山田は、他の人質たちとともにゲリラの司令官らしい男のいる小屋まで連れて行かれた。「お前たちは何人だ?」順番が来ると、国籍を訊かれた。日本人と答えるのは嫌だったが、黙ってパスポートを差し出した。「お前たちは日本人か?」鋭い目つきをした司令官に問われて、そうだと答えると、「お前たちには人質になってもらう」司令官の言葉を山田が日本語に訳して長沼に伝え、長沼の言葉を山田がスペイン語で伝える。「人質?冗談じゃない。何の目的だ?」「お前たち日本人は金持ちだ。お前たちを人質にすれば、高く売れるだろう」「身代金を取ろうって言うのか?うちはそんなに金なんか持ってないぞ」「お前たちの家族に払わせるんじゃない。お前たちの国の政府に払わせるのだ」「日本政府に身代金を要求するのか?おれたちのために、払うわけないじゃないか」「いや、払うさ。日本政府は身代金を払う」「どうして、そんなことが言えるんだ?」「日本はアメリカと違って、人は出せない。金は出せるが人は出せない。金を出すしかないんだ」その言葉に、長沼は怒りを感じながらも、認めざるを得ないと思った。これがアメリカ政府なら、テロリストと交渉せず、すぐにでも特殊部隊を送り込み、人質の救出作戦をするだろう。しかし、日本政府にはそれが出来ない。憲法で、海外への派兵を禁じているし、それ以前に、何でも金で解決してしまおうとするだろう。テロリストたちは、そのことを知っているのだ。アメリカ人よりも警戒心が薄く、しかも金持ちで、政府は弱腰なのだ。「で、一体、いくら要求するつもりなんだ?」山田が冷静に尋ねた。司令官は薄笑いを浮かべ、「2億ドルだ。お前たち、ふたり合わせて2億。ひとりにつき1億だ」「に、2億ドルだって?!」
あまりの高さに、思わず長沼が叫んだ。「そんな大金、おれたちのために、政府が払うわけないじゃないか!」「払わせるさ。払うまでは解放しない。それだけのことだ」「クソッ!」長沼は絶望感に打ちのめされた。こんなところに来たことを、今更ながら、後悔した。親の反対を押し切ってまで、こんなことをしに来たのかと思うと、悔しくて涙が出た。「さあ、こっちに来い!早くしろ!」ゲリラ兵に引きずり出された。
連れて行かれたのは、豚小屋のような粗末な小屋だった。山田とともに入れられると、外から鍵をかけられた。どうにか立つことは出来るものの、動き回れないような狭さだ。もちろん電気もなければ水道もない。「おい!開けろ!おれたちをここから出せ!」長沼は戸を叩いて叫んだ。「無駄だよ、ナガヌマちゃん。じっとしておいたほうがいい・・・」山田はいつでも冷静だった。「くそっ・・・おれたち、これから、どうなるんだろう?」「なるようにしかならないさ」「2億ドルなんて、ふざけてる!払えるわけないよ!」「まあ、奴らだって、本当にそれだけ取れるとは思ってないだろうね。これから交渉して、徐々に金額を引き下げていくはずだ。要求額の10分の1でも取れれば、満足するんじゃないかな?」「それでも2千万ドルだよ。おれたちのために、本当に政府が20億円も出すと思う?」「政府は事なかれ主義だからね。払う可能性はあるね」山田が冷静に分析した。「ゲリラの目的は金だ。金が目的なら、おれたちを簡単には殺さないだろう」「でも、もし政府が要求を拒否したら?」「その時は殺すかもしれない。でも、ふたりなら、見せしめにどっちかひとりを殺して、脅すだろう」その言葉に、長沼は戦慄した。「どっちかって・・・まさか、おれが先じゃないよね?」山田は笑った。「ハハハ・・・そんなこと心配したって始まらないさ。今は生きることを考えなくちゃ」長沼は、いつも冷静に事態を見極める山田に感心した。「そうだね。さすがはヤマさん。おれと考えることが違うね」「人間は、生まれてきた以上、いつかは死ぬ。だから、死ぬことは考えちゃダメなんだよ。そんなことは考えたってどうしようもない。まず、生きることを考えるんだ」「生きることか・・・よし、生きよう。生きて日本に帰るんだ・・・」長沼は自分に言い聞かせることにした。
夜が更けた。長沼と山田は、疲れきっていたので、眠ることにした。しかし、むき出しの地面に、ベッドもなければ、毛布一枚ない。それでも我慢して、横になったが、壁の板と板の隙間から、やぶ蚊が入り込んでくる。疲れた肉体から、容赦なく血を吸い取っていく。かゆみと音で、一睡もできない。虫よけは持っていたが、所持品はすべて奪われてしまっていた。そのうえ、猛烈な空腹が襲ってきた。拉致されてから、水一滴、与えられていないのだ。「ヤマさん、起きてる?」たまらずに、長沼が言った。「起きてるよ」「腹減ったね」思わず腹が鳴った。この空腹を、どうにかしなければいけないと思った。「何か食わしてくれるよう頼んでみようか?」「ここはホテルじゃないんだ。頼んでもいいけど、ルームサービスは期待できそうにないね」
山田のジョークに、長沼も笑った。「そうだね。ルームサービスの時間も終わっちゃったみたいだしね」「とにかく、朝まで待とう。奴らだって、殺す気がないなら、何とかしてくれるだろう・・・」「おやすみ、ヤマさん」「おやすみ」蚊や空腹と闘いながら、いつしか、長沼は睡魔にのみ込まれていった。
夜が明けた。「起きろ!これから出発だ!」ゲリラに叩き起こされた。「どこへ行くんだ?」ゲリラは答えない。「早くしろ!殺されたいのか?」「ちょ、ちょっと待ってくれ!おれたちは、昨日から何も食べてないんだ!」「それがどうした?」「何か食わせてくれ!腹が減って死にそうだ!」「死んだら、腹も減らないだろう?」ゲリラはニヤニヤ笑いながら、銃を向けてきた。「この野郎・・・」長沼は怒りを抑え、ふらふらと立ち上がった。
3日間の旅が始まった。長沼と山田は、ゲリラに履いていた靴まで奪われ、腕時計も外された。逃げられないよう、裸足にさせたのだろう。ゲリラに連れられて、ふたりは、山を下った。昼になった。空腹と疲労が重なり、限界だった。めまいがした。吐き気も込み上げた。ついに、長沼は動けなくなり、その場に倒れこんだ。「おい!起きろ!死にたいのか!」「もうダメだ・・・もう歩けない・・・」ゲリラが言った。「いいことを教えてやろう。この辺は毒グモや毒ヘビがウヨウヨしてるんだ。そんなところで寝ていると、噛み付かれてあの世へ行けるぞ。それがいいと言うなら、死ぬまでそこで寝ていろ」「毒グモ?毒ヘビ?」長沼は慌てて起き上がった。ゲリラがせせら笑った。「ハハハッ!冗談だよ」長沼は弱々しく歩き始めた。もう怒ったり考えたりする気力もなくなっていた。
どのくらい歩いただろうか。気がつくと、どこかの村にいた。ゲリラの支配下にあるのだろう。銃を持ったゲリラが入ってきても、村人は怖がる様子もない。ただ、見慣れない長沼と山田に、村人たちの視線が集まった。「ここだ!お前たちは今夜、ここで寝るのだ!」長沼と山田は、また家畜小屋のようなところに押し込まれた。そこで初めて、食事らしい食事が与えられた。アルミの皿に盛られたジャガイモのスープだった。ふたりとも、夢中になってかき込んだ。ダシも何もない薄い塩味のスープだったが、あっという間に平らげてしまった。これだけではとても、空腹は満たせなかった。「おかわりを要求しようか?」「いや、空腹時にあんまりたくさん食べると、体に良くないんだ。これで我慢しておこう」「そうだね。ヤマさんは偉いなあ。いつも理性が働いて。おれも見習わないとなあ」食事が済むと、睡魔が襲ってきた。他にやることもないので、ふたりとも眠った。
夜明けとともに、ゲリラに叩き起こされ、村を後にした。自分たちがどこにいるのか、どこへ連れて行かれようとしているのか、まったく知らないし、教えてくれるわけもなかった。ただ、山を下っていくにつれて、湿度と気温も上がり、じめじめと蒸し暑くなってきた。そこはもう、コロンビア政府の支配も及ばない、南部の広大なジャングル地帯だ。政府軍と何十年も戦争を続ける共産ゲリラ・コロンビア革命軍(FARC)の本拠地である。キャンプを転々とし、4日目に、ふたりは、FARCの基地にたどり着いた。
長い長い人質生活の始まりだった。長沼と山田は、同じ小屋に監禁された。ここも立って歩けないくらい狭くて、むき出しの地面にそのまま寝かされた。「ここはもう、人間の住める場所じゃないな・・・」と長沼は思った。まるで家畜のような扱いである。「奴ら、人質をモノとしか見てないんだろうね。いくらでも取り替えのきくモノでしかない」と山田。食事は与えられたが、来る日も来る日も薄いスープばかり。たまにパンと肉が与えられたが、どっちもかたくて、とても食えたものではなかった。
「あいつら、もう政府に要求はしたのかな?おれたちのこと、日本でニュースになってるかな?」「さあ、どうだろうね。テレビも新聞もラジオもないしなあ」「日本じゃ今ごろ、みんな心配してるだろうなあ・・・」長沼は、日本の家族のことを思い出して、泣きたくなってきた。日本にいれば、クーラーのきいた涼しい部屋で、よく冷えたビールを飲める。そうした平和な暮らしを捨てて、わざわざこんなところまで来たことに、一体何の価値があるのか?「ああ、おれはバカだった・・・父さん母さんを怒らせて、姉さんから金を借りてまで、こんなところに来るんじゃなかった・・・本当におれはバカだ。ヤマさんまで巻き込んで・・・」今回の旅行を計画したのは、長沼である。こうなったのは、すべて自分の責任だと思った。「ヤマさん、ホントにごめん。こんなことになったのも、おれの責任だよ」「いいって。気にするな。それよりも、何とかして、ここから帰ることを考えよう」「そうだね。ホント、ヤマさんはいい奴だよ。おれは幸せものだ・・・」長沼はあふれてくる涙を止めることができなかった。
1週間たった。「出ろ。こっちに来い」ふたりとも、連れ出された。連れていかれた小屋には、ビデオカメラが置かれていた。「そこで演技しろ。命乞いをするんだ」ひげを生やしたゲリラの司令官が命じた。「金を払わなければ殺されます、と言え」ふたりは、カメラの前で、同じことを言わされた。「小渕さん、彼らは身代金として、2億ドルを要求しています。払わなければ、僕たちを殺すと言っています。お願いです。僕たちを助けてください。お願いします・・・」「感情が足りん。もっと感情を込めて言え」「お願いです!小渕さん!僕たちを助けてください!お願いです!まだ死にたくありません!」「まあ、いいだろう・・・」テープは日本大使館に送りつけるらしい。果たして、日本政府は要求をのむだろうか?「難しいね。何といっても高すぎる」「これから値切り交渉が始まるわけか。どのくらいかかるんだろう?」「分からないけど、何年もかかるんじゃないかな?」「何年も?これから何年もこんなところに閉じ込められるのか?」ウソだろ、と長沼は思った。解放までに何年もかかると思うと、げんなりしてしまった。
拉致されてから、1ヵ月たった。政府との交渉は、どのくらい進んでいるのか。狭い小屋に監禁され、空腹を抱えながら、じっと解放を待つしかないのだ。「ああ、体がかゆいなあ・・・」もうずっと風呂に入っていない。髪もひげも伸び放題だ。「せめて、水浴びぐらいできないもんかなあ・・・」「交渉してみようか?」スペイン語の堪能な山田が、見張りのゲリラ兵と交渉してくれた。「おれに言ってもダメだ。司令官に言え」「司令官に取り次いでくれ」
数日後、ようやく、水浴びが許された。久しぶりに小屋から出されると、太陽がまぶしかった。近くを流れる小川まで連れて行かれた。「うほーっ!つめてえーっ!気持ちいいぞおーっ!」長沼は服のまま川に飛び込んだ。冷たい川の水が、心地よく肌にしみた。体を洗い、服も洗濯した。「ヤマさん、やせたね」「ナガヌマちゃんも。ろくなもの食ってないからなあ・・・」お互いに裸体を眺めながら、肉の落ちた腕をさすった。
「なあ、着替えは?」パンツ一枚になって、着ていたものを洗濯してから、長沼が言った。「着替え?そんなものない」とゲリラ兵。「やれやれ、着替えもないのかよ・・・」仕方なく、濡れたままの服を着る。「毎日、体を洗って、着替えもしてるおれたちって、ものすごくゼイタクなのかもな・・・」と思った。
その夜。「ねえ、あの女の子、かわいくない?」「誰?」「ほら、おれたちが水浴びしてるとき、見張りの中にいたじゃん。あの娘だよ」「ああ、あの娘ね」「おれ、思わずチンコが起っちまったよ!」長沼が興奮して言った。「何て言うんだろうね?あの娘は」「今度、名前聞いてみようか?ついでに電話番号も・・・」「おいおい、ここは日本じゃないんだぜ」「そうだったよな・・・ちくしょう、あんな娘と一発やりてーなー!」「世界3C美人国というのがあってね、コスタリカ、コロンビア、チリの頭を取って3C。この国は確かに美人が多いね」「おれ、ああいう娘と一発やれたら、ここで死んでもいいよ」「ジャーナリストの夢はどうするんだ?」「あきらめるよ」「あきらめが早いな」「ピチピチのコロンビア娘を連れて帰るよ」「言うことがオヤジっぽいな」「確かに・・・」「ま、口説いてみるのもいいね。オーケーなら、日本に連れて帰れるかもよ?」山田が慰めるように言った。
交渉は難航しているようだった。ゲリラから、手紙を書くために、ノートが与えられた。「日本の家族に書け。早く助けてくれと書くんだ」家族を揺さぶって、政府に圧力をかけるつもりらしい。長沼も山田も、夢中になって書いた。「お前たちが生きていることを証明するんだ」ふたりとも、新聞紙を持たされて、写真を撮られた。その日付を見れば、少なくともその日までは、生きていたということになる。手紙も送った。写真も送った。だが、いつまで待っても、返事は来なかった。
ふたりとも、正気を失うまいと、努力していた。毎日、死ぬほどヒマなのだ。とにかく何かをしていないと気が狂いそうだった。与えられた子ども用のノートに日記をつける。ふたりでしりとりをする。そうして時間をつぶしながら、ひたすら解放を待ち続けた。
「本当におれたちは、ここから生きて帰れるのだろうか・・・」なるべく考えたくないことだったが、考えずにはいられなかった。「日本政府は、おれたちを見殺しにしたんじゃないよね?」「それはないだろう。あらゆる手段を尽くしているはずだ」「交渉が失敗したら?救出に来てくれるかな?」「どうかな?自衛隊を送るのは無理だし、現地の政府に頼むといってもなあ・・・」中南米のような国で、軍や警察はまったくアテにならない。腐敗しきっているし、内部に協力者がいないとも限らないのだ。情報は筒抜けだろうし、救出部隊が来る前にバレて殺されてしまうだろう。「それに、こんなジャングルの中だ。おれたちが、どこにいるのかも分からないだろうよ・・・」逃げることも考えたが、たとえうまく逃げられたとしても、ここがどこなのか分からない。ジャングルの中に迷い込み、飢え死にするだけだろうと思った。
数ヵ月たった。この間、長沼と山田は、ジャングルの中の基地を何度か移動した。扱いは変わらず、粗末な食事と厳しい監視の中、ふたりは互いに支えあって生きていた。「日本は今ごろ、クリスマスだね。みんな平和に浮かれてるんだろうなあ」「去年の今ごろは、おれたちも、カラオケで飲んで歌って、酔っ払って、夜通しはしゃいでたね」「みんな、おれたちのこと心配してるだろうなあ」「ナガヌマちゃんは、日本に帰ったら、何をしたい?」「そうだね・・・温泉に行って、それから、冷たいビールを飲みたいね」「ハハハ、言えてるね」「ヤマさんは?」「おれは、まずラーメンを食べたいね。しょう油ラーメンを腹一杯食いたいな」「ああ、いいねえ・・・ラーメン食いたいなあ・・・」長い間、忘れていた日本の食べものが、脳裏に浮かんだ。ラーメン、カツ丼、カレーライス、オムライス、焼きそば、お好み焼き、すき焼き、天ぷら・・・。ここに来てからは、かたい肉とジャガイモとスープしか口にしていない。思わずよだれを垂らし、腹の虫が鳴った。
「日本政府は冷たいな。お前たちのために金を払う考えはないらしい」とゲリラの司令官。「そんな・・・」「50万ドルなら払えると言っている。つまり、ひとりにつき25万ドルだ」「たったの25万ドル?」それを知って、長沼は失望した。自分たちには、もっと価値があると思っていたからだ。
「ヤマさん、おれたちは本当に帰れるだろうか?」「ナガヌマちゃんらしくもないな。ここの娘を連れて帰るんじゃなかったのかい?」「だけど、交渉は難航してるみたいだし、救助隊も来そうにないし・・・」「だが、おれたちはこうして、生きている。違うかい?」「それは、そうだけど・・・」「生きたくても生きられない人間もいる。それに比べりゃ、おれたちはずっとマシだよ」「でも、ただ生きてるだけだ。いや、金のために、生かされてるだけだ。おれたちには自由がない」長沼は、こんな生活が、この先ずっと何年も続くぐらいなら、いっそのこと死んでしまおうか、と何度も考えた。しかし、自殺するにしても、ナイフやロープなど、そのための道具もないのだ。「ああ・・・おれには死ぬ自由すらないのか・・・」今日も日が暮れる。今日はダメだった。だが明日は?その繰り返しだった。
半年たった。待遇は悪くなるばかりだった。ジャングルの中の収容所みたいなところに移された。そこでは、たくさんの人質が監禁されていた。ゲリラとの戦闘で捕虜になった軍人や警官、身代金目的で誘拐された市民、外国人だった。日本人は長沼と山田の2人だけだった。ふたりは、それらの人質とともに、周りを柵で囲っただけの場所に押し込まれた。屋根もないから、陽にあぶられ、雨に打たれながら、生きていくしかないのだ。食事もひどかった。腐りかけた肉や野菜、カビだらけのパン。それでも食うしかなかった。病気にもならなかったのは、肉体が限界まで耐えて、もはやいかなる病原菌の繁殖も許さない免疫ができていたからかもしれない。ふたりは、耐えた。他の人質たちと話をすると、中には7年も監禁されているというツワモノもいた。「7年に比べたら、おれたちなんて、まだまだハナタレ小僧もいいとこだね・・・」
1年たった。長沼も山田も、見違えるような姿になっていた。長沼は色白で、女性的な顔立ちだったのだが、顔は日焼けし、頬骨が浮き出て、まるで博物館に展示されている原始人のようだ。山田も顔がひげに埋もれ、動物園のヒグマを見ているようだ。「もう1年か・・・早いもんだなあ。おれもひとつ、年をとったわけだ」「なんだかんだ言って、こんなところでも、1年も生きてきたんだ。案外、人間ってのはしぶといもんだねえ」「おれたち、あと何年、生きられるかなあ?」「だからさ、ナガヌマちゃん、言ったろ?人間、いつかは死ぬ。黙ってても死ぬんだ。だから、死ぬことなんか考えちゃダメなんだよ。無意味なんだよ。生きることだけ考えなきゃあ」長沼は、いつも山田の言葉に勇気付けられてきた。もしも山田がいなかったら、とっくに絶望して、発狂していたかもしれない。「そうだね。ヤマさんの言うとおりだよ。おれ、いい友だちをもってホント、良かったよ」「日本に帰ったら、ふたりで温泉に行って、冷たいビールを飲もう」「ラーメンも食おう。カツ丼も食おう。約束だよ」「ああ、約束だ」
1年半たった。この間、何人もの人質が解放されていった。「政府とゲリラの和平交渉が進んでいるらしい。うまくいけば、おれたちも解放されるかも・・・」と期待を寄せたが、長沼と山田は、経済大国・日本を代表する人質なのだ。あくまでも、巨額の身代金奪取を目的とするゲリラにとって、そう簡単に手放せるわけがなかった。
2年たった。テレビも新聞もラジオもないから、長沼も山田も、日本で、世界で、何が起きているのか、まったく知らずに過ごしてきた。「交渉はどのくらい進んでいるのだろう・・・」ゲリラに訊いても、答えてくれなかった。もっとも、上層部しか知らされていないのだろう。
ある日、ふたりは呼び出された。ビデオカメラの前で、また演技をしろ、というのだ。渡された原稿に目を通すと、「小泉さん、僕たちは2年も監禁されたままです。早く助けてください。お願いします・・・」とある。「小泉さん?小泉さんって誰?小渕さんは?辞めたの?」ふたりとも、小渕が死んで、森、そして小泉へと政権が変わったことなど、知らなかったのだ。
「そういや、もう2年も、テレビ見てないんだよなあ・・・」ある夜、長沼がポツリとつぶやいた。「2年も布団で寝てないし、音楽も聴いてないし、テレビゲームもしてないんだよなあ・・・」「カラオケも行ってないし、バイトもしてないし、合コンもしてないよなあ・・・」隣で、山田もつぶやくように言った。「おれたち、このまま日本に帰ったら、家族もビックリするだろうね」「ハハハ・・・別人だと思うだろうね」「家に帰る前に、髪を切って、ひげを剃ったほうがいいね」「行きつけの店でも、おれたちだとは気付かないだろうね」「マスコミが押し寄せるだろうね。ちゃんと、記者会見で何をしゃべるか決めておかないとなあ」「おれ、ここでの体験談を本に書いて売ろうと思うんだ」「いいねえ。ベストセラー間違いなしだよ」「ナガヌマちゃんが書いたら?」「どうして?」「ジャーナリスト志望だろ?」「そうだったね」「それに、印税が入ってきたら、お姉さんから借りた金も返せるだろ?」「なるほど、そっか。さすがはヤマさん、頭いい!」「テレビや新聞の取材が殺到するだろうから、マスコミ関係にコネもできるしさあ」「そこまで考えてたとは・・・やっぱ、ヤマさんはいい奴だ」まだ解放されると決まったわけでもないのに、ふたりで、解放後の話に夢中になった。
生きることに、これほど夢中になったこともなかった。毒虫や毒ヘビがウヨウヨしているジャングルでの生活だ。日本では見たこともない大きなアリに噛まれると死ぬほど痛いし腫れる。黒アリより、赤アリのほうがヤバイということも知った。耳の穴に入ってくるので、寝るときは指で耳に栓をした。タランチュラに刺された人質もいた。こいつにやられると、全身に毒が回り、何日も苦しみもがいて死ぬことになる。薬もないし、治療もできない。見かねたゲリラが、苦しまないよう銃で撃ち殺すのを見た。こんな環境に長くいると、もう人が死んでも、悲しいとか、怒りを感じることもなくなっていた。「これって、やっぱ異常なのかなあ?それとも、精神が鍛えられたってことになるのかなあ?」日本にいたときは、生きることについて、真剣に考えたこともなかった。ただなんとなく生きて、面白そうなことをやっていただけだ。日本が平和すぎるのかもしれない。「富めるものから取るのは当たり前だ」というゲリラの価値観も知った。明らかに善悪の判断基準の異なる世界が、厳然と存在する事実を突きつけられた気持ちだった。
2年半たった。政府とゲリラの和平交渉が決裂したらしい。政府軍の飛行機の爆音が響いてくる。コカイン畑に毒薬を散布しているのだ。政府の支配も及ばない農村では、貧しい農民が生きていくためにコカの木を育て、麻薬の原料となるコカインベースを作り、それを麻薬商人に売って、わずかな生活の糧を得ている。食っていくためには仕方のないことだ、とゲリラは言う。ゲリラは農民のコカ栽培を認め、それに課税することで、莫大な軍資金を得ている。コカインで打撃をこうむるのは海を渡ったアメリカだから、コロンビアの貧しい農民には貴重な収入源となるだけで、むしろコカインを欲しがるアメリカ人の側に問題があるのだが、「コカを根こそぎ枯らしてしまえ!」という短絡的な発想で、米軍に後押しされたコロンビア政府軍が、ベトナム戦争でも使われたような猛毒の枯葉剤を低空から撒き散らし、コカだけではなく、他の作物まで枯らしてしまう。そのことに、ゲリラたちは怒っていた。
「ゲリラたちにも、それなりに言い分があるんだな・・・」長沼は、自分たちを監禁し、ひどい扱いをしてきたゲリラにも、ほんの少しだけ、同情する気持ちになった。「ナガヌマちゃん、いけないよ。ストックホルム症候群ってやつだ」と山田が忠告する。「犯人側に感情移入するのは禁物だ。なんと言っても、奴らは犯罪者なんだからね。どういう事情があろうと、誘拐や麻薬や殺人が許されるわけないじゃないか」「それは、そうだけど・・・」「おれは、奴らと友だちになるつもりはないし、敵になるつもりもない。距離を置くことだね」山田の言うとおりだと思った。甘い考えは捨てなければいけないと思った。しかし、心のどこかで、敵にも愛されたいという気持ちがあったのは、否めなかった。
アメリカのコカ撲滅作戦に怒ったゲリラは、除草剤を散布していた飛行機を撃墜した。そして、乗っていたCIA(米中央情報局)のエージェントを人質にしたのである。
それから数週間後。長沼と山田は、ジャングルの人質収容所にいた。そこに米軍の特殊部隊がやってきたのである。突然、爆発音とともに煙が上がった。同時に激しい銃撃戦が始まった。「きっと、おれたちを助けに来てくれたんだ!」と思った。他の人質たちとともに事の成り行きを見守っていると、「我々はデルタ・フォースだ!諸君を救出に来た!」顔を迷彩色に塗った兵士がやってきて言った。「うおーっ!やっと国に帰れるぞおっ!」長沼たちは飛び上がって喜んだ。特殊部隊の隊員が慣れた手つきで、人質を囲む有刺鉄線をナイフで切り始めた。「ヤマさん、やったね!おれたち助かるよ!」「ああ、苦労したかいがあったよ」長沼も山田も、これで日本に帰れると思った。が、次の瞬間、隊員が撃たれ、頭から血しぶきを吹き上げた。「あああっ!」ゲリラ兵が人質めがけ機関銃を乱射し始めた。「うわあーっ!よせえーっ!やめろおーっ!」丸腰の人質たちに容赦なく銃弾が浴びせられる。人質たちが次々になぎ倒されていく。長沼と山田はとっさに伏せて、人質の死体の間に隠れた。
銃撃戦は続いていた。人質の奪還に失敗したと悟って、「撤収だ!撤収しろ!」特殊部隊はジャングルに引き揚げてしまった。戦闘が終わった。辺り一面、硝煙と濃い血の匂いが漂っている。銃声が止んだのち、長沼と山田は、恐る恐る死体の中から這い出した。「あれえ?特殊部隊はどこへ行っちゃったんだ?」「どうやら、作戦に失敗したらしいな」「冗談じゃねえよ!人質を置いて逃げちまったのか?」長沼は絶望のどん底に突き落とされた。米軍の目的は、一緒に監禁されていたCIAエージェントの奪還だったらしい。そのエージェントは撃たれて死んでいた。長沼を含む他の人質はどうでもよかったのだろう。「チクショー!おれたちを見殺しにしやがって!」結局、人質で生き残ったのは、長沼と山田だけだった。
「何をしてる!もたもたするな!さっさと働け!」ゲリラ兵は怒り狂っていた。人質だけでなく、大勢の仲間たちを殺されたのだ。かろうじて助かった長沼と山田にも、つらい仕事が待っていた。ゲリラ兵の命令で、死体の処理をやらされたのである。スコップを持ち、深い穴を掘り、死体を運んで埋める。「アメリカのブタ野郎!」ゲリラ兵は米兵の死体に唾を吐きかけ、機関銃でメッタ撃ちにしていた。自分たちは殺されなかっただけマシだが、アメリカの次に日本が憎まれるのは必至だ。「なんだっておれたちが、こんな目に遭わなきゃならないんだ?」山田と死体を運びながら、長沼がぼやいた。「さあね。これも運命なら、仕方ないさ。あきらめるしかない」山田は淡々と言った。「運命?運命って誰が決めるんだ?神か?」「たぶんね。生まれたときから決まってるんだろうよ」「神なんて糞喰らえだ!おれは神と運命を呪うぞ!」悔しくて涙が出た。血と汗と泥にまみれながら、ふたりは、黙々と死体を運び、穴に埋めた。
その後、長沼と山田は、別のキャンプへ移された。待遇はさらに悪くなった。手足を鎖でつながれ、鳥小屋のようなところに押し込まれた。食事も減らされ、やせ衰えた体はさらに痩せた。栄養失調なのだろう。肌はザラザラになり、白い粉のようなものが吹き出した。「こんなところで生かされるくらいなら、いっそのこと、一思いに殺されたほうがマシだ・・・」と思った。
数日後。ふたりは呼び出された。小屋の中にビデオカメラが置かれている。「また、おれたちに演技をさせようって言うのか?」長沼はバカバカしいと思った。「無駄だよ。政府はおれたちのために金なんて払う気はないんだ」自嘲的に長沼が言った。すると、ゲリラの司令官がピストルを抜いて、こう言い放った。「人質はひとりで十分だ。ふたりもいらん。どっちが先に死にたいか言え」
とうとう殺されるのだ。あれほど死にたいと思っていた長沼だが、殺されると知って、「う、ウソだろ!頼む!おれは死にたくない!助けてくれ!」自分でも情けないくらい、体が震えてきて、「頼む!なんでもするから、命だけは助けてくれえ!」その場で命乞いを始めた。人間、いざ死に直面すると、こうも生に執着するものなのか。生存本能がそうさせたのかもしれない。「お願いだ!殺さないでくれ!お願いだ!」長沼は拝むように言った。「無駄だよ、ナガヌマちゃん。どうせこいつら、おれたちを生かしておく気なんてないんだ」いつも冷静な山田。「金だけ取って、用がなくなったら、おれたちを殺すつもりだ」「そ、そんな!金を払えば解放するって言ってたじゃないか!」「おれたちを生きて帰せば、組織の内情とか、知られたくないことを知られてしまう」「それで殺すって言うのか?!」長沼は裏切られたような気持ちになった。「それじゃあ、ヤマさん、最初からそのことを知ってて、おれをだましていたのか?」「だますつもりはなかった。ただ、言えばナガヌマちゃんがビビると思って、黙ってただけだ」「ひ、ひどいよヤマさん!さんざん希望を持たせておいて、最後はこれかよ!」「おれだって、生きたいさ。生きて日本に帰りたいさ。だが、おれにどうしろって言うんだ?」「こんなことになると分かっていたら、ふたりで協力して、逃げることだって出来たじゃないか!」「逃げる?どこへ?地図も持ってないのにどこへ逃げる?何かいいプランでもあるのか?」冷たく突き放されるような言い方をされて、長沼はムラムラと怒りがこみ上げてきた。「最初からそのつもりだったんだな!卑怯だぞ!」「卑怯?おれは卑怯なマネをした覚えはないが?」「おれの気持ちをもてあそんでいたんだろう!」「そんなことをして、おれに一体何のメリットがある?」「チクショー!あんた鬼だ!見そこなったぜ!」長沼は悔しくて涙があふれた。「ヤマさん、ヤマさん」と慕っていた自分が悔しかった。苦楽を分かち合ったこの2年半は、一体なんだったのか。「よーし、分かった!ケンカはやめろ!そこまでだ!」さえぎるように司令官が言った。「ケンカの続きは、あの世でやってもらおう」ピストルを向けられた。「殺される!」長沼は思わず目を閉じた。銃声が轟いた。震え上がったが、どこも痛くない。恐る恐る目を開けると、「ああっ!ヤマさん!」長沼の目に飛び込んだのは、頭を撃ち抜かれて倒れた山田の姿だった。「ヤマさん!ヤマさん!死んじゃイヤだ!目を覚ましてくれよお!ヤマさあん!」長沼は泣きながら山田の死体を揺さぶった。「チクショー!ヤマさんが何したって言うんだあ!お前ら人間じゃねえよ!なんでヤマさんを・・・」長沼は山田の死体にすがりついて泣いた。司令官がピストルをしまいながら、冷淡に言った。「そいつはいつも冷静だった。何かをたくらんでいると思った。生かしておくのは危険だ」長沼は満面を涙で濡らしながら、「ヤマさあん!おれをひとりにしないでくれよお!一緒に帰ってラーメン食おうって約束したじゃんかよお!」と泣き叫び続けた。他の人質の死には、あまり心を動かされなかった長沼も、山田の死には慟哭した。
「友だちを葬ってやれ」スコップを渡され、長沼は山田を埋葬するための穴を掘った。山田の死体を横たえ、土をかぶせる。土を盛り上げておいて、そこに木で作った十字架を立てた。手を合わせて、長沼は山田の冥福を祈った。「ヤマさん、疑ったりしてごめんよ。おれが悪かった」長沼は土を握りしめた。「一緒に日本に帰って、温泉に入って、冷たいビール飲みたかったよ・・・」だが、これも山田が言うように、運命なのかもしれないと思った。「ヤマさん、一緒にいて楽しかったよ。ヤマさんのことは絶対に忘れないよ」長沼の脳裏に、山田の笑顔が浮かんだ。「ヤマさん、来世でまた会おう・・・」
山田が死んでから、長沼は決意を固めた。「おれは何としても生きて日本に帰るぞ!」どんな困難が待ち受けていようとも、山田の分まで生きて、日本に帰ろうと誓った。そして、出来ることならば、殺された山田の仇を討ってやろうと思った。「おれは死んでやらないぞ!日本に帰るまでは死んでやらないぞ!」長沼はひたすら耐えた。いつの日か自由の身になることを信じて、ひたすら待ち続けることにした。
3ヵ月たった。突然、長沼はゲリラ兵に連れられて、長い旅に出発した。深いジャングルを歩き続けた。大きな川をボートで渡った。「どこへ行くんだろう?」と思ったが、訊いても答えるわけがないので、黙っていた。ジャングルを出て、頂に雪をかぶったアンデスへ向かっていることが分かった。「暑いところから、今度は寒いところかよ・・・」長沼はげんなりしてしまった。
山に入ると、長沼は「バターラ」というラバに乗せられた。スペイン語で「戦闘」という意味だと知った。アンデス山脈北部の標高3千メートルのゲリラ・キャンプまで3日かかった。標高が高くなるにつれ、酸素も薄くなり、気温もぐんぐん下がった。震えていると、ゲリラに同行していたインディオの男が、ポンチョのような着物を与えてくれた。それに帽子をかぶると、地元のインディオと何ら変わらない姿かたちになった。ほとんど垂直に近いような急な山道である。地上がどんどん離れていくのを見ると、「これでまた、解放が一段と遠のいてしまうな・・・」と思い、心が重くなった。
だが、長沼は知らなかったが、この時、日本政府はひそかに身代金を払っていたのだ。山田が殺された映像を送りつけられ、動揺したらしい。ゲリラ側に支払われた身代金は100万ドル。しかし、長沼は解放されなかった。ゲリラ側はさらに、600万ドルを要求したからである。
待遇は相変わらずだった。5ヵ所のキャンプを転々と移動しながら、狭いテントに閉じ込められた。食事は粗末で、そのうえ寒さが加わった。与えられた汚い毛布にくるまって寝ていると、「これ、食べて・・・」ゲリラの少女兵が、そっと、食べものを持ってきてくれた。
少女が持ってきてくれたのは、パンにチーズとソーセージを挟んだものだ。「グラッシアス(ありがとう)」長沼は礼を言って、夢中して食べた。やわらかいパンだった。チーズも塩気がきいている。ソーセージの脂気も口の中でとろけた。こんなにうまいものを食べたのは何年ぶりだろうか。あっという間に食べ終えると、「ヤマさんにも食べさせてやりたかった・・・」と思い、涙があふれた。
「ありがとう。うまかったよ。君、名前は?」見たところ、少女はまだ14,5歳のようである。巻き毛を長く垂らし、大きく澄んだ瞳だ。「あたし、オマイラ」「オマイラか。いい名前だ」「あたし、もう行かなきゃ。また持ってきてあげる」「ありがとう・・・」オマイラという少女ゲリラは、小走りに去っていった。
「あの娘、かわいかったなあ・・・」どうやら恋をしてしまったらしい。相手は自分を拉致・監禁したゲリラなのだ。「感情移入は禁物だよ・・・」という山田の忠告を思い出す。「だが、彼女は違う。おれを助けてくれたんだ」オマイラのことが頭から離れなくなった。「彼女、おれに気があるんだよなあ・・・」そうでなければ、人目を忍んで、こっそりパンを持ってきてくれるわけがない。「かわいいな、あの娘・・・」出来ることならば、日本に連れて帰りたいと思った。
次の日も、オマイラはパンを持ってきてくれた。「ありがとう」長沼がパンを食べ終えるまで、オマイラはじっと長沼を見つめている。それに気付いて、「君はどうしてここにいるんだ?」と尋ねた。「あたし、売られたの・・・」オマイラがつぶやくように言った。彼女の話では、家庭が貧しく、親がオマイラをゲリラに売ったのだという。ゲリラは貧しい家庭から少年少女を買い取り、訓練して、兵力にしているのだ。「つまり、君が望んでゲリラになったわけじゃないんだね?」「あたし、お家に帰りたい。ママに会いたい・・・」オマイラはホームシックになっているのだろう。そのつぶらな瞳から涙があふれた。「しかし、家に帰っても、君は受け入れてもらえない・・・」哀れだ、と思った。なんとかしてやりたい、と思った。「オマイラ、君はぼくのことが好きか?」思い切ってきいてみた。「好きよ」その返事を長沼は本心と受け取った。「よし、オマイラ、ぼくと一緒に逃げよう。ここから逃げるんだ。自由になるんだよ」
「ダメよ、そんなこと・・・それに見つかったら、あたしたち、殺されてしまうわ」オマイラはあまり乗り気ではなかった。「頼む!君だけが頼りなんだ!君だって自由になりたいだろ?一緒に逃げよう!」「そんなこと言われても・・・」「約束する!ここから逃げられたら、君をお母さんのところへ帰してあげよう!」長沼は逃げたい一心で思わず口走った。「本当に?本当にママのところへ帰れるの?」「ああ、約束だ!ふたりで逃げて、日本大使館に保護を求めるんだ!そうすれば、政府だって見殺しにしやしないさ!ぼくは日本に帰れるし、君は家に帰れる」長沼は必死だった。なんとかオマイラを説き伏せて、ここから逃げるしかないと思った。もう拉致されてから3年になる。ここでチャンスを逃がせば、自分は一生、祖国の土を踏めないだろうと思った。「なあ、頼むよ!オマイラ!君はぼくが好きだろう?ぼくも君が好きだ!だから、こうして頼んでいるんだよ!お願いだ!ぼくをここから逃がしてくれ!」長沼はオマイラの小さな手を握りしめた。「分かった。もう少し待って。考えてみる・・・」オマイラは煮え切らない様子で去っていった。
次の日も、オマイラはパンを持ってやってきた。「オマイラ、ぼくの言ったことを考えてくれたかい?」長沼は待ちきれずに訊いた。「本当にママと会えるの?」「約束だ!帰してあげるよ!」「分かった。じゃあ今夜、ここから逃げましょう。それと、鎖を切る道具を持ってこなくちゃ」長沼はテントの支柱に鎖で足をつながれているのだ。「ありがとう、オマイラ!」「その代わり、命がけよ。あたしたち、見つかったら殺されるわ」「覚悟は出来ているさ!おれは、何としてもここから逃げるんだ!」もしも失敗して殺されたとしても、その時は運命だとあきらめればよい。ただ、何もせずに殺されるよりかは、よっぽどマシだと思った。「生きよう!生きてここから出るぞ!そして、ヤマさんの仇を討つんだ!」長沼は夜になるのを待った。少しでも体を休めておこうと思い、横になったが、とても眠れるものではなかった。
夜になった。オマイラがどこからかヤスリを持ってきて、長沼の足の鎖をゴシゴシ切り始めた。「うまく切れるといいんだけど・・・」頑丈な鎖はなかなか切れない。見かねた長沼が手を貸そうとしたとき、「お前たち、何している!」暗がりから大声がして、長沼はギクッとなった。たき火に照らし出されたのは、ゲリラの司令官だった。通称「カルロス」と呼ばれている男である。「やっぱり、お前たち出来ていたんだな!どうも怪しいと思って、泳がせておいたのだ!」万事休す、と思った。「オマイラ!貴様、逃げてどこへ行くつもりだ?お前の親はお前を売ったんだぞ?たとえ実家に戻っても、お前に居場所などない。育ててやった恩を仇で返すとは、ふてえアマだ!」「黙れ!オマイラはおれが連れて行く!お前の好きにはさせんぞ!」長沼が怒りを込めて叫んだ。「なに?この役立たずのろくでなしどもが!死ね!」カルロスがピストルを抜いた。「やめて!」次の瞬間、銃声が響いた。撃たれたのはカルロスだった。オマイラがカラシニコフで撃ったのだ。一刻の猶予もない。オマイラが銃で鎖を撃つと、うまい具合に断ち切れた。
長沼とオマイラは必死に逃げた。銃声を聞いて、ゲリラ兵が追ってきた。「逃がすなあ!追ええっ!」真っ暗な山道を転びそうになりながら下る。銃声がうなる。銃弾が飛ぶ。ふたりは死に物狂いで逃げた。
どのくらい逃げただろうか。次第に夜が明けてきた。青白い夜明けの中、ふたりは息を切らしながら、走っていた。「ここまで来れば、もう大丈夫よ」追っ手は来ない。ふたりは疲れきって、岩だらけの山腹に腰をおろした。長沼は解放感に浸っていた。酸素は薄いが、空気がうまかった。山の風が、心地よく肌をなぶる。「うまくいったなあ・・・やっと、自由の身になれたんだあ・・・」オマイラが心配そうに言った。「逃げられたけど、あたし、もう戻れない・・・」司令官を射殺してしまったのだ。ゲリラに捕まったら処刑されるだろう。「大丈夫だよ。君のことは大使館が保護してくれる。国が動けば、奴らも手出しできないさ」「あなたは、この国の本当の恐ろしさを知らないのよ・・・」たとえ家に戻れても、ゲリラがシカーリオ(殺し屋)を差し向けるだろう、と言った。「あたし、もう家にも戻れない・・・」オマイラがシクシク泣き出した。「泣くなって。君はぼくの命の恩人だ。どんなことがあっても、ぼくは君を守ってみせるさ」「本当?」「ああ、本当だ。この国がダメなら、君を日本に連れていってもいい」「でも、あたし、日本語できない・・・」「言葉なら、ぼくが教えるよ。日本はいいところだよ。平和で、豊かで、自由がある」「あたしを日本に連れていってくれるの?」「ああ、君が望むなら、一緒に日本に行こう」「うれしい・・・」オマイラが抱きついた。長沼も抱きしめてやった。
完全に夜が明けた。「もっと遠くへ逃げよう。グズグズしていると、ゲリラに見つかるかもしれない」ふたりは、さらに山を下った。突然、銃声が轟いた。銃弾が空気を切り裂いて飛んでくる。「危ない!伏せろ!」慌てて岩陰に身を隠した。銃弾が岩肌をえぐり、白煙を上げた。「ゲリラか?見つかったのか?」しかし、敵は下から撃ってくる。どうもゲリラではないらしい。「おい!あそこだ!あそこに隠れてるぞ!」さらに銃弾を浴びせられた。長沼は声を振り絞って叫んだ。「やめろおっ!おれたちはゲリラじゃなあい!逃げてきたんだあ!撃つのをやめろおっ!」兵士が銃を向けながら近付いてきた。軍服を着ているので、政府軍かと思ったが、「パラよ!あたしたち、パラに見つかったのよ!」とオマイラが言った。パラとはゲリラに対抗する右翼の自警団のことだ。数分後、ふたりはパラの捕虜となっていた。
「お前は中国人か?」パラの司令官が訊ねた。顔に大きな傷跡のある男だった。「いや、日本人だ」と長沼。きっと事情を説明すれば、助けてくれるだろうと思った。「お前たちはゲリラだな?」司令官は冷たい視線を向けた。「違う!おれはゲリラなんかじゃない!人質だ!逃げてきたんだ!」長沼は懸命に弁解した。もしもゲリラの仲間だと思われたら、パラに容赦なく殺されてしまうだろう。「ウソをつけ!じゃあ、この女はなんだ?ゲリラじゃないのか?」司令官がオマイラの軍服の襟首をつかんで引き寄せた。「よせ!彼女も一緒に逃げたんだ!今はもうゲリラなんかじゃない!」「ゲリラじゃない、だと?」「彼女はゲリラに売られただけだ!親元に帰りたいと言ってるんだ!」「ふん・・・」司令官はせせら笑った。「売られようが、逃げようが、ゲリラはゲリラだ。こいつは殺す」「やめろ!彼女には手を出すな!おれも彼女も被害者なんだ!」長沼は、山田とともに拉致されてから、山田が殺され、逃げるまでの出来事を、すべて話した。司令官は黙って聞いていたが、「では、お前は友だちの復讐のために逃げたと言うのか?」と逆に訊いてきた。長沼は一瞬、返事に困った。本当は、このまま日本に帰りたいのだが、そんなことを言えば、オマイラが殺されてしまうと思った。オマイラは自分の命の恩人なのだ。彼女がいなかったら、自分は逃げることも出来なかっただろう。オマイラを見捨てるわけにはいかなかった。それに、山田の復讐のため、と言えば、パラも同情してくれるだろうと思った。「ああ、そうだ!おれはゲリラが憎いんだ!あいつらに何としても復讐して、殺された友だちの恨みを晴らしたいんだよ!」長沼は涙ながらに訴えた。
長沼の訴えが功を奏したのか、ふたりとも殺されなかった。だが、そのままパラのアジトへ連行され、小屋に監禁された。「私たち、これからどうなるの?」オマイラが不安げに言う。「さあね。なるようにしかならないさ」山田の口癖が移ってしまった、と思い苦笑した。「あなた、殺された友だちの復讐をしたいって本当?」「ヤマさんはいい奴だった。何も悪くないのに殺されたんだ。黙っているわけにはいかないよ」長沼は語気を強めて言った。「ヒロト、気持ちは分かるけど、やめて。お願い。そんなことをすれば、あなたも殺されてしまうわ」「構わないさ。人間、いつかは必ず死ぬんだ。おれはヤマさんの仇を討つよ」山田を殺したゲリラの司令官が、法の裁きを受けるとは思えない。この国では、紙に書いた法律など何の役にも立たないということを知っていた。やられたらやり返す、それだけが唯一の掟なのだ。いつしか、望郷の念よりも、復讐心のほうが強くなっていることに、長沼は気付いていなかった。
翌日、ふたりは小屋から連れ出された。「いよいよ、殺されるのか?それとも・・・」不思議と死は怖くなかった。もう何があろうと、すべて運命として受け入れようと決めていた。パラの司令官のもとへ連れていかれた。そこで待っていた答えは意外なものだった。「いいか、お前たちを新兵として鍛えなおすことにした。嫌なら殺す。どうだ?」
パラの兵士になれ、というのだ。「お前はゲリラに友だちを殺されたんじゃないのか?ゲリラが憎いだろう?おれたちと一緒にゲリラと戦うんだ。ゲリラを殺せば、友だちの恨みも晴れるだろう。違うか?」さらに、オマイラにはこう言った。「お前は脱走兵だな?親に売られ、ゲリラにも戻れない根無し草だ。家に戻っても、またどこかへ売られるだけだ。ゲリラに戻れば殺される。どうだ、死にたいか?まだ死にたくないだろう?」司令官は言った。「お前たちを殺すなど、わけもないことだ。生きるか死ぬか、お前たちが決めろ」長沼は迷ったが、そうするしかないと思った。山田の恨みも晴らしたいし、このままオマイラと一緒にいたい。ふたつの願いをかなえるには、パラに入るのが一番なのだ。「分かった。おれを仲間に入れてくれ」
長沼とオマイラは、兵士の訓練センターへ送られた。山の中のキャンプで、厳しい訓練の日々が始まった。兵士の卵は、みな年端もいかぬ少年少女ばかりだ。「なんだか、学生時代の合宿みたいだなあ」と思ったが、訓練は生やさしいものではなかった。最初に習ったのが、7.62mmと5.56mの小銃の扱い方だった。長沼は以前、ハワイへ行ったとき、射撃場でピストルを撃ったことがある。しかし小銃は重く、分解して組み立てたり、すべてのことを自分でやらねばならない。訓練を施すのは元軍人たちで、いささかも容赦がなかった。テストに合格しないと殺されるのだ。毎日が命がけだった。鉄条網の下をかいくぐり、手榴弾を標的に投げ付け、小銃で的を撃ちぬく。音を立てずに敵に接近し、ナイフで殺す方法も学んだ。格闘技の訓練もあった。長沼は試練に耐えた。3年に及ぶ厳しい監禁生活は、彼の体力を少しも損ねてはいなかった。学生時代にサッカーで鍛えた肉体がものを言ったのであろうか。オマイラもよく耐えた。長沼はオマイラがテストに落ちて殺されやしないか、ハラハラしていたものだが、「オマイラも、なかなかやるなあ・・・」と思った。
3ヵ月に及んだ訓練が終わった。「ナガヌマ、よくやった。これで、お前も一人前の兵士だ」教官が、長沼の肩を叩き、褒めたたえた。「だが、まだやらなければならないことがある」「何ですか?」「こっちに来い・・・」言われてついていくと、ハッとなった。オマイラが木に縛りつけられ、さるぐつわを噛まされているのだ。「彼女に、何をするんですか?放してやってください!」長沼が抗議すると、教官がマシェーテという大きな蛮刀を引き抜き、「人を殺さなければ、一人前の兵士とは言えん。これで、あの女を切り刻むんだ」と命じた。長沼はうろたえた。「じょ、冗談じゃない!そんなこと、おれには出来ません!」「やれ!乳房をえぐり取るんだ!やらなきゃ、貴様を殺すぞ!」教官に押し付けられて、長沼は仕方なくマシェーテを握った。オマイラは身動きできず、もがきながら、長沼に目で訴えている。手が震えた。自分の命の恩人を殺すことなど、出来るわけがなかった。「無理だ!おれには無理です!」長沼は叫んで、マシェーテを地面に突き立てた。「もう、いいだろう。そのくらいにしておけ・・・」司令官が止めに入った。おかげで救われた。長沼は全身の力が抜けるのを感じた。
その夜。長沼がひとりで武器の手入れをしていると、「ヒロト、あたしを助けてくれてありがとう」オマイラがやってきて言った。「あたし、あなたが殺されるんじゃないかと思って、すごく怖かった・・・」オマイラは自分の命より、長沼の命を案じていた。「君はおれの命の恩人だ。おれが君を殺せるわけがないじゃないか」「分かってる。あなたはそんなことをする人じゃない」「おれは君を殺すくらいなら、殺されたほうがマシだよ」長沼は命令を拒否したとき、殺される覚悟だった。「おれはいつでも死ぬ覚悟は出来ている。君のためなら死んでもいい」「ダメよ。ヒロト、死んじゃダメ。お願い、生きて。あたしをひとりにしないで」オマイラが泣きそうになって、長沼に抱きついてきた。「誰が君をひとりにするものか。死ぬときは一緒だよ」「うれしい・・・」ふたりは初めて唇を重ねた。
その後、長沼はパラの戦闘員として、戦場に駆り出された。戦う相手は自分を拉致・監禁し、無二の友を惨殺した共産ゲリラだ。長沼は何としても、「ヤマさんを殺した奴を見つけ出して、この手で殺してやりたい」と思っていた。3ヵ月の厳しい訓練に耐え抜き、自信もあった。長沼とオマイラは「ロハス」という司令官の率いる部隊に加わった。最初の戦闘はアンデスの山岳地帯で行なわれた。仲間とともに、ゲリラのキャンプを攻撃したのだ。「撃てーっ!」合図とともに、一斉射撃が始まった。長沼は無我夢中でAK47小銃を撃ちまくった。「うおおおおっ!死ねええええっ!チクショー!」ゲリラは完全に不意を突かれた形となり、反撃する余裕もなく、次々に射殺されていった。長沼は逃げ惑うゲリラ兵にいささかも容赦なく銃弾を浴びせた。撃たれた仲間を助けようとして、腕をつかんで引きずり起こそうとする健気なゲリラ兵に対しても、「うりゃああーっ!死ねっ!死ねっ!死ねーっ!」狂ったように叫びながら、引き金を引き続けた。「やったぞ!2人倒した!」長沼は飛び上がって喜んだ。全身を突き抜ける快感に震え上がった。そして、銃を空に向けて連射しながら、「やったぞおーっ!ヤマさーん!仇を討ったぞおーっ!」と叫んだ。
この戦闘で16人のゲリラ兵が死んだ。死体の散らばるキャンプにはまだ息のある生存者もいたが、「ひとり残らず殺せ!」というのが命令である。パラ兵たちは、重傷のゲリラ兵を引きずってきて一ヵ所に集め、「うおおおおっ!」などと雄叫びを上げつつ、何百発もの銃弾を浴びせて士気を高めた。長沼も同じようにやった。人を殺すことへの抵抗感や罪悪感はなかった。あるのはただ、自分を監禁し、友を殺したゲリラへの怒りと憎しみだけであった。「ヤマさん、天国から応援してくれ!おれは必ず、ヤマさんの恨みを晴らしてみせるよ!」長沼は復讐のためなら、どこまでも心を鬼にしてやろうと思った。
長沼はパラに入って、いろいろなことを知った。ゲリラとパラの戦いは、もはや政治的な理由によるものではない、ということである。すべては「カネ」のためであり、カネはコカインから生み出される。ゲリラもパラもお互いに、より多くのコカ畑を手にしたほうが勝ちなのだ。この土地を巡って、血みどろの死闘が繰り広げられる。パラは政府軍にバックアップされ、現役の軍人や警官も加わっている。彼らは「ゲリラが憎い」とか「国を守るため」という大義名分を持っているわけではなく、「金が欲しくてやっているだけ」なのである。長沼のように純粋に、「ゲリラに殺された者の復讐をする」という動機で加わっている者はほとんどおらず、「すべてはカネのために行なわれる戦い、カネのために流される血なのだ」ということを思い知らされた。
また、政府の支配が及ばない地方では、「銃を持っている者が尊敬される」ということも知った。町の人々はパラ兵に好意的である。なぜなら、彼らが銃で武装しているからだ。銃を持っていない者は、誰からも尊敬などされないのである。「怒らせたら殺されてしまう」という恐怖感が、人々にそうさせているのだろう。それも人目につくように、銃は大きければ大きいほどよいのだ。長沼は山田と南米各地を旅行していたとき、「チーノ!」とよくバカにされたものだ。見るからにひ弱そうな日本人の旅行者と分かるから、罵声も浴びせられたし、タチの悪い奴に絡まれたり、ゲリラに身代金目的で拉致されたりした。それが今、ベレー帽をかぶり、戦闘服を着て、大型の機関銃を携え、悠然と歩く長沼に、「チーノ!」などという侮辱の言葉を投げかける者はひとりもいない。「悲しいけど、これが現実なんだな・・・」と思った。
パラの起源は1980年代前半にさかのぼる。父親をゲリラに殺されたフィデルとカルロスのカスターニョ兄弟が、「オヤジの仇を討つ!」と誓って、地元で結成した武装自警団が始まりとされる。その後、兄のフィデルはゲリラに殺されたのか、行方不明になったが、弟のカルロスが90年代後半にコロンビア全土のパラに結集を呼びかけ、コロンビア統一自衛軍(AUC)を名乗った。ゲリラのシンパとみなした民間人を無差別に殺すことで恐れられ、ゲリラよりも残酷といわれる。
これに、1964年から共産主義革命を掲げて、武装闘争を続けるコロンビア革命軍(FARC)と、政府軍が絡んできて、この国の内戦は当事者でさえ、「何がなんだかよく分からない状況」になってきているのである。
そうした中で、長沼の戦闘員としての日常が続いた。長沼がいたのは、ベネズエラとの国境に近い町で、コカインを巡るゲリラとの縄張り争いが激しい。パラはゲリラの支配下にある町や村を制圧しようと躍起になっていた。長沼も何度かゲリラ支配地の奪回作戦に投入された。映画のような市街戦が展開され、長沼は戦闘で何人もの敵のゲリラ兵を殺すのが楽しかった。戦場を支配する銃声や爆発音、敵の悲鳴・・・。これらのものが闘志を激しくかき立てるのである。
いつも先陣を切って突撃するのは長沼だった。どんなに激しい戦場でも怖くなかった。銃声を聞けば聞くほどエキサイトした。
ゲリラが支配するサンタフェという町を制圧したときのことだ。激しい銃撃戦が展開されていた。長沼の部隊は政府軍ヘリの援護を受けつつ町に突入した。ゲリラは建物に潜み、窓や物陰から撃ってくる。建物の壁は蜂の巣のように銃弾の穴だらけだ。長沼は窓越しに撃ってくるゲリラ兵に銃弾を浴びせた。そしてゲリラたちが立てこもっている建物に突入した。内部は薄暗く、長沼は慎重に歩を進めた。ドアを蹴飛ばし、部屋をひとつずつ捜索する。いつ、どこから撃ってくるか分からない。息詰まる緊張感が、五体にみなぎる闘志を制御していた。ある部屋の前に差し掛かったとき、「ズダダダダダダッ!・・・」いきなり室内から撃ってきた。銃弾で砕け散ったドアの破片が飛び散る。長沼はとっさに壁に身を寄せ、手榴弾のピンを抜いた。タイミングを図って室内に投げ込むと、すさまじい爆風が吹き抜けた。長沼はとどめに銃弾を浴びせ、室内のゲリラを全滅させた。別の部屋のドアを蹴破ると、「来るなあっ!近寄ると、こいつを殺すぞおっ!」追い詰められたゲリラ兵が、一緒に隠れていた住民を人質に取った。「みんな撃つなっ!おれに任せろ!」仲間を制しておいて、長沼はゲリラに銃口を向けた。ゲリラは小さな女の子を抱きかかえ、ピストルを突きつけている。女の子の母親らしい女が、泣きながら解放を訴える。「来るなっ!殺すぞっ!」と怒鳴り散らす。「落ち着け!銃を捨てろ!」「うるさい!黙れ!」長沼はゲリラに呼びかけつつ、タイミングを図っていた。ゲリラはすがりつく母親、人質の女の子、そして長沼と銃口の向きを変える。銃口が人質からそれた瞬間を長沼は見逃さなかった。「今だっ!」銃声が響き、ゲリラの頭から血煙が上がった。ピストルは暴発しなかった。返り血を浴びて泣きわめく女の子を抱きかかえ、「もう大丈夫だ。ほら、ママのところに帰りなさい・・・」長沼は母親の手に返してやった。「よかった・・・人質は助かった・・・」長沼は額の汗を手で拭い、ホッと一息ついた。
作戦は成功に終わった。長沼の仲間内での評判は嫌でも高まった。「ナガヌマ、お前はヒーローだ!」「日本のサムライだ!」「ナガヌマ、乾杯しよう!」仲間たちの長沼に寄せる信頼感は絶大なものとなった。「ナガヌマ、おれはいい部下を持ったようだな」司令官のロハスも長沼を大きく買ったようだ。「お前を副官にしたい。これからも大いに働いてくれ。期待しているぞ・・・」
ゲリラ制圧に奮闘する長沼だったが、無抵抗の人間を殺したことはない。自分はあくまでも、「殺されたヤマさんの仇を討つ!」ことを目的としていたのであり、無関係の市民を殺すことは望んでいなかった。
しかし、パラの暴力は目に余るものがあった。ラ・パルマという村を襲ったときのことだ。そこは何もない山間の寒村だったが、「村人がゲリラに協力している」という情報を受け、長沼たちの部隊が向かった。兵士たちは村に入るなり、家畜のブタを殺し、女たちを犯した。悲鳴と銃声が村の静けさを引き裂いた。逃げようとする者は情け容赦なく射殺された。瞬く間に血まみれの死体があちこちに転がった。長沼は兵士たちの残虐行為に顔をしかめ、「こんなことが許されるのですか?」とロハスに抗議した。「これは軍の命令だ」「命令?民間人を殺せというのですか?」目の前にいるのは、武器を持たない農民である。「なぜです?彼らはただの農民だ。なぜ殺す必要があるんです?」「お前は何も分かっちゃいない」ロハスは言った。「いいか、こいつらはゲリラの仲間だ。ゲリラをかくまい、食糧や情報を提供している。だから殺すのだ」「彼らがゲリラだという証拠はあるんですか?」「ゲリラと農民をどうやって見分ける?奴らはいつも軍服を着て、銃を持っているわけじゃない」「だから殺せと言うんですか?証拠もないのに、無実の農民を殺せと?」「どうせ奴らはまともな人間じゃない。貧乏人はどこへ行っても貧乏人だ。人として扱われることなどない」「なぜです?彼らも同じ人間じゃないですか。どこが違うと言うんです?」長沼が憤慨すると、ロハスは吐き捨てるように言った。「奴らは怠け者だ。情けをかけるに値しない怠け者なのだ。どこへ行こうが路上を不法占拠し、犯罪とエイズを蔓延させるだけだ。ゴミのような存在なのだ」「ゴミだって?」「そうだ。我々は祖国を愛している。社会を浄化したいと思っている。これはゴミ掃除なのだ」ロハスはこんなことも言った。「我々の行動は中産階級から支持されている。我々のおかげでゲリラの脅威は薄れ、ホームレスは減り、犯罪も少なくなった。すべては祖国のためだ」「国のために、弱い者を殺し、麻薬を売るんですか?狂ってる!」長沼は吐き気がこみ上げた。結局、ゲリラもパラも、一緒だと思った。国のため、人民のため、という“言い訳”で自分たちの犯罪行為を正当化しているに過ぎない。「おれは下ります!こんな悪事の片棒を担ぐなんてゴメンだ!」すると、待っていたようにロハスが言った。「お前、本気で言ってるのか?組織を脱退したら、お前は消される。我々の放った刺客にな」「・・・・・・」長沼は何も言えなかった。
ラ・パルマの虐殺は夕方まで続いた。この虐殺で24人の農民が殺され、かろうじて難を逃れた村人も、二度と戻ってくることはなかった。家屋には火が放たれ、村には煙と死臭が漂い、息が詰まりそうだった。これほどの虐殺があっても、コロンビアの田舎を襲った悲劇など、ニュースにもならないのである。長沼は死体が散乱する現場で、いつまでも呆然と立ちすくんでいた。
長沼は町の通りをぼんやりと眺めていた。子どもたちが楽しそうにボールを蹴って遊んでいる。無邪気な子どもたちの笑い声が聞こえた。「この子たちもいずれ、戦争に巻き込まれ、殺し、殺されるのだ」と思うと、やりきれなかった。彼らの頭の中は真っ白だ。染められれば何でもやる。余計な考えがないから、やるときは残酷で、しかも容赦がない。恐ろしいことだと思う。これは思想や宗教、民族の対立から生まれるものではないのだ。金持ちが貧乏人をけしかけ、貧乏人同士が憎み合い、殺し合っている。金持ちはますます肥え太り、貧乏人はますます飢えていく。この社会の仕組みを変えない限り、いつまでも犠牲は続くだろう。「ヒロト、何を考えているの?」オマイラがやってきてすがりついた。長沼は一点を凝視したまま、「オマイラ、この国を変えることは出来ると思う?」と訊いた。オマイラの答えはそっけなかった。「出来ないわ。それは無理よ」「どうして?」「どうしてって、あたしに聞かれても分からないわ・・・。ただ、あたしに言えることは、あたしたちには、どうすることも出来ないってこと」「誰がそう決めたんだ?」「分からない。生まれたときからそうなってるの」「この国は、ほんの一握りの金持ちや権力者に牛耳られている。そいつらは人を人とも思わず、自分たちの富や権力を守るために、人と人を争わせ、殺し合わせている・・・」長沼の言葉には、やり場のない怒りが満ちあふれていた。「こんなことが許されていいと思うのか?変えなければいけないとは思わないのか?」オマイラは目を伏せて言った。「無理よ。変えることなんて出来ないわ」「なぜだ?なぜあきらめてしまうんだ?」「あなたは平和で豊かな国に生まれた。だから、理解できないのも無理はないわ」「おれは何とかしたいと思っているさ。君は思わないのか?」「つらいかなんて聞かないで。ここはコロンビアなの。仕方のないことなの」オマイラはすべてを達観したように言った。生まれたときからそこにある現実は、つらい出来事も他人事のような感覚を植えつけてしまう。オマイラはたどたどしい口調で言った。「この国では戦うか、逃げるか、死ぬか・・・。それしかないのよ。貧乏人はどんなに頑張っても絶対にお金持ちにはなれないの。立派なお家に住んで、学校へ行かせてもらえて、きれいなお洋服を着て、おいしいものを食べて・・・。どんなに望んでも、それは夢だわ。生まれたときからそう決まってるの。あたしには、なぜ貧しいのか、殺しあうのか分からないし、分かってもどうにもならない・・・」長沼はあわれむように聞いていたが、「だが、誰かが何とかしなければいけない」「そう思うのは、あなたが外国人だからよ。毎日たくさん人が殺される。でもそれは生活の一部なの。あたしも友だちや知っている人が何人も殺されたわ。最初は悲しいと思った。けど、それが繰り返されると何も感じなくなるのよ。ああ、また誰か死んだんだって・・・」「それは、とても悲しいことだ。君は自分が不幸だとは思わないのか?」「あたしは、今はとても幸せよ。あなたと、こうして出会えた。あなたと生きているだけで幸せなの」屈託のない笑顔で言う。「この国では毎日、誰かが誘拐されたり、殺されたりしている。でも、あたしはあなたと生きている」「それが幸せなのか?」「うん・・・」なるほど、そう考えれば確かに自分たちは幸せなのかもしれない、と思った。
長沼は考えた。「ここでオマイラと幸せに暮らしていくことは出来ないものか・・・」パラから逃げ出せば、遅かれ早かれふたりとも殺されてしまう。ふたりとも殺されずに生きていくにはどうしたらよいのか。そのことを考え続けた長沼は、ある決心をした。長沼の出した結論とは、「シカーリオ(殺し屋)になること」であった。長沼たちがゲリラから奪回した町サンタフェは、長年、ゲリラの支配下にあった町だ。当然、住民の中にはゲリラに協力していた者が多い。パラの情報をゲリラに売って生活している者もいる。こうした密告者を「処刑」することがシカーリオの仕事である。
長沼はロハスのもとへ交渉に行った。「おれをシカーリオにさせてくれ」ロハスはウイスキーを飲んでいたが、「お前に無抵抗の人間を殺せるのか?」と訊いてきた。長沼は一瞬、返事に困ったが、「これも、オマイラを幸せにさせてやるためだ」と自分に言い聞かせた。「出来ます。相手は裏切り者だ」「何の恨みも無い相手でも平気か?」「もちろん。ゲリラは敵だし、奴らに協力する奴も敵です」「友だちの復讐のためか?」「それもあります。ただ・・・」「ただ、なんだ?」「愛する人を守るためでもあります」長沼はキッパリと言い切った。ロハスはしばらく、長沼を見つめていたが、「愛する人間のために、どんな相手でも殺せるわけか?」「殺せます」「子どもが生まれても続けられるか?」「続けます」「ふむ・・・」ロハスも長沼の決意の固さに気付いたらしい。「まあ、いいだろう。ただし、お前は一生、この町から出られんぞ」「覚悟は出来ています」「脱け出そうとすれば、お前も消される」「分かっています」「よし、それならさっそく、働いてもらおうじゃないか。その前に乾杯だ」ロハスはグラスにウイスキーを注いで渡した。長沼はグラスを受け取った。「乾杯!」グラスを合わせて、長沼は一息にウイスキーを飲み干した。喉がチリチリと焼けた。
その日から、長沼は殺し屋として生きていくことになった。軍服を脱ぎ、兵士から殺し屋に転身したのだ。オマイラとともに住むための部屋も借りた。「彼女だけは、絶対に不幸にさせたくない」と思っていた。オマイラも兵士を辞める条件として、長沼は殺し屋になることを選んだのだ。もし、長沼が仕事に失敗すれば、オマイラも消されてしまうことになる。
オマイラは長沼の身を案じていた。「あなた、私のためにシカーリオになったって本当?」「ああ、本当さ」「どうしてそんなことを」「君と幸せに暮らすには、これしかないからさ」「そのために人を殺すの?」「仕方ないさ。殺さなければ、こっちが殺されてしまう」「何の罪もない人でも殺すの?」「罪のある人間だから殺すのさ」「どういうこと?」「君も知っているように、おれは親友をゲリラに殺された」「ゲリラが憎いから殺すの?」「ゲリラも憎いが、ゲリラに協力している奴も憎い」「だから殺すの?」「罪のない人間を殺すんじゃない。敵だから殺すんだ」いつの間にか、長沼の中で、道徳観念が変化していた。その根底にあるものは、オマイラとの安住を願う気持ちである。安住を願う心には、卑屈な精神が宿る。自分の中で、無理やり、良心をねじ伏せ、納得してしまうしかないのだ。「お願いだから、人殺しなんてやめて。あなたに出来ることじゃない」「大丈夫。おれは君と一緒にいられれば、それで十分なんだよ」長沼はオマイラを抱き寄せて言った。「約束するよ。いつかは足を洗って、君を幸せにしてみせる・・・」
長沼の最初の仕事は「ホアン」という男の暗殺だった。パラが調べた情報をもとに、ホアンがゲリラの密告者であることが判明した。長沼が呼び出され、ホアン暗殺のためのアドバイスを受けた。交渉の結果、暗殺の報酬は300ドルと決まった。パラの兵士の平均月給が400ドルである。戦闘には行かず、大量虐殺もせず、1回の仕事でこれだけ稼げるのなら、「文句はない」と思った。
長沼はピストルをズボンにねじ込み、バイクにまたがった。地を蹴って、バイクを走らせた。町の通りに出る。さわやかな午後の昼下がりである。通りには露店が立ち並び、行き交う人々でにぎやかだった。パラの情報では、ホアンはいつもこの辺りをふらついているという。長沼はバイクをゆっくりと走らせつつ、周りに目を配った。「いた!あいつだ!」事前に写真で見た顔を脳裏に焼き付けておいた。ひょろりと顔の長い男である。「間違いない。やるぞ」呼吸を整え、長沼はバイクのハンドルを握りしめた。ホアンの背後に接近する。長沼はそっとズボンのピストルをつかんだ。駆け抜けざまに、ホアンの後頭部めがけ2発撃ち込んだ。パン、パンと乾いた銃声が響く。ホアンは何も言わずに倒れた。長沼はそのまま走り去った。成功である。「こんなにうまく行くとは・・・」長沼は仕事の成功を報告し、約束通り、報酬の300ドルを受け取った。
仕事を終えて帰宅すると、「オマイラ、帰ったよ」「どうだった?」「うまくいったよ」「そう・・・」オマイラの表情は沈んでいる。長沼は元気付けようとして言った。「即死だよ。苦しまずに死ねたんだ」それからポケットの300ドルを出して、「これが今日の稼ぎだ。何かうまいものでも食おう。君の好きなものを買っていいぞ」オマイラは紙幣を数えながら、「これは、教会に寄付しましょう」と言った。「何言ってるんだ?これは、おれたちの大事な財産だよ」「人を殺したお金で幸せにはなれないわ」「幸せにしてみせるさ」「あなたは変わってしまった。この国がそうさせてしまったのよ。あなたは日本に帰るべきだわ」「オマイラ、何を言ってるんだ?おれとの約束を忘れたのか?」「あなたが私のことを思ってくれるのはうれしい。でも、ここはあなたがいるべき場所ではないわ」「おれはここに残る。ここに残って、君と幸せな家庭を作りたいんだ」オマイラが何か言おうとするのをさえぎるように、長沼はオマイラを抱いてベッドに倒れ込んだ。「心配ない。何も心配することなんかない。おれが絶対に守ってみせる・・・」長沼はうわごとのようにつぶやきつつ、オマイラの肉体を愛撫した。
長沼の仕事は続いた。サンタフェでは1日に3,4人、多いときで5人から7人が殺される。殺し屋は長沼の他に何人もいて、仕事の依頼は後を絶たない。長沼はゲリラの密告者を何人も片付けた。良心の呵責は感じなくなっていたが、「11歳の少女を殺してほしい」と頼まれたときは、さすがにためらった。その少女は、パラの調べ上げた証拠から、ゲリラの密告者であることは疑いようのない事実だった。「しかし、11歳の少女がゲリラに密告するのか?」長沼は半信半疑だったが、「驚くことじゃない。この町では8歳の子どもまでゲリラの仲間だ」というロハス。「みんな生きるためさ。あのガキを見てみろ」ロハスは通りで物乞いをしている少年を指差した。「あのガキも大人の関心を引こうと必死だ。金になることなら、ゲリラにも情報を売るし、我々のスパイにもなる。毒にもクスリにもなるってやつだ」「あんな小さな子どもでも殺すのか?」「お前がやれなくても、やれる奴はいくらでもいる。誰も気にしない」「おれには無理だ。11歳の女の子を殺すことなどできない」「変に情けをかけるのはよせ。お前が殺さなかったところで、少女は確実に殺される運命だ」ロハスは長沼にウイスキーをすすめ、「なに、すぐに慣れるさ。あと2,3ヵ月もすれば、お前だって一人前のシカーリオだ・・・」と言った。
殺し屋のもとへ寄せられる注文も様々だ。夫の浮気に悩んでいる主婦から、「夫を殺してほしい」と頼まれることもあった。「浮気ぐらいで、自分の旦那を殺してくれなんてイカレてる・・・」と思ったが、長沼は引き受けることにした。
長沼は、こう考えることにした。「おれが殺すことで、依頼者は嫉妬の苦しみから解放されるんだ」そして、自分は報酬をもらえる。依頼者も救われるのだ。長沼は思った。「人間の世界は、善悪なんて単純に決められるものじゃない。平和な日本で、何の意味もなく人を殺せば、悪だ。しかし、コロンビアは違う。この国では、やるか、やられるかなんだ。おれは、やられるわけにはいかない。オマイラを守らなければならない。彼女は、この国で、唯一、おれを救ってくれた存在だ。おれは彼女のために戦わなければならない。彼女のためなら、おれは何人だって殺す」殺すときはピストルで十分だった。ナイフだと大変だし、誰かの助けを必要とするからだ。報酬も多いときで500ドル。長沼はせっせと稼ぎながら、「金が貯まったら、ここに店でも開いて、オマイラと幸せに暮らすんだ・・・」という夢を思い描いていた。
ある日のこと。長沼のもとに依頼が舞い込んだ。「今度はこの男を殺してほしい」と言われ、写真を渡されて、長沼はアッと息をのんだ。知っている男だったからである。男の名は「マルコ」という。バイクの修理をしている男だ。長沼も何度か会って親しくなっていた。気さくないい奴である。「この男、知ってるのか?」「マルコが何をしたんだ?」「ゲリラのために働いていたんだ」「本当か?」「ああ、奴はゲリラ支配地の通行許可証まで持ってる」「マルコは何をしていたんだ?」「ゲリラに頼まれて、発電機のメンテナンスをしているらしい」「メカに詳しいからな、マルコは」「やってくれるか?」長沼は返事に困った。それが本当だとしたら、マルコは許せない裏切り者である。絶対に生かしておくことは出来ない。生かしておけば、いずれ、自分のこともゲリラに密告するかもしれない。長沼は心を鬼にして決断した。「よし、分かった。おれにやらせてくれ・・・」
長沼はマルコのもとへ向かった。「やあ、マルコ」「やあ、ナガヌマ。バイクの調子はどうだい?」「ああ、ちょっと見てもらいたいんだ。いいかな?」「お安い御用だ。どれどれ・・・」長沼はバイクを押してきた。マルコが何の疑いもなくバイクの点検を始めると、「バーヤ・コン・ディオス(神のご加護のあらんことを)」と言って、長沼はピストルを抜き、マルコのこめかみに撃ち込んだ。血が奔り、マルコは横に倒れた。「あばよ」マルコが死んだことを確かめて、長沼はバイクで走り去った。裏切られた怒りも悲しみも何も感じなかった。
翌日。長沼はマルコの葬儀に出くわした。家族や親類とともにマルコの棺が運ばれていく。長沼は足を止めて見やった。マルコの幼い娘が泣きじゃくっている。彼女は何故、やさしかった父が目の前から消えてしまったのか、理解できないでいるだろう。長沼はいたたまれなくなった。泣いている娘を見て、抱きしめてやりたい衝動に駆られた。胸をえぐられるような思いだった。「おれが殺したんだ。おれが・・・」長沼は走り出した。人を殺した後、こんなに辛い気持ちになったのは初めてである。マルコはゲリラに協力していた。いつ何時、自分のことをゲリラに売ってもおかしくはない。長沼にとっては「敵」である。「敵」である以上、殺さなければならない。殺さなければ、自分が殺されてしまうのだ。だが、自分は何の罪もない家族から、ささやかな幸福をも奪い取ってしまった。仕方のないことだ、といくら自分に言い聞かせてみても、「納得できない」のである。
長沼は「トロンコ・モチェ(切り株)」という町の酒場に入った。アグアルディエンテというアルコールの強いサトウキビの焼酎をあおった。いくら飲んでも、胸の痛みは消えてくれない。父を失って悲嘆に暮れる娘の面影が脳裏から離れない。「ダメだ・・・おれは単なる人殺しだ・・・」自己嫌悪感にさいなまれつつ、長沼は酔いつぶれるまで飲んだ。
その夜。長沼はフラフラになって帰宅した。そのままベッドに倒れ込んだ。オマイラが心配そうにのぞき込む。「ヒロト、一体どうしたの?」「オマイラ、おれを殺してくれ」「え?」「おれは罪深い人間だ。殺されて当然だ」「何かあったのね」「君は心のきれいな人間だ。この荒みきった世の中にいても、おれとは違う。汚れに染まらないんだ。おれは汚れきってしまった。君の手でおれを殺してくれ・・・」長沼は泣きながら言った。「違うわ。あなたは心のやさしい人よ。あなたは私のために殺されることを覚悟した。心の貧しい人には出来ないことよ。あなたは人を殺した。でも、殺された人の痛みが分かる。あなたの心は汚れてはいないのよ・・・」オマイラは長沼の額をなでながら言った。「おれには生きる価値などない。死んで罪を償うべきだ。君が殺してくれ」「ヒロト、私には分かるの。体の汚れは洗えば落ちる。でも、心の汚れは洗っても落ちない。あなたの汚れは洗えば落ちる汚れよ」「分かった。洗わせてくれ」「私も洗うわ」ふたりは裸になって冷たいシャワーを浴びた。凍えるような冷たい水だった。ふたりは激しく求め合った。長沼は全身を突き刺すような水の中で、このまま殺されてもいい、と思っていた。
その頃。「ナガヌマが生きているのは確かなのか?」「ああ、間違いない。奴は生きている」「奴は女と一緒にいるそうだな?」「カルロスを殺した女だ。奴の逃亡を手助けした」「奴らは今、サンタフェにいるのだな?」「ああ、これがその証拠だ」男は数枚の写真を机の上に並べた。写真を受け取ったゲリラの司令官は、「ふむ・・・こいつに間違いない」うなずいて言った。この男、「ガルシア」という。長沼の親友・山田を射殺した男だ。あの後、長沼がオマイラとともに脱走したことも知っている。長沼が日本に帰った様子はない。しかも、「AUCに日本人兵士がいて、暴れまわっている」という噂を耳にしていた。「奴は、おれの命を狙っているに違いない・・・」あれから血眼になって長沼たちの行方を追っていたのである。「しかし、驚いたな。奴が殺し屋になっていたとは・・・」「奴はプロだ。射撃の腕は最高だ」と男が説明する。「奴は仲間内でティロ・フィーホと呼ばれている」狙撃の名手である長沼に付けられたあだ名だ。長沼はその名で呼ばれることを嫌っていた。「おれを殺すために腕を磨いていたのか」「心配ないさ。奴は町から出られない」「おれが友だちの敵であることも知らないわけか」「ああ」「だが、おれが敵だと知れば、必ず復讐に来るだろうな」「ハハハ・・・考えすぎだ。奴1人じゃ無理さ」男は笑った。ガルシアはニコリともせず、「今のうちに手を打っておいたほうがいい」と言った。「刺客を送り込んで、奴を消すか?」「いや・・・」ガルシアは少し考えた。「奴は殺さない。生かしたまま、ここに連れてくるんだ」「奴を誘拐するのか?」「そうだ。再び人質にして、身代金をふんだくる」「奴の女はどうする?」「女も一緒に連れてこい」「女も?」「あの女は裏切り者だ。許せない。処刑してやる」「難しいな」「金ならいくらでも出してやる。絶対に奴らを生きたまま捕まえてこい・・・」ガルシアは厳しい口調で命じた。彼にとって長沼は、「プライドを傷つけた許しがたい奴」であった。「何が何でも奴を捕らえて、金持ち日本人から大金をふんだくってやる・・・」そうしなければ、ゲリラの面子が立たないのである。「待ってろよ、ナガヌマ・・・会えるのを楽しみにしているぞ・・・」
それから数日後。サンタフェの町はにぎわっていた。毎年恒例の「聖母の被昇天(アスンシオン・デ・ラ・バージン)」の日である。娯楽の少ない農民たちは毎年この日が来るのを楽しみにしていた。長沼とオマイラも見に行った。これは、「聖母マリアが、その人生の終わりに、肉体と霊魂を伴って天国にあげられたという信仰、あるいは、その出来事を記念する祝い日のこと」とされている。通りは黒山の人だかりだった。やがて、白装束をまとった人々が、マリア像を乗せたみこしのようなものを担いでやってきた。「オマイラ、はぐれるなよ」長沼はオマイラの手を引いた。「この混雑では、誰に撃たれても分からないな・・・」と思った。「ゲリラは自分たちを生かしておくはずがない」と思っていた。もちろん、警戒は怠らなかった。自ら暗殺者の道を選んだのも、「ゲリラの魔の手から身を守るため」でもある。だが、こうしてオマイラと暮らしていると、「もしかしたら、ゲリラは自分たちのことを忘れているのではないか?」と思うこともあった。「おれもオマイラも死んだと思っているかもしれない・・・」という甘い期待もあった。「このまま、オマイラと暮らせたらいいな・・・」オマイラとの安住を願えば願うほど、「生への執着」も強くなってくる。「いかん!油断は出来ないぞ!」と自分に言い聞かせる長沼。「今も誰かに狙われているかもしれない・・・」そう思うと、お祭り騒ぎに浮かれている場合ではないと思った。「オマイラ、もう帰ろう」「え?」「危ないんだ」「なぜ?」「いいから帰ろう」長沼はオマイラの手を引っ張った。人ごみを抜け、裏通りに入った。「ここまで来れば安心だ・・・」と思った。その瞬間、後頭部に焼け付くような衝撃を覚えた。「あっ・・・」頭を殴りつけられたのだ。体を動かそうとしても力が入らない。目の前が真っ白になった。長沼は意識を失った。地面に倒れたところを抱えられた。オマイラも殴られ、数人の男たちに抱きかかえられた。男たちは手際よく、ふたりを人目につかない場所に運び込んだ。そこで、ふたりとも大きな袋に詰め込まれた。男たちはふたつの袋を抱え、川べりに停めてあるボートに積み込んだ。
長沼はボートの爆音で目が覚めた。「ここは?・・・」頭が響くように痛む。袋に入れられていることに気付くまで少し時間がかかった。「おれは拉致されたのか・・・」起き上がろうとしたが、近くに人の気配がするのでやめた。男たちが何かをしゃべっている。爆音にかき消されてよく聞こえない。これからどこかへ向かおうとしていることが分かった。「おれたちを殺すつもりか?・・・」オマイラはどうしたのだろう。何とかして、ここから逃げなければならないと思った。だが、うかつなことは出来ない。ここはしばらく、様子をうかがうことにした。
どのくらい経っただろうか。ボートがどこかに停まった。男たちが袋を開けた。「おい、起きろ!そこから出ろ!」長沼はのそのそと這い出した。オマイラも袋から引きずり出された。長沼はオマイラの無事を知って少しホッとした。「歩け!もたもたするな!」男に背中を押された。長沼は川岸に上がった。そこには軍服姿の武装したゲリラが何人もいた。「やはり、ゲリラか・・・」長沼は来るべきものが来たと思った。「おれたちを殺さず、わざわざ拉致してきて、どうするつもりだろう?・・・」どこかへ連れて行って殺すのだろうか。「こっちだ!こっちへ来い!」ゲリラに銃を向けられ、長沼は歩き出した。オマイラも後からついてきた。
長沼たちは歩き続けた。山の中へ向かっていることが分かった。長沼は逃げるチャンスをうかがっていたが、「なかなかスキを見せない・・・」のである。山田とともに拉致されたときのことを思い出した。あれからすでに4年の歳月が流れている。あの時は泣き言ばかり言っていた。不安にさいなまれ、うろたえるばかりだった。今の自分は冷静に状況を分析しようと努めている。「おれもさすがに成長したな・・・」と思った。続いて、死んだ山田の面影が浮かんだ。「ヤマさん、本当にごめんよ。ヤマさんと一緒に生きて帰りたかったよ・・・」山田のことを思うと、胸が張り裂けそうになる。「ヤマさん、おれもこれからそっちへ行くよ。ただ・・・」長沼は心の中で念じた。「ただ、オマイラだけは助けてやってくれ。お願いだ。彼女に罪はない。親に捨てられたかわいそうな娘なんだ。彼女だけは見逃してやってくれ・・・」自分は殺されても文句は言えない。だが、オマイラだけは助かってほしいと思っていた。
「ヤマさん、恨むならおれを恨んでくれ。オマイラは関係ないんだ・・・」あの世にいるであろう山田は何と思っているのだろうか。「おれはどうなってもいい。だが、これだけは聞いてくれ。オマイラは助けてほしい。彼女はおれの命の恩人なんだ。おれからの一生のお願いだよ。頼む・・・」長沼はそれだけを伝えておきたかった。果たして、あの世の山田はどう受け取ったのであろうか。
数時間後。長沼とオマイラはゲリラのキャンプにたどり着いた。ふたりを待っていたのはガルシアだった。長沼はガルシアの顔を見て、「こいつ、どこかで会ったような・・・」と思った。すると、ガルシアが言った。「久しぶりだな、ナガヌマ」「あっ、お前は!・・・」「覚えていたか?」ガルシアはニヤリと笑った。ヒゲを落としていたが、「忘れもしない、ヤマさんを殺した奴・・・」長沼はようやく思い出した。自分と山田に死を迫り、山田を殺したゲリラの司令官である。「この野郎!殺してやる!」長沼は復讐心に燃えた。飛びかかろうとすると、「うっ!・・・」ゲリラ兵に銃で腹を殴られた。「ヒロト!」オマイラが叫ぶ。倒れたところを引きずり起こされた。「この野郎!なぜヤマさんを殺した!なぜだ!貴様も死ね!殺してやる!」飛びかかっていこうとするが、ゲリラ兵に押さえつけられ、身動きできない。ガルシアが葉巻に火をつけた。ゆうゆうと煙を吐いてから、「お前は何も分かっていない」と言った。「この世は弱肉強食だ。喰うか喰われるかの世界だ。富めるものはますます富み、飢えるものはますます飢える。富めるものは貧しいものから富を奪う。だから、貧しいものは富めるものから富を奪う。当然の権利だ。我々は当然のことをやったまでだ」「当然?何の罪もない人間を殺すことが当然だと?」「お前たちの国は身代金を出し渋った。そればかりか、アメリカに協力し、コロンビアの貧しい農民をますます飢えさせている。殺されたのは当然の報いだ」「ふざけるな!ヤマさんが何をしたって言うんだ!お前たちはテロリストだ!単なる犯罪者だ!」「テロリスト?犯罪者?我々をそこまで追い込んだのは一体どこの誰だ?お前たちではないか!」激しい感情の応酬が続いた。「どのような理由であれ、テロリストはテロリストだ!悪い奴らだ!死んで当然の連中だ!」「お前はどうだ?パラどもと組んで罪のない人間を殺した!死んで当然の悪人だ!」「先に手を出したのはお前たちだ!ヤマさんは何の罪もない人間だった!それを殺した!」「ほう、正義のための復讐ってわけか?」「何とでもほざけ!おれは絶対に貴様を許さない!」長沼は燃えるような目でガルシアをにらみつけた。怒りと憎しみの炎が我が身を焼き滅ぼしてしまいそうだった。ガルシアがピストルを抜いた。長沼が言った。「おれを殺すのか?殺すがいい!おれはあの世から貴様を呪い殺してやる!」
ガルシアはピストルを向けていた。長沼は目を閉じた。死を覚悟した。「おれは死んでいい。だが、オマイラは見逃してやれ」と言った。「ヒロト!ダメよ!死んじゃダメ!あたしを殺して!」「オマイラ、君は生きろ!」「あなたには家庭がある!あなたの死を悲しむ家族がいるのよ!」その言葉が長沼の胸を貫いた。「オマイラ!君が死んで、おれが悲しまないとでも思うのか?」涙があふれた。「彼を殺すなら、あたしを殺して!」オマイラが言い張る。「彼を解放すると約束して!その代わり、あたしが死ぬから!」ガルシアがピストルを下げた。「こいつは殺さない。大事な人質だ。まだまだ金を取れる」「彼は解放して」「お前、そんなにこの男が好きなのか?」「好きよ」「この男の身代わりに死ねるのか?」「死ぬわ」「なぜだ?」「彼は私を殺す代わりに殺されようとした。だから、今度は私の番」オマイラは毅然と言い放った。ガルシアはしばらくオマイラを見つめていたが、「愛は銃より強し、か・・・」とつぶやいた。「よかろう。お前たちにチャンスを与えてやる」そう言って、長沼を捕らえている部下に命じた。「おい、そいつを放してやれ」長沼はオマイラと抱き合った。「オマイラ!愛してるよ!」「私もよ、ヒロト!あなたは生きて!」「君を残して、おれだけ日本に帰れるものか!死ぬときは一緒だ!」長沼はとっさに決意を固めた。自分はオマイラとともにここで死ぬ。そして、あの世から憎いガルシアを呪い殺してやるのだ。抱き合って泣いていると、「よーし、そこまでだ!」とガルシアが怒鳴った。「そいつらを引き離せ!」「何をするんだ!」ゲリラたちは長沼とオマイラを強引に引き離した。ガルシアが言った。「それだけ愛を確かめれば十分だろう」「おれたちを殺すのか?」「いや、お前は殺さない」「おれを殺せ!」「死よりも辛い現実を味わわせてやる」「なんだと?」「女を連れ出せ!処刑の準備だ!」「やめろ!オマイラに何をするんだ!」長沼はもがいたが、多勢に無勢、どうすることもできない。オマイラは広場に連れ出されていった。
処刑の準備が始まった。広場には木の杭が打ち立てられた。オマイラは杭に縄で厳重に縛り付けられた。これから銃殺刑が執行されるのだ。「やめろ!オマイラを殺すなら、おれを殺せ!このケダモノがあっ!」長沼は声を振り絞って叫んだ。ガルシアが冷淡に言った。「よく見ておけ。最愛の女の最期を」「やめろおっ!お前ら人間じゃねえよっ!」オマイラに目隠しがされた。3人の兵士が進み出る。「構えっ!」ガルシアの号令で3つの銃口が向けられた。「標的を狙えっ!」「やめろおっ!」その時、どこからともなくヘリコプターの爆音が聞こえてきた。長沼が見上げると、数機の武装ヘリが飛んでくるのが見えた。「政府軍だ!」ヘリの機銃が火を噴く。土煙が上がり、ゲリラ兵が次々に撃たれた。「うわあーっ!」「敵襲だぞ!応戦しろっ!」ガルシアが叫びつつ、ヘリめがけピストルを連射した。もちろん、そんなもので撃ち落とせるわけがない。「くそっ!」ガルシアはピストルを投げ捨てて走り出した。「ロケットだ!早くロケットを!」ガルシアは慌てて小さなテントに飛び込んだ。そこには細長い箱が積まれている。箱にかぶせてあったシートをはぎ取り、蓋を開ける。中にはロシア製のRPG-7対戦車ロケット砲が入っていた。ガルシアはRPG-7をつかんで飛び出した。ヘリが高度を下げて接近する。機銃が火を噴き、ガルシアが飛び出してきたテントが爆発した。轟音が響き、火花が飛び散る。テントの中の弾薬に引火したのだろう。爆風でガルシアは地面に叩きつけられた。「くそっ・・・」ゲリラ兵が何事かを叫びつつ走っていく。キャンプは言いようのない混乱に包まれていた。地面に伏せていた長沼が身を起こしたのはこの時である。長沼はゲリラ兵の死体に近寄った。その胸にくくりつけてあるナイフを引き抜き、杭に縛り付けられたままのオマイラに駆け寄った。「今、助けてやる!」手早く縄を断ち切り、オマイラを抱きしめた。「ヒロト!」「もう大丈夫だ!」長沼はオマイラの手を引っ張って走り出した。「こっちは危ない!山のほうへ逃げよう!」ふたりは山の斜面の茂みに逃げ込んだ。この時、ガルシアが逃げるふたりを見つけた。「逃がさんぞ!」ガルシアがRPG-7を向けた。発射音とともにロケット弾が白い尾を引いて、ふたりが逃げ込んだ茂みに向かって飛んでいった。
「危ない!」長沼はとっさにオマイラを突き飛ばし、自分も地面に転がった。ロケット弾が着弾し、すさまじい爆発音が響き渡った。長沼の体は空中に持ち上げられ、数メートルも吹き飛ばされた。斜面を転がり、茂みの中に落ち込んだ。「ああっ・・・くそっ・・・」全身を強く打ち、起き上がろうとした長沼は痛みに顔をしかめた。ガルシアはRPG-7を投げ捨てた。そして、死んだ部下のカラシニコフを拾い上げ、こちらに向かってきた。何が何でも長沼とオマイラを殺すつもりらしい。ガルシアが斜面を登ってくるのを見て、長沼は慌てて逃げ出した。ガルシアが発砲する。銃弾は長沼をかすめた。長沼は茂みの中を這うようにして逃げた。だが、吹っ飛ばされたときに右足を痛めたのか、動かすたびに痛みが走る。「くそっ!こんなところで死んでたまるか!・・・」一時は死を覚悟した長沼だが、今は生への欲望が噴出している。オマイラとともにここから逃げ、ふたりだけで静かに暮らしたかった。「生きて帰ると約束したんだ!ヤマさん!おれたちを助けてくれ!」勝手な願いだとは思ったが、長沼は声を振り絞って叫んだ。ガルシアの足音が迫ってくる。「あ・・・もうダメだ・・・」長沼はつまずいて倒れた。「もうダメだ・・・おれは殺される・・・」ガルシアは目の前に迫っている。長沼は丸腰だ。ガルシアに撃ち殺されるに決まっている。オマイラとともに逃げて助かる、という望みは、はかなくも散った、と思った。「見つけたぞ!」草をかき分け、ガルシアが現われた。「神に祈れよ」ガルシアがニヤリと笑い、長沼に銃口を向けた。その時である。突然、ガルシアの背後からオマイラが襲いかかった。オマイラは大きな石を持っていた。それでガルシアの後頭部を殴りつけたのである。「ズドッ!・・・」鋭い銃声が響き、弾は長沼をそれた。必死の一撃を受け、ガルシアは倒れた。長沼が飛びかかる。カラシニコフを奪い取ろうとして格闘が始まった。長沼とガルシアはもみ合いながら斜面を転がった。「うぬっ・・・くそっ!・・・」ガルシアの下になった長沼は、ガルシアの股間を思いきり蹴った。ガルシアの悲鳴が上がった。カラシニコフをもぎ取った長沼は、ガルシアめがけ連射した。ガルシアは血煙を噴き上げながら転がった。ついに山田の仇を討ったのだ。だが、復讐を成し遂げたよろこびも何もなかった。むしろ、張り詰めた緊張感から解き放たれて放心状態にあった、と言ってよい。戦闘はまだ続いていた。上空にはヘリが舞い、銃声が聞こえてくる。「逃げよう!」長沼はオマイラと手をつなぎ、這うようにして斜面を登っていった。
その後。長沼とオマイラは山の中を歩き続け、密林の中で休みながら、ベネズエラを目指した。ベネズエラへ逃げて、日本大使館に保護してもらうつもりだった。「オマイラ、おれたちはもう自由だ。どこへでも行けるんだよ」「あたしはあなたと一緒なら、どこへでも行く」「ふたりでベネズエラに行こう。そして、日本に帰るんだ」山道は険しかったが、今までのことを思えば、大したことではなかった。何よりも、好きなところへ行けるという自由がうれしかった。長沼は、オマイラと最初に逃げた、あの日のことを思い出していた。あの時も、これで自由になれると思った。だが、思いがけない運命に振り回されることになった。人生、一寸先は闇とはよく言ったものである。「オマイラ、君は本当にこれでよかったのかい?」「どうして?」「最初に逃げたとき、おれは君をお母さんのもとへ帰すと約束した。だが、約束を破ってしまった」「仕方ないわ。あなたのせいじゃないもの」「お母さんに会いたくないのかい?」「会いたい・・・でも・・・」オマイラは目に涙をためて言った。「でも、ママはきっと、殺されてしまった・・・」「・・・・・・」「ママもパパも、兄弟も・・・みんな、殺されてしまったはずよ・・・」オマイラは上官を殺して脱走したのだ。ゲリラがオマイラの家族に報復するのは目に見えている。殺し屋を差し向けて、ひとりずつ殺したか、あるいは、手っ取り早く家に爆弾を投げ込んで、皆殺しにしたかもしれない。いずれにせよ、オマイラの家族はもう生きてはいないだろう。長沼は胸をえぐられるような思いだった。「ああ・・・おれのせいで、ヤマさんだけでなく、オマイラまで不幸にさせてしまった・・・」この罪は一生、背負っていかなければならない。自由のよろこびに溺れこみそうになったけれども、自分のために犠牲になった数多くの人間のことを思えば、決してよろこんではいけないのだ、と思った。
ふたりは4日間、逃げ続けた。山の中で天然のユッカ(サトイモの一種)を見つけ、火を起こして焼いて食べた。空腹と疲労に耐えながら、夜は抱き合って寝た。「オマイラ、おれたちはもう自由なんだ・・・」長沼は飽きずに同じことを何度も言った。「約束する。もう二度と君を不幸にはさせない。約束するよ」「あたしはあなたと一緒にいられれば、それでいいのよ」「日本に帰ったら、ふたりで静かに暮らそう。誰にも知られずに、ふたりだけで・・・」「うれしい・・・」
5日目の朝。ふたりは山を下り、人里を目指して歩いた。ここはもうベネズエラである。だが、地図を持たないふたりは、ここがどこなのか分からない。「うかつに人にも聞けないな。おれたちはコロンビアで命を狙われている。うっかり軍隊に捕まったら、それこそ何をされるか分からないぞ・・・」思えば、自分たちが拉致された直後に、政府軍の襲撃があったのもおかしい。あまりにもタイミングが良すぎるのである。「軍は、おれたちを拉致してゲリラに引き渡し、ガルシアが出てくるのを狙っていたんじゃないか?」長沼の推測は、ほぼ当たっていたようだ。ふたりをガルシアに売り込んだスパイが、その後で、政府軍にも情報を売ったのである。
パラとつながっているコロンビア政府軍が、ふたりを生かしておくはずがなかった。見つかれば、ふたりとも口封じに抹殺されてしまう。長沼は空腹で目が回りそうだったが、痛む足を引きずりつつ、意を決して一軒の民家を訪ねた。「ブエノス・ディアス(おはよう)」引きつった笑みを浮かべ、長沼はブタにエサを与えていた農家の老人に場所を聞いた。「ここはどこかって?ベネズエラに決まってるじゃないか」老人は警戒の色を浮かべて言った。「ベネズエラ・・・よかった・・・」長沼はホッとため息をついた。「あんた、何者だ?どこから来た?」「助けてほしい。コロンビアから逃げてきたんだ。町へ行きたい。車を貸してくれ」
長沼とオマイラは、老人にトラックで送ってもらった。老人は「ホセ」という。途中、何度かベネズエラ軍の検問に出くわしたが、ホセの息子夫婦、ということで通してもらった。「あんたらを見ていると、死んだ息子夫婦にそっくりでな・・・助けてやりたくなったのさ」ホセのおかげで、ふたりは無事、首都カラカスにたどり着いた。さっそく、ふたりは日本大使館に保護を求めた。事情聴取を受けた長沼は、これまでの出来事をすべて話した。「分かりました。長沼さん、あなたはすぐに帰国してください」「彼女は・・・オマイラも一緒に連れて行けませんか?」答えは「ノー」だった。オマイラはコロンビアに帰国させる、というのである。「そんなバカな!コロンビアに帰ったら殺されてしまう!」長沼はオマイラも日本で暮らせるよう、何度も政府に働きかけた。しかし、事なかれ主義の日本政府は、オマイラの日本永住を認めようとしない。オマイラを受け入れたら、コロンビアから日本に難民が押し寄せてくる、とでも思ったのだろうか・・・。「オマイラは命の恩人です。彼女を捨てて、おれだけ帰るなんてできません」政府の対応に失望した長沼は、ベネズエラ政府に亡命を申請したのである。
こうして、長沼とオマイラは、そのままベネズエラに残ることになった。「ヒロト、本当にこれでよかったの?」「こうなる運命だったのさ」「あなた、日本に帰りたいんじゃない?」「いや・・・おれはもう、日本人じゃない。コロンビア人だ」長沼は自分の手を見つめて言った。「おれはコロンビアで何人も殺した。おれの手はコロンビア人の血にまみれている。おれはコロンビア人の命をもらって生きのびたんだ。だから、おれはもう、日本人じゃない。コロンビア人なんだ・・・」
さて、その後が大変であった。当然ながら、マスコミが押し寄せ、事件を大々的に報じた。「人質の日本人男性とゲリラのコロンビア人女性が恋に落ち、決死の脱出に成功」そんな見出しが新聞の紙面を飾り、ふたりは一躍、脚光を浴びた。「いいですか、長沼さん。マスコミに何を訊かれても、余計なことはしゃべらないでください。あなたはあくまでも被害者として振る舞ってください。ゲリラと戦ったとか、殺し屋として生活していたとか、そういうことは絶対に口にしないでください。あなたのためでもあるし、あなたのご家族のためでもあるんです。これ以上、ご家族を悲しませたくないでしょう?いいですか、ノーコメントでお願いしますよ・・・」事前に政府の役人から脅されるように言われていたし、長沼は沈黙を守った。家族を悲しませたくなかったから、そうしたまでなのだが、「おれは英雄なんかじゃない。嘘つきの人殺しのろくでなしだ。なのにマスコミは・・・」マスコミによって演出された美談に、長沼は怒りさえ覚えた。ゲリラは声明を出し、長沼とオマイラを「殺人者」と罵り、非難した。報復を避けるため、ふたりは名前を変え、姿を消した。ふたりの亡命生活が、ようやく落ち着きを見せたのは、翌年の春になってからだろうか。
この年、2004年。長沼とオマイラは、カラカスの安アパートで暮らしていた。生活は決して楽ではない。長沼は日本語学校の教師という職に就き、オマイラは家政婦として働いている。ベネズエラは石油がとれる豊かな国だが、それだけに、「おれたちは東洋なんかより豊かだ」という変なプライドがある。そのため、東洋人はどこへ行っても差別される。南米は北米に比べて、こうした人種差別は少ないのだが、ベネズエラだけは例外だった。世界を股にかけて活躍する日本の商社員も、ベネズエラだけは、「行きたくない国」として、嫌うらしい。テロや誘拐のリスクの高いコロンビアよりも、嫌われているのだそうな。そんな国だから、長沼も嫌な思いをすることが多い。それでも、「おれが犯した罪の報いだと思えば、なんでもないさ」と気丈に振る舞うのを常とした。
この年の夏、長沼に子どもが生まれた。オマイラが生み落とした元気な男の子に、長沼は、「アルベルト」という名前をつけた。日本から遠く離れた異国の地で、家庭を持ってみると、「一度、日本に帰りたい」という思いが強烈になってきた。オマイラに打ち明けてみると、「帰るべきだわ。あなたの帰りを待っている家族がいるのよ」という。そこで、長沼は一時帰国することにした。オマイラと、生まれたばかりのアルベルトを連れて、東京・稲城市の実家を訪ねると、「まあ、まあ・・・こんなになって・・・まあ・・・」見違えるようになった我が子と対面した長沼の母親・妙子が、うれしさと驚きがないまぜになった顔を涙に濡らし、「よく生きていたわねえ・・・本当に・・・」長沼を強く抱きしめてくるものだから、長沼も思わず、涙ぐんだ。
それから、町田市の山田の実家を訪ねた長沼は、「ぼくがヤマさんを殺したようなものです。本当に申し訳ない・・・」と山田の母親・三津子の前で謝罪し、山田の位牌が置かれた仏壇に線香をあげ、合掌した。「あの子はねえ・・・長沼さん、あなたの中で生きているのよ・・・」三津子がつぶやくように言った。「あの子は心のやさしい子だったからね・・・あなたの身代わりになって死んだと思うの」「お母さん・・・」「ヨースケちゃんは、あなたを助けようとして、あなたの代わりに殺された・・・」「・・・・・・」「だから、あなたには、ヨースケちゃんの分まで、頑張って生きてほしいの・・・」そう言われると、長沼はあふれてくる涙を止めることができなかった。
ベネズエラに戻る飛行機の中で、長沼が言った。「おれは本当に悪い奴だけど、なんだか、救われたような気がしたよ」「あなたは心のきれいな人よ」オマイラはアルベルトをあやしながら言った。「コロンビアには、愛は十倍に、憎悪は百倍にして返せ、という言い伝えがあるけど、あなたが家族や友だちを愛する心は、千倍に、いや、万倍にもなって、あなたに返ってくるはずよ・・・」
ふたりの生活は、貧しいながらも、ささやかな家庭の幸福に包まれ、明け暮れていった。すくすくと成長していくアルベルトを見ていると、長沼は人並みの幸せに溺れてしまいそうな自分に気がつく。時折、オマイラは長沼が涙を流し、ひとりで泣いている光景に出くわした。「ヒロト、どうしたの?」「おれが殺したマルコの娘・・・今ごろ、どうしているのかと思うと、この胸が張り裂けそうだ・・・」長沼は自分が手にかけた人々の遺族のことを一日も忘れたことはない。自分の過去を恥じ、自分の人生を極端に制限し、ストイックに生きてきた。「おれは、いつ死んでもいい。殺されても文句の言えないことをしてきている。だが、許されるならば、あと少し、アルベルトが大きくなるまで、生きていたい。しかし、人生、一寸先は闇だ。どんな運命が待ち受けているのか、誰も知らないのだからな・・・」と自分に言い聞かせながら、その日が来るのを静かに待っていたのである。
2005年の夏。長沼とオマイラがベネズエラで暮らすようになって、2年になる。ある日、長沼のもとに一本の電話がかかってきた。「久しぶりだな、ナガヌマ」長沼は来るべきものが来た、と直感した。「おれを殺すんだな?」「そうしたいところだが、あんたがベネズエラから出て行くなら、考えてもいい」「どういうことだ?」「あんたらは有名人だ。マスコミがあれだけ騒いで、愛の逃避行だのなんだのと書き立てれば、我々も手の出しようがない。あんたらを殺せば、我々ゲリラの印象が悪くなるだけだからな・・・」「おれたちを狙っているのは、お前たちだけじゃない。コロンビア政府も狙っているだろうよ」「奴らが我々の責任にするため、あんたらを殺そうとしたので、奴らの刺客は我々が始末してやった」「ほう・・・それで、おれたちを殺さなかったというわけか」「ほとぼりが冷めるのを待っていたのさ。あんたが女房と子どもを連れて、国外へ出るなら、見逃してやる。このまま、コロンビアのすぐ隣の国で、のうのうと暮らすのだけは、どうしても許せん」「おれを殺したければ、いつでも殺しに来い。ただし、これだけは約束しろ。オマイラとアルベルトには手を出すな」「あんた、どうしても我々の警告に従わないんだな?」「約束しろ。おれも約束する。おれの命はくれてやる。その代わり、妻子は見逃すんだ」「よし・・・いいだろう。その約束を忘れなさんな・・・」
数日後。長沼はアルベルトを抱きしめ、頬ずりをし、オマイラとキスを交わした。「じゃあ、行ってくるよ」「早く帰ってきてね」屈託のない笑みを浮かべ、長沼は家を出た。これが最後の別れになるかもしれない、という覚悟があった。「オマイラ、許してくれ。君を二度と不幸にさせないという約束は、守れそうにない。おれは死ぬ。君とアルベルトを残していくのは辛いが・・・おれが死ねば、奴らも満足するだろう。おれが死んだら、君はアルベルトを連れて、逃げてくれ。アルベルトが成長したら、君の口から父親の話をしてほしい。アルベルトには、父親の仇を討つ、などということは考えるな、と教えてくれ。何もかも忘れて、幸せに暮らしてほしい。最後に、これだけは約束する。君を永遠に愛しているよ・・・」という遺書をしたため、ひそかに残しておいたのである。職場へ向かって住宅街の路地を歩いていく途中で、長沼は3人の男たちに取り囲まれた。そして、至近距離から7発の銃弾を撃ち込まれ、長沼は即死した。
「ヒロト・・・あなたは、あの娘さんのために、死ぬつもりになったのね・・・」オマイラは長沼が一緒に逃げてくれなかったことを悔やんだが、彼の胸中を察し、涙を流した。その後、オマイラはアルベルトを連れて、アルゼンチンへ旅立っていった。
終わり

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